2015年4月22日水曜日

ホームホスピス 共暮らし


日本の風土から生まれたホスピス運動
「ホームホスピスかあさんの家」は10周年を迎え、各地に広がる運動の中で「ホームホスピス」「かあさんの家」という呼称だけが一人歩きをはじめて、高齢者向けのアパートの冠に使用されたり、貧困ビジネスすれすれのものまで登場するようになったのです。そこで全国ホームホスピス推進委員会をつくり、『ホームホスピス「かあさんの家」のつくりかた』の理念を公開し、その活動を「ホームホスピスかあさんの家」と商標登録することでホスピス運動としての性格が鮮明になりました。その理念は、大きく分けると次の5つになっています。

第1 住まい 既存住宅、空き家を活用する。地域住民に馴染みの環境であること。
・以前は診療所があった家を改装したもの(神戸なごみの里・雲雀丘)
・田園地帯で敷地内に納屋がある典型的な農家の家屋(熊本市・われもこう)
・広い敷地に70坪の畑のある古民家(福岡県久留米市・たんがくの家)
第2 暮らし 一軒あたり5,6人の小規模であること。
・ともに暮らす住人同士のつながりができること。
・本人の希望を支え、本人のもてる力に働きかけること。
・家族の意思を尊重すること。
第3 看取り 生活の延長戦上にある自然死の尊重。家族の看取りを支える。
・家族の出入りが自由で、泊まることもできる。
・エンゼルケアを一緒に行う
第4 連携 地域の社会資源を利用し、様々な職種と連携していること。
・ケアプランには、フォーマル、インフォーマルが混在する。
・かかりつけ医と訪問看護サービスが導入されていること。
・家族もチームの一員であり、家族の力を奪わないようにすること。
第5 地域づくり 地域住民との連携、日頃からコミュニケーションをはかる
・地域の「看取り文化」の継承とコミュニティ医の再生をめざす
・実習生や研修生をの受け入れとボランティア活動

ホームホスピスはかたくなに定員5人。5人の入居者にヘルパー5人、日中2人、夜間は1人の24時間交替制で入居者の日々を支えている。また、入居者にはそれぞれ個別のケア・マネージャーがついています。
制度の制約にしばられることなくお年寄りや重篤な病いをもつ人が棲み暮らす小さな「家」であることが念頭におかれています。そこを基点にして医療・看護・福祉が地域のなかで有機的につながり展開していくこと。リーダーの市原美穂さんはそれを「ムーブメント」と呼んでいます。これらを整理すると次のことが確認できるとおもいます。
①「かあさんの家」は看取りに焦点をあてるのではなく、暮らしのなかでいのちを全うする運動であること。
②「かあさんの家のスタッフは同じ死の哲学を共有し、利用者のあるがままの生き様を見守ることに徹していること。
③なによりも「ホームホスピス」「かあさんの家」は施設ではない。暮らしの場であること。
これは血縁をこえて支えあう身寄りになる家の創出でもあるということです。

ホスピス運動といえば、西欧で定着した経緯から日本にどう制度として移植し定着させるかであり、ホスピスケアといえば末期がん患者等への医療施設として、疼痛ケアをはじめ緩和医療の定着として受けとめられてきました。
たしかに近代ホスピスはマザー・テレサの活動の源流とされるアイルランドのマザー・エイケンヘッドの修道会活動(1815年)に端を発して200年になります。その理念は死にゆく人のホームをつくり世話をすることでした(ジュナール・S・ブレイク/細野容子監訳『ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド』春秋社)。そして、セント・クリストファー・ホスピスに代表されるように医療施設化の流れがありました。
けれど、ホスピス運動は西欧の理念を導入することではありません。日本にふさわしい、あるいは日本人の死生観に照らした運動があってしかるべきでした。

あらためて「ホームホスピス・かあさんの家」運動は、私たちの社会が少子高齢化した日本の風土からうまれたホスピス運動だといえます。民家を活用するホームホスピス。これは施設ではありません。市民のホスピス活動として根付く足場が示されているのです。
さらに、もうひとつ指摘しておきたいとおもいます。ホスピス運動は女性の手による人権運動でもあったことです。マザー・エイケンヘッドからマザー・テレサへという、生きることの困難に直面し、尊厳を失った人たちを無条件で受けとめ癒すという大きな流れがあります。そこに、フローレンス・ナイチンゲールの看護に、シシリー・ソンダース、エリザベス・キュブラー・ロスという近代医療の世界で大きく展開してきました。近代ホスピスの歩みには“5人の母”の役割があったのです。
そしてわたしは、市原美穂さんに宮崎の「ホームホスピスかあさんの家」でお会いしたおり「市原さんは日本のホスピスの母ですよ」と口にしたのでした。


ホームホスピス かあさんの家


民家のもつ力
10年ほど前、宮崎市で市原美穂さんが立ち上げた看取りの家、「ホームホスピス・かあさんの家」の仲間が増えてきました。九州に5,関西7,関東2,東北1の計17箇所。さらに予定候補が10カ所と確実に全国に根付きはじめています。
ホームホスピスを立ちあげるためにまず取り組むのは家さがしです。新しく建てる「家」ではなく、以前からその地域で誰かが住んでいた「家」です。ホームホスピスは「民家」を借りるところからスタートしています。

――なぜ、民家でしょうか。市原美穂さんは新著『暮らしの中で逝く』(木星舎)で、民家のもつ包容力について専門家(園田眞理子)のことばを載せています。
「建物って時間を経たものほど鍛えられているのでパワーがあるんですよ。居心地が悪いものはやはり寿命が短い。だて、みんなが手塩にかけて育てて、生き延びてこられたってことはその建物はすごく生命力があることですから。建物にも競争が働いていて、居心地が悪いものはどこかで壊されたりする。時間が経過して、そこに住んでいた人が慈しんだ場所ほどクオリティが高い」
木造の日本家屋がもつ温もり、襖や障子で区切られたほどよいプライバシーを保つ部屋、家のどこにいても人の気配が感じられる空間。ご飯が炊けるにおい、玄関でおしゃべりしている声が聞こえる…、できるなら食器棚や本棚、タンスにテーブルまでそのまま使わせてもらえる「空き民家」を借りるのです。

先ごろ、訪ねた「ホームホスピス・かあさんの家」の仲間である「ホームホスピス・たんがくの家」(福岡県久留米市)も古民家を改修したもので、広い敷地内には70坪の畑もあります。「たんがく」とは、地元の伝統芸能の田楽(でんがく)の方言ですが、あわせて当地では蛙(カエル)の呼び名だともいいます。名称へのこだわりは、地域ケアに対する独自な指針、それに地元への愛着が反映します。「NPO法人たんがく」の理事長樋口千恵子さんのライフワークとして、また在宅医療に関わってきた看護職の集大成として4年前に誕生したのです。

――「ホームホスピス・たんがくの家」はどういう人の不安に応えようとしているのですか。(案内ちらしから)
「家で看たかばってん、腰の曲がったばあちゃんしかおらん。若いもんは働きよるけん看られん」
「がんの末期たい。できるだけ看たかばってん、病状がひどなったら看きらんごとなる。畳の上で逝かせたか」
「認知症のじいちゃんば看よるたい。心臓も悪かけん不安たい」
「どうにか一人で暮らしよる母ばってん、いつ具合が悪くなるか心配たい」
「車いすで退院するたい。息子が『東京においで』と言うてくれるばってん行こごとなか。ばってん、一人じゃ不安たい」
「家内が一生懸命、寝たきりのばあちゃんば看てくれよる。ばってん、もう無理のごたる」
「たんがくの家」はこのような思いをすくい取って、その現実を受けとめる場所になっているのです。
「たんがくの家」は古い障子やふすまをそのまま残して、縁側からは陽が差し込み、窓越しに見える近所の人の暮らし(畑仕事や田のあぜ道に腰を降ろして話し込んでいる様子など)が見え、家の中ではご飯の準備をする音、みそ汁の匂い、こどもの笑い声が聞こえたりして、病棟・病室や施設からは無縁な“自分の家”の日常になっていました。そこでスタッフとともに地元の在宅医や訪問看護師、ヘルパー、ボランティアなど様々な職種の人たちが365日かかわり、24時間支えているのです。
(この項は次回に続きます

2015年4月4日土曜日

みとりびと―いのち継ぐかたち


おくりびと

評判になった映画に『おくりびと』がありました。
「おくりびと」とは葬儀社に勤め、遺体を棺に納める湯灌・納棺の仕事を専従にしている納棺師。湯灌といっても死者を湯浴みさせるわけではなく、アルコールで拭き、白衣を着せ、髪を整え、手を組んで数珠を持たせ、納棺するまでの作業に、遺族が固唾をのんで見守っているシーンでは、「身内でだれか亡くなっても、こんなプロの納棺師にお願いできるなら安心だわ」という声も聞こえていました。
在宅死から病院死へ、そして自宅葬から斎場葬へ。今日の死(いのち)の受容のあり方を象徴させる「おくりびと」の存在が妙に気になりました。胸の内では「死者を送る前に、看取りがあるのでは」とか、「看取り・見送りはひとつだろう」という郷愁のような思いでした。古典の像を描くとすれば、斎藤茂吉の次の歌でしょうか。

 いのちある人あつまりて
 我が母のいのち死行くを見たり死にゆくを

母の危篤を聞いていそぎ夜汽車にゆられ郷里の母の臨終に間に合ったときの情景(処女歌集『赤光』から)です。ここで「看とり」とは「いのちある人」が集って「いのち死にゆく人」の姿をしっかり見届け見送ること、死(いのち)の受けとめ手になることとして活写されています。

みとりびと

作家・野坂昭如は「自らの死を子らに見せることが一番大事な教育である」と語っていました。見送るより看とること、「おくりびと」ではなく「みとりびと」になることが大事なのだと。そこで採りあげたいのが『いのちつぐ「みとりびと」』(農文協 全4巻)。『家族を看取る』という著書もある写真家國森康宏の子ども向けの読む写真集(というよりも絵本写真)。場所は滋賀県琵琶湖周辺の農村集落。じいちゃん、ばあちゃんが「いのち死にゆく人」としてしっかり映し撮られ、「いのちある人」の看取り見送る表情が四季の彩りのなかで、四つの物語として納められている。

「いのち死にゆく人」の前には「いのちつぐ人」として子どもがいること。
たとえば、小学校五年生の『恋(れん)ちゃんはじめての看取り(1巻)』。
九〇歳を過ぎても毎日のように畑仕事をしていたおばあちゃんが、急にからだが弱くなり、一週間ふとんから出られなくなり、そのまま亡くなった。写真は枕元でそっとおばあちゃんの額にてのひらを添える子どもの表情を写し撮っていました。この掌は何を受けとったのだろうか。著者は「あとがき」で、死と向きあった恋ちゃんの「人は死んでしまうと、つめたくなり、二度と生き返りません」と確認しながら「でも、おおばあちゃんは私のなかで生きつづけています」というたしかなことばを引き出していました。

『月になったナミばあちゃん―「旅立ち」はふるさとで わが家で(第2巻)』では、「いのち死にゆく人」が親しい人たちのこころをひとつにあつめる力をもっていることを教えてくれました。寄りそう人だれもがはじめはうろたえ、とまどい、悲しみ、そして「さよなら」「ありがとう」のことばを口のしていき、よろこび泣き笑いしながら、死にゆく人を見守り見送るシーンに子どもの眼差しが加わっていました。

また、『白衣をぬいだドクター花戸―暮らしの場でみんなと輪になって(第3巻)』の主役は看とりの背後に立つ在宅医でした。
写真家ユージン・スミスには、初期を代表するフォト・エッセイ「カントリー・ドクター」とか、ベッドに横たわっている死者の姿を撮った「スペインの村」(1951年)があり、その重厚な写真を感銘深くみた記憶があります。
けれど、ここでは、哀しい情景にかわって医師は「いのち死にゆく人」と「みとりびと」を引き合わせる、いいかえればいのちのバトンを引き継ぐための「たちあいびと」として引き出されていたことでした。そして生―殖―死という〈いのち〉のリズムを継承する証として「生誕」すなわち、いのちの受けとめ手として赤ん坊の貌で写真絵本が結ばれていました。
人の死(いのち)は終わりではなく、はじまりでもあるというわけです。ここから引き継ぐいのちを、河野愛子歌集(「黒羅」)から引いておきます。

子は抱かれみな子は抱かれ子は抱かれ人の子は抱かれていくるもの