2016年3月18日金曜日

無縁死といういのち -餓死日記

  
最近の流行ことばに「下流老人」がある。普通に暮らすことができない“下流”の生活を強いられている(生活保護基準に相当する)高齢者をさす造語だという。日に一度しか食事をとれず、スーパーで見切り品の惣菜だけを持ってレジに並ぶ老人。生活の苦しさから万引きを犯し、店員や警察官に叱責される老人。医療費が払えないため、病気を治療できずに自宅で市販薬を飲んで痛みをごまかす老人。そして誰にも看取られることなく、独りしずかに死を迎える姿をさして「孤独死」ともいう。
こうした無惨なことばが駆けめぐるなかで思いださせたのが「無縁死」。6年前、NHK・ドキュメント特集『無縁社会』(2010.1)が引き金となっていた。血縁・地縁・社縁の基盤が薄い、つまり身内や地域や職場等から孤立している単身者の死をそう呼んだ。凍死や餓死をふくめ無縁死の数は年間ざっと3万2千人、そのうち約千人が身元不明者(行政用語では行旅死亡人)。自宅の居間で死亡したのに身元不詳というケースもあったという。年間自殺者3万人という時代の暗さと符合しているようにみえる。

―孤独死も無縁死もいのちである。
そう呟いてみよう。すると、20年前になるが、無縁死・孤独死をあたかも事故死のように扱うほかなかった出来事が見えてくる。平成8年(1996の4月、東京の中心街(豊島区池袋)のアパートで77歳の母親と病気で寝たきりの41歳息子の文字通りの無縁死だった。死後20日以上経過して発見された二人の死因は栄養失調、餓死。息子は寝巻すがたのまま居間のふとんのなかで、母親は防寒用のズボンに茶色のジャンパーやカーディガンを重ね着したまま台所付近で死亡していた。
話題になったのは、餓死への道のりを克明に書き込んだ母親の日記が遺されていたことだった。飽食の時代といわれた頃で、なぜ母子は役所に駆け込まなかったか、行政は何をしていたのか。間もなくして「餓死した背景を明らかにする社会的意義がある」として日記は情報公開条例によって一般公開された(『池袋・母子餓死日記(覚え書き・全文)』公人の友社1996)。概要はわかった。一家は亡くなる11年前にアパートに引っ越してきた。4年前に夫は肺結核で死亡、その後は母親も腰痛等いくつかの持病を抱えながら脳に障害をもつ息子の世話で手一杯の日々。収入は2ヶ月に一度母親に支給される約8万円の年金。アパートの家賃は約8万5千円。母親は貯金の取り崩しにはじまって電話を売り、しのぎ、ついにはつかい果たした消費の先に死がのこった、そんな日々がA6判ノートに埋まっていた。

亡くなる1年前、アパートの契約更新前後の日記(原文のママ)である。
1995年(平成7年)3月24(金)うすぐもり、少しあたたかい。(13・8度)
  朝一寸顔そりした。朝、9時一寸すぎに、電気代支払用紙きた。1179円、引下8円。朝9時半すぎ郵便局。電気代、1179円、三月分おさめた。その足でスーパー。ご飯160、豆乳④320、果汁②200、カボチャニ180、(885円)
  主人の四回目の命日、バナナ、クッキー等、カボチャ煮、お茶、お水
今日は、主人の四回目の正月命日と言うのに、特別、何一つ、お気に入る物も、お供え出来ませず、本当にすみませんでした。今年で、この家での命日もおわりだと思いますが、現状では、どうする事も出来ませず、申し訳ありません。

3月25(土)今日新に契約書もらって更新してきた。雨、あたたかったり少しひえたり。(12・1度)
  今日は又、新たに家賃の契約をしてもらう日であるが、無事に、間違いなく、契約を、させて下さい。後、一日でも長くおられます様に、何卒、都合よく、はこばせて下さい、お願いします。契約は平成7年3月~平成9年4月11日までとなっている。
  朝10時半すぎ不動産。しばらく外でまって、こられた。
○家賃85000円 ○更新料85000円、不動産手数料42500円、合計212500円。○新通帳に85、000円とかかれ、別領収書に○27、500円の受取を書いてわたされた。お陰様で、今日無事に契約を、させて頂きまして、有り難うございました、けれ共、後が、長くは、お金が、有りませんので、その後はどうなるのでせうか、不安で、たまりません。
3月26(日)雨、小雪、ひえる。(4・5度)
  私は、昨日朝方から急に左り心臓のところが痛みだし、今日は、胃全部に痛みが広がって、ずきずきと痛み困っている。(略)
3月27(月)はれたりくもったり、ひえたり、あたたかったり。(12・9度)
 朝9時すぎ、本町スーパー。豆乳②160、果汁④400、一口アゲセン②149×②296、ゴボーサラダ160、(1、046円)
  ホームカレンダー今日来た。先月は、226日(日)に来た。
 朝10時頃、スーパー、コーンフレーク298、甘食⑧黒パン⑦180×②360、キヌトーフ83、黒ゴマ②65×②130、(897円)

「覚え書き」と表紙に記載された日録は日付・天気・気温に始まる家計簿に近い形式はさいごまで貫かれていた。引用した箇所は一家の末路を決定する重要なアパートの契約更新時期。夫の命日(祥月命日は3月24日)は家賃をはじめ月末の支払いのスタート日。アパートの契約更新に21万円という大金を用意しなければならなかった。喰うものを抑えてきたのも、契約を更新して、最後の身の置き場所にするためだった。
日録はスーパー等の買い物レシートの転記作業。食品・生活品目の購入記録がそのまま生活表現になっている。その行間を埋めるがために日々の心情不安を記す。生活とは金銭の出し入れである。やがて日記を記すことが生活の中心になっていく。書きためた日記はしばしばさかのぼって読み返され、過去日記にあらたに注意書きを加え、反省し、ときに祈る。
(この項、「餓死といういのち― 餓死日記2」につづく)

2016年3月1日火曜日

 明け渡すということ


―死の間際にかかわらず、どんなときでも、人は自分を明け渡すことによって、かぎりない平和を見いだすことができる。
死にゆく人の臨床にたちあった『死ぬ瞬間』の精神科医エリザベス・キューブラー・ロスはさいごの著書(『ライフ・レッスン』)でそんなメッセージをのこした。
明け渡しと降伏には大きなちがいがある。降伏とは、たとえば致命的な病気の診断を受けたときに「もうだめだ、これでおしまいだ!」ということだが、自分を明け渡すことは、いいと思った治療を積極的に選び、もしそれがどうしても無効だとわかったとき、大いなるものに身をゆだねる道を選ぶことだという。そして、さらに次のように明言した。
「降伏するとき、われわれは自分の人生を否定する。明け渡すとき、われわれはあるがままの人生を受け入れる。病気の犠牲者になることは降伏することである。しかし、どんな状況にあっても、つねに撰ぶことができるというのが明け渡しなのだ。状況から逃げ出すのが降伏であり、状況のただなかに身をすてるのが明け渡しである」

このフレーズから、義父の晩年の立ち居振る舞いをおもいだした。
若い頃は闊達なしごと人間だったようだが、わたしが知るようになってからの義父は最小限の必要な会話以外はしない、どちらかといえば寡黙な人だった。からだは大きくて病気らしい病気をしたこともなく、八十歳を過ぎても補聴器をつけて週に何度かは一人で電車に乗って出かけたりしていた。大相撲では当時貴乃花のファンでテレビ中継はさいごまで楽しんでいた。補聴器を左耳に、右耳にはヘッドフォンを挿入して、さらにテレビのボリュームは最大にするから建物全体がスピーカーというありさまで、家族は逆に耳栓をして観ることもしばしばだった。

杖をたよりに毎日散歩していた時期もあったが、歩行が困難になったときにさいごまでこだわったのは便所への歩行と自力での排泄だった。
ベッドから5メートルほどの手すりをつけた廊下を万里の長城を進むがごとくにゆっくりと脚をはこび、便所のドアにたどりついて更に便器までの2メートルの手すりにしがみついた。最初の頃は5分くらいだったのが、やがて10分になり15分になりした。その都度、家族は遠巻きに見て見ぬふりをした。見かねて手伝おうとすると叱責がとび、手で払いのける力があったからだ。その意思と努力はたいへんなもので、ついにはいざって進みむようにもなった。一ヶ月ほど続いたが、ついに便所にたどりつけないで途中で漏らし、へたり込んだりするようになった。それでも、這いながら便所を目指した。だれも止めなかったし、尿瓶にしたら、おむつにしたらと提案する者もいなかった。

そんなある日(もう20年も前のことだ)、明治生まれの義父はわたしをベッドまで呼ぶと「ヨネザワ君、君はいくつになったか」と尋ねた。
「わたしも、もう50をこえましたよ」とこたえると「そうか。わしのようになるには、君はまだ40年はあるんだな」といい、「残念だが、だめだ。これからは迷惑かける。宜しく頼む」と告げた。

その日から義父はトイレにいくことを断念し、立ち上がることも一切やめ、ベッドのなかで蓑虫のようにどんどん小さくなっていったようにおもう。いのちの明け渡しも近いと悟ったにちがいなかった。それから間もなくして義父は暑い夏、家人が口元にもっていった水差しを手ではらった翌日に、少しずつからだが冷えていき呼吸が止まった。自ら受けとめたいのち。91歳だった。

2016年1月7日木曜日

愛犬ロッシュの死 2  音楽死生学


ヘイ・ジュード
「ロッシュ、えらい」「ロッシュ、やったね」「ロッシュ、がんばったね」
そんなことばを口にしながらロッシュの最期を看取ったのだが、実はこのとき、わたしの頭にはずっと音楽が聞こえていたようにおもう。かなしかったが、なぜか、うれしくおもったのもその楽曲のせいかもしれない。そんな思いを書き込んでみよう。

ロッシュが亡くなって間もなくしてから口ずさむようになったメロディがある。
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード
ビートルズ。ポール・マッカートニーの楽曲「ヘイ・ジュード」である。ポールのコンサートでは観客との大合唱が定番になっているほどで、わたしも一度東京ドームのコンサート会場で声をはりあげたことがある。最近はYouTubでもライブ版がたのしめる。
この曲にまつわるエピソードは知っている。それは、この曲を作ったポール・マッカートニーが、ジョン・レノンとその妻シンシアの長男ジュリアンのためにつくった曲とされている。両親が離婚して父親から見捨てられる哀しみを抱えているジュリアンを励まそうとしたというものである。けれど、そんなエピソードから口ずさむことはない。
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード 
このリフレインの「切なさ」と「一体感」の共有がたまらない。そうにちがいない。わたしは、ロッシュの「ウオーン」という声を受けとめながら、なぜ、こんなにも全身全霊をかたむけなければいのちを全うできないのかー。そんな思いをかき消すように「ヘイ・ジュード」のあのリフレインがわたしのからだを繰り返し駆けめぐっていたようにおもう。そうだとするとわたしはそのとき、必死になってロッシュと一体になろうとしていたにちがいない。

カノン
傷ついた心を癒し、元気をとりもどしてくれる音楽療法(ミュージック・セラピー)はしられている。だが、この世の最後に、死に際して音楽を求める思いはあるのである。ホスピスを取材するようになって間もない頃の小さな体験をおもいだす。10数年も前のことで、一度書いたことがあるが、思いだして再度ふれてみよう。
ゆったりした、明るいサロンで車椅子の男性患者さんに会釈をしたとき、「いま曲選びをしているところです」とヘッドフォンをつけたまま声をかけられた。聞いて驚いた。自分が亡くなっていくときに、流してほしい曲選びだという。「バック・グラウンド・ミュージックがほしいかな、といったところです」
虚を衝かれた。葬式のときにではない、臨終のときに聴きたい・流してほしい曲選び? そういうこともあるのかと、一瞬返事にとまどった。「候補になった曲はあるんですか」ときくと、頬がこけ精悍な表情の奥に微笑みがのぞいた。手招きされ、病室へ案内されて聴いたのがバロック音楽の3曲だった。「G線上のアリア」、ヘンデルの「アレグロ ジョコーソ」、それにパッヘルベルの「カノン」。
「最後は一つにしぼりたいですけどね。どうおもいますか」と訊ねられてわたしは窮した。そして「じっくり、考えて決められたらどうですか」といってしまった。すると、すこし間があって「わたしにはそんな時間はないみたいですよ」と言われた。わたしは誠実に対応できなかったことにうろたえて「ぼくだったら『カノン』…になるかもしれません」と応えた。「カノン」は正真正銘のやすらぎの音楽である。三つのヴァイオリンとチェロの通奏低音はおそらく心身を癒すだろうから。その人は「そうですか。やっぱり、そうきますか」といい「このこと、妻に相談すると怒るんですよ。あなたの意見をきいてよかったです。でも、もう少し考えてみます」
時間にして20分ほどだったろうか。その人の病状も、名前も年齢も職業もしらない。その後わたしはおもいだしては少し後悔し、同時にまた不思議な時間を共有したことをながいこと、秘め事のように胸にしまっておいたのだった。

さて、わたしが死を迎えることになったとして、どんな楽曲を求めるだろうか。そんな余裕はないにきまっている。あったとしても「ヘイ・ジュード」ではないだろう。「カノン」でもないだろうとおもう。

愛犬ロッシュの死



愛犬ロッシュが亡くなって(享年1411ヶ月)間もなく三月、この間ブログへの書き込みも出来ないまま過ごしました。2016年のスタートはロッシュの尊厳なる死から入りたいとおもいます。

犬家族になること
「犬と暮らしてみない? 飼ってほしいという人がいる。すぐに気に入るとおもう」という長野の犬好き家族からのおもいがけない電話が入ったのは9年前の春先だった。
すぐさま「こういうことは縁だからね」と自分に言い聞かせるように家人に話し、車をとばして即刻引き取った。てっきり和犬だとおもっていた。名前もケンタとか、サチコぐらいに思っていた。ところが名前は異国の名前ロッシュ。鹿児島生まれのドイツ種ミニチュア・シュナウザー。雌犬で5歳と半年、体重5キロ。犬種には疎いわたしにはおじじ顔の、けれどなかなかの愛嬌犬にみえた。モデル犬としてドッグショーにもでたことがあるという。出産歴は一度、その後流産。「これ以上の繁殖はかわいそう。できたら不妊をしてのんびりすごさせたい」というのが手放す理由のようだった。ブリーダーさんいわく、「それなりにしつけはできています。あと10年はつきあえます。かわいがって!」
「はい、かわいがります」と答えながら、わたしは「それなりにしつけはできている」ということばが気になった。しつけとは「シットダウン」とか「ウエイト」とかの言葉に即座に対応できる訓練された犬のことかな、そう思っていた。

ところが、そういうことではないようなのだ。ご対面の席で、おそるおそる「おいで」と声をかけるとわたしの膝に前足を置いた(彼女は左利きだった)。人見知りがない。人を警戒するといった気配もなかった。同時に媚びているようにもみえなかった。人と暮らせる“配慮”を身につけている。
たとえば食事時、テーブルの下でこぼれ飯を期待している様子はあるが、食べ物をよこせという態度はみせない。朝夕2回のドッグフード以外は原則として食べない習慣が身に付いているようなのだ。また、孫たちが「かわいい、かわいい」とやたら抱きつき馬乗りになり、転がしても逃げもせず嫌がりもせず、なすがままに赦すのである。その一方で、声をかけ掌をひろげるとすばやく懐にはいってくる。抱き上げると肩に前足をのせるし、膝の上にのせると猫のようにまるくなっていつまでもいることがある。
テレビに近い直径70センチほどの円形マットが寝所になったが、おもちゃ遊びもせず一日の大半はそこで眠っていた。ロッシュの啼き声を聞いたのは、ある日玄関のチャイムがなったとき。のどの奥から絞り出すような声で来客をしらせた。このとき、家族の一員という自覚ができたのだとおもう。
ロッシュは5歳でやってきたが、わずか一月で犬家族になった。散歩は朝夕の二回。30分から1時間をあてた。朝は近所の小学生、黄色いランドセルの一年生他四人の集団登校に寄りそうコースである。防犯ベルを首からぶら下げた子どもたちはいつからか我が家の玄関先に集合するようになった。そして交替でロッシュのリードを引きながら登校し、校門が見える歩道橋下でみんなからハグされて引き返す。夕方は住宅団地から公園池につながるコンクリート川沿いのコース。三階建ての老人ホームの庭先で、ときどきロッシュを待っているお年寄りがいる。頭をそっとなでるとお年寄りの表情がゆるむのがわかる。そんな一日のルーティンもできあがっていった。夏、雷に怯え震えながら助けをもとめて懐にとびこんでくる。冬の夜中は寒さにわたしのベッドに潜り込んできたこともある。外出の際にはクルマに喜んでよじ登り、電車ではバッグの中でおとなしく納まることもできるのだった。

尊厳なる死
わが家にやってきて9年。定期健診の際に、数本の歯が欠けていることを指摘されてから、ロッシュは老いを一気に加速させた。散歩の距離が少なくなり、歩行もよちよちになった。「どうしたの、ロッシュ」。視力が落ちてきて室内でも記憶を頼りに心許ない歩きかたになり「こっちだよ」と道案内するために耳元で声をかけるようになった。
そんなロッシュにもプライドがあった。おしっこやうんちはわが家ではしないという意志を最後までつらぬいたことである。
やってきた当初は「室内で用を足せるようにしておくこと」が老後対策だと指摘され、準備は怠りなかった。防水加工で床をぬらさないトイレ、お漏らし対策もできていた。ところが、ロッシュはトイレシートに向かう意思ははじめからなかった。留守番のとき、雨の日などにも終日指定した場所にしない、お漏らしの形跡もない。ロッシュは室内でも庭先にもしない。門扉をあけて外にでるまでおしっこやうんちはしない。我慢できるというのである。どうやら、室内で用を足すことははしたないことだとおもっている。
ロッシュはえらい! かくしてロッシュの便器は消えていった。どんな日でも“トイレ散歩”は欠かせなくなった。雨合羽を着せてびしょ濡れになる大雨の日も、台風や大雪のときも、「犬のフンは飼い主が家に持ち帰りましょう」とか「ここは犬のトイレではありません」という立て看板の前をすりぬけてその意思を貫いてきていたのだ。

そんなロッシュの最期(2015.10.16)はおだやかなものではなかったが尊厳あるすがたをわたしたちに遺してくれた。
少量だったが吐血が始まってから亡くなるまでの10数時間、ロッシュはからだを横たえながら全身をはげしく震わせ、これまで聞いたことのない「ウオーン」と遠吠えをくりかえした。わたしたち家族は、そのからだに掌をそえて鎮めるように宥めるように撫で、見守るだけだった。そんなとき、ロッシュは突然頭をあげて立ち上がろうとした。左前足を立てるとからだがくずれ倒れた。そして後ろ足を動かそうとしてつんのめった。
「ロッシュはうんちがしたいんだ!」
わたしはとっさに確信した。ロッシュのお腹に手をまわして抱きかかえた。
「ロッシュ、外に行かなくていい。ここでいいんだ。ここでしていいんだよ」
と叫びながらロッシュのからだを支えた。
すると、ロッシュはその場で即座に脱糞してみせたのだ。
「ロッシュ、えらい」
「ロッシュ、やったね」
「ロッシュ、がんばったね」
それぞれに口にしながらわたしたちはみんな泣きだしていた。かなしかったが、なぜか、うれしかったのだ。
それから明け方5時過ぎに絶命するまで、ロッシュは闘っているようにみえ、わたしたちは「がんばったね、ロッシュ」と呼び続けたのだった。そこにはもうひとつ音楽が聞こえていたのだ。

(「愛犬ロッシュの死」2へつづく)

2015年9月28日月曜日

新刊『いのちを受けとめるかたち』に寄せて


 
 ※先ごろ「いのちを考える、いのちから考えるセミナー」シリーズとして、第1弾の「いのちを受けとめるかたちー身寄りになること」がでました。今回は、セミナー誕生のいきさつにふれて福岡市の在宅医、二ノ坂保喜さんからのメッセージを掲載させていただきました。


○米沢慧さんと最初に出会ったのはいつだったか。 二ノ坂保喜
たぶん、「バイオエシックスと看護を考える会」の席ではなかっただろうか。定かではない。
米沢さんとの出会いの前に、大きな出会いがあった。それは、米沢さんの生涯の師・岡村昭彦との出会いである。私は大学を卒業して、外科医として働きはじめて10年くらい経っていた。北九州市小倉の駅前にあった書店で、岡村昭彦の『ホスピスへの遠い道〈岡村昭彦集6〉』(筑摩書房 1987年)という分厚い本が目に留まった。当時、急性期病院の外科医として日々現場に立っていたが、「ホスピス」という言葉をどこかで意識しはじめていたのだと思う。手にとってすぐに購入した。

岡村昭彦の名前は、『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書 1965年)などで知っていた。ヴェトナム戦争をはじめ世界の紛争と貧困の地に赴き、第一線で写真を撮り続ける報道カメラマンというくらいの認識であった。
内容はまさに「ホスピスへの遠い遠い道」で、世界を巡った詳細なルポルタージュは岡村が自らの探求をあますところなく伝えようとしたもので、読者にとって読みやすいように、わかりやすいように、などという親切心はまるで感じられない文章だった。この本は、「看護教育」(医学書院)に2年間(1983年の3月から1985年4月まで〈途中半年中断〉)にわたって連載され、未完に終わったが、ケアの最前線にある看護師にこそ「ホスピス」の真の意味を伝えたい、そのためには安易に手を抜かないという真摯な思いが読み進むにつれて伝わってきた。
この本の中で多くの本が紹介されていたが、私は岡村の後を追うように手に入る限り購入し、読んだ。岡村昭彦は、私がこの本を手にした1、2年前に56歳で亡くなっていた。これが最晩年の著書であり、彼の最後の情熱が熾火のように「ホスピス」を照らしていた。『ホスピスへの遠い道』は、私自身がそれから歩むことになる遠い道の出発点にあり、今も道標である。
この本の解説を書いたのが米沢慧さんであった。岡村昭彦との出会いが、米沢さんとの出会いへと必然的につながったように思う。

生前の岡村昭彦はだれにも臆せず、常に豪速球を投げ、周囲の状況にあまり斟酌しない人だったような印象である。生前の彼をビデオを通して観ると、インタビュアーへの気遣いを見せながらも、ずばっと言いたいことを言っている。米沢慧さんは、むしろ訥々とものを言う人だ。奥出雲の出身ということもあるのかもしれない。
米沢さんは、思考を丁寧に積み重ね、それを順追って語り、飛躍したり、根拠のない話をしたりはしない。すぐれた思想家がそうであるように、常に、借り物でない自らの思考を深めそれを借り物ではない自分の言葉に紡いでいく。その後ろに、妥協を許さない岡村の叱咤が聞こえてくるようである。

米沢慧さんは「AKIHIKO の会」を継続し、また全国各地でセミナーを開いている。私も米沢さんの著書を読み、話を聴く中で、九州、福岡で彼のセミナーを開き、直接、学ぶ機会を持ちたいと思っていた。自分自身が在宅ホスピスの経験の積み重ねの中で学んだことを、自分の思想として蓄積し同時に同じ志を持つ仲間と、米沢さんを囲む会を持ちたいと思った。「超高齢多死社会」とひとくくりにされる中で、一人ひとりのいのちにどう向き合うのか、認知症という医療では如何ともしがたい現状を在宅医として受けとめていきたいと思った。医師として、医療として、というよりも我々一人ひとりがそこにあるいのちとどう向き合うのか、自分自身の存在も含めて「いのちを受けとめる」とは……といったテーマが浮かび上がってきた。

福岡で「米沢慧 いのちを考える・いのちから考えるセミナー」が実現して6年、24回になる。そこは少人数の参加者が真剣に学ぶ場である。思想家としての米沢さんの言葉は一つの羅針盤だと思う。そして、気づきだと思う。「往きのいのち 還りのいのち」「いのちの深さ」「身寄りになる」「老揺(たゆたい)期」等など深い意味合いを感じる。私は在宅ケア、在宅ホスピスの現場での自分の体験を、米沢さんの言葉に重ね合わせて、自分のものにしていきたい。
年に4回のゼミを重ねてきてようやく、米沢さんの言葉を、ライブで聴ける本が出版される。第一冊目の「身寄り」。この言葉の意味を、ともに深く学び、実践の場に活かしていきたいと思う。(福岡市 にのさかクリニック院長)

※「いのちの受けとめ手」表現について
近著の『いのちを受けとめるかたち―身寄りになること』(木星舎)、及び別掲の共著『市民ホスピスへの道―いのちの受けとめ手になること』(春秋社)の主題は表題にあるように「いのちを受けとめる…」「いのちの受けとめ手」にあります。この概念は芹沢俊介著『家族という意志 ―よるべなき時代を生きる』(岩波新書 2012.4)から、ことに「いのちの存続を支え、保証する直接の担い手をいのちの『受けとめ手』と呼ぼう」(第2章「いのち」から考える)という一節に負っています。謝してここに明示させていただきます。
ちなみに、芹沢氏はその後編著者として上梓された『養育事典』(明石書店 2014.8)で「受けとめと受けとめ手」について次のように定義されています。
〈受けとめは養育の基本である。養育は受けとめから始まる。母子関係(対象関係)における母親(産みの母親)の子どもに対しとるべき基本的な姿勢及び対応を指している。とりわけ最早期においては、子どもの受けとめられ欲求(受けとめられたいという欲求)は待ったなしである。子どものこの待ったなしの受けとめられ欲求に、無条件に受けとめようとする姿勢でもって子どもに自己を差しだす人が受けとめ手である。その目的はいうまでもなく、子どもの安心と安定の環境と、そこに形成される子どもの自足的な存在感覚、すなわち「ある」の形成である。…〉

2015年9月4日金曜日

ナラティブホーム



「さようなら」「さらば」
私たちが親しんで使っている「別れことば」に「さようなら」があります。
ところが、国語辞典でしらべると、サヨウナラ(サラバ)は①元来、接続詞で「それならば」の意(広辞苑)、②語源「左様ならば(それでは)これにてごめん」(明鏡国語辞典)とあります。元来は、先行のことを受けて、後続のことが起こることを示す「左様ならば」「然らば」という意味の接続詞だった。それが別れことばとしていつの間にか独り歩きしていったというわけです。ですから「さようなら」を簡単に「グッドバイ」におきかえることはできないことになります。
ちなみに世界の「別れことば」には、①神のご加護を願うものとして「グッドバイ(Good-bye)」「アデューAdieu」など、②再会を願うものとして「シー・ユー・アゲインSee you again、再見サイチェン」など、そして③「お元気で」と願う「フェアウェルFarewel」「安寧(アンニョン)」などの三タイプに分けられる(竹内整一『やまと言葉で哲学する』春秋社)とありますが、「さようなら(さらば)」はどのタイプにも該当しません。はみ出しています。「さようなら」は、いのちことばかもしれません。

この「さようなら(さようであるならば)」が人生さいごのときに素直に言えたら、そして、その「さようなら」のことば受けて「さようであるならば」と同じように応えられるような力になれれば……。そんな絵図を描きながら高齢者介護や、終末期医療に足を踏みこんでいる医師がいました。チューリップの球根で知られる人口5万人ほどの富山県砺波市の佐藤伸彦さん。「ものがたりの郷」と名付けて、病院でも在宅でもない終末期の居場所を立ちあげています。
「ものがたりの郷」について佐藤医師はこう言い切ります。
――ここでは「ものがたられるいのち」が主役になります。
老いるとは、いままでできていたことが少しずつできなくなることです。病いや障害は重度になってくるとからだが思うようにならなくなってきます。その事態をどれだけきちんと「さようなら(さようであるか、さようであるならば)」といえるのかということが、老いを生きていくうえで大切なことです。「命」には終わりがやってきます。けれど、一人の人間の人生として、ものがたられる「いのち」があることを、いまは是非知ってほしい。ものがたられる「いのち」「さようなら」に私たち医療者も「さようなら(そうであるならば)」と受けとめ支えたい。高齢者医療は敗者処理の医療ではありません。人が、人として人間の最期の生を援助する専門医療です(『ナラティブホームの物語』医学書院)。

※「ものがたりの郷(さと)」は家族も自由に寝泊まりできる病室でもなく施設でもない。ものがたり診療所に隣接した平屋建ての賃貸アパートの15室。洋室9畳にキッチン・バスつきの約25平方メートル(家賃5万円の他介護・医療保険の自己負担と食事代等の目安で月額1318万円相当)。その大きな役割を担うのが佐藤さんが理事長の医療法人社団「ナラティブホーム」(ものがたり診療所・ものがたり訪問看護ステーション・ものがたりホームヘルパーステーション・ものがたり居宅介護支援ステーションの4事業)。スタッフは常勤医2名、非常勤医1名。看護師9名、介護福祉士8名等全26名に診療補助犬一匹。事業室は共同であり情報交換も密に行われ24時間365日対応である。

「カルテ」から「ナラティブシート」へ
「ものがたりの郷」の入居者は重度の認知症の人やがん末期の人にかぎりません。病院で治療の手だてがなく退院をうながされた人、高度医療が必要で介護施設にいられない人、脳梗塞などで寝たきりだが在宅では難しいといった人たちです。そんな人たちには、カルテにかわってナラティブシートが用意されています。患者のナラティブ(ものがたり)が日録として採用されています。
カルテはドイツ語、日本語では診療録。医師法では患者の診察をした際にその経過をのこすことが義務づけられています。簡略化した例をあげてみると、{・喉が痛い、咳が出る。体温380度、咽頭の発赤、扁桃腺の腫大あり。白血球数高値。―扁桃腺炎。―抗生剤投与、安静}です。看護記録でいえば、食事に排泄。食べて出すという人間の基本的な行動の記録がならぶことになります。それではものがたられる「いのち」の記録にならない。そこで患者Aさんの姿はナラティブ(物語り)やスタッフとの会話を日記のように、語り継ぐように忠実に記録されるのです。たとえば、認知症の人とのある日の会話から。
―誕生日。いくつになりましたか。
「わからん」
86歳ですよ。
「ほんまけ。いい年やね。満で88やろ。数えで百や。百まで生きなん!」
佐藤さんは「認知症の人は、その関係性が切れないように必死に自分のアイデンティティにしがみついているようにみえる」といいます。いのちは質だけを問うてはいけないのです。不可避としての「さようなら(そうならなければならないならば)」を前にしても、なお、いのちには深さがあるということです。

取材に伺った日(5月3日)、日当たりの良い部屋で、2年ちかく眠り続けているという80代の女性に会いました。「この部屋はサンクチュアリ(聖域)」と佐藤さんはつぶやき、わたしはその温かいからだに手を添えさせていただきました。


2015年8月19日水曜日

〈100歳〉のメッセージ



10年ほど前、同年の芹沢俊介さんと『老いの手前にたって』という対話本(2002・春秋社)を出した際、老いることへの怯えや要介護者になる不安を率直に語り合ったことを覚えています。そして、老いの潮騒に足をとられるようになったら、もうろくを濾過器として、細かいものは通して重みのあるものだけが残るはずだ―。そんな自然態をぼんやり描いたのでした。
そのなかでもうひとつ話題にしたのが〈一〇〇歳〉でした。当時、一〇〇歳を超えた人は一万五千人ほど(そのうち食事も入浴も一人ででき、自分は健康だとおもっている人は約七割)。
〈一〇〇歳〉とは、老いという過程をクリアした人、長寿というより〈超寿〉という名称がふさわしい、そんな存在にちがいないということでした。そして今日、一〇〇歳を超える人は五万九千人(そのうち、女性が七八%・2014年9月現在)。さらに増えていくでしょう。

いま話題の美術家篠田桃紅女史(1913年生まれ)のメッセージが埋まっている『一〇三歳になってわかったこと』を採りあげてみます。
歳相応という言葉があります。「年甲斐もなく」とか「いい歳をして」とか、何歳でなにをするかが人の生き方の指標になっている。けれど、生涯独り身で家庭をもたなかった著者は答えています。
90歳代まではこまったときどうしたらいいのか、参考にする先人がいた。けれど、一〇〇歳を超えると前例はなくお手本もない。自らに由って生きている時間で、すべて自分で創造していきていくほかない。一〇〇歳はこの世の治外法権」だとあります。その日常世界を訪ねてみました。

1 達観して見ることができるようになった。
 「あれができたのにもうできなくなった、自分というものの限界を知ります。歳をとったから失っていくもの、もう得られないもの、それらを達観してみることができるようになりました」
2 過去を見る目の高さが年々上がってきた。
 「同じ過去が、一〇年前の九〇歳代といまとではずいぶん違ってみえます。自分の見る目の高さが年々上がってきます。いままでこうだと思っていたものが、少し違って見えます。同じことが違うのです。自分の足跡、過去に対してだけではなく、同じ地平を歩いた友人のこと、社会一般、すべてにおいて違うのです」
3 目の高さがかわると昔話が多くなる。
 「若いときはたくさんの未来と夢を見ていました。あそこに行きたい、あれを食べたい、こんな人にあいたい。しかし、長く生きると、自分の目は未来より過去を見ていることに気付きます。年寄りは昔話ばかりするといわれますが、他に話題がないからではなく、自分の見る目の高さが変わるから、自然と昔話が多くなるのだとおもいます」
4 片足はあの世にある感覚。
「自分というものを、自分から離れて別の立場から見ている自分がいます。高いところから自分を俯瞰している感覚です。生きながらにして、片足はあの世にあるように感じます」

一〇〇歳を過ぎて生きるとはどういうことか。自らの意思を超えて、「おのずからなる世界」に入っていく感覚だとあります。「片足はあの世にある」というようだともあります。すると、親鸞の自然のままにという「自然法爾(じねんほうに)」の教えに近いことに気づかされます。
 〈自然といふは、自は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず。……自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。(『末燈鈔』
この世にはおのずからという「自然」の働きがはたらいていて、それはわれわれの計らいではどうにもならないことであり、この世のことは善いことをしたから善い結果が得られるとか、悪いことをしたから悪い結果になるといったようなものではないといいます。親鸞はここで、「はからひ」を超えてはたらく「おのずから」という「自然」のはたらきに、われわれを救いとってくれる阿弥陀仏の働きを見ようとしています。

篠田女史(映画監督篠田正治氏は従弟)は、初めて身内の死に接した五歳のときから次々と姉弟、友人を失った(その経緯には触れられていない)。人は運命というものの前に、いかに弱いものか。若い頃から「身の程をわきまえ、自然に対して謙虚でなくてはならない」「人は傲慢になれる所以はない」と戒めてきたといいます。「いつ死んでもいいと自分に言い聞かせている」けれど、「生きているかぎり人生は未完」と受けとめているといいます。
「いまは、私より先に亡くなった人たちのことを、後世に語っておくことが私の義務かもしれない。また、もし彼らが生きていたらどうであろうと考えるのは、その人への供養なのかもしれない」
このさきに「息を引きとる」ということばを重ねてみると、親鸞にしたがえば仏に救いとられていく正定聚のすがたがみえます。ところで、『臨死のまなざし』や『日本人の死生観』などで知られる立川昭二さんは、息を「引きとる」には、息を「手もとに引き受ける」という意味と、息を「もとに戻す」という意味があること。さらにその先に息を「引き継ぐ」という意味があるといいます(『年をとって初めてわかること』)。
「息を引きとる」とは生と死は断絶ではなく、ものがたられる〈いのちの継承〉という日本人のメンタリティ(心性)の映しことばとして聴くことができます。

『一〇三歳になってわかったこと』もまた、いのち継ぐメッセージのひとつでした。