2018年10月13日土曜日

看護という道標 -漱石の時代の看護(2)


●制度としての看護・介護
今年(2018年)は明治・大正・昭和・平成期を経て“明治150年”にあたる。この間、平均寿命は男女とも80歳を超え、100歳以上の長寿者は6万人を超えている。明治33(1900)年は男女とも44歳、昭和三〇(1955)年は男63歳・女68歳、そして平成三〇(2018)年は男81歳・女87歳(資料・厚生統計協会)。生涯余命の平均は40歳から80歳と2倍に、「人生40」から「人生80」になった。このライフサイクルに後れをとりながらも病院化社会(20世紀)、そして「介護社会」(21世紀)をむかえたということだろう。
 それだけに今日の医療は、病の治癒や健康だけを対象にしているわけではない。脳死・臓器移植医療から生殖医療、再生医療等の分野まで、生命操作が自在になって生と死の境界を押しひろげるまでになってきている。
 さらに、医療の高度化、病院化システムによって、臨床の場でも看護という職種は多様化、高度化・専門分化が進み、日本看護協会では「認定看護師」(救急看護、認知症看護、乳がん看護など21分野)や「専門看護師」(がん看護、家族支援、在宅看護など13分野)を積極的に奨励するなど、長寿・医療社会に欠かせない役職を身につけようとしている。
 そして介護保険制度は、サービスが始まった2000年度は介護認定者は156万人だったが、現在は600万人を超えている。認定を受けた人の8割は自宅、あるいは「自宅ではない在宅」(サービス付き高齢者向け住宅など)で利用するが、介護従業者はケアマネージャー(介護支援専門員)やホームヘルパー(訪問介護員)をはじめ、医師・看護師、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士、管理栄養士・調理員等、さらにデイサービスや介護施設で働く介護職員など180万人以上の従業者(19種類あるという)に支えられている。
 
道標としての看護・介護
そうした専門資格者に支えられた今日の社会にあって、「漱石の時代の介抱・看病・看護」(『看護師のための明治文学』 ※表紙画像をクリック)はどう見えるのだろうか。
 明治といえば西欧医学の導入(医制)は明治7年、看護婦学校も明治19年、派出看護婦が定着したのも明治30年代になってから。人生50年の時代、正岡子規は35歳、石川啄木は27歳、夏目漱石は49歳という生涯だったが、それぞれ看護への思い入れは強かった。
 わが国では早い時期にレントゲン体験をした一人の石川啄木は、これも導入されて間もない聴診器を胸にあてられ、「思うこと盗みきかるる如くにて つと胸を引きぬ  聴診器より」と不安がりながらも「看護婦が徹夜するまで わが病い わるくなれとも密かに願える」と、入院中に看護婦への甘美なおもいを歌にしている。
 正岡子規は「看護婦として病院で修業することは医師の助手なること」で介抱とは違う、「病人を介抱するというのは病人を慰めること」だと訴えている。
 夏目漱石は、看護婦が「50グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌を混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた際。余は雀の子か烏の子のような心持ちがした」とい、「それは(看護という)仕事に溶け込んでいる好意である」とさえ記している。
 ☆
 これら、明治の文豪が身をもって訴えていた事柄は今日の専門性と技術向上に向かう医療・看護からは置き去りにされ無視されることばになっているのだろうか。求めていたのは、「(患者の)いのちの物語に寄りそってほしい」という感情であろう。
「いのちの物語」とは「生・老・病・死」といういのちのできごと。ここで生はいのち、老いもいのち、病もいのち、死もいのち。そんないのちの物語に手をさしのべ寄りそうことが「看護の本源」。そう問いかけていたようにみえる。
 さらに補足すれば、「看護」という概念は抱擁・介抱、看病・介護、看取りをとりこんだ温かい「いのちことば」なのだ。

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