2016年1月7日木曜日

愛犬ロッシュの死 2  音楽死生学


ヘイ・ジュード
「ロッシュ、えらい」「ロッシュ、やったね」「ロッシュ、がんばったね」
そんなことばを口にしながらロッシュの最期を看取ったのだが、実はこのとき、わたしの頭にはずっと音楽が聞こえていたようにおもう。かなしかったが、なぜか、うれしくおもったのもその楽曲のせいかもしれない。そんな思いを書き込んでみよう。

ロッシュが亡くなって間もなくしてから口ずさむようになったメロディがある。
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード
ビートルズ。ポール・マッカートニーの楽曲「ヘイ・ジュード」である。ポールのコンサートでは観客との大合唱が定番になっているほどで、わたしも一度東京ドームのコンサート会場で声をはりあげたことがある。最近はYouTubでもライブ版がたのしめる。
この曲にまつわるエピソードは知っている。それは、この曲を作ったポール・マッカートニーが、ジョン・レノンとその妻シンシアの長男ジュリアンのためにつくった曲とされている。両親が離婚して父親から見捨てられる哀しみを抱えているジュリアンを励まそうとしたというものである。けれど、そんなエピソードから口ずさむことはない。
ラーラーラー ラ・ラ・ラ・ラー ラ・ラ・ラ・ラー ヘイ・ジュード 
このリフレインの「切なさ」と「一体感」の共有がたまらない。そうにちがいない。わたしは、ロッシュの「ウオーン」という声を受けとめながら、なぜ、こんなにも全身全霊をかたむけなければいのちを全うできないのかー。そんな思いをかき消すように「ヘイ・ジュード」のあのリフレインがわたしのからだを繰り返し駆けめぐっていたようにおもう。そうだとするとわたしはそのとき、必死になってロッシュと一体になろうとしていたにちがいない。

カノン
傷ついた心を癒し、元気をとりもどしてくれる音楽療法(ミュージック・セラピー)はしられている。だが、この世の最後に、死に際して音楽を求める思いはあるのである。ホスピスを取材するようになって間もない頃の小さな体験をおもいだす。10数年も前のことで、一度書いたことがあるが、思いだして再度ふれてみよう。
ゆったりした、明るいサロンで車椅子の男性患者さんに会釈をしたとき、「いま曲選びをしているところです」とヘッドフォンをつけたまま声をかけられた。聞いて驚いた。自分が亡くなっていくときに、流してほしい曲選びだという。「バック・グラウンド・ミュージックがほしいかな、といったところです」
虚を衝かれた。葬式のときにではない、臨終のときに聴きたい・流してほしい曲選び? そういうこともあるのかと、一瞬返事にとまどった。「候補になった曲はあるんですか」ときくと、頬がこけ精悍な表情の奥に微笑みがのぞいた。手招きされ、病室へ案内されて聴いたのがバロック音楽の3曲だった。「G線上のアリア」、ヘンデルの「アレグロ ジョコーソ」、それにパッヘルベルの「カノン」。
「最後は一つにしぼりたいですけどね。どうおもいますか」と訊ねられてわたしは窮した。そして「じっくり、考えて決められたらどうですか」といってしまった。すると、すこし間があって「わたしにはそんな時間はないみたいですよ」と言われた。わたしは誠実に対応できなかったことにうろたえて「ぼくだったら『カノン』…になるかもしれません」と応えた。「カノン」は正真正銘のやすらぎの音楽である。三つのヴァイオリンとチェロの通奏低音はおそらく心身を癒すだろうから。その人は「そうですか。やっぱり、そうきますか」といい「このこと、妻に相談すると怒るんですよ。あなたの意見をきいてよかったです。でも、もう少し考えてみます」
時間にして20分ほどだったろうか。その人の病状も、名前も年齢も職業もしらない。その後わたしはおもいだしては少し後悔し、同時にまた不思議な時間を共有したことをながいこと、秘め事のように胸にしまっておいたのだった。

さて、わたしが死を迎えることになったとして、どんな楽曲を求めるだろうか。そんな余裕はないにきまっている。あったとしても「ヘイ・ジュード」ではないだろう。「カノン」でもないだろうとおもう。

愛犬ロッシュの死



愛犬ロッシュが亡くなって(享年1411ヶ月)間もなく三月、この間ブログへの書き込みも出来ないまま過ごしました。2016年のスタートはロッシュの尊厳なる死から入りたいとおもいます。

犬家族になること
「犬と暮らしてみない? 飼ってほしいという人がいる。すぐに気に入るとおもう」という長野の犬好き家族からのおもいがけない電話が入ったのは9年前の春先だった。
すぐさま「こういうことは縁だからね」と自分に言い聞かせるように家人に話し、車をとばして即刻引き取った。てっきり和犬だとおもっていた。名前もケンタとか、サチコぐらいに思っていた。ところが名前は異国の名前ロッシュ。鹿児島生まれのドイツ種ミニチュア・シュナウザー。雌犬で5歳と半年、体重5キロ。犬種には疎いわたしにはおじじ顔の、けれどなかなかの愛嬌犬にみえた。モデル犬としてドッグショーにもでたことがあるという。出産歴は一度、その後流産。「これ以上の繁殖はかわいそう。できたら不妊をしてのんびりすごさせたい」というのが手放す理由のようだった。ブリーダーさんいわく、「それなりにしつけはできています。あと10年はつきあえます。かわいがって!」
「はい、かわいがります」と答えながら、わたしは「それなりにしつけはできている」ということばが気になった。しつけとは「シットダウン」とか「ウエイト」とかの言葉に即座に対応できる訓練された犬のことかな、そう思っていた。

ところが、そういうことではないようなのだ。ご対面の席で、おそるおそる「おいで」と声をかけるとわたしの膝に前足を置いた(彼女は左利きだった)。人見知りがない。人を警戒するといった気配もなかった。同時に媚びているようにもみえなかった。人と暮らせる“配慮”を身につけている。
たとえば食事時、テーブルの下でこぼれ飯を期待している様子はあるが、食べ物をよこせという態度はみせない。朝夕2回のドッグフード以外は原則として食べない習慣が身に付いているようなのだ。また、孫たちが「かわいい、かわいい」とやたら抱きつき馬乗りになり、転がしても逃げもせず嫌がりもせず、なすがままに赦すのである。その一方で、声をかけ掌をひろげるとすばやく懐にはいってくる。抱き上げると肩に前足をのせるし、膝の上にのせると猫のようにまるくなっていつまでもいることがある。
テレビに近い直径70センチほどの円形マットが寝所になったが、おもちゃ遊びもせず一日の大半はそこで眠っていた。ロッシュの啼き声を聞いたのは、ある日玄関のチャイムがなったとき。のどの奥から絞り出すような声で来客をしらせた。このとき、家族の一員という自覚ができたのだとおもう。
ロッシュは5歳でやってきたが、わずか一月で犬家族になった。散歩は朝夕の二回。30分から1時間をあてた。朝は近所の小学生、黄色いランドセルの一年生他四人の集団登校に寄りそうコースである。防犯ベルを首からぶら下げた子どもたちはいつからか我が家の玄関先に集合するようになった。そして交替でロッシュのリードを引きながら登校し、校門が見える歩道橋下でみんなからハグされて引き返す。夕方は住宅団地から公園池につながるコンクリート川沿いのコース。三階建ての老人ホームの庭先で、ときどきロッシュを待っているお年寄りがいる。頭をそっとなでるとお年寄りの表情がゆるむのがわかる。そんな一日のルーティンもできあがっていった。夏、雷に怯え震えながら助けをもとめて懐にとびこんでくる。冬の夜中は寒さにわたしのベッドに潜り込んできたこともある。外出の際にはクルマに喜んでよじ登り、電車ではバッグの中でおとなしく納まることもできるのだった。

尊厳なる死
わが家にやってきて9年。定期健診の際に、数本の歯が欠けていることを指摘されてから、ロッシュは老いを一気に加速させた。散歩の距離が少なくなり、歩行もよちよちになった。「どうしたの、ロッシュ」。視力が落ちてきて室内でも記憶を頼りに心許ない歩きかたになり「こっちだよ」と道案内するために耳元で声をかけるようになった。
そんなロッシュにもプライドがあった。おしっこやうんちはわが家ではしないという意志を最後までつらぬいたことである。
やってきた当初は「室内で用を足せるようにしておくこと」が老後対策だと指摘され、準備は怠りなかった。防水加工で床をぬらさないトイレ、お漏らし対策もできていた。ところが、ロッシュはトイレシートに向かう意思ははじめからなかった。留守番のとき、雨の日などにも終日指定した場所にしない、お漏らしの形跡もない。ロッシュは室内でも庭先にもしない。門扉をあけて外にでるまでおしっこやうんちはしない。我慢できるというのである。どうやら、室内で用を足すことははしたないことだとおもっている。
ロッシュはえらい! かくしてロッシュの便器は消えていった。どんな日でも“トイレ散歩”は欠かせなくなった。雨合羽を着せてびしょ濡れになる大雨の日も、台風や大雪のときも、「犬のフンは飼い主が家に持ち帰りましょう」とか「ここは犬のトイレではありません」という立て看板の前をすりぬけてその意思を貫いてきていたのだ。

そんなロッシュの最期(2015.10.16)はおだやかなものではなかったが尊厳あるすがたをわたしたちに遺してくれた。
少量だったが吐血が始まってから亡くなるまでの10数時間、ロッシュはからだを横たえながら全身をはげしく震わせ、これまで聞いたことのない「ウオーン」と遠吠えをくりかえした。わたしたち家族は、そのからだに掌をそえて鎮めるように宥めるように撫で、見守るだけだった。そんなとき、ロッシュは突然頭をあげて立ち上がろうとした。左前足を立てるとからだがくずれ倒れた。そして後ろ足を動かそうとしてつんのめった。
「ロッシュはうんちがしたいんだ!」
わたしはとっさに確信した。ロッシュのお腹に手をまわして抱きかかえた。
「ロッシュ、外に行かなくていい。ここでいいんだ。ここでしていいんだよ」
と叫びながらロッシュのからだを支えた。
すると、ロッシュはその場で即座に脱糞してみせたのだ。
「ロッシュ、えらい」
「ロッシュ、やったね」
「ロッシュ、がんばったね」
それぞれに口にしながらわたしたちはみんな泣きだしていた。かなしかったが、なぜか、うれしかったのだ。
それから明け方5時過ぎに絶命するまで、ロッシュは闘っているようにみえ、わたしたちは「がんばったね、ロッシュ」と呼び続けたのだった。そこにはもうひとつ音楽が聞こえていたのだ。

(「愛犬ロッシュの死」2へつづく)

2015年9月28日月曜日

新刊『いのちを受けとめるかたち』に寄せて


 
 ※先ごろ「いのちを考える、いのちから考えるセミナー」シリーズとして、第1弾の「いのちを受けとめるかたちー身寄りになること」がでました。今回は、セミナー誕生のいきさつにふれて福岡市の在宅医、二ノ坂保喜さんからのメッセージを掲載させていただきました。


○米沢慧さんと最初に出会ったのはいつだったか。 二ノ坂保喜
たぶん、「バイオエシックスと看護を考える会」の席ではなかっただろうか。定かではない。
米沢さんとの出会いの前に、大きな出会いがあった。それは、米沢さんの生涯の師・岡村昭彦との出会いである。私は大学を卒業して、外科医として働きはじめて10年くらい経っていた。北九州市小倉の駅前にあった書店で、岡村昭彦の『ホスピスへの遠い道〈岡村昭彦集6〉』(筑摩書房 1987年)という分厚い本が目に留まった。当時、急性期病院の外科医として日々現場に立っていたが、「ホスピス」という言葉をどこかで意識しはじめていたのだと思う。手にとってすぐに購入した。

岡村昭彦の名前は、『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書 1965年)などで知っていた。ヴェトナム戦争をはじめ世界の紛争と貧困の地に赴き、第一線で写真を撮り続ける報道カメラマンというくらいの認識であった。
内容はまさに「ホスピスへの遠い遠い道」で、世界を巡った詳細なルポルタージュは岡村が自らの探求をあますところなく伝えようとしたもので、読者にとって読みやすいように、わかりやすいように、などという親切心はまるで感じられない文章だった。この本は、「看護教育」(医学書院)に2年間(1983年の3月から1985年4月まで〈途中半年中断〉)にわたって連載され、未完に終わったが、ケアの最前線にある看護師にこそ「ホスピス」の真の意味を伝えたい、そのためには安易に手を抜かないという真摯な思いが読み進むにつれて伝わってきた。
この本の中で多くの本が紹介されていたが、私は岡村の後を追うように手に入る限り購入し、読んだ。岡村昭彦は、私がこの本を手にした1、2年前に56歳で亡くなっていた。これが最晩年の著書であり、彼の最後の情熱が熾火のように「ホスピス」を照らしていた。『ホスピスへの遠い道』は、私自身がそれから歩むことになる遠い道の出発点にあり、今も道標である。
この本の解説を書いたのが米沢慧さんであった。岡村昭彦との出会いが、米沢さんとの出会いへと必然的につながったように思う。

生前の岡村昭彦はだれにも臆せず、常に豪速球を投げ、周囲の状況にあまり斟酌しない人だったような印象である。生前の彼をビデオを通して観ると、インタビュアーへの気遣いを見せながらも、ずばっと言いたいことを言っている。米沢慧さんは、むしろ訥々とものを言う人だ。奥出雲の出身ということもあるのかもしれない。
米沢さんは、思考を丁寧に積み重ね、それを順追って語り、飛躍したり、根拠のない話をしたりはしない。すぐれた思想家がそうであるように、常に、借り物でない自らの思考を深めそれを借り物ではない自分の言葉に紡いでいく。その後ろに、妥協を許さない岡村の叱咤が聞こえてくるようである。

米沢慧さんは「AKIHIKO の会」を継続し、また全国各地でセミナーを開いている。私も米沢さんの著書を読み、話を聴く中で、九州、福岡で彼のセミナーを開き、直接、学ぶ機会を持ちたいと思っていた。自分自身が在宅ホスピスの経験の積み重ねの中で学んだことを、自分の思想として蓄積し同時に同じ志を持つ仲間と、米沢さんを囲む会を持ちたいと思った。「超高齢多死社会」とひとくくりにされる中で、一人ひとりのいのちにどう向き合うのか、認知症という医療では如何ともしがたい現状を在宅医として受けとめていきたいと思った。医師として、医療として、というよりも我々一人ひとりがそこにあるいのちとどう向き合うのか、自分自身の存在も含めて「いのちを受けとめる」とは……といったテーマが浮かび上がってきた。

福岡で「米沢慧 いのちを考える・いのちから考えるセミナー」が実現して6年、24回になる。そこは少人数の参加者が真剣に学ぶ場である。思想家としての米沢さんの言葉は一つの羅針盤だと思う。そして、気づきだと思う。「往きのいのち 還りのいのち」「いのちの深さ」「身寄りになる」「老揺(たゆたい)期」等など深い意味合いを感じる。私は在宅ケア、在宅ホスピスの現場での自分の体験を、米沢さんの言葉に重ね合わせて、自分のものにしていきたい。
年に4回のゼミを重ねてきてようやく、米沢さんの言葉を、ライブで聴ける本が出版される。第一冊目の「身寄り」。この言葉の意味を、ともに深く学び、実践の場に活かしていきたいと思う。(福岡市 にのさかクリニック院長)

※「いのちの受けとめ手」表現について
近著の『いのちを受けとめるかたち―身寄りになること』(木星舎)、及び別掲の共著『市民ホスピスへの道―いのちの受けとめ手になること』(春秋社)の主題は表題にあるように「いのちを受けとめる…」「いのちの受けとめ手」にあります。この概念は芹沢俊介著『家族という意志 ―よるべなき時代を生きる』(岩波新書 2012.4)から、ことに「いのちの存続を支え、保証する直接の担い手をいのちの『受けとめ手』と呼ぼう」(第2章「いのち」から考える)という一節に負っています。謝してここに明示させていただきます。
ちなみに、芹沢氏はその後編著者として上梓された『養育事典』(明石書店 2014.8)で「受けとめと受けとめ手」について次のように定義されています。
〈受けとめは養育の基本である。養育は受けとめから始まる。母子関係(対象関係)における母親(産みの母親)の子どもに対しとるべき基本的な姿勢及び対応を指している。とりわけ最早期においては、子どもの受けとめられ欲求(受けとめられたいという欲求)は待ったなしである。子どものこの待ったなしの受けとめられ欲求に、無条件に受けとめようとする姿勢でもって子どもに自己を差しだす人が受けとめ手である。その目的はいうまでもなく、子どもの安心と安定の環境と、そこに形成される子どもの自足的な存在感覚、すなわち「ある」の形成である。…〉

2015年9月4日金曜日

ナラティブホーム



「さようなら」「さらば」
私たちが親しんで使っている「別れことば」に「さようなら」があります。
ところが、国語辞典でしらべると、サヨウナラ(サラバ)は①元来、接続詞で「それならば」の意(広辞苑)、②語源「左様ならば(それでは)これにてごめん」(明鏡国語辞典)とあります。元来は、先行のことを受けて、後続のことが起こることを示す「左様ならば」「然らば」という意味の接続詞だった。それが別れことばとしていつの間にか独り歩きしていったというわけです。ですから「さようなら」を簡単に「グッドバイ」におきかえることはできないことになります。
ちなみに世界の「別れことば」には、①神のご加護を願うものとして「グッドバイ(Good-bye)」「アデューAdieu」など、②再会を願うものとして「シー・ユー・アゲインSee you again、再見サイチェン」など、そして③「お元気で」と願う「フェアウェルFarewel」「安寧(アンニョン)」などの三タイプに分けられる(竹内整一『やまと言葉で哲学する』春秋社)とありますが、「さようなら(さらば)」はどのタイプにも該当しません。はみ出しています。「さようなら」は、いのちことばかもしれません。

この「さようなら(さようであるならば)」が人生さいごのときに素直に言えたら、そして、その「さようなら」のことば受けて「さようであるならば」と同じように応えられるような力になれれば……。そんな絵図を描きながら高齢者介護や、終末期医療に足を踏みこんでいる医師がいました。チューリップの球根で知られる人口5万人ほどの富山県砺波市の佐藤伸彦さん。「ものがたりの郷」と名付けて、病院でも在宅でもない終末期の居場所を立ちあげています。
「ものがたりの郷」について佐藤医師はこう言い切ります。
――ここでは「ものがたられるいのち」が主役になります。
老いるとは、いままでできていたことが少しずつできなくなることです。病いや障害は重度になってくるとからだが思うようにならなくなってきます。その事態をどれだけきちんと「さようなら(さようであるか、さようであるならば)」といえるのかということが、老いを生きていくうえで大切なことです。「命」には終わりがやってきます。けれど、一人の人間の人生として、ものがたられる「いのち」があることを、いまは是非知ってほしい。ものがたられる「いのち」「さようなら」に私たち医療者も「さようなら(そうであるならば)」と受けとめ支えたい。高齢者医療は敗者処理の医療ではありません。人が、人として人間の最期の生を援助する専門医療です(『ナラティブホームの物語』医学書院)。

※「ものがたりの郷(さと)」は家族も自由に寝泊まりできる病室でもなく施設でもない。ものがたり診療所に隣接した平屋建ての賃貸アパートの15室。洋室9畳にキッチン・バスつきの約25平方メートル(家賃5万円の他介護・医療保険の自己負担と食事代等の目安で月額1318万円相当)。その大きな役割を担うのが佐藤さんが理事長の医療法人社団「ナラティブホーム」(ものがたり診療所・ものがたり訪問看護ステーション・ものがたりホームヘルパーステーション・ものがたり居宅介護支援ステーションの4事業)。スタッフは常勤医2名、非常勤医1名。看護師9名、介護福祉士8名等全26名に診療補助犬一匹。事業室は共同であり情報交換も密に行われ24時間365日対応である。

「カルテ」から「ナラティブシート」へ
「ものがたりの郷」の入居者は重度の認知症の人やがん末期の人にかぎりません。病院で治療の手だてがなく退院をうながされた人、高度医療が必要で介護施設にいられない人、脳梗塞などで寝たきりだが在宅では難しいといった人たちです。そんな人たちには、カルテにかわってナラティブシートが用意されています。患者のナラティブ(ものがたり)が日録として採用されています。
カルテはドイツ語、日本語では診療録。医師法では患者の診察をした際にその経過をのこすことが義務づけられています。簡略化した例をあげてみると、{・喉が痛い、咳が出る。体温380度、咽頭の発赤、扁桃腺の腫大あり。白血球数高値。―扁桃腺炎。―抗生剤投与、安静}です。看護記録でいえば、食事に排泄。食べて出すという人間の基本的な行動の記録がならぶことになります。それではものがたられる「いのち」の記録にならない。そこで患者Aさんの姿はナラティブ(物語り)やスタッフとの会話を日記のように、語り継ぐように忠実に記録されるのです。たとえば、認知症の人とのある日の会話から。
―誕生日。いくつになりましたか。
「わからん」
86歳ですよ。
「ほんまけ。いい年やね。満で88やろ。数えで百や。百まで生きなん!」
佐藤さんは「認知症の人は、その関係性が切れないように必死に自分のアイデンティティにしがみついているようにみえる」といいます。いのちは質だけを問うてはいけないのです。不可避としての「さようなら(そうならなければならないならば)」を前にしても、なお、いのちには深さがあるということです。

取材に伺った日(5月3日)、日当たりの良い部屋で、2年ちかく眠り続けているという80代の女性に会いました。「この部屋はサンクチュアリ(聖域)」と佐藤さんはつぶやき、わたしはその温かいからだに手を添えさせていただきました。


2015年8月19日水曜日

〈100歳〉のメッセージ



10年ほど前、同年の芹沢俊介さんと『老いの手前にたって』という対話本(2002・春秋社)を出した際、老いることへの怯えや要介護者になる不安を率直に語り合ったことを覚えています。そして、老いの潮騒に足をとられるようになったら、もうろくを濾過器として、細かいものは通して重みのあるものだけが残るはずだ―。そんな自然態をぼんやり描いたのでした。
そのなかでもうひとつ話題にしたのが〈一〇〇歳〉でした。当時、一〇〇歳を超えた人は一万五千人ほど(そのうち食事も入浴も一人ででき、自分は健康だとおもっている人は約七割)。
〈一〇〇歳〉とは、老いという過程をクリアした人、長寿というより〈超寿〉という名称がふさわしい、そんな存在にちがいないということでした。そして今日、一〇〇歳を超える人は五万九千人(そのうち、女性が七八%・2014年9月現在)。さらに増えていくでしょう。

いま話題の美術家篠田桃紅女史(1913年生まれ)のメッセージが埋まっている『一〇三歳になってわかったこと』を採りあげてみます。
歳相応という言葉があります。「年甲斐もなく」とか「いい歳をして」とか、何歳でなにをするかが人の生き方の指標になっている。けれど、生涯独り身で家庭をもたなかった著者は答えています。
90歳代まではこまったときどうしたらいいのか、参考にする先人がいた。けれど、一〇〇歳を超えると前例はなくお手本もない。自らに由って生きている時間で、すべて自分で創造していきていくほかない。一〇〇歳はこの世の治外法権」だとあります。その日常世界を訪ねてみました。

1 達観して見ることができるようになった。
 「あれができたのにもうできなくなった、自分というものの限界を知ります。歳をとったから失っていくもの、もう得られないもの、それらを達観してみることができるようになりました」
2 過去を見る目の高さが年々上がってきた。
 「同じ過去が、一〇年前の九〇歳代といまとではずいぶん違ってみえます。自分の見る目の高さが年々上がってきます。いままでこうだと思っていたものが、少し違って見えます。同じことが違うのです。自分の足跡、過去に対してだけではなく、同じ地平を歩いた友人のこと、社会一般、すべてにおいて違うのです」
3 目の高さがかわると昔話が多くなる。
 「若いときはたくさんの未来と夢を見ていました。あそこに行きたい、あれを食べたい、こんな人にあいたい。しかし、長く生きると、自分の目は未来より過去を見ていることに気付きます。年寄りは昔話ばかりするといわれますが、他に話題がないからではなく、自分の見る目の高さが変わるから、自然と昔話が多くなるのだとおもいます」
4 片足はあの世にある感覚。
「自分というものを、自分から離れて別の立場から見ている自分がいます。高いところから自分を俯瞰している感覚です。生きながらにして、片足はあの世にあるように感じます」

一〇〇歳を過ぎて生きるとはどういうことか。自らの意思を超えて、「おのずからなる世界」に入っていく感覚だとあります。「片足はあの世にある」というようだともあります。すると、親鸞の自然のままにという「自然法爾(じねんほうに)」の教えに近いことに気づかされます。
 〈自然といふは、自は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず。……自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。(『末燈鈔』
この世にはおのずからという「自然」の働きがはたらいていて、それはわれわれの計らいではどうにもならないことであり、この世のことは善いことをしたから善い結果が得られるとか、悪いことをしたから悪い結果になるといったようなものではないといいます。親鸞はここで、「はからひ」を超えてはたらく「おのずから」という「自然」のはたらきに、われわれを救いとってくれる阿弥陀仏の働きを見ようとしています。

篠田女史(映画監督篠田正治氏は従弟)は、初めて身内の死に接した五歳のときから次々と姉弟、友人を失った(その経緯には触れられていない)。人は運命というものの前に、いかに弱いものか。若い頃から「身の程をわきまえ、自然に対して謙虚でなくてはならない」「人は傲慢になれる所以はない」と戒めてきたといいます。「いつ死んでもいいと自分に言い聞かせている」けれど、「生きているかぎり人生は未完」と受けとめているといいます。
「いまは、私より先に亡くなった人たちのことを、後世に語っておくことが私の義務かもしれない。また、もし彼らが生きていたらどうであろうと考えるのは、その人への供養なのかもしれない」
このさきに「息を引きとる」ということばを重ねてみると、親鸞にしたがえば仏に救いとられていく正定聚のすがたがみえます。ところで、『臨死のまなざし』や『日本人の死生観』などで知られる立川昭二さんは、息を「引きとる」には、息を「手もとに引き受ける」という意味と、息を「もとに戻す」という意味があること。さらにその先に息を「引き継ぐ」という意味があるといいます(『年をとって初めてわかること』)。
「息を引きとる」とは生と死は断絶ではなく、ものがたられる〈いのちの継承〉という日本人のメンタリティ(心性)の映しことばとして聴くことができます。

『一〇三歳になってわかったこと』もまた、いのち継ぐメッセージのひとつでした。

2015年7月31日金曜日

悼詞(とうし)



《人は死ぬから えらい どの人も 死ぬからえらい。
 わたしは 生きているので
 これまでに 死んだ人たちを たたえる。……。》

7月20日、哲学者鶴見俊輔さんが93歳で亡くなった。1960年代、いわゆる安保世代のわたしにとっては、3年前の吉本隆明さんの死(1924-2012)とあわせて“戦後”という指標の旗と幕が消えたことを確認することになったといえます。そして、その訃報を耳にして、すぐに本棚から探し出したのは、「私は不良少年だった」に始まる鶴見さんの自伝『期待と回想』ではなく、追悼文や弔辞を収めた『悼詞』(SORE 2008年)。上記の詩篇はその冒頭に掲げられていました。
《人は死ぬから えらい どの人も 死ぬからえらい》 このことばを口にして、大事なことを忘れていたという思いでした。人は誰もが死ぬことは知っている。いつか死ぬと思っている。けれど、目の前で死んでいくのはいつも私以外のだれかだということ。このおどろきから「わたしは (まだ)生きているので これまでに 死んだ人たちをたたえる」とつぶやいてみます。
すると、死者を悼むことばのうちに、生(いのち)のすがたかたちが凛として立ち上がってくるのです。

悼詞とは人の死をいたみとむらう詞。『悼詞』に収録された弔辞・追悼文は鶴見さんの交流の広さ深さを示す125人。作家、学者にとどまりません。銀行家の池田成彬(1950年没)からマンガ家の赤塚不二夫(2008年没)まで、ざっと410頁。どのページを開けてもいいのですが、たとえば、
「姉について 鶴見和子」(社会学者 1918-2006)の書き出しです。
死ぬ前に姉は私に言った。
「あなたは一生私を馬鹿にしていたんでしょう」
私は答えなかった。これから死んでゆく人に、いやそんなことはありません、尊敬していましたとおざなりのことを言うことはできない。
私は14歳のころ、東中野のカフェの女性としたしくなり、当時、津田塾の学生だった私の姉に手紙を託してもっていってもらった。私の姉は、私の委託にこたえて、学校帰りに、その手紙をとどけてくれた。
私の姉の介在によって、よい首尾だった。
こういう自分の利益のために、姉を使うことは、私の生涯、とくに、始めの五分の一において、しばしばだった。
その大恩ある人に対して死を前にして、何が言えよう。…(2006年)

ここには、場面の痛切(切実)さがそのまま悼詞になっています。そして、もう一人、岡部伊都子(随筆家 1922-2008)心に残るひとすじの生涯。わたしにとっても忘れがたい人なので、全文を引きます。

自分には病歴だけあって、学歴はない――。この言葉を遺して岡部伊都子さんは85歳の生涯を生きた。
心に残るひとすじの生涯だった。
1960年秋、神戸の「声なき声の会」で会った時から半世紀に近く、長いおつきあいだった。
もっと早く『おむすびの味』という著書を読んでいた。料理について書く人だとおもっていた。その人が、安保条約の強行採決に抗議する市民集会に出て、手を挙げて発言した。意外に思ったのだったが、後に彼女の生きた筋道を知ると、意外ではなくなった。
女学校2年で中退を余儀なくされ、後は1日の大半を寝て、本を読んで暮らした。小康を得て、婚約。その人は沖縄で戦死した。戦後、婚家を出て破産した実家に戻り、母との二人暮らしにはいる。ラジオへの投稿が放送され、それからは定期的に書くようになった。
岡部さんの文章はこのように特別の誕生をもった。敗戦から間もないころは、夏は戸を開け放ち、道行く人の耳にラジオの声が入ってくる時代だった。
「恋はやさし、と申しますが、そうでしょうか。」
道を歩く人の耳に、この書き出しが響くとき、その人は、一日の終わりまで忘れない。
そういう文体を、岡部さんは身につけた。病弱の生涯を、文章一筋に85年生きたのは、このたぐいまれなスタイルに負っている。
料理について、着物について書くこともあった。寺のたたずまいについて、山々の景色についても。
それらにも増して、彼女のこころには、戦争を受け入れることの出来ない婚約者を、そのとき理解することのなかった自分があった。沖縄は彼女の心に帰ってきて、去ることはなかった。戦争が終わって六十余年、彼女の中で燃え続けた炎は、消えることがなかった。
美しい人だった。その文章と面影は心に残っている。(2008年)

ここには、亡くなった人と生きている人の区別がありません。死者生者混ざり合って心がゆききしています。「悼死」の文章に共通項があるとしたら、人の死を契機にして書かれた掌編のにんげん論になっていることでしょう。

そして、もうひとつ。今回鶴見さんが亡くなった直後の『悼詞』では、以前ならほとんど気にもとめなかっただろう「あとがき」のことばが目に飛びこんできました。
「この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、86年にわたって傷つけた人のこと。そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる。 2008年8月18日 鶴見俊輔」

「悼詞」には、ひとを傷つけることなく生きていくことはできないという自戒もまた含まれているということです。合掌。

2015年7月15日水曜日

患者になること


病い(illness)は患者が医師のもとを訪ねるまでのものである。
疾患(disease)は受診のあと、患者が帰途についたときのものである。(作者不詳)

このフレーズは、病院で生まれ、病院(医療施設等)で死ぬ時代、つまり「病院化社会」を患者として生きる、その第一歩が書き込まれています。
患者は自分の病illnessについて物語る(ナラティブ)ために医師のもとに駆け込んでいます。最初にいつごろ心や身体の不調に気づくようになったか、どのような症状がはじまり、どのように進展して、結果として医師の相談しようとおもうにいたったかを説明したいわけです。ところが、医師は患者の病い(illness)の物語りをしっかり聴きとることはめったにありません。医師は平均すると患者の語り(ナラティブ)をたった18秒でさえぎる(平均しても28.6秒しか続かないとも、あるデータ)。
それだけ聴けば十分というのではありません。今日の医療社会はEBM(エビデンス・ベイスト・メディスン)を通して、つまり多岐にわたる検査や医療統計学等「科学的根拠」にしたがって、医師は患者の語る病いillness)を疾患(disease)の物語に移し替えて患者に語りかけることになります。つまり、病名をもらって医師のもとから帰途に向かったときから、血糖値や血圧等を気にする患者の生活に入ることになるわけです。
参考までに、EBM「科学的根拠に基づいた医学」(Evidence-Based Medicine)宣言は1992年アメリカ医師会雑誌に掲載されています。冒頭箇所は、「に基づいた医学は、直観、系統的でない臨床経験、病態生理学的合理付けを、臨床判断の十分な基本的根拠としては重要視しない。そして、臨床研究からの根拠の検証を重要視する。(津田敏秀『医学的根拠とは何か』岩波新書)

21世紀の医療社会。病気になる(患者になる)とは、診断を受けても「医学のことはよくわからないので、先生におまかせします」「先生の一番いいとおもわれる治療法でやってください」といった「おまかせ医療」ではすまなくなってきました。
1980年代半ば、もう30年前ですが長野県の総合病院で「患者が主役」「患者本位の医療」などを掲げて看護師たちといっしょに「入院案内(病院案内ではない)」を作成したことがありますが、その際、参考資料として病院から手渡されたのは「入院心得」でした。当時はこうした表記を異様なことだとおもう患者も医療者もいませんでした。
「患者との人間関係までを含めた医療学」の必要性を説く声(河合隼雄)がでてくるなかで登場したのが「患者学」でした。

『患者革命』の著者中島みちは次のように規定してみせました。
「患者の身体についての情報は基本的に患者自身のものであること。そして医療者は患者に対し、患者が自分の身体で引き受ける医療について理解し納得できるように支える務めがあること」
ここで患者革命! とは患者が医療を革命的に変えることなのか、それとも患者が変わることなのか。著者は「両方です」と言いきっています。患者の意識が変われば医療の現場の患者への対応も変わらずにはいられなくなる。また患者の立場に立って考える人が増えれば医療のシステムを患者中心に変えていくことができるのだというように。
患者学という表現について考えるとすぐ思い出される用語に、インフォームド・コンセント(informed consent)があります。医師会によって「説明と同意」と訳され、ながいあいだ医師が患者に同意を取り付ける手続きになっていました。

重大な病気に直面したとき私たちは医療者の前でどのような患者になればいいのか。
このような「病院化社会」の到来によって引き出されたのが患者学でした。『元気が出る患者学』(2003年)の著者(柳田邦男)は、病気と治療法について正しい知識と情報をもつこと。そのうえで、医師の前でどんな患者であるべきかを「診療の受け方10カ条」として提示しています。そのなかでは、「不安なときはセカンドオピニオンへの協力を求める」「自分の家族事情、仕事、生き方、死生観を伝える」そして「医療にも限界があることを知る」などが目を引きます。ことに「医療にも限界があること」。病気に勝てない時がくる。そのときに問われるのが死生観であり患者としての「生き方」だ。考える患者になってほしい、この一点が医学・医療学にない「患者学」の核心だったということになります。

医療社会はいまや三人に1人ががん患者になるといわれています。さいごに採り上げたい一冊は『がん患者学』(柳原和子・晶文社 2000年)。
柳原さんこそ「患者学」の命名者といえます。著者は、自身の五年生存率20パーセントと告げられた卵巣がんでの闘病体験からがん患者としての人生を考えた人でした。自らの治療のために5年、10年と長期生存をとげている患者を直接訪ね、抗がん剤治療の体験を聴き、栄養学から食生活までの記録を集め、がん専門医には質問を繰り返した600ページの大冊です。死と向き合いつつ「医療社会」を生きる患者の姿が浮き彫りにされています。さらに柳原和子さんは自らのがん再発日記のかたちで、がん患者として生ききった記録を『百万回の永訣』(中央公論社 2005年)として遺しました。過酷な記録を通してもなお、いかにいのちを自己受けとめできるのか、その問いが読後に突きささってきます。
(注)作者不詳。『ナラティブ・ベイスト・メディスン』(金剛出版)より