2015年6月28日日曜日

回生

リハビリ
数年前、ある雑誌から「リハビリ中の人に勇気を与える3冊」というアンケートに応えて挙げた本があります。一つは大島渚(2013年没)の『癒されゆく日々』(NHK出版)。大島さんは1996年2月に脳卒中を発症以来、入院、要療養、通院を通してのリハビリがそのまま日常化したかたちで生活が取り込まれていました。
本人にとってリハビリとはどんなものだったのか。たとえば右手が動かない。「麻痺している」と断定したいほどぴくりもとうごきません。しかし療法士に「これは麻痺ではありません」「それは失調した右手です」と言いきかされて療法を続けました。
つまり、療法士によるリハビリは、失われた機能を回復するというよりは「放置すれば退化してしまう身体機能をそのまま維持していくこと」に重点が置かれていることでした。大島さんは日々のリハビリ表現がそのまま社会復帰へとつながり、その後映画『御法度』を完成させたのでした。

二つ目は同じく脳卒中で死線をさまよった後帰還してきた免疫学者(能作者でもある)多田富雄(19342009)の『寡黙なる巨人』(集英社)。多田さんは2001年に仕事先で倒れ(脳梗塞)、重度の右半身不随、構語障害さらに嚥下障害に陥る。闘病生活については逐次エッセイ(「鈍重なる巨人」「死の中からの生」他)等で発表されました。
意識が戻ったとき、真っ先に死を願った。体は麻痺して寝返りもうてない。声も出ないから苦しさを訴えることもできない。舌が落ち込んで息ができないから、体を45度に傾けて寝ていなければならない。口からはなにも食べられず、体は何本もの管につながれていた。それでも大小便は出る。それをとってもらうのは地獄の苦しみだ。「強制的に生きさせられる者の受苦だ」とあります。
しかし、なんとか死地を脱したとき、「自分の置かれた状態」の受けとめの試練に多田さんはたちむかったのです。リハビリです。
―麻痺した右半身はもう元に戻るはずがない。医師の端くれだからそんなことはわかる。けれど、幸いかけ算も物の名前も覚えている。認識能力に異常はなかった。そうなら少しでも言葉が口にできるように、チューブからではなく口からものを食べることができるようにするべきだ。

はじめはベッドに座ることも、車椅子に乗り移ることもできない。人に抱えられながらリハビリ室に通う。口が利けないから、黙々と従うほかなかった。そんなある日、麻痺していた右足の親指がぴくりと動いた。予期しなかったことで半信半疑で、何度か試しているうちにまた動かなくなった。しかし、この事実は勇気を与えたのです。
「かすかな頼りない動きであったが、はじめての自発運動だったので私は妻と何度も確かめ合って喜びの涙を流しました。自分の中で何かが生まれている感じでした。…希望のあいまいな形が現れてきたような気がしました」(「鈍重なる巨人」)
ぴくりと動いた右足の親指から後遺症の現実を超えるいのちの源を感じ取ったのです。「体は回復しないが、生命は回復している。その生命は新しい人のものです」
「リハビリとは、単なる機能回復訓練ではない。生命力の回復、生きる実感の回復だ」
その後左手だけでパソコンを打ち文筆生活を送ることを可能にしたのでした。

関連して3冊目として多田富雄×鶴見和子の往復書簡『邂逅』(藤原書店・2003)を挙げました。社会学者(歌人でもある)の鶴見和子(1918-2006)さんは脳出血で倒れ運動神経は壊滅状態で左片麻痺の身体とともに11年現役として全うされましたが、その間多田さんと鶴見さんは病前には一度も相まみえることはありませんでした。
書簡の中で鶴見さんは、脳出血で倒れた後の自分の変化を「回生」という言葉にしてみせました。倒れた当初、まだ歩けないときには自分は死んだと思っていた。だが言語能力と認識能力は完全に残っていたので、自分は「半分死んで半分生きている、死者と生者がわたしのなかにともに生きている」そういう思いが続いた。そこに「歩いて回生の一歩をはじめる」リハビリへの展開があったのです。

鶴見さんはリハビリ訓練を当初は「回生の道場」と見て、「回生の花道とせむ冬枯れし田んぼにたてる小さき病院」と詠んでいます。しかし、病院を車椅子で出るわけにはいかない。歩いて出なければ。そんな熱い思いから「回生の花道」としたといいます。鶴見さんは書簡で多田さんに力説している。
1997年は、わたしにとって回生――本当の意味の『回生』元年になりました。そこで、それ以前と以後との違いを考えてみると、人間は倒れてのちにはじまりがある、決してそのままで熄むのではない。それは何かというと、人間にとって『歩く』ということは生きることの基本的な力になる。だから、もしその潜在能力が少しでも残っているならば、どうしても『歩く』ことが生きるために必要になります。わたしは、1995年に倒れたけれど、1997年に歩きはじめて、本当の意味での『回生』が始まったのです」

このように比較してみると、二人はリハビリテーションから独自なかたちで生命の源泉にふれていたことがわかります。
半身の自由と声とを失いながら脳梗塞から生還した多田富雄さんは「体は回復しないが、生命は回復している。その生命は新しい人のものです」というように。
そして脳出血から帰還した鶴見和子さんは、身体障害者として新しい人生を切り開く覚悟を「回生」ということばにして、こんな歌を遺しました。
感受性の貧しかりしを嘆くなり倒れし前の我が身我がこころ

この二人の巨人の肉声を通して、わたしは〈超寿〉ということばを受け取ったようにおもったのです。これは赤ん坊が直立歩行に向かい言葉を手にする(つまり、人間になる)満一歳までのバイタルパワーに匹敵する、生命意思のようなものにちがいありません。リハビリ訓練の何よりの力は、生への限りない意欲を高める〈超寿〉への刺激、揺さぶりにあるのです。さいごに多田さんのメッセージです。

「リハビリは単なる機能回復訓練ではない。心身に障害を負ったものの社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復、全人的復権である。ことばをしゃべる能力も直立二足歩行を回復することも基本的人権に属する」

2015年6月21日日曜日

アルツハイマー


アルツハイマー病の告知
この春、67歳の知人女性から「やっと第2の人生が始まるとおもったのに、認知症になった。アルツハイマー病です」とメールが届きました。認知症患者に同行したついでに検査の受けたというのです。まさかと、本人にも自覚症状はなく、簡易知能評価スケールでも27点(満点30点)。ライターとしての仕事になんの支障もでていない。ごく最近まで「告知」といえば、早期発見早期治療という立場からの「がん告知」をさしていました。

認知症といえばアルツハイマー病。高齢者の知的退行のもっとも多い疾患とされるもので、脳の萎縮と大脳皮質の老人班が特徴で症状が進行するといわれてきました。
この名称がひろく知られるようになったのは先進諸国が高齢社会を迎えた20年ほどのことで、そのエポックメーキングになったのは1994年、アメリカ合衆国元大統領ロナルド・レーガンの国民への次のようなメッセージからでした。
「先日、ある人からわたしはアルツハイマー病にかかっている数百万のアメリカ人の一人である、と告げられた。ナンシー(妻)と私は、私人としてこの事実を受け止めるか、あるいは世間に公表すべきか、決心しなければならなかった。そして私たちは、世間に公表することが重要だと感じた」(2004年6月5日死去)。
『ベン・ハー』でアカデミー賞に輝いた映画スターのチャールトン・ヘストンも「いまアルツハイマー病を患っている。もしあなた方の名前を思いだせなくなったり、同じはなしを繰り返したら、この病気のせいだ。ゆるしてほしい。役者としてこれまで恵まれた人生だった。わたしはまだ、あきらめないし屈伏もしない」と公表したのは2002年でした。

アルツハイマー病「第1症例」
アルツハイマー病とは、その特異症例を公表(1906年)した精神科医アロイス・アルツハイマーの名前がそのままつけられています。けれど、その信憑性はながいあいだ疑われていました。肝心の「第一症例」の記録が見当たらなかったからです。発掘(正確には再発見)されたのはレーガン元大統領の“告知”の翌年(1995年)、フランクフルト大学の病院地下の精神科書庫の奥からでした。
そのカルテは衝撃的な記載から始まっていた。
「あなたのお名前は?」
「アウグステ」。
「姓は?」
「アウグステ」
「あなたのご主人のお名前は?」「アウグステだと思います」
「ご主人ですよ?」「あっそう、主人の…」
19011126日にアルツハイマー自身が記載した第一患者アウグステ・Dの初日のカルテです(1901年といえば、第1回ノーベル物理学賞受賞者にレントゲンがいた)。   さらに3日後の記述もこうだ。
「ご機嫌はいかがですか」
「いつもと一緒です。いったい誰がわたしをここへ連れてきたんですか?」
「ここはどこですか?」
「さしあたって今いったようにお金がないんです。自分でもわからないわ、まったくわからないの、何ていうことなんでしょう、どうすりゃいいの?」
「お名前は?」
「D・アウグステ夫人!」
このような会話のやりとりに出くわすと、介護保険利用の際の要介護度アセスメント(記憶障害、見当織障害等の)と重なってくるほどそっくりです。
カルテの主はアウグステ・D。1850年5月16日生まれの鉄道書記官の妻、51歳。夫への不信から奇妙な行動をとるようになった。知人に対して恐怖心を抱く。家中のありとあらゆるものをどこかに隠し、あとで見つけることができなかった。アルツハイマーはそんな健忘症と病的な嫉妬の裏に特異な病気が潜むと考え、彼女が亡くなるまでの5年間毎日のように診察し詳細に記録し、そして死後に脳を解剖した。
その成果はその年の精神科医学会で「大脳皮質における特異で重篤な疾患の経過について」と題してアルツハイマー自身がスライド等をつかって発表した。会場には若き日のユングらもいたというが、質問もないまま見事に無視された。
この歴史的発表がなぜ注目されなかったのかは20世紀初頭の精神医学界の潮流と深く関係していたのはいうまでもありません。「第一症例」の発見者コンラート・マウラーはアルツハイマーの伝記(『アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡』(保健同人社)のなかでそのあたりも興味深く伝えています。

21世紀の病い
アルツハイマー(18641915)は、ベルリンの大学で精神病に脳病理学をとりいれた講義を聴いて「顕微鏡の精神医学」に関心をもったといいます。当時の精神医学には二つの潮流があり、もっとも力があったのは精神病の原因を心にもとめる精神派でその雄といえばいうまでもなくジクムント・フロイトでした。アルツハイマーはフロイトと並び“現代精神医学の父”と称された身体派の雄クレペリンのもとで精神病の解剖学的基盤の解明に取り組んでいたのです。けれど、脳を顕微鏡で覗いてなにがわかるのか、と学会ではまったく相手にされませんでした。関心がフロイトの精神分析のほうに集中していたのは当然でした。
しかし、フロイトに批判的だった師のクレペリンが、アルツハイマーの論文「大脳皮質の特異な疾患について」をもとに自身の教科書のなかで「臨床的解釈は現時点では不明である」としながらも、アルツハイマー病の名前をつけて分類し歴史上に刻印(1910年)したことです。

1915年、アルツハイマーが51歳で死去した際の弔辞・弔文でもアルツハイマー病にふれられることはなく、わずかに娘婿が「1906年、それまでに知られていない特異な疾患をアルツハイマーは詳細に記載した。大脳皮質に特異物質が沈着し、細繊維が太い束と叢に変化することがもっとも顕著な解剖的特徴である。今日われわれはこの病気をクレペリンにしたがい“アルツハイマー病”と呼んでいる」とふれただけだったのです。
病名として一人歩きしてきたアルツハイマー病の第一例「アウグステ・D」の詳細なカルテがコンラート・マウラーによって病院地下から発見されたのは80年後。そして「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断は誤りがなかった。彼が診断した患者アウグステ・Dは実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた」(1998年、フランクフルター・アルゲマイネ紙)と認知されたのです。

ざっと100年、精神科医アロイス・アルツハイマーは長寿の深淵をひらく病いを21世紀に届けたのです。

2015年5月25日月曜日

逝く力、看取る力



3年前、二人の在宅医のホスピス活動にふれた語らいと講演を一冊にした『病院で死ぬのはもったいない―〈いのち〉を受けとめる新しい町へ』(春秋社 2012)があります。
一人は山崎章郎さん(ケアタウン小平クリニック院長 東京)。「病院は死にゆく人の支えにはならない」と外科医の声を伝えた『病院で死ぬということ』(1990年)は、ひろく読まれ、わが国ホスピス運動の先駆けにもなりました。近年は東京郊外の半径3~5キロにしぼったエリアで医療・看護・介護等から子育てまで、ケアの循環と地域ネットワークが一つになる町づくりがすすめられています。
もう一人は福岡市で外科医から在宅医に転進してキャリア20年、『在宅ホスピス物語』(青海社 2011)の二ノ坂保喜さん(にのさかクリニック院長)。活動は多彩で、バングラディッシュでの医療ボランティア活動をはじめ、重度の障害児の一時預かりの場所として民家を改修した「地域生活センター・小さなたね」の開設など、「人権としてのホスピス」という立場にたって行動している医師でもあります。
本書は多くの読者のこころをとらえましたが、わたしが二人のホスピス医から学んだことは、「人はだれもが逝く力を備えており、また人はだれもが看取る力をもっている」ということでした。

逝く力について
山崎章郎さんはこんな語り口で話してくれました。
70歳の女性患者に、「Aさんはいまのご自分の状態をどんなふうに考えていますか」と聞いたんですね。そのわたしの問いかけに患者さんは言葉が詰まってしまったんです。しばらく沈黙があってそのうちに閉じた瞼から涙がにじみ出てきました。そしてか細い声で「余命いくばくもないと思っています」と応えてくださった。それで「余命いくばくもないと考えているんですね。そう感じているんですね」というと、患者さんは閉眼したままうなずきました。そこで「では、もし余命いくばくもないんだったら、これからどうしたいですか」と聞いた。その方は目を開けて「毎日孫に会いたい」と言ったんですよ。「え、どのようなお孫さんですか」ってわたしが聞いたら急にニコッとして孫の自慢話をはじめて「そういうお孫さんだったら毎日会いたいですね」って。それで、われわれの話を固唾を呑むように聴いていたご家族に「Aさんに、毎日お孫さんに会わせてあげてください」とわたしが言ったら、ご家族はほっとした表情で大きく頷いたんです。〉
山崎さんは、Aさんが死を受けとめようとしている場面に「逝く力」をみたのです。そして、この患者の逝く力を支えるために、お孫さんを引き合いにして、家族の「看取る力」が引き出されたのです。

看取る力について
二ノ坂保喜さんは「看取り」の力が立ち上がる場面をある情景から引き出しています。
〈肝臓がん・肝硬変の女性の方でしたが、吐血したんですね。余命があと1~2週間という方。そうすると家族がわっと集まって(動揺して)、もうこれ以上は無理だ、お母さんが倒れてしまう。だから、入院させましょう、入院させると安心だって(救急車を呼ぼうと)いうんです。入院させると安心って誰が安心ですか。自分たちが安心なんです。もう少し突っ込んで「じゃあ本人にとってはどうですか」と問います。「病院に行っても、病気そのものは治らないので症状は変わらない。でも病院にいったらどうなるかっていうと、患者さんにとっては家族から離されるという孤独を背負わされることになります」〉
二ノ坂さんはそこで、家族にこんな訴えをしてみます。「入院するのは治って帰るために入院するんですね。でもいま入院すると家族から見放されて孤独のなかで死んでいくために入院することになります。吐血などには私たちがちゃんとします。最期まで必ず対処します、いまはお母さんの一大事なのだから、少し無理をしてでも、皆さんおかあさんのそばにいてあげてくれませんか」と〉
ここで家族みんなの看取る力が一つになり、「逝く力」の支えになっていったのです。
この二人の語り口からは、これまで千人を超える人を看取り見送ってきた市井医ならではの、深い洞察とその立ち位置からの配慮が伝わってきます。
あらためて「人は〈いのち〉を受けとめる力をもっている」ということを教えられたのでした。

[お知らせ]3人の会が発足しました。
数年来「ホスピスは定着したのか、これでいいのか?」という問題意識を共有するようになっていた3人(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)が3年前(20121229日)、大阪に集まって語り合った4時間の内容を主にまとめたのが『病院で死ぬのはもったいない』でした。出版後には、日本ホスピス在宅研究会長崎大会、日本死の臨床研究会年次大会(別府)等でも3人で語り合う機会がありました。各地で運動体のような集いができたらと考えて、今年の1月11日、二ノ坂保喜さんの日本医師会赤ひげ大賞受賞記念祝賀会の席上、「3人の会」発足を宣言しました。
3人それぞれの経験や考えを各地で披露し、地域の在宅医・ホスピス運動家と共に語り合い、地域の人たちといのちを受けとめる運動を定着させることができればと考えています。現在、福岡県宗像市(9月)、佐賀県(8月)などから声をかけて頂いています。先ずは直近の6月14日(日)、「大和生と死を考える会」22周年記念講演会のポスターを添付しました。午後の4時間を割いて3人の講演とシンポジウムを予定しています。


2015年5月12日火曜日

せわぁない(世話ぁない)


大河ドラマ「花燃ゆ」を観ながら、ほぼ毎回出くわしたセリフに「せわぁない」があります。とくに吉田松陰の母親である滝が口にします。松陰が脱藩や建白書、密航そして投獄といった破天荒な行動を続けるなかで、韻を押すかのように「せわぁない」ということばが笑みとともに飛び出す。その絶妙の間にはしばしば感服します。
「いいセリフだなあ」とおもいます。人のふるまいと場面がこの一言で和むのです。
「せわぁない」は、「気にかけなくていい、心配はいらない」あるいは「大丈夫、大したことはない」というニュアンスで使われる長州ことば(山口県)になっていますが、実は私が生まれ育った奥出雲(島根県)でも、よく耳にした馴染みのあるものでした。
「せわぁない?」「せわぁないがねー」
弱虫だった子どもの頃、母もまた、わたしの前で何度か口にしたことばだったのです。

「世話」「世話をする」といえば、介護、介護する。面倒をみる。Take care of …。
「世話を焼く」もあり、「世話になる」や「世話が焼ける」に「世話がない」など、私たちは「世話」ことばのなかで暮らしています。
「せわぁない」とは「世話ぁない」。世話をしたり、世話になったりがないこと。けれど、「世話」が閉め出された、かといって、見放さない。手放さないで配慮がなされている様子であり、関わりとして見えてきます。
もし「せわぁない(世話ぁない)」という環境が整えられたら、世話にまつわる規範や約束事を打ち消した新鮮なコミュニティが誕生し、福祉社会が成就したといえるかもしれません。

「ぼけてもいいよ」
「せわぁない(世話ぁない)」に匹敵する環境を介護現場でみつけることは出来ないでしょうか。そのヒントになることばに「ぼけてもいいよ」があります。
福岡市内で早い時期(1991年)に「ぼけても住みなれた町で、普通に暮らしたい」という人たちのケアに取り組んで誕生した「宅老所・よりあい」(代表・下村恵美子)。実はその第2宅老所所長村瀬孝生さんの『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社 2006年)という“名著”に由来します。毎朝10数人の人がやってきて身を寄せ合って一日をすごす一軒の民家ですが、ここには不思議なことに「世話をする」という介護の構えがまったくみえません。訪ねて気付いたのはまさに(ぼけても)せわぁない(世話ぁない)」という解放区にみえたことでした。
そんな環境をつくりだしたエピソードのひとつ、〈湯飲みをキャッチする営み〉という見出しのついた一文をあげてみます。

次郎さんはよく物を投げた。言葉を失いかけていた次郎さんは、「アアアア~ッ」と奇声を上げながら、目についたものを手当たりしだいに投げるのだ。
それぞれが自宅から集い、「おはようございます」とあいさつを交わしながら席につく。のどが渇いていようがいまいがとりあえずお茶をだす。そのお茶の入った湯飲みを次郎さんは投げる。

チョロと湯飲みに口をつけ、すすったか否か、その瞬間に「アアアア~ッ」と声をあげる。そして湯飲みが放たれる。湯飲みから飛び出すお茶は周囲を水浸しにしながら大きな音を立てて座卓の上に落下し、転がる。
のけぞる人。逃げる人。「なんなっ! そげなことをしたらいかん!」と烈火のごとく怒る人。「あ~あ」と消極的な非難の声をあげる人。あたりは騒然と化す。

僕たちは葛藤した。お茶を差しだせば必ずそれを投げることは目に見えている。だからといって次郎さんにはお茶を出さないと結論づけるのはあまりに差別的。第一、このままだと次郎さんが孤立する。
湯飲みを投げないように職員が阻止すると、次郎さんの興奮はさらに加速する。どうしたらよいものか。

ある日のこと。次郎さんはいつものように湯飲みを投げた。職員はその湯飲みを落としてなるものかと、決死のダイビングで上手に受けとめたのだ。すると周囲は「よくやった」と歓喜に包まれた。投げることへの非難から受け取ったことへのよろこびへと、場の雰囲気がとってかわる。
この日を境に、僕たちは阻止するのではなく、うまく受け取ることに専念することにした。投げる人と受け取る人がいることで場は大いに盛り上がった。
その次郎さんも、最近は湯飲みをなげない。すっかり落ち着いてしまった。投げる人がいないので場がちっとも盛り上がらないのだ。

村瀬さんは、このエピソードを通して『呆け』の多くは孤独であること、あるいは孤立していることが原因のひとつではないか、というのです。「よく分からないものを分からぬままに、あえて立ち入ることなく添い続ける。意味のある無しにかかわらず、それを受け入れる余白が社会にあることだ」と。この「余白」こそが、「ぼけてもいいよ」と「せわぁない」という環境を一つにしているようにおもいます。

この4月、新設の特別養護老人ホーム「よりあいの森」(3ユニット・28人)のボスになった村瀬さんは、それぞれのユニットの名前が「ばんざい」「わっしょい」「あっぱれ」に決まったことをうれしそうに話してくれました。命名は最初に入居してきたひとの第一声が「ばんざい」だった、そして「わっしょい」「あっぱれ」と続いたからだといいます。

「せわぁない」という声の主はだれなのかをよく熟知している人の笑顔がそこにありました。

2015年4月22日水曜日

ホームホスピス 共暮らし


日本の風土から生まれたホスピス運動
「ホームホスピスかあさんの家」は10周年を迎え、各地に広がる運動の中で「ホームホスピス」「かあさんの家」という呼称だけが一人歩きをはじめて、高齢者向けのアパートの冠に使用されたり、貧困ビジネスすれすれのものまで登場するようになったのです。そこで全国ホームホスピス推進委員会をつくり、『ホームホスピス「かあさんの家」のつくりかた』の理念を公開し、その活動を「ホームホスピスかあさんの家」と商標登録することでホスピス運動としての性格が鮮明になりました。その理念は、大きく分けると次の5つになっています。

第1 住まい 既存住宅、空き家を活用する。地域住民に馴染みの環境であること。
・以前は診療所があった家を改装したもの(神戸なごみの里・雲雀丘)
・田園地帯で敷地内に納屋がある典型的な農家の家屋(熊本市・われもこう)
・広い敷地に70坪の畑のある古民家(福岡県久留米市・たんがくの家)
第2 暮らし 一軒あたり5,6人の小規模であること。
・ともに暮らす住人同士のつながりができること。
・本人の希望を支え、本人のもてる力に働きかけること。
・家族の意思を尊重すること。
第3 看取り 生活の延長戦上にある自然死の尊重。家族の看取りを支える。
・家族の出入りが自由で、泊まることもできる。
・エンゼルケアを一緒に行う
第4 連携 地域の社会資源を利用し、様々な職種と連携していること。
・ケアプランには、フォーマル、インフォーマルが混在する。
・かかりつけ医と訪問看護サービスが導入されていること。
・家族もチームの一員であり、家族の力を奪わないようにすること。
第5 地域づくり 地域住民との連携、日頃からコミュニケーションをはかる
・地域の「看取り文化」の継承とコミュニティ医の再生をめざす
・実習生や研修生をの受け入れとボランティア活動

ホームホスピスはかたくなに定員5人。5人の入居者にヘルパー5人、日中2人、夜間は1人の24時間交替制で入居者の日々を支えている。また、入居者にはそれぞれ個別のケア・マネージャーがついています。
制度の制約にしばられることなくお年寄りや重篤な病いをもつ人が棲み暮らす小さな「家」であることが念頭におかれています。そこを基点にして医療・看護・福祉が地域のなかで有機的につながり展開していくこと。リーダーの市原美穂さんはそれを「ムーブメント」と呼んでいます。これらを整理すると次のことが確認できるとおもいます。
①「かあさんの家」は看取りに焦点をあてるのではなく、暮らしのなかでいのちを全うする運動であること。
②「かあさんの家のスタッフは同じ死の哲学を共有し、利用者のあるがままの生き様を見守ることに徹していること。
③なによりも「ホームホスピス」「かあさんの家」は施設ではない。暮らしの場であること。
これは血縁をこえて支えあう身寄りになる家の創出でもあるということです。

ホスピス運動といえば、西欧で定着した経緯から日本にどう制度として移植し定着させるかであり、ホスピスケアといえば末期がん患者等への医療施設として、疼痛ケアをはじめ緩和医療の定着として受けとめられてきました。
たしかに近代ホスピスはマザー・テレサの活動の源流とされるアイルランドのマザー・エイケンヘッドの修道会活動(1815年)に端を発して200年になります。その理念は死にゆく人のホームをつくり世話をすることでした(ジュナール・S・ブレイク/細野容子監訳『ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド』春秋社)。そして、セント・クリストファー・ホスピスに代表されるように医療施設化の流れがありました。
けれど、ホスピス運動は西欧の理念を導入することではありません。日本にふさわしい、あるいは日本人の死生観に照らした運動があってしかるべきでした。

あらためて「ホームホスピス・かあさんの家」運動は、私たちの社会が少子高齢化した日本の風土からうまれたホスピス運動だといえます。民家を活用するホームホスピス。これは施設ではありません。市民のホスピス活動として根付く足場が示されているのです。
さらに、もうひとつ指摘しておきたいとおもいます。ホスピス運動は女性の手による人権運動でもあったことです。マザー・エイケンヘッドからマザー・テレサへという、生きることの困難に直面し、尊厳を失った人たちを無条件で受けとめ癒すという大きな流れがあります。そこに、フローレンス・ナイチンゲールの看護に、シシリー・ソンダース、エリザベス・キュブラー・ロスという近代医療の世界で大きく展開してきました。近代ホスピスの歩みには“5人の母”の役割があったのです。
そしてわたしは、市原美穂さんに宮崎の「ホームホスピスかあさんの家」でお会いしたおり「市原さんは日本のホスピスの母ですよ」と口にしたのでした。


ホームホスピス かあさんの家


民家のもつ力
10年ほど前、宮崎市で市原美穂さんが立ち上げた看取りの家、「ホームホスピス・かあさんの家」の仲間が増えてきました。九州に5,関西7,関東2,東北1の計17箇所。さらに予定候補が10カ所と確実に全国に根付きはじめています。
ホームホスピスを立ちあげるためにまず取り組むのは家さがしです。新しく建てる「家」ではなく、以前からその地域で誰かが住んでいた「家」です。ホームホスピスは「民家」を借りるところからスタートしています。

――なぜ、民家でしょうか。市原美穂さんは新著『暮らしの中で逝く』(木星舎)で、民家のもつ包容力について専門家(園田眞理子)のことばを載せています。
「建物って時間を経たものほど鍛えられているのでパワーがあるんですよ。居心地が悪いものはやはり寿命が短い。だて、みんなが手塩にかけて育てて、生き延びてこられたってことはその建物はすごく生命力があることですから。建物にも競争が働いていて、居心地が悪いものはどこかで壊されたりする。時間が経過して、そこに住んでいた人が慈しんだ場所ほどクオリティが高い」
木造の日本家屋がもつ温もり、襖や障子で区切られたほどよいプライバシーを保つ部屋、家のどこにいても人の気配が感じられる空間。ご飯が炊けるにおい、玄関でおしゃべりしている声が聞こえる…、できるなら食器棚や本棚、タンスにテーブルまでそのまま使わせてもらえる「空き民家」を借りるのです。

先ごろ、訪ねた「ホームホスピス・かあさんの家」の仲間である「ホームホスピス・たんがくの家」(福岡県久留米市)も古民家を改修したもので、広い敷地内には70坪の畑もあります。「たんがく」とは、地元の伝統芸能の田楽(でんがく)の方言ですが、あわせて当地では蛙(カエル)の呼び名だともいいます。名称へのこだわりは、地域ケアに対する独自な指針、それに地元への愛着が反映します。「NPO法人たんがく」の理事長樋口千恵子さんのライフワークとして、また在宅医療に関わってきた看護職の集大成として4年前に誕生したのです。

――「ホームホスピス・たんがくの家」はどういう人の不安に応えようとしているのですか。(案内ちらしから)
「家で看たかばってん、腰の曲がったばあちゃんしかおらん。若いもんは働きよるけん看られん」
「がんの末期たい。できるだけ看たかばってん、病状がひどなったら看きらんごとなる。畳の上で逝かせたか」
「認知症のじいちゃんば看よるたい。心臓も悪かけん不安たい」
「どうにか一人で暮らしよる母ばってん、いつ具合が悪くなるか心配たい」
「車いすで退院するたい。息子が『東京においで』と言うてくれるばってん行こごとなか。ばってん、一人じゃ不安たい」
「家内が一生懸命、寝たきりのばあちゃんば看てくれよる。ばってん、もう無理のごたる」
「たんがくの家」はこのような思いをすくい取って、その現実を受けとめる場所になっているのです。
「たんがくの家」は古い障子やふすまをそのまま残して、縁側からは陽が差し込み、窓越しに見える近所の人の暮らし(畑仕事や田のあぜ道に腰を降ろして話し込んでいる様子など)が見え、家の中ではご飯の準備をする音、みそ汁の匂い、こどもの笑い声が聞こえたりして、病棟・病室や施設からは無縁な“自分の家”の日常になっていました。そこでスタッフとともに地元の在宅医や訪問看護師、ヘルパー、ボランティアなど様々な職種の人たちが365日かかわり、24時間支えているのです。
(この項は次回に続きます

2015年4月4日土曜日

みとりびと―いのち継ぐかたち


おくりびと

評判になった映画に『おくりびと』がありました。
「おくりびと」とは葬儀社に勤め、遺体を棺に納める湯灌・納棺の仕事を専従にしている納棺師。湯灌といっても死者を湯浴みさせるわけではなく、アルコールで拭き、白衣を着せ、髪を整え、手を組んで数珠を持たせ、納棺するまでの作業に、遺族が固唾をのんで見守っているシーンでは、「身内でだれか亡くなっても、こんなプロの納棺師にお願いできるなら安心だわ」という声も聞こえていました。
在宅死から病院死へ、そして自宅葬から斎場葬へ。今日の死(いのち)の受容のあり方を象徴させる「おくりびと」の存在が妙に気になりました。胸の内では「死者を送る前に、看取りがあるのでは」とか、「看取り・見送りはひとつだろう」という郷愁のような思いでした。古典の像を描くとすれば、斎藤茂吉の次の歌でしょうか。

 いのちある人あつまりて
 我が母のいのち死行くを見たり死にゆくを

母の危篤を聞いていそぎ夜汽車にゆられ郷里の母の臨終に間に合ったときの情景(処女歌集『赤光』から)です。ここで「看とり」とは「いのちある人」が集って「いのち死にゆく人」の姿をしっかり見届け見送ること、死(いのち)の受けとめ手になることとして活写されています。

みとりびと

作家・野坂昭如は「自らの死を子らに見せることが一番大事な教育である」と語っていました。見送るより看とること、「おくりびと」ではなく「みとりびと」になることが大事なのだと。そこで採りあげたいのが『いのちつぐ「みとりびと」』(農文協 全4巻)。『家族を看取る』という著書もある写真家國森康宏の子ども向けの読む写真集(というよりも絵本写真)。場所は滋賀県琵琶湖周辺の農村集落。じいちゃん、ばあちゃんが「いのち死にゆく人」としてしっかり映し撮られ、「いのちある人」の看取り見送る表情が四季の彩りのなかで、四つの物語として納められている。

「いのち死にゆく人」の前には「いのちつぐ人」として子どもがいること。
たとえば、小学校五年生の『恋(れん)ちゃんはじめての看取り(1巻)』。
九〇歳を過ぎても毎日のように畑仕事をしていたおばあちゃんが、急にからだが弱くなり、一週間ふとんから出られなくなり、そのまま亡くなった。写真は枕元でそっとおばあちゃんの額にてのひらを添える子どもの表情を写し撮っていました。この掌は何を受けとったのだろうか。著者は「あとがき」で、死と向きあった恋ちゃんの「人は死んでしまうと、つめたくなり、二度と生き返りません」と確認しながら「でも、おおばあちゃんは私のなかで生きつづけています」というたしかなことばを引き出していました。

『月になったナミばあちゃん―「旅立ち」はふるさとで わが家で(第2巻)』では、「いのち死にゆく人」が親しい人たちのこころをひとつにあつめる力をもっていることを教えてくれました。寄りそう人だれもがはじめはうろたえ、とまどい、悲しみ、そして「さよなら」「ありがとう」のことばを口のしていき、よろこび泣き笑いしながら、死にゆく人を見守り見送るシーンに子どもの眼差しが加わっていました。

また、『白衣をぬいだドクター花戸―暮らしの場でみんなと輪になって(第3巻)』の主役は看とりの背後に立つ在宅医でした。
写真家ユージン・スミスには、初期を代表するフォト・エッセイ「カントリー・ドクター」とか、ベッドに横たわっている死者の姿を撮った「スペインの村」(1951年)があり、その重厚な写真を感銘深くみた記憶があります。
けれど、ここでは、哀しい情景にかわって医師は「いのち死にゆく人」と「みとりびと」を引き合わせる、いいかえればいのちのバトンを引き継ぐための「たちあいびと」として引き出されていたことでした。そして生―殖―死という〈いのち〉のリズムを継承する証として「生誕」すなわち、いのちの受けとめ手として赤ん坊の貌で写真絵本が結ばれていました。
人の死(いのち)は終わりではなく、はじまりでもあるというわけです。ここから引き継ぐいのちを、河野愛子歌集(「黒羅」)から引いておきます。

子は抱かれみな子は抱かれ子は抱かれ人の子は抱かれていくるもの