2016年11月24日木曜日

日本のホスピスが忘れてきたもの


―三人の会(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)鼎談企画によせて
(日本ホスピス・在宅研究会全国大会in久留米 2017.2.5.


●日本のホスピス40年をめぐって
西欧に誕生したホスピスの近代史を押さえようとすれば、19世紀初頭アイルランドのマザー・エイケンヘッドの修道会活動「死にゆく人々のためのホスピス」に端を発しておよそ200年。シシリー・ソンダースによる近代ホスピスの誕生(セント・クリストファー・ホスピス 1967)からは50年。では、わが国のホスピスはどのような経緯で今日にいたっているのか。概略次の3期に分けてみることができよう。

第1期。 セント・クリストファー・ホスピス(1967設立)が、わが国に紹介されたのは10年後の1997年。新聞見出しは「天国への安息所・英国の『死を看とる』専門病院」(朝日新聞7月13日夕刊)。この年、日本死の臨床研究会が発足した。
わが国のホスピス誕生の契機は1980年にロンドンで開催された第1回世界ホスピス会議(会期5日間・16カ国68人参加)に精神科医・柏木哲夫氏、チャプレン・斎藤武氏がオブザーバーとし参加。そして翌年の1981年に聖隷三方原ホスピス、1984年の淀川キリスト教病院ホスピスが誕生。ホスピスは揺籃期に入った。

第2期。 1990年WHOの指針にしたがって、ホスピスは緩和医療、緩和ケア病棟(がんとエイズに限定)として医療保険制度に繰り込まれ、終末期医療(ターミナルケア)として認知されることになった。この時期、外科医からホスピス医に転進したのが山崎章郎医師。「病院は(がんで)亡くなっていく人の力にはなれない」と著した『病院で死ぬということ』(1990)はベストセラーとなり、映画化されホスピスは市民権を手にした。ちなみに日本ホスピス・在宅ケア研究会の発足は1992年。

そして第3期は21世紀。 長寿社会の到来と重ねてみることができる。介護保険法の施行(2000年)に始まり、がん医療の均てん化を重視したがん対策基本法(2007年)をベースに、在宅療養支援診療の強化、地域包括ケアシステムといった態勢が整備されるなかで各地にホスピスの裾野はひろがってきたようにみえる。

けれど、「日本にホスピスは根づいた」といえるだろうか。名著『ホスピスへの遠い道』(春秋社)の著者岡村昭彦(19291986)は、発表当時(1984)、「ホスピスは日本に根づきますか」という質問に「ホスピスとは施設ではなくて運動なのだということをまず認識してもらいたい」と釘をさしていた。そして、「地域社会との結びつきがないホスピス運動はホスピス精神に反して、がん病棟になってしまう」こと、「ホスピスはコミュニティのなかで、一人一人が参加できるボランティア活動」である、といった言葉を遺している。大きな変動期にある現在、ホスピスの原点から遠ざかっているのではないか、検証してみる時期にきているのは間違いない。

●近代ホスピス運動の原点に立って考えてみる
そこで討議テーマは「日本のホスピスが忘れてきたもの」となった。
何を忘れてきたのか。この課題に向き合うには恰好のテキストがあった。前述の第1回世界ホスピス会議(1980)の課題に立ち返ってみることである。
大会記録は1981年に“Hospice : the living idea”として出版され、わが国では岡村昭彦監訳『ホスピスケアハンドブック――この運動の反省と未来』として刊行(家の光協会 1984)され、ソンダース女史没後には追悼記念出版として『ホスピス―その理念と運動』(雲母書房2006)と原題に戻して再刊された。5日間にわたって討議された全8章のテーマを掲げてみる。
① ホスピスの思想
② ひとつの生き方としてのホスピス
③ 死期を迎えるための哲学
④ 今日の痛みの概念
⑤ 死にゆく患者の症状の緩和
⑥ 運動神経系疾患に対するホスピスケア
⑦ 世界に広がるホスピス運動
⑧ 成果、失敗、そして未来:ホスピスを分析すると
これらはシシリー・ソンダースの思想とセント・クリストファー・ホスピスの設立理念にそったものだが、今日も何一つ旧いテーマはない。ひとつの生き方としてのホスピス、死期を迎えるための哲学。さらに運動神経系疾患(ALS)に対するホスピスケア100例の紹介などは、がん患者にのみ目をむけてきた日本のホスピス運動がいかに視野狭窄で、「いのち」という視点が欠けていたことがわかる。
あらためて、「日本のホスピスが忘れてきたものは何か」。やはり、「(ホスピスの)成果、失敗、そして未来」という視野に立つ試みということになる。思想としてのホスピス、運動としてのホスピス、臨床としてのホスピス等、重いテーマがまっている。
今回は、日本のホスピス運動の渦中で牽引してきた山崎章郎氏と、在宅ホスピスに取り組みながら、アジアのホスピスにも関心を示す二ノ坂保喜氏と、「(日本が)忘れてきたもの」だけではなく「新たに身につけたもの」を探り、語り合えればとおもう。

わたしの視点を添えれば、いま私たちの生活地平には「メメント・モリ(死を想え)」という重い視界がひろがっている。阪神淡路大震災(1995)から東日本大震災(2011)に福島原発のメルトダウン――わたしたちは、未曾有の死の体験を共有している。この間にはいのちに寄り添うNPO法人の立ち上げをはじめ、市民ホスピス運動の試みがある。そこに触れたいとおもう。

2016年10月11日火曜日

「手術死」と「がん死」



●「手術死」は医療事故?
新聞の切り抜きを整理をしながら、いつもなら指して気にもとめない病院死にふれた記事にであった。
その一つは群馬大学病院の手術死問題だった。2014年、群馬大学病院の男性医師の腹腔鏡や開腹の手術を受けた患者18人が術後あいついで死亡した経緯について第三者調査委員会の調査報告に関した記事で、この夏、担当医師を懲戒解雇相当にし、他に指導教授等9人の処分で落着したことは各紙が大きく扱ったのは見出しで追ってもわかる。
「手術死続発を放置 収益優先手術数競う」「患者の安全軽視 医師、問題意識なく執刀」「二つの外科に深い溝 専門が同じでも口きかず」など、大学病院内の機構に問題があったという指摘が多かった。そのなかで、一紙だけ、「病状や体調から手術は無理な例や、手術の妥当性に疑問がのこる例が半数を占めている」と指摘していた(読売新聞「群大手術死・教訓(下)」2016.8.3朝刊)。
手術ができるはずはないなかで、なぜ「手術死」が相次いでおきたのか。病院の関係者の間では「最後の砦として重症患者を引き受けているから」という考え方が根強かったという。「人手が少ないのに手術したのが悪いといわれればそうかもしれない。ではやめようとなったときに誰が(治療を)引き受けるのですか」と。
「患者のため」を見失った次のような医師のことばがあげられている。
「『手術さえしてくれれば』と思い詰める患者もいる。実際には手術をするメリットが小さくても『できる』といって手術をしてしまう」
「手術をしない選択肢を示すと、患者が『見捨てられた』と感じて落胆する」
一方患者遺族の声からは「今なら手術できるといわれた。そう言われたら今を逃したら治らないんだ」と手術を即決したともいう。

これらのやりとりから、医療者と患者家族のあいだには「手術」ということばは外科治療としてではなく、治癒・生存には不可欠な手段、さいごの砦として思いが一つになって共有されていったということだろうか。「手術」はどこかの段階で治療・治癒が目的ではなく、「死」を打ち消すための医療行為のように――。たしかに重い病気ほど「手術」が期待される。いまや生死を逆転させる「移植手術」まで可能になったのだから。
「(手術は)できるか、できないか」「(手術を)やったほうがいいか、やらないほうがいいか」、そして「手術止めていれば…」。この問い詰め方は臨床技術からだったのか、いのちの受けとめという場所からだったのか。それを見失ったとき「手術死は医療事故」というところに落着したというのだろうか。

●「がん死」は自然死への道?
二つ目は、「がんの罹患年齢がに高齢化、将来寿命と一体化も」という記事である(北海道新聞 2016.7.3朝刊)。
がんはすでに国民病といわれ、①日本人の二人に一人は、がんになる。②三人に一人ががんで死亡している。そして、③今後、日本人の二人に一人ががんで死亡するといわれてきた。ところが、事態はさらに促進している。
「近い将来、寿命の限界に近づく頃になって、はじめてがんが見つかり、がんで亡くなる時代が来る」という。札幌がんセミナー理事長・小林博北大名誉教授(腫瘍学)が日本がん予防学会で発表した。厚労省の人口動態統計などからがん死亡年齢はおよそ30年前より10歳以上延びて平均で男女とも70歳を超えている。がんの罹患年齢についても10年間で10歳以上伸びていずれも70歳代である。つまり、がん患者になるのは高齢になってからであり、長寿を全うする人のほとんどががん死になるという報告である。

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現代の平均寿命の特徴は生命曲線図(図表)で見ることができる。Aは自然な原因による死亡率(明治時代の平均寿命は42歳)。ゼロ歳時で100%生存、20歳で約半分、40歳を超えて生きる人は長生きをする。では「2025年」問題Aと呼ばれている団塊の世代は75歳頃までは現役で多くの人が顕在であるが、このゾーンに入ったらばたばたと亡くなっていくことになる。小林氏は「今後は80歳、90歳と延びると予想されるが、がんが寿命と一体化するようになれば、がんは積極的な治療の対象でなくなるかもしれない」と。ここまで来ると、この死はがん患者の死ではなく、自然死のひとつ、老衰死に相当する「がん死」ということになる。

これらの記事から何を受けとったらいいのだろうか。長寿社会の未来がひらかれたというのではない。けれど「手術死」とか、「がん死」とか、「自然死」とかの概念が、微妙にスライドしながら新たな模索をはじめているようにみえる。
ここに「高齢者」も付けくわえてみよう。年寄りや老人がすり替わったのではない。また、厚労省が規定する70歳以上の人が「高齢者」ではない。ここで、自らの年齢に即して口にすれば、長寿社会の老年期をいきる新世代として「高齢者」と呼ぼうとおもっている。同時に、やがてその先に訪れるだろう超高齢の世界を、わたしは老揺期(たゆたいき)と呼んで、できることなら「介護を受ける」よろこびを手にできたらとおもう。

2016年9月22日木曜日

エンディング・ノート「いのちの選択」



○救急車さわぎの背景にあるもの
この夏、救急車さわぎがあった。一人暮らしの90歳男性が熱中症で死亡。発見されたのは2週間後の9月はじめ。男性には弟妹二人(いずれも80代)がいた。半径100㍍以内の同じ5丁目町会だが、今年に入って訪問しあうことはなかったという。知らない人ではなかった。新聞記事やテレビニュースではなく、わが家の鼻先での出来事だったのだ。
その一方で、心肺停止状態の高齢者が救急搬送される事例も各地で増えている。長野市民病院救急センターでは、救急搬送は年間約90例。そのうちの半数が85歳以上の超高齢だという。一緒に暮らしている老父母の呼吸がとまっている現場にたちあえば救急車を呼んでしまうかもしれない。呼べば救急センターに搬送され、蘇生を受けることになる。挿管され、点滴が行われ、器械による心臓マッサージが施され、「穏やか」な死とはほど遠い環境に遺体が置かれてしまう(「長野医報」6月)。
これらは、いま、全国各地のどこでもおきている医療事故だといっていい。
なぜ、防げないのだろうか。医療社会の直中にあって、住民の交流が減り、掛かりつけ医や施設の嘱託医などとの関わりもうまく機能していないからだ。要は、地域社会のなかで住民と医師との連携がうまくできていれば防ぐことはできるはずなのである。

○信州・上田市のNPO法人「新田の風」の試み
そこで、紹介したいのが長野県上田市新田地区の医師井益雄(い内科クリニック院長)さん。井さんは、かつて「信州に上医あり」といわれた故若月俊一医師(長野県厚生連佐久総合病院)の薫陶を受けた一人で、1980年代の終わりには、佐久地域で36524時間体制の在宅医療を始めた医師で、当時家族の介護負担を軽くするため、浴槽を家に持ち込む「お風呂カー」が走らせたという挿話もあるほどだ。井さんはその後上田市でクリニックを開業。
資料によれば上田市は人口12万人。新田地区は1712世帯、ざっと4千人(男1900人 女2071人)。そのうち65歳以上の高齢者は1056人(男478人、女578人)。高齢者率は266%。そして65歳以上単身世代は561人(男263人、女288人)。高齢単身世帯率は328%。
4人に1人が高齢者、そのうちの3割が単身世帯という地域での医師の役割はなにか。井さんは、これまでの経験から「在宅ケアはコミュニティのケアだ」という考えをさらに一歩踏みこんで地元自治会をベースに診療所、薬局、福祉関係者による「安心して老いを迎えられる街づくりチーム」を発足(2010)させた。住民自らの手による介護の社会化は次のような流れでとらえられていた。
①元気なうちは社会参加交流、つまり仲間づくり。
②要介護者になれば、その人を在宅でささえる。つまり支援の輪をつくること。
③やがて、世話になる。つまり、順番に必要に応じて支援される。
④施設の自宅化。つまり、施設に入っても自宅の雰囲気を(小規模多機能施設)。
⑤自宅の施設化。つまり在宅を支えるチーム訪問。
井さんは地域住民の一人として新田地区自治会にはたらきかけ、3年かけてNPO法人「新田の風」(http://www.shinden-kaze.org)を立ちあげ初代理事長としてスタートをきった。そして小規模多機能居宅介護施設「新田の家」を誘致(2014)、住民交流の場「ふれあいサロン ~風~」もオープン(2015)した。

○エンディング・ノート「いのちの選択」
「新田の風」の立ち上げによって、住民間で交流を深める基盤は整った。これからは、介護者の役割を担える人材を育てることであり、そこに診療所、薬局、福祉が連携をとりあって地域全体を支える道をつけることだった。そこで井さんが「新田の風」の事業のひとつとしてまっさきに掲げたのが「エンディング・ノート」の作成。終末期の意思を示す簡易版シート「いのちの選択」である。

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「病名・病状の告知」「余命の告知」「終末期の医療」「延命治療の有無」「最後の時はどこで迎えたいか」の5項目で、選択肢から希望する内容を選んでチェックを入れる方式だ。
たとえば「終末期で、望む生命維持処置は」の項目では ①心臓マッサージなど心肺蘇生 ②人工呼吸器 ③胃ろう ④延命措置は望まず自然死を希望する ⑤すでに「尊厳死宣言書」を作成した といった5つの選択肢が用意されている。そのうえで「家族の同意蘭」「本人」の署名捺印。
このシートは、上田薬剤師会の協力で薬局内に置かれ、「お薬手帳」に貼りつけておけるようになっている。「お薬手帳と一緒に保管されれば、救急搬送時にも医師の目に留まりやすいだろう」というのが井さんの主張である。
そして「いのちの選択」シートには、「健康状態等により考え方が変わった場合は、新しいものを添付しましょう」と明記してあるのが特徴だ。病状等の変化によって、意思表示は可変的であること。「まだ決めていない」など、患者のこころの揺らぎも受けとめられている。いずれにせよ、「元気なうちに自分の行く末を決めておくこと」を地域包括ケアの指針の一つとしている医師は、まだ少ないにちがいない。
井さんは言う。「ゴールは安らかな看取りです」


2016年7月31日日曜日

老揺(たゆたい)期を伴奏する


半年前、「いのちを考えるセミナー」の常連のひとり佐賀県の在宅医K・S子さんから「老揺(たゆたい)期 に入った78母が入院、ついに私が主介護者に」と率直に胸の内をひらいたメールが届いた。そのポイントをあげてみよう。
① 昨年秋まで自宅でほぼ自立した生活を送っていた母が、胸椎圧迫骨折を受傷し入院。下肢の麻痺や排泄障害を呈し、一時寝たきりとなった。さらに入院後、強い幻覚と妄想に襲われ、深夜に「知らない場所に移されたから助けに来てほしい」、「ベッドに犬小屋をたてられた」などと携帯電話で私に連絡してきた。軽いパーキンソン様症状もあり、レビー小体型認知症と診断された。
② 認知症ケアはまず「寄り添う」ことが大切とされるが、いざ当事者になってみると認知症介護に伴う心身の疲労だけでなく、親がどんどん変貌していく様子に悲哀と、「過去(健康なとき)のあの母にはもう会えない」という喪失感に思いが乱れている。
③ この思いは介護専門員や医療者は抱かない感情だ。5年前医師として認知症の人と家族会の世話人を引き受けてきたが、はたしてこれまでご家族の気持ちにどこまで共感しえていたのか、経験と理解が不足していたと痛感している。
④ 同時にまた、家族や身内ではないから医師として寄り添えたのではともいえる。母親の介護 を正面から受けとめ、これからが医師として正念場だと考えているー。
「老揺(たゆたい)期」→五官の老衰、認知症等がみられる還りのいのちのステージ。

わたしはK医師の思いに共感しながら、気になったので次のような返信メールを送った。
「こころの内は十分に受けとめました。けれど、誤解をおそれずにお伝えしたいのは、この状況は医師としてではなく、娘としての正念場だと受けとめるべきかとおもいます。娘の代役はいません。いわんや専門家(医師)と家族(娘)の役割を同時に引き受けるのではなく、まずは医師(専門家)を降りること。主治医は誰かに替わってもらうこと。そして、医師としてではなく家族(娘)として、それこそ『ぼけてもいいよ』というポジションを母のまえでしっかり見せることだとおもいます」と。

●ファミリー・トライアングルという構図
ここで思いだしたのは、介護保険法が施行される前後の10数年、6畳間にベッド二つを並べ寝たきり状態になった義父母の介護体験である。とはいえ、わたしが何をしたというのではない。娘(妻)の役割を基点にしたうえで私の立ち位置(3番目の役割)が問われていたことだった。からだが不自由になった老揺(たゆたい)期の義母、義父を支えるにはそれぞれ三角形・鼎のかたちになっていることが必要だった。そこでわたしが象ったケア・メソッドがファミリー・トライアングルだった。
ここで介護するという場合、老親(患者)を中心において家族や専門家(医師・看護師・介護者)が周りを囲むというかたちではなりたたない、支えることにはならない。わたしにはこの確認が最初にあったことである。つまり、老親を支えるには、[娘―義父(義母)―医師]、または[娘(妻)―義父(義母)―私]という関わり方が三角形(△)のかたちになっていること。そのためには三人目の役割を(自覚的に)引き受けてはじめて支える関係ができる。わたしは、このケア構図をファミリー・トライアングル(FTと名付け著したのが『「還りのいのち」を支える』(主婦の友社 2002年)だった。
要するに「共にある」というポジショニングが大事におもわれた。そこで、わたしはもうひとつサッカーの陣形としてのトライアングルとも重ねてみた。ゴールにむかって息をあわせボールを蹴るのだが、そこでは、コーチング(呼びかけ、指示)とアイ・コンタクト(目で合図する)が欠かせない。なによりトライアングルは3人目、3番目との連携と距離によって変わってくるだろう。
だから、3人で正三角形をつくることではない。それぞれの立場や関係によって三角形の辺の長さや角度は異なるのはいうまでもない。たしかなことは「三角形の内角の和は2直角(180度)」という支えあう構図をしっかり産み出すことだとおもっている。

老揺(たゆたい)期を伴奏する
至近な母親の例をあげてみよう。連れ合いを亡くして15年、老揺期(要介護度2 93歳)、独り暮らしを続けた郷里(奥出雲)を離れて、現在は娘(次女)家族が住む松江市内の居宅型老人ホームに移って3年になる。そこでのファミリー・トライアングルの第1は[娘(次女)―母親―孫娘(看護師)]。近隣に住む二人、とりわけ母親―孫(看護師)が大きな安心につながっている。これをベースに第2のトライアングルとして[娘(次女)―母親―娘(長女・大阪在住)]。さらに[長女(大阪在住)―母親―孫(看護師)]、そして私の関わりは[長男(東京)―母親―妹(次女)]など。相談事では母親抜きのトライアングル[長男―看護師(孫娘)―長女]といった場合もある。
こうしたファミリー・トライアングルの形成は、遠距離の感覚とか、役割分担の交替などによって、いわゆる要介護度を親和度にかえることもできるとおもっている。さいわい母は耳も達者で、携帯電話(かけ放題)を手放さずことなく主役の座におり、いまのところコーチングとアイ・コンタクトは滞ってはいないとおもう。
 ★
さて、先ごろK医師からメールをいただいた。
「母の疾患は新たな主治医に、わたしは母の老揺期を共に歩むことにしました。さいわい母は平穏に落ち着いています」と。

2016年6月25日土曜日

ホスピス・ボランティア(Ⅱ)   ホスピタリティ

ホスピタリティ
重兼芳子はボランティアの意義を「市民の日常感覚を尊重して下さった。医療を密室化せずに、市民の日常と結びつけようとされた」とした。この指摘について『風になって――聖ヨハネホスピスボランティア10年史』(社会福祉法人聖ヨハネ会・2000年)を手にしてみると、「(ボランティアは)生き甲斐(QOL)にふれた“社会の風”を吹き込んでくれる人」ということばで示されていた。そして重兼芳子が口にした「命の谺(こだま)」は「―10年史」では〈ホスピタリティ〉ということばに引き継がれていったようにみえる。
「〈友人〉と重兼芳子さんが書かれた患者さん、そのご家族、スタッフ、ボランティアなどが織りなす静かな微笑を含んだホスピスの空気。意図せずに出会い、瞬時のお別れをくりかえすホスピスで、いただく豊かな贈り物は謙遜と勇気、そして愛です。無償の行為であるはずのボランティアが喜々として活動できるのはこの出会いがあるから。その出会いを豊かなものにしている。それがホスピタリティなんです」。

ホスピタリティ(hospitality)、歓待、もてなし。鷲田清一によれば、歓特(hospitality)と敵意(ホスティリティ hostility)という二つの言葉はともに、ラテン語で客とか異邦人(敵)を意味するhospesから派生しているという。「他者をむかえ入れる、異邦人を歓待する。敵・味方の区別なく、いや異邦のひとであればこそ、手厚くもてなす。これは、相手をもてなすにあたって条件をつけないことである。それは看護の心であるとともに、ほんとは家族の心でもある」(『まなざしの記憶――だれかの傍らで』TBSブリタニカ)。
では、ボランティアにとってホスピタリティにはどんな配慮があったのだろうか。『―10年史』の座談会の発言から拾ってみよう。

「実際にここ(ホスピス)で死を迎えようとする方々が入ってくる時、その人自身とその家族にとってここは得体の知れない他人ばかりいる場所なのです。同時にその人や家族にとっても彼らは得体の知れない他人なのです。私がホスピタリティと言った時に意味したいのは、ここで出会うのがお互いに全く得体の知れない人であって、そうしたことをお互いに認め合うことから始まるケアやサポート、さらには人間関係といったことです。つまり、相手が思ったことが伝わらないということを、最初に認めてはじめて始まるケア、人間関係だとおもいます」

「実際、人間が生まれて来るときに、たった一人で生まれてくる事がないように、死を迎えるときもたった一人では迎えられないと思います。最後の最後まで他人の手を煩わせなければならない。そういった関わりを否定することは絶対できない。そうして、その人が生きてきた生き方を全うしようという時には、他人に身を委ねることができる、そういった信頼関係を築かなければおそらく無理でしょう。ホスピスというのは入ってくる人たちと信頼を結んでいく手段が、単にお医者さんと患者さんといった固定された関係だけではなく、もっといろいろな選択肢を用意することができる、そういう柔軟性を持った場所である。それがホスピタリティを有したホスピスだということが言えないでしょうか」

これらの発言には、知らない者同士が出合ってなお支えあう関係になることができる、実際にできたという歓びである。さらに注意深く押さえたいのは、医師や看護師や患者家族でもない、つまりそれらの関係に割り込むのではない3人目、あるいは3番目の力として支えられたこと。異邦人を歓待する。いや異邦の人であればこそ、手厚くもてなす。もてなすにあたってどんな条件もない。その〈ホスピタリティ) の根幹にふれているボランティアは、介護・看護のこころにいきつく。
もう一度重兼芳子のボランティア体験(『さようならをいう前に』)から引いてみよう。臨終が近いAさんの部屋に入ったときの様子である。

――優しい顔で静かに寝ていらっしゃる。で、Aさんの奥さまに「よく眠ってらっしゃいますねえ」と言ったんです。そうしたら「いや、眠っているんじゃなくて意識がないのです。 もう、呼びかけても聞こえませんしね。もう覚悟を決めました」とおっしゃる。わたしは半年近くお付き合いした方ですから、もう、なんか胸がこんなになっちゃって辛くてたまらないもんだから、手を握って、おもわず「わたし、あなたとお友達になってよかったで~す」といったんです。「この半年、あなたみたいな素晴らしい人に友達になっていただいてありがとうございました」って。「ご家族も、後のこともきちっとなさるから、安らかにお眠りくだざいね」と。
もう聞こえないって分かってて言ったんです。そうしましたら(Aさんは)涙をバーッと流されて、目じりのほうにながれるんです。奥さまもびっくりしちゃつて「お父さん、お父さん、聞こえたの?」って。(Aさんの)涙を二人で両側からふいてさしあげたんです。それで「さようなら。ありがとうございました」って。「わたしはあなたのことを忘れませんよ」って。

この情景は、患者―家族―医師という診療現場の構図ではなく、〈Aさんの妻―Aさん―ボランティア(重兼)〉の親密なトライアングル・ケアのかたちになっている。セラビストの鈴木秀子はそのひとときを「仲よし時間」と呼んでいる(『死にゆく者からの言葉』文藝春秋)。しかもこの親密な時間を呼び込むことができるのは必ずしも家族ではない。どんな話をしても動揺しない人、自分の気持ちをあるがままに受けいれてくれる人。それは友人だったり遠い親戚だったり、カウンセラーだったり、ボランティアだったりする場合が多いという。

ホスピス・ボランティア(Ⅰ)  重兼芳子のボランティア論


重兼芳子のボランティア
ホスピスには、医師、看護師等の医療者や心のケアを担当するチャプレンやセラピストら、それぞれ役割をもった人が関わっている。そのなかで貴重な役割をになう人にボランティアの人たちがいる。
ボランティアは病院や患者のお手伝いをする単なるスタッフではなくて、「ホスピスに参加しているのだ」という自覚をもって積極的に関わっている人たちのことだが、わが国のホスピス創生期に市民ボランティアが積極的に関わって誕生したホスピスに桜町病院聖ヨハネホスピス(1993)がある。ホスピス計画当初から院内ボランティアに参加した人に芥川賞作家の重兼芳子(19271993)がいる。重兼さんはこの間、欧米のホスピスボランティア取材をはじめ、自らのがん手術後も精力的にホスピスケアの普及に努め、ホスピス棟の新設完成を待たずに亡くなった。けれど、その間の活動は当時の著作レポートから垣間見ることができる(講演録『さよならを言うまえに』春秋社 1994)。

①「素人を病棟や病室に入れるということは医療者の側にかなり抵抗があったんです。だからこそ私たちボランティアは、何度も何度もミーティングを繰り返して医療者の邪魔にならないこと、医療に関してはいっさい見ざる聞かざる言わざるに徹すること、ホスピスの動きを見ながら、医療者の動きをみながら、けっして出過ぎないこと。とにかく慎んで、慎んで周りの動きを見ながら、身をひくことをさんざん訓練してきたんです」

「患者さんの中にはアーメンが大きらいな人もいらっしゃる。私たちボランティアも、ナースもシスターたちもいちばん自分たちに戒めていることは宗教色を前面に出さない。自分たちの思想信条を押しつけない。私たちは無であろう、そして、無である私たちが患者さんたちのかすかな表情と訴えかけを、ほんとに耳を澄ませて聴きとろうと、そういうことをずっとしてきました」

③「ナースたちのカンファレンスのさいに、最初に話し合うのは、入ってきた患者さんがいちばん大事になさっているのは何だろうということですね。その方は、きっと髪をいちばん大事にしていらっしゃるにちがいない。では私たちは、腰までのびた長い髪をきれいにしてあげようと。もう起き上がれない方でしたから、ストレッチャーにお乗せして浴室にお連れして、そこでお風呂専門の訓練されたボランテイアが3人一組で、ナースの指示で洗ってさしあげるわけですね。それこそ指の股の先まで、ほんとうにきれいに洗ってさしあげるんです。『きもちいい』とおっしゃっていただくと、うれしいですよ。私はお風呂のお手伝いは苦手なので、おやつ作りのほうをやっていましたけど」

ここには、ホスピスボランティアのポジショニングについて示されている。医療者に対しては何よりも素人であり、入居してきた患者にとっては陰の存在であること。その一方で、ボランティアとしては「入浴のプロである」とか「おやつ作りならできる」というように自分の役割と才能を登録するかたちでホスピスに参加するのだ。
ボランティアの任務を具体的にあげてみると、食事時の配膳や下膳、部屋や廊下やトイレの掃除、庭の水まきに落ち葉掃き。ナースステーションの受付や家族の案内、買い物に散歩の手伝いだったり患者の入浴やマツサージ、花の水かえにオルガン弾きだったり。今日なら介護福祉士の業務の一端と重なっているようにみえる。
医療の現場に市民を入れるということは、かなり大胆な決断を迫られることになる。その意味でボランティアは大きな責任を背負っていたというべきだろう。だから当初、重兼さんは、ボランティアという名称はなにか偽善めいたニュアンスを感じたという。けれど、2年ほどボランティア活動のルーティンをこなしながら仲間と接していくと「名称にこだわる必要はないことを知った」といい、次のような自信にみちたことばで記述されていく。(『聖ヨハネホスピスの友人たち』(1990 講談社)

〈私たちは医療者と違って、まったくの無力である。痛みや苦しみを緩和するすべを持たない、少しの役にも立たない存在である。そのことが徹底して知らされたとき、私たちは無心に素直に、あるがままに病者のそばにいるしかないと覚悟を決める。
ありがたいことに、私たちが自分の無力を徹底して知ったとき、生が光を放ちはじめるのを感じるのだ。いつのまにか今在ることの手応えを身に受けているのだ。ボランティアの一人一人が、生き生きと輝いてみえはじめてくる。
これはなんだろう、と私は目を見張っている。普通の暮らしをしている一般市民の人たちが、いそいそとベッドサイドに通ってくる。そして病者の喜びを喜びとし、苦しみを苦しみとしてともに寄りそって生きようとする。それが好きだから、というごく自然な思いで続けられてゆくのである。〉

ここにある言葉を押さえてみると、ボランティアの存在は患者とその家族の周辺にいる医療者などのスタッフとは異なるいのちにふれている姿がみえてくる。重兼芳子は「お別れした方々は一度も振り返ってはくださらなかった。…あなたと私を分けた生と死。その命の谺(こだま)が響き合う」という小景を伝え、ボランティアが聖ヨハネホスピスの誕生に関わった意義を「市民の日常感覚を尊重して下さった。医療を密室化せずに、市民の日常と結びつけようとされた」からだと述べている。


(この項は「ホスピス・ボランティア(Ⅱ)」に続く)

2016年5月31日火曜日

いのちの臨界 -最期の医療



治療中止の判断が「終末期」をつくる
「終末期」とか「終末期医療」は、病院で産まれ病院で死ぬという文字通りの医療社会になってうまれたことばである。
日本救急医学会は、治療中止の判断が必要になる時期を「終末期」としている。「医療の継続にもかかわらず、死が間近に迫っている状況」を指しているが、その判断は主治医と主治医以外の複数の医師により、客観的になされる必要があるとして、次の4つの場合を終末期としている。
①脳死と診断された場合
②生命が人工的な装置に依存し、生命維持に必須な臓器の機能不全が不可逆的な場合
③他の治療法がなく数時間ないし数日以内に死亡することが予測される場合
④回復不能な病気の末期であることが、積極的な治療の開始後に判明した場合
要するに、治療中止の判断が必要になったときが「終末期」ということになる。このとき患者は死の過程に導かれ、蘇生の道も断たれた状態になる。「終末期」とは延命・救命医療が極めつくした結果として出現したいのちのステージである。この段階での治療行為についてアメリカでは「医学的無益(medical futility)」ということばで語られている本を読んだことがある。医師の倫理から推し量ってみると、回復の望みがない患者に、医学的に無益な延命治療をずるずると続けることは「非倫理的である」というものであった。
けれど、この立場には医療資本と医療機関から導かれた医師の傲慢な論理が浮き彫りになっていただけである。

 「往きの医療」と「還りの医療」
わたしは、そうした病院化した社会に「いのち」という視点がいるのではないかと考えてきた。平均寿命が80歳を超える長寿社会のライフサイクルには往路と帰路がある、いのちには折り返し点があるというもの。成長期・成人期に相当する往きのいのちには「往きの医療」がふさわしい。脳死・臓器移植法に代表される先端医療をはじめとする救命・延命治療(医療)のあり方である。その一方で、人生を折り返したいのちの維持と還りのいのちを受けとめるにふさわしい「還りの医療」が応えるべきだと区別して考えてきた(『「幸せに死ぬ」ということーターミナルライフの発見』1998年)。
往きの医療がいかに死を遠ざけるかに寄与する医療だとすれば、「還りの医療」は、認知症を生きる老揺(たゆたい)期や、そう遠くない時点で確実に訪れるであろう死を受け入れるステージに寄りそう最期の医療(ケア)をさしている。
還りの医療は、死とその過程をいのちの深さとして肯定的に受けとめる眼差しがいるのはいうまでもない。

ちなみに、わが国で、還りのいのちへの対応が見えたのは2006年。富山県の射水市民病院で末期がん患者の人工呼吸器が取り外されたことが引き金になり、国や関連学会などで議論が加速し、相次いで指針ができた。国は2015年、指針の名称や用語について「終末期医療」を「人生の最終段階における医療」に変更し、「指針」では本人の意思を尊重し、医師らから適切な情報提供や説明に基づいた話し合いを重視することを原則とした。そのうえで「胃ろう」の選択をはじめ、人生最期の居場所をどこにするか(居宅、医療機関、介護施設)、意思表示が試されるなど、平穏死への道を遠いものにしている。私たちは臨死への眼差しをどんどん失っていくのだろうか。

 「臨界点」に向かういのち
在宅医内藤いづみさんが私との往復書簡(『いのちのレッスン』)でもらしたことばがある。
「赤ちゃんを産むときには、これが臨界点、ここを超えたら出産というのがあります。それと同じで、ぎりぎりまで生ききると、これ以上は生きられないという臨界点に死があるようにおもいます」
ここで生誕と死をいのちの流れで起きる出来事としてみている。産まれることと死ぬことは、(いのちの)臨界点ということばで往きと還りが重ねられ、一つになっている。
赤ん坊は、胎内(えら呼吸)で9ヶ月、臨界点からオギャーと一声、肺呼吸の世界に届けられ受けとめられる。いのちは往きの相でたちあがり成長期の姿を彩ることになる。やがて、老年期から死期に向かう。還りのいのちは「これ以上は生ききれない」という臨界点、自然死として送りだされ、温かく受けとめられている。とても示唆的である。それだけではない。内藤いづみさんは、臨界としての「死(寿命)」にはスピリチュアルな痛みをともなうことについても次のように語っている。

―たぶんそれ(痛み・註)は、「誕生」の苦しみとは逆の、「死」に行く道のりでの苦しみ、いわば、次のトンネルに入っていくための苦しみだと思います。ちょうど誕生の苦しみとして陣痛があるようなものです。無痛分娩と同じように無痛死にしてしまっていいの? と、心のなかで問いかけることがあります。産む力も、生まれる力も、死にゆく力も、本来、人に備わっているのではないかと感じるのです。

―そのような魂の痛みは医療が主導的に関われるものではなく、その人のものです。ではどうするのかといえば、それは、家族がしっかりと抱きしめるしかない。もし愛する人や家族がいなかったら、ご縁のある人たち、人生でめぐりあった友人たち、そういう人たちが撫でたり、声をかけたり、抱きしめてあげる。それしかない。赤子を「よしよし」となだめるのと同じです。そういうことしか、最期の痛みは緩和できないのではないかと感じています。(曽野綾子との対話『「いのち」の話がしたい』から)

いのちは、質を問わない。ただ、いのちの深さのなかで受けとめられるということである。



2016年5月4日水曜日

老いる、病いる。


―今年も桜をむかえました。そして、夫は(やま)いる身を全うしました。
お会いしたことはない。旧著『自然死への道』(朝日新書 2011年)を出して間もない、東北大地震の年の夏だったとおもう。読者からいただいた数少ない感想ハガキの一枚に「わたしは病いる身です」とあった。その後二度ほどハガキをいただいたが病状にふれられることはなかった。あれから5年、「病いる身を全うした」という連れ合いの方からの報告だったのだ。「病いる身を全うした」とは、なんとも見事なことば遣いだろうか。「病いる身」とは「病める身」のことではないからだ。以下、このことばにふれてみよう。
―老いる、(やま)いる。そして明け渡す― 
わたしはこの流れのなかで長寿・医療社会の「自然死」の可能性をさがそうとしていた。
「病いる」は「老いる」と同じ響き、同じスタンスをつたえている。「老いる」とは加齢とともに体が衰えていく、老化という意味ではない。「老いをいきる」ということ。老いに抗うとか老いと闘うというのではない。同じように「病いる」とは、もちろん患者としてがんと闘うとか、病気に抗うということでもない。誤解をおそれずに言ってみれば、「老いる」が「老いをいきる」ことであるように「病いる」とは病気を無条件に受けとめていきること、すなわち「病いをいきる」ということ。そして(死因を問うまでもなく)いのちを明け渡す。この流れのなかで、いのちを全うするすがたを「自然死」と呼ぼうとおもったからだ。
そのモデルになったのが、俳優緒形拳の死にふれたエピソードだった。

緒形拳からのメッセージ
緒形拳の遺作となったテレビドラマは『風のガーデン』(倉本聰作 2008年)だった。ドラマは膵臓がん末期の息子(麻酔科医・中井貴一)を自宅で看取る父(在宅医・緒形拳)という医師親子の葛藤と和解の物語だった。とりわけ印象を強くしたのは、亡くなる数日前の完成記者会見での元気そうな姿と、そのとき口にしたことばだった。「(このドラマを通して)病いる姿を見て欲しい」。わたしはここで「病いる?」と聞こえた。そしてメモしたことを覚えている。
緒形拳は亡くなる8年ほど前から肝炎をわずらっており、5年前に肝がんに移行した。けれど、家族以外にはその事実を一切口外せず本人の強い意思でその後もふだん通り、役者緒形拳を貫いたことをニュースは伝えた。緒形さんは病気でありながら闘病の姿をだれにも見せなかった。患者としての暮らし方をさいごまで見せなかったということ。そんな事実が「病いる」ということばと重なった。
「病む」でなく「病い」でも「病める」でもなく「病いる」。「やまい」を辞書で引く、あるいはパソコンで「やまい」と打つと「病」であり、送りのある「病い」は誤りであるかのように排除されている。しかし、病と病いは同じではない。「病」はdisease、文字通りの病気。病名があきらかな疾患・疾病をさすことばだろう。「病い」はillness。痛み等患者自身が実感、受けとめ方にかかわっている気がした。東北地方では「病いる」ということばがあるともきくが、ここでは俳優緒形拳のことばとして受けとめたかった。
彼は、あるテレビ番組で「老いる」ことにふれてこんな語り方をしていた。
〈芝居とか映画は現実の世界とちがい、いいかげんな、どうでもいい虚構の世界だからこそ、本気でやらないと虚構がドラマにならない…。でも、この歳になって老いの演技を考えると、演技することが演技しないことにつながるのではとおもうようになった。緒形拳という役者はヘタだねえ、下手になったねえといわれるようになるのが、わたしの理想(笑い)…〉
緒形拳はここで、老いること、病いることは人生を全うするに欠かせない、といいたかったにちがいない。

(やま)いる」という道
イヴァン・イリイチは老・病・死に向かって自律的に闘える基礎を健康と呼んでいた。つまり、医療の手助けが最低限しか行われない生き方がもっとも健康によいとした(『脱病院化社会』1978)。
けれど、いま医療機関・病院は病人を相手にする機関とはかぎらない。健診から検診へ、早期発見早期治療ということばがあるように、積極的に健康な人を招きいれ、病(disease)探しに余念がない。まさに健康の王国病気の王国に分ける機関になっている。
また、自らの乳がん体験からスーザン・ソンタグは「この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民となる」といい、誰しもがずっと健康な王国の住人でいたいとおもうが、早晩、病める人々の王国の住民として登録せざるを得なくなると述べている(『隠喩としての病い』1978)。
「病める人々の王国に移住する」とは立派な病名(がん)を手にし、患者として医療施設と医学用語の世界の住人になることだ。病の国の住人になったものは一日も早く治癒して、つまり患者の肩書きをすてて健康の王国に復帰したいと願う。けれど、がんのような病気は肉体の病気にもかかわらず、死を隠し持つ言葉のあや(隠喩)に足をとられ悩まされて、真の健康の王国へのパスポートを受け取ることが難しい。ではどうするか。悪しき病気観を一掃して「健康に病気になることだ」と語っている。

もう一つ、アーサー・W・フランクは『からだの知恵に聴く』のなかで「病いとは生き抜く体験のことである」といっている。彼も三〇代の心筋梗塞とがん体験から、人は患者になると「病気」の言葉の世界にのまれて、からだは病気が存在する「場所」のように扱われる。けれど、病いには生きるための希望や失望や喜びや悲しみの体験が力になっていくものだという。

これらのメッセージから、三つ目の国を「寛解の王国」と呼んでみることができる。病気が落ち着きおだやかになる寛解  remission ということばがある。ここでは、病気の国のことば(医療用語)や患者の国(医療施設)から解放されて、「健康に病気になる」あるいは「病いる身を全うする」居場所に赴くことができるかもしれない。長生きする時代、3人に1人はがんになるといわれる。けれど、がんは死に至る病ではなく、むしろがんとともに生きる王国と見定めることかもしれない。緒形拳の「老いる、病いる」という生き方はその範の一つになったのでは、とおもう。

2016年4月9日土曜日

地べたからの介護 -お世話宅配便


佐賀県唐津市に介護福祉サービスの草分け的存在として知られる「お世話宅配便」(代表・吉井栄子)がある。1989年、当時歯科衛生士だった30歳代の吉井栄子さんが保健師、看護師の資格をもっていた主婦6人でスタートし、介護保険法制定前(1995年)に「有限会社 在宅介護 お世話宅配便」となった。20年後の現在は在宅介護支援センター、訪問介護サービス、訪問看護、重度訪問介護(障がい者総合支援)、小規模多機能型居宅介護事業所、デイサービス、グループホーム、宅老所、有料老人ホーム、さらには移送サービス、障がい者就労支援に保育所まで。多彩な福祉業務を笑顔の絶えないスタッフ社員200人が働く組織になっている。
その先見性は「私がやりたかったのは、有料の介護サービス」という起業意志そのままに「有限会社 在宅介護 お世話宅配便」http://www.osewa.co.jp)と命名したところにあった。

三方よし
当時の高齢者介護といえば家族問題であり、重度な家内労働だった。一人で食事ができない、お風呂に入れない、おしっこうんちができない。そんな老親の介護をだれが外部に頼もうとするだろうか。そこに着目したのだ。
「ほんとうに必要な時間に必要な手になりたい」
当初は2時間2000円。高いといわれたこともある。
けれど、お世話する・されるという後ろめたさは介護サービスを「商品」にすることで介護を受ける人は「お客様」になり、家族は介護労働から解放された。当人からも家族からも安心と喜びの声が届けられると、「在宅介護」の宅配便活動は着実に地域共生の環境づくりへの道を拓くことになった。その際吉井さんのアタマにあったのは自分よし、相手よし、第三者よしの「三方よし」という人間学だった。旧くは近江商人の経済道徳として知られていたことばだが、売る側も買う側も、その周辺の第三者も皆が同時に利益と幸福が得られる道を拓いていくというものだ。介護する人・される人の関係ではなく、家族やお世話する周辺が「三方よし(世話ぁない)」のかたちになっていくことだ。それがケアの社会化や地域の福祉をうながす道を拓くことになった。
20年を超える「三方よし」の姿勢は、活動分野の呼称・表現にもあらわれている。たとえばデイサービスは「お茶しましょ」、グループホームは「お茶ばたけ」、宅老所は「まんてん茶屋」、訪問看護サービスは「行かなくっ茶」。お茶の産地を背景にしても行政用語でくくられることはない。小規模多機能型居宅介護は「ひとりじゃないよ」だったり、介護タクシーも「おせわさん」、当初はスタッフの子ども保育から始まった「子ども塾」も定着し、いまでは幼老共生の環境づくりが整うまでになり、他の介護法人とは一線を画すユニークな業務の拡大へとつながっている。

地べたからの介護
「お世話宅配便」にはもう一つ特筆することがある。デイサービス「お茶しましょ」のロビーに「ここは地べたからの介護です」という掲示板がある。
この施設には車椅子や廊下に手すりはない。スタッフの温かい手で支える手引き介助、いざり移動、四つん這い移動が原則になっている。これを「地べたからの介護」と呼び、高齢者が自分の手足で床や壁の感触をしっかり確かめながら、おもいおもいの生活リハビリが実践されていた。特徴を整理してみる。
・椅子や、テーブルの代わりに座布団、ちゃぶ台・掘りごたつを置くこと
・階段や浴室、トイレなど必要最小限の場所以外は、手すりはなくすこと
・自分の手足で感触をたしかめるためスリッパや上靴は履かないこと
床に直にすわり、背もたれのない状態ですごすなど、あえて地べたでの動作環境をつくりだすことで、自然と腹筋・背筋の訓練や姿勢の矯正が行える。それを手引きし見守るのが笑顔をたやさないスタッフだ。床の上を素足で直接歩くことで足のむくみが軽減したり、触覚による危険察知能力の向上もはかれるなどの効果もあらわれ、要介護度が低くなった人も出てきているという。

「至れりつくせりの介護をして、お客様を車椅子に乗せてどこかへお連れするという情景は優しく美しく見えるかもしれません。杖をついてたどたどしく歩かれているお客様の姿を見て、車椅子に乗せてあげればいいのに、と思う方もいるでしょう。でもそれは違うんです」と吉井さんはいう。
「歩くということは、人間の大事な機能の一つで、歩けるうちは歩いていただかないと本当に歩けなくなってしまいます。排泄も入浴もしてもらうには、まず立てなければ」
このことばには、たんなる老化にともなう廃用性症候群(生活不活発病)の予防対策、機能回復訓練の必要性として語られてはいない。事実、私が訪ねた日、いざり移動・四つんばい移動をくり返す人たちのすがたとスタッフの立ち居から見えたのは、そうした動物性器官への刺激や訓練というより、もっといのちの琴線にはたらきかけたリハビリに見えた。

ヒトが立ち上がるということはどういうことか?
からだことばの専門家であった演出家竹内敏晴は「サカナが陸に這いあがって両生類になり、爬虫類、哺乳類へと生きものはしだいに頭を、ついで胴体を大地から引きはがして天へ天へと伸び上がってきた。そしてヒトは四本足からしだいに頭をもたげ、前足を浮かばせて後ろ足二本で立ち上がった。ということは、一本の足にからだの重さをすべてゆだね、もう一本の足を前へ振り出すというまことに不安定な姿で歩み始めたということだ。…それが赤ん坊が手足を踏んばり立ち上がる力であり、伸びる力、生きる力、〈いのち〉ということになる」(『教師のためのからだとことば考』)と述べている。
あらためてリハビリテーションとは、はいはいからいざり、やがて立ちあがって一歩を踏み出していった揺籃期のすがたへの思いであり、さらには胎児の世界で培った生命記憶への呼びかけにちがいないとおもえた。それは 自尊の感情と〈いのち〉の営みがひとつになっている光景だったのだ。

2016年3月18日金曜日

餓死といういのち  ー餓死日記2


自由のきく「生活」のままに
日記によると母親のからだは慢性的にふらつき、頭痛、熱、さらに腰から下はちぎれるような痛さとだるさ、吐き気がつづいている。息子の様子は記述からは判然としないがほぼ寝たきり、トイレで出血したこと、新しい国民保険証が届いた日には感謝することばがあるが、二人とも医者に行った、薬をもらったという記述はない。息子は十何年ずっと一日に一食しかたべないとある。金銭は、家賃をはじめ電気・ガス・水道料金等の支払いが優先し、亡くなるまで滞納することはなかった。毎月支払いを終えると「ぶじ済まさせていただき有り難うございました」と記すことも忘れない。
母親は「早く死なせてください」と書いた、すぐその手で新聞が届いていないことに気づき、配達されなかった過去の日付まで即座に拾いだして、電話で不満をいい配達させたりもしている。テレビやラジオは見あたらず、社会への窓口は新聞(毎日新聞)のみ。「きょう1995年4月1日は、あの『阪神・淡路大震災』がおそった、1月17日から、ちょうど75日目にあたる」と記すなど、世間に背を向けたり、自ら閉じる態度はなかった。警察庁長官の狙撃事件、オウム事件についてもしっかり受けとめている。死ぬ三か月前には5万5千円で電話を手放すが、1月3850円と最大の出費となる新聞だけはさいごまで解約しようとしていない。
そんな母親の生活意志を際だたせているエピソードがある。日記が途絶える40日ほど前、体力・気力とも衰弱しきった頃の“70円”事件の顛末である。

1月31日(水) 1月分の電気代1226円を郵便局で収めた。間違って70円多くもらってきてしまいました。すみません。近日中にかえしに行かなければ。
2月1日(木) はれ、ひえる。(6・1度)
2月2日(金) 今日は、郵便局に先日知らずにおつりがないと思って、余分に頂きました70円を無事に返しに行かせて下さい。後で問題がおきませぬ様によろしくお願いします。朝9時すこし前、郵便局、先日1月31日(水)の時の男の受付の人がおられたので、おつり70円をあげて、おわびのアイサツしたが感じよく受け取って頂きまして、ありがとうございました。何時も何時もご心配やごくろうをおかけいたして申し訳ありません。
その足でスーパー。 甘食②360円、トウフ(キヌ)①88円、うの花200円、ソフトサラダ168円
2月3日(土) はれ、毎日きびしい寒さ。(8・9度)私はとうとう風を引いてしまった。昨日からは頭が痛く熱があって苦しい。今年はカーペットもないし火の気もないので寒くて寒くてたまらない。
2月4日(日)ねたきりの状態で食事がぜんぜんいけない。
2月5日(月)はれ、ひえる。(10・1度)9時過ぎスーパー 牛乳120円、ヨーグルト100×②200円。大根サラダ190円。お陰様で無事に行かせていただき、少しは食もいけました。
2月2日に郵便局に余分に頂いたお金70円を1月31日の時の受付の男の人に70円だったですねと念を押して返していたのに今日手紙に70円多く渡しているから返してほしいとあるが、先日の男の人は黙っていたのだろうか。又、うちが70円余分にあげるのだろうか、フにおちない。明日にでも郵便局に行ってはっきりとしなければ。
2月6日(火) 今日は郵便局のお金の問題を無事に解決させてください。お願いします。すでに70円は返しておりますので、よろしくお願いします。
朝9時半すぎ、郵便局へ先日お金70円をお返しした男の人がおられたので、たずねたところ、手紙は入れ違いにだした。たしかにお金は受けとっているといわれたのでほっとした。無事にすみましてありがとうございました。

こんなところにも、福祉の手を振り払う姿勢がみえている。
この母子の餓死報道がされると、多くの人が「なぜ母子を救えなかったのか」「行政はいったい何をしていたんだ」「母子はどうして役所に駆け込まなかったのか」といった思いを口にしたにちがいない。けれど、「覚え書き」によると、母親は、区役所の福祉相談を受けるつもりがないことは、死亡する1年前の日記や、日記が途絶える3日前にも記している。

1995年3月29日) 朝、年金係の人からの手紙が入っていた。昨日きたのだろう、うちがお金に困り、後、暫くしかここにおれないのを読まれて、相談するようにと、区役所と、西福祉事務所など教えて書いてあるが、私どもはここが、最後といって有るし、自分で家探しもできない、家に入らないといっている。それに良い人が世話をしてくれるとよいが悪い人にあったらたいへんと聞いているので、最後までガマンする。

1996年3月8日) …きれいに食べ物がなくなった。後はお茶だけで毎日何もたべられない。28円だけのこっているが、これでは何も買えない。子供がすいじゃくして死ぬのではないか、それが心配である。区役所等にたのんでも、私共は、まともには世話してもらえないし、どんな所に、やられて、どう生活をしなければ、出来ないかを考えると、子供と私も病気で苦しんでも、だれも、分かってもらえそうにないので、今の自由のきく生活のままで、二人共、死なせて頂きたい。…

「今の自由のきく生活のままで、二人共、死なせて頂きたい」
この一節から、人生の主題が衣・食・住のうちにはなく、内面の自由のうちにこそあることを伝えている。この生活意志によって「餓死」もまた、いのちことばとして際だたせている。死もいのち、メメント・モリ(死を思え)。そんな時代の幕開けの一端を刻印していたのだ。

無縁死といういのち -餓死日記

  
最近の流行ことばに「下流老人」がある。普通に暮らすことができない“下流”の生活を強いられている(生活保護基準に相当する)高齢者をさす造語だという。日に一度しか食事をとれず、スーパーで見切り品の惣菜だけを持ってレジに並ぶ老人。生活の苦しさから万引きを犯し、店員や警察官に叱責される老人。医療費が払えないため、病気を治療できずに自宅で市販薬を飲んで痛みをごまかす老人。そして誰にも看取られることなく、独りしずかに死を迎える姿をさして「孤独死」ともいう。
こうした無惨なことばが駆けめぐるなかで思いださせたのが「無縁死」。6年前、NHK・ドキュメント特集『無縁社会』(2010.1)が引き金となっていた。血縁・地縁・社縁の基盤が薄い、つまり身内や地域や職場等から孤立している単身者の死をそう呼んだ。凍死や餓死をふくめ無縁死の数は年間ざっと3万2千人、そのうち約千人が身元不明者(行政用語では行旅死亡人)。自宅の居間で死亡したのに身元不詳というケースもあったという。年間自殺者3万人という時代の暗さと符合しているようにみえる。

―孤独死も無縁死もいのちである。
そう呟いてみよう。すると、20年前になるが、無縁死・孤独死をあたかも事故死のように扱うほかなかった出来事が見えてくる。平成8年(1996の4月、東京の中心街(豊島区池袋)のアパートで77歳の母親と病気で寝たきりの41歳息子の文字通りの無縁死だった。死後20日以上経過して発見された二人の死因は栄養失調、餓死。息子は寝巻すがたのまま居間のふとんのなかで、母親は防寒用のズボンに茶色のジャンパーやカーディガンを重ね着したまま台所付近で死亡していた。
話題になったのは、餓死への道のりを克明に書き込んだ母親の日記が遺されていたことだった。飽食の時代といわれた頃で、なぜ母子は役所に駆け込まなかったか、行政は何をしていたのか。間もなくして「餓死した背景を明らかにする社会的意義がある」として日記は情報公開条例によって一般公開された(『池袋・母子餓死日記(覚え書き・全文)』公人の友社1996)。概要はわかった。一家は亡くなる11年前にアパートに引っ越してきた。4年前に夫は肺結核で死亡、その後は母親も腰痛等いくつかの持病を抱えながら脳に障害をもつ息子の世話で手一杯の日々。収入は2ヶ月に一度母親に支給される約8万円の年金。アパートの家賃は約8万5千円。母親は貯金の取り崩しにはじまって電話を売り、しのぎ、ついにはつかい果たした消費の先に死がのこった、そんな日々がA6判ノートに埋まっていた。

亡くなる1年前、アパートの契約更新前後の日記(原文のママ)である。
1995年(平成7年)3月24(金)うすぐもり、少しあたたかい。(13・8度)
  朝一寸顔そりした。朝、9時一寸すぎに、電気代支払用紙きた。1179円、引下8円。朝9時半すぎ郵便局。電気代、1179円、三月分おさめた。その足でスーパー。ご飯160、豆乳④320、果汁②200、カボチャニ180、(885円)
  主人の四回目の命日、バナナ、クッキー等、カボチャ煮、お茶、お水
今日は、主人の四回目の正月命日と言うのに、特別、何一つ、お気に入る物も、お供え出来ませず、本当にすみませんでした。今年で、この家での命日もおわりだと思いますが、現状では、どうする事も出来ませず、申し訳ありません。

3月25(土)今日新に契約書もらって更新してきた。雨、あたたかったり少しひえたり。(12・1度)
  今日は又、新たに家賃の契約をしてもらう日であるが、無事に、間違いなく、契約を、させて下さい。後、一日でも長くおられます様に、何卒、都合よく、はこばせて下さい、お願いします。契約は平成7年3月~平成9年4月11日までとなっている。
  朝10時半すぎ不動産。しばらく外でまって、こられた。
○家賃85000円 ○更新料85000円、不動産手数料42500円、合計212500円。○新通帳に85、000円とかかれ、別領収書に○27、500円の受取を書いてわたされた。お陰様で、今日無事に契約を、させて頂きまして、有り難うございました、けれ共、後が、長くは、お金が、有りませんので、その後はどうなるのでせうか、不安で、たまりません。
3月26(日)雨、小雪、ひえる。(4・5度)
  私は、昨日朝方から急に左り心臓のところが痛みだし、今日は、胃全部に痛みが広がって、ずきずきと痛み困っている。(略)
3月27(月)はれたりくもったり、ひえたり、あたたかったり。(12・9度)
 朝9時すぎ、本町スーパー。豆乳②160、果汁④400、一口アゲセン②149×②296、ゴボーサラダ160、(1、046円)
  ホームカレンダー今日来た。先月は、226日(日)に来た。
 朝10時頃、スーパー、コーンフレーク298、甘食⑧黒パン⑦180×②360、キヌトーフ83、黒ゴマ②65×②130、(897円)

「覚え書き」と表紙に記載された日録は日付・天気・気温に始まる家計簿に近い形式はさいごまで貫かれていた。引用した箇所は一家の末路を決定する重要なアパートの契約更新時期。夫の命日(祥月命日は3月24日)は家賃をはじめ月末の支払いのスタート日。アパートの契約更新に21万円という大金を用意しなければならなかった。喰うものを抑えてきたのも、契約を更新して、最後の身の置き場所にするためだった。
日録はスーパー等の買い物レシートの転記作業。食品・生活品目の購入記録がそのまま生活表現になっている。その行間を埋めるがために日々の心情不安を記す。生活とは金銭の出し入れである。やがて日記を記すことが生活の中心になっていく。書きためた日記はしばしばさかのぼって読み返され、過去日記にあらたに注意書きを加え、反省し、ときに祈る。
(この項、「餓死といういのち― 餓死日記2」につづく)

2016年3月1日火曜日

 明け渡すということ


―死の間際にかかわらず、どんなときでも、人は自分を明け渡すことによって、かぎりない平和を見いだすことができる。
死にゆく人の臨床にたちあった『死ぬ瞬間』の精神科医エリザベス・キューブラー・ロスはさいごの著書(『ライフ・レッスン』)でそんなメッセージをのこした。
明け渡しと降伏には大きなちがいがある。降伏とは、たとえば致命的な病気の診断を受けたときに「もうだめだ、これでおしまいだ!」ということだが、自分を明け渡すことは、いいと思った治療を積極的に選び、もしそれがどうしても無効だとわかったとき、大いなるものに身をゆだねる道を選ぶことだという。そして、さらに次のように明言した。
「降伏するとき、われわれは自分の人生を否定する。明け渡すとき、われわれはあるがままの人生を受け入れる。病気の犠牲者になることは降伏することである。しかし、どんな状況にあっても、つねに撰ぶことができるというのが明け渡しなのだ。状況から逃げ出すのが降伏であり、状況のただなかに身をすてるのが明け渡しである」

このフレーズから、義父の晩年の立ち居振る舞いをおもいだした。
若い頃は闊達なしごと人間だったようだが、わたしが知るようになってからの義父は最小限の必要な会話以外はしない、どちらかといえば寡黙な人だった。からだは大きくて病気らしい病気をしたこともなく、八十歳を過ぎても補聴器をつけて週に何度かは一人で電車に乗って出かけたりしていた。大相撲では当時貴乃花のファンでテレビ中継はさいごまで楽しんでいた。補聴器を左耳に、右耳にはヘッドフォンを挿入して、さらにテレビのボリュームは最大にするから建物全体がスピーカーというありさまで、家族は逆に耳栓をして観ることもしばしばだった。

杖をたよりに毎日散歩していた時期もあったが、歩行が困難になったときにさいごまでこだわったのは便所への歩行と自力での排泄だった。
ベッドから5メートルほどの手すりをつけた廊下を万里の長城を進むがごとくにゆっくりと脚をはこび、便所のドアにたどりついて更に便器までの2メートルの手すりにしがみついた。最初の頃は5分くらいだったのが、やがて10分になり15分になりした。その都度、家族は遠巻きに見て見ぬふりをした。見かねて手伝おうとすると叱責がとび、手で払いのける力があったからだ。その意思と努力はたいへんなもので、ついにはいざって進みむようにもなった。一ヶ月ほど続いたが、ついに便所にたどりつけないで途中で漏らし、へたり込んだりするようになった。それでも、這いながら便所を目指した。だれも止めなかったし、尿瓶にしたら、おむつにしたらと提案する者もいなかった。

そんなある日(もう20年も前のことだ)、明治生まれの義父はわたしをベッドまで呼ぶと「ヨネザワ君、君はいくつになったか」と尋ねた。
「わたしも、もう50をこえましたよ」とこたえると「そうか。わしのようになるには、君はまだ40年はあるんだな」といい、「残念だが、だめだ。これからは迷惑かける。宜しく頼む」と告げた。

その日から義父はトイレにいくことを断念し、立ち上がることも一切やめ、ベッドのなかで蓑虫のようにどんどん小さくなっていったようにおもう。いのちの明け渡しも近いと悟ったにちがいなかった。それから間もなくして義父は暑い夏、家人が口元にもっていった水差しを手ではらった翌日に、少しずつからだが冷えていき呼吸が止まった。自ら受けとめたいのち。91歳だった。

2016年1月7日木曜日

愛犬ロッシュの死 2  音楽死生学


ヘイ・ジュード
「ロッシュ、えらい」「ロッシュ、やったね」「ロッシュ、がんばったね」
そんなことばを口にしながらロッシュの最期を看取ったのだが、実はこのとき、わたしの頭にはずっと音楽が聞こえていたようにおもう。かなしかったが、なぜか、うれしくおもったのもその楽曲のせいかもしれない。そんな思いを書き込んでみよう。

ロッシュが亡くなって間もなくしてから口ずさむようになったメロディがある。
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード
ビートルズ。ポール・マッカートニーの楽曲「ヘイ・ジュード」である。ポールのコンサートでは観客との大合唱が定番になっているほどで、わたしも一度東京ドームのコンサート会場で声をはりあげたことがある。最近はYouTubでもライブ版がたのしめる。
この曲にまつわるエピソードは知っている。それは、この曲を作ったポール・マッカートニーが、ジョン・レノンとその妻シンシアの長男ジュリアンのためにつくった曲とされている。両親が離婚して父親から見捨てられる哀しみを抱えているジュリアンを励まそうとしたというものである。けれど、そんなエピソードから口ずさむことはない。
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード 
このリフレインの「切なさ」と「一体感」の共有がたまらない。そうにちがいない。わたしは、ロッシュの「ウオーン」という声を受けとめながら、なぜ、こんなにも全身全霊をかたむけなければいのちを全うできないのかー。そんな思いをかき消すように「ヘイ・ジュード」のあのリフレインがわたしのからだを繰り返し駆けめぐっていたようにおもう。そうだとするとわたしはそのとき、必死になってロッシュと一体になろうとしていたにちがいない。

カノン
傷ついた心を癒し、元気をとりもどしてくれる音楽療法(ミュージック・セラピー)はしられている。だが、この世の最後に、死に際して音楽を求める思いはあるのである。ホスピスを取材するようになって間もない頃の小さな体験をおもいだす。10数年も前のことで、一度書いたことがあるが、思いだして再度ふれてみよう。
ゆったりした、明るいサロンで車椅子の男性患者さんに会釈をしたとき、「いま曲選びをしているところです」とヘッドフォンをつけたまま声をかけられた。聞いて驚いた。自分が亡くなっていくときに、流してほしい曲選びだという。「バック・グラウンド・ミュージックがほしいかな、といったところです」
虚を衝かれた。葬式のときにではない、臨終のときに聴きたい・流してほしい曲選び? そういうこともあるのかと、一瞬返事にとまどった。「候補になった曲はあるんですか」ときくと、頬がこけ精悍な表情の奥に微笑みがのぞいた。手招きされ、病室へ案内されて聴いたのがバロック音楽の3曲だった。「G線上のアリア」、ヘンデルの「アレグロ ジョコーソ」、それにパッヘルベルの「カノン」。
「最後は一つにしぼりたいですけどね。どうおもいますか」と訊ねられてわたしは窮した。そして「じっくり、考えて決められたらどうですか」といってしまった。すると、すこし間があって「わたしにはそんな時間はないみたいですよ」と言われた。わたしは誠実に対応できなかったことにうろたえて「ぼくだったら『カノン』…になるかもしれません」と応えた。「カノン」は正真正銘のやすらぎの音楽である。三つのヴァイオリンとチェロの通奏低音はおそらく心身を癒すだろうから。その人は「そうですか。やっぱり、そうきますか」といい「このこと、妻に相談すると怒るんですよ。あなたの意見をきいてよかったです。でも、もう少し考えてみます」
時間にして20分ほどだったろうか。その人の病状も、名前も年齢も職業もしらない。その後わたしはおもいだしては少し後悔し、同時にまた不思議な時間を共有したことをながいこと、秘め事のように胸にしまっておいたのだった。

さて、わたしが死を迎えることになったとして、どんな楽曲を求めるだろうか。そんな余裕はないにきまっている。あったとしても「ヘイ・ジュード」ではないだろう。「カノン」でもないだろうとおもう。

愛犬ロッシュの死



愛犬ロッシュが亡くなって(享年1411ヶ月)間もなく三月、この間ブログへの書き込みも出来ないまま過ごしました。2016年のスタートはロッシュの尊厳なる死から入りたいとおもいます。

犬家族になること
「犬と暮らしてみない? 飼ってほしいという人がいる。すぐに気に入るとおもう」という長野の犬好き家族からのおもいがけない電話が入ったのは9年前の春先だった。
すぐさま「こういうことは縁だからね」と自分に言い聞かせるように家人に話し、車をとばして即刻引き取った。てっきり和犬だとおもっていた。名前もケンタとか、サチコぐらいに思っていた。ところが名前は異国の名前ロッシュ。鹿児島生まれのドイツ種ミニチュア・シュナウザー。雌犬で5歳と半年、体重5キロ。犬種には疎いわたしにはおじじ顔の、けれどなかなかの愛嬌犬にみえた。モデル犬としてドッグショーにもでたことがあるという。出産歴は一度、その後流産。「これ以上の繁殖はかわいそう。できたら不妊をしてのんびりすごさせたい」というのが手放す理由のようだった。ブリーダーさんいわく、「それなりにしつけはできています。あと10年はつきあえます。かわいがって!」
「はい、かわいがります」と答えながら、わたしは「それなりにしつけはできている」ということばが気になった。しつけとは「シットダウン」とか「ウエイト」とかの言葉に即座に対応できる訓練された犬のことかな、そう思っていた。

ところが、そういうことではないようなのだ。ご対面の席で、おそるおそる「おいで」と声をかけるとわたしの膝に前足を置いた(彼女は左利きだった)。人見知りがない。人を警戒するといった気配もなかった。同時に媚びているようにもみえなかった。人と暮らせる“配慮”を身につけている。
たとえば食事時、テーブルの下でこぼれ飯を期待している様子はあるが、食べ物をよこせという態度はみせない。朝夕2回のドッグフード以外は原則として食べない習慣が身に付いているようなのだ。また、孫たちが「かわいい、かわいい」とやたら抱きつき馬乗りになり、転がしても逃げもせず嫌がりもせず、なすがままに赦すのである。その一方で、声をかけ掌をひろげるとすばやく懐にはいってくる。抱き上げると肩に前足をのせるし、膝の上にのせると猫のようにまるくなっていつまでもいることがある。
テレビに近い直径70センチほどの円形マットが寝所になったが、おもちゃ遊びもせず一日の大半はそこで眠っていた。ロッシュの啼き声を聞いたのは、ある日玄関のチャイムがなったとき。のどの奥から絞り出すような声で来客をしらせた。このとき、家族の一員という自覚ができたのだとおもう。
ロッシュは5歳でやってきたが、わずか一月で犬家族になった。散歩は朝夕の二回。30分から1時間をあてた。朝は近所の小学生、黄色いランドセルの一年生他四人の集団登校に寄りそうコースである。防犯ベルを首からぶら下げた子どもたちはいつからか我が家の玄関先に集合するようになった。そして交替でロッシュのリードを引きながら登校し、校門が見える歩道橋下でみんなからハグされて引き返す。夕方は住宅団地から公園池につながるコンクリート川沿いのコース。三階建ての老人ホームの庭先で、ときどきロッシュを待っているお年寄りがいる。頭をそっとなでるとお年寄りの表情がゆるむのがわかる。そんな一日のルーティンもできあがっていった。夏、雷に怯え震えながら助けをもとめて懐にとびこんでくる。冬の夜中は寒さにわたしのベッドに潜り込んできたこともある。外出の際にはクルマに喜んでよじ登り、電車ではバッグの中でおとなしく納まることもできるのだった。

尊厳なる死
わが家にやってきて9年。定期健診の際に、数本の歯が欠けていることを指摘されてから、ロッシュは老いを一気に加速させた。散歩の距離が少なくなり、歩行もよちよちになった。「どうしたの、ロッシュ」。視力が落ちてきて室内でも記憶を頼りに心許ない歩きかたになり「こっちだよ」と道案内するために耳元で声をかけるようになった。
そんなロッシュにもプライドがあった。おしっこやうんちはわが家ではしないという意志を最後までつらぬいたことである。
やってきた当初は「室内で用を足せるようにしておくこと」が老後対策だと指摘され、準備は怠りなかった。防水加工で床をぬらさないトイレ、お漏らし対策もできていた。ところが、ロッシュはトイレシートに向かう意思ははじめからなかった。留守番のとき、雨の日などにも終日指定した場所にしない、お漏らしの形跡もない。ロッシュは室内でも庭先にもしない。門扉をあけて外にでるまでおしっこやうんちはしない。我慢できるというのである。どうやら、室内で用を足すことははしたないことだとおもっている。
ロッシュはえらい! かくしてロッシュの便器は消えていった。どんな日でも“トイレ散歩”は欠かせなくなった。雨合羽を着せてびしょ濡れになる大雨の日も、台風や大雪のときも、「犬のフンは飼い主が家に持ち帰りましょう」とか「ここは犬のトイレではありません」という立て看板の前をすりぬけてその意思を貫いてきていたのだ。

そんなロッシュの最期(2015.10.16)はおだやかなものではなかったが尊厳あるすがたをわたしたちに遺してくれた。
少量だったが吐血が始まってから亡くなるまでの10数時間、ロッシュはからだを横たえながら全身をはげしく震わせ、これまで聞いたことのない「ウオーン」と遠吠えをくりかえした。わたしたち家族は、そのからだに掌をそえて鎮めるように宥めるように撫で、見守るだけだった。そんなとき、ロッシュは突然頭をあげて立ち上がろうとした。左前足を立てるとからだがくずれ倒れた。そして後ろ足を動かそうとしてつんのめった。
「ロッシュはうんちがしたいんだ!」
わたしはとっさに確信した。ロッシュのお腹に手をまわして抱きかかえた。
「ロッシュ、外に行かなくていい。ここでいいんだ。ここでしていいんだよ」
と叫びながらロッシュのからだを支えた。
すると、ロッシュはその場で即座に脱糞してみせたのだ。
「ロッシュ、えらい」
「ロッシュ、やったね」
「ロッシュ、がんばったね」
それぞれに口にしながらわたしたちはみんな泣きだしていた。かなしかったが、なぜか、うれしかったのだ。
それから明け方5時過ぎに絶命するまで、ロッシュは闘っているようにみえ、わたしたちは「がんばったね、ロッシュ」と呼び続けたのだった。そこにはもうひとつ音楽が聞こえていたのだ。

(「愛犬ロッシュの死」2へつづく)