2020年5月3日日曜日

ステイホーム、その先 ー「緊急事態宣言」によせて  


 ★疫病という名の戦争状態
 アルベール・カミュは『ペスト』(宮崎峰雄訳 新潮文庫)のなかに「この世には戦争とおなじくらいのたくさんのペストがあった。だが、ペストや戦争がやってくるとき、人々はいつも同じように無防備な状態にあった」と記している。
今回の新型コロナウイス報道において西欧諸国のトップはいずれも「戦争」表現と重ねた。
仏国のマクロン大統領は 325日、仏軍が設営した野営病院をマスク姿で視察し、国民向けにウイルスへの挑戦を「戦争」と呼び、治療にあたる医師や看護師らを「最前線にいる人たち」と讃え、416日には外出禁止令を発して、「国民はこの戦争で一つにならなければならない」と述べている。
 独国のメルケル首相は318日、国民向け演説で 感染拡大は 第二次大戦以来の最大の試練とし、旧東ドイツで育った自らの体験を重ね「移動の自由」の尊さを「知っている」としながら、いまは命を救うために禁止令は必要だと「戦争」ということばは避けた。米国のトランプ大統領は、最初から新コロナウイルスを経済戦争の火種として好戦的な発言で押し通した。
 ★いのちを救う野戦病院
そんななかで戦闘態勢を「野戦病院の開設」という表現にこめた英国の態度は際立っていた。
 【ロンドン共同】英政府は4月3日2012年のロンドン五輪で競技施設として使用されたイベント会場内に巨大な「野戦病院」を開設した。新型コロナ感染者が急増する中、病床不足を解消するのが狙い。近代看護の生みの親とも呼ばれる英国の看護師にちなみ「ナイチンゲール病院」と命名した。ベッド数は当初の500床から4000床に。転用にかかった日数は9日。開設の式典には、コロナ感染症から回復したチャールズ皇太子(71歳)がビデオ電話で参加。ナイチンゲールが戦地で多くの病人らに「希望と癒やしをもたらしたように、この場所も人々にとって輝く光となるだろう」とメッセージを送った。
フローレンス・ナイチンゲール(18201910)といえば、185438人の看護婦を率いてクリミア戦争の後方基地のスクタリで傷病兵の看護にあたり〈クリミアの天使〉と呼ばれた。野戦病院は極めて不衛生で、必要な物資はほとんど供給されていなかった。病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことにおどろき、便所掃除から病院のしごとを始めたほどだった。彼女は、戦場で死んだ多くの兵士は戦死したのではなく劣悪な医療・衛生環境のために死んだ、と本国に報告し、清潔な衣類や食器から日用品、タオル・歯ブラシまでを野戦病院にとどけさせた。それだけで半年後にはで死者数が激減したといわれている。
 ★新鮮な空気と陽光
ナイチンゲールといえば名著『看護覚え書き』(1859)で知られているが、この本は看護師が看護を体得する際の考え方を述べたものでも看護教育の手引書でもない。
冒頭から「病気はすべて回復過程にある」として次のように続く。
看護とは 新鮮な空気や陽光、暖かさをや清潔さや静かさを 適正に保ち食事を適切に選び管理すること。すなわち患者にとっての生命力の消耗が最小になるようにして、これら全てを適切に行うことである。(小林章夫・竹内喜訳 うぶすな書房版)
もう一つ、重要な著作として『病院覚え書き』(1863)を添えたい。そこには「病院がそなえているべき第1の条件は病人に害をあたえてはいけない」と述べ、患者の回復を助ける病棟建築として、200床の広さのワンルームを考案し、ベッドごとに天井まで延びた3層の窓が1つある構造で、一番高い窓を常時開放しておけば、病室の空気はいつでも新鮮さを保てる「パビリオン式」設計と呼ばれ、今日の病院病棟設計に大きな影響を与えた。ベッドの高さやベッド間の距離についても理想的な計算値が述べられている。
これら一連の仕事は、クリミア戦争で自ら体験した野戦病院での看護姿勢となにひとつ変わっていない。野戦病院とは、戦場の後方で戦線の傷病兵を収容し、回復させる病院のことだ。新型コロナウイルスと戦わない!で人を救う。むしろウイルスとの共生・共存の道がさぐられている。今回、英国が新コロナウイルス戦略で採った姿勢は、野戦病院の使命をナイチンゲール病院と命名することで際立たせたようにみえる。
 
では、わが国はどんな意思決定をしたのか。安倍首相の「緊急事態宣言」(47日)には主要国が示した「戦争」という表現はなかった。「ロックダウン(都市封鎖)」の指示もなかった。また、“戦後”体制をとって70年、自衛隊の活動を封印して国民へのウイルスに対策と指示は「密閉・密集・密接」を避けること。そして「ステイホーム」という旗を掲げて、防御にはアベノマスク2枚と、10万円給付というパターナリズムであった。
ここで論評はさけたい。ステイホームのその先に暮らしの道筋が見えているわけではない。けれど、人はこんな不安定な宙ぶらりんな状態にあっても「ネガティブ・ケイパビリティ」(回避せずに耐え抜く負の能力)をもっているという(帚木蓬生 精神科医・作家)。いまはステイホーム、マスクをしながら、耐えたいとおもう。(4月29日記す)

2020年2月9日日曜日

「もしものとき」のメッセージ。 ―「人生会議」ポスターから


 昨年の師走を前にした令和元年1130日は「人生会議」の日だった。「人生会議」とは、もしものときのために自分が望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと話し合い、共有する取組のこと。人生100年時代の「(人生最終段階の)意思決定支援」を掲げたACP(advance care planning)運動の一環だったが、勧進元の厚労省が作成した「人生会議」PRポスター「命の危機が迫った時、想いは正しく伝わらない。『人生会議しとこ』」は、公開と同時に患者団体や患者や家族を傷つける内容だったと謝罪して掲載を急ぎ停止した。たしかに街からは消えたがSNSに流れていった。

A)「命の危機が迫った時、想いは正しく伝わらない」(厚労省)
 たしかに。「まてまてまて 僕の人生ここで終わり? 大事なこと何にもつたえてなかったわ」からはじまるメッセージは関西弁。わたしが訊ねたポスターの感想は一様に「キモチ ワリィ」の一言だった。悶え苦しむ末期患者の姿だけが際立っていて、終末期の意思決定支援のメッセージには見えない。芸能タレントを起用した関西の芸能プロダクションの制作で、廃棄したポスターの数は15千枚だったと聞いた。
 けれど、「人生会議」に協賛した公開ポスターは他にも目にすることができた、ここからは私が目にした十数枚から、「人生会議の日」に思いを託した市民メッセージ(声)を書き写し紹介してみたい。
 
B)「お年寄りの生き方に耳を傾けよう」(沖縄県)
 沖縄県からのメッセージは「人生ゆんたく」。元気な高齢者の大笑い。「私達の生き方を聞いてもらおう」という。ちなみに「ゆんたく」とは「おしゃべり」、おはなし。

C)「人生、最後のタバコの火をつけるのは介護職員」(民間介護施設)
 (ベッドで煙草を吸う要介護者の写真をバックに以下のメッセージが添えられてい。)
  タバコの好きな人だった。酸素も七リットルを超えていた。
  お部屋で吸うことは禁止されていたけど、
  最後のタバコに火をつけるのは介護職員。
  家族からは最後の最後まで本人の希望を叶えてくれて、
  ありがとうと感謝の言葉を頂いた。
  じいちゃんの人生会議は見事に幕を閉じた。

D)「言葉はなくとも囲んで話すと思いがみえてくる‥」
 (笑顔の患者の子どもと女医の写真の周りにメッセージが添えられている)
  彼女は「言葉」では何も話さない。彼女のしぐさと表情を、
  彼女のことを大好きな人たちで、一生懸命受止めて、一生懸命考えて、
  ひとつひとつ、丁寧に選んでいく。だから周りが勝手に決めたんじゃない、
  彼女が決めてるんだ、と確認できる。これも「人生会議」のひとつのカタチ。

E)「決めなくてもいいから、いっぱい話をしよう」(民間クリニック)
 (父親の往年のライダー姿をバックに文章が書き込まれている)
 
「どこで死にたいか、病気になった時どうしたいか。そんな話ばかりしなくてもい。
何が好きか、何を大切にしているのか。決めなくてもいいから、いっぱい話をしよう。
47歳で見つかったステージ4の肺がん。根本的な治療は難しい段階だった。病気の苦しみは本人からも自分らしさを奪う。
大切にしていた娘のソフトボールの試合の応援。もう無理かな‥。
あなたを知るみんなと一緒に迷いながら選んで進む。体の調子だけをみていたら、行かないほうがいい。でも、彼らしさを共有したら、行かないのはありえない。
そう思えた。行けるさ、行こう。
家族一緒だった。たくさん話し、迷った先にみんなで出した答え。
4番ピッチャーの娘は大活躍。無失点でのコールド勝ち。ナイスピッチング!
勝利を喜ぶ笑顔と大きな声は病気の重さを少しも感じさせなかった。人はいつどんな時でも、誰かの力になれる。試合の翌日、自宅に戻り息を引き取った。旅立って5年、娘は地元開催の国体で県代表のエースになった。お父さんはきっと言ってくれるとおもう。ナイスピッチングって。
決めなくていいから、いっぱい話をしよう。こんなとき、私は、あの人はどんな選択をするだろう。」
  *
 これらは「人生最終段階の意思や責任」を取り込むつもりだった厚労省の企画をはるかに超えた、市民の真正でかつ正直な願いである。
「人生の最終段階の想いや願い」は、インフォームドコンセント(わたしは説明しました、あなたは説明を聞きました)といった臨床の場における責任や意思確認のことではない。 伝わってくるのは、人生最終段階の「いのち」の深さ、愛おしさであり、無条件で受けとめられる「ことば」にほかならない。これが厚労省のポスターを打ちのめした理由なのだ。

2019年10月15日火曜日

とまどう-「受容 」と「従容 」



 死ぬときぐらい好きにさせてよ
 平成から令和へ-この30年で大きく変わったことといえば、がんの告知が当たり前になったことだ。「画像診断PETCTMRIでは…ステージ2です」、まずはエビデンス(科学的根拠)から始まる。「新しい抗がん剤を試されると生存率はこれぐらいかわります…」「食べられなくなったら、胃ろうにしますか」「呼吸器はつけますか、つけませんか」。「さいごは在宅にしますか、ホスピスですか」

こんなやりとりによって、「人生最終段階の医療」態勢(ACP アドバンス・ケアプランニング)が整えられることになった(「人生会議」「もしバナゲーム」参照)。
 そんな医療を見限って「死ぬときぐらい好きにさせてよ」ということばを遺して亡くなったのが樹木希林さん(2018年915日逝去)だった。そのセリフはこうだった(『樹木希林 120の遺言』)。
 人は必ず死ぬというのに/ 
 長生きを叶える技術ばかり進化して/
 なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。/ 
 死を疎むこともなく、死を焦れることもなく。/
 ひとつひとつの欲を手放して、/
 身じまいをしていきたいとおもうのです。/
 人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。             
希林さんが「全身がん」だったとはいえ、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」とは、自死を願ったことばでも、自暴自棄から発したものでもなかった。

 死の臨床は感情労働である
 鳥取市内で有床診療所「野の花診療所」のホスピス医・徳永進さんの近著『「いのち」の現場でとまどう』(高草木光一編・岩波書店)からも、同じような訴えが聞こえた。
 その一つは「死の臨床(終末期)」が行政用語として「人生最終段階の医療」ということばに整えられたことにある。徳永医師は「臨床の定置網化」という表現で批判されていることだった。一言でいえば、どんなに医学が進んでも人の生と死を操作できるわけではない。「いのちの臨床は海だ」、それも「汽水域」だという。
 「汽水域」というのは海水と水が混ざり合う領域のこと。穏やかな光が届いているかとおもうと、冷たい風に波のうねりが加わり、高くなったり、水がにごったり。そこは医療の役割を担った資格者や専門家が取り囲んでも乗り切れる海ではないという。医療・看護・介護といえば、肉体労働だとも精神労働だとも言い難いところがある。そこでは、見えないが無心の「感情労働」が大きな力になるのだという。
 患者さんが亡くなったときに「やり通したね、頑張ったね」と医療者と患者さん家族が抱き合うことだってある。「医師と患者という関係をこえて、生身の人間を相手にした喜び、それが感情労働が力なんです。私は『第二感情労働』と呼んでいます」と。(ちなみに、「第一感情労働」とは、優しいふりをする人工的優しさ。さらに「患者さま」を口にする病院はインチキ、だという)

 「受容(じゅよう)」と「従容(しょうよう」
 それではもう一つ。人は人生の最終段階でどのような死を迎えるのか。
 数千人の人を看取ってきたホスピス医には死にゆく人の姿はどう映っているのか。「死を受容する」という表現が一般化しているが、徳永医師はそう看做してはいない。「受容」ではなく、むしろ「従容」としての死があるという。
「受容」と「従容」はどう違うのだろうか。「(死の)受容」という言葉はホスピス用語として知られている。1970年代にエリザベス・キュブラー・ロスの「死とその過程」五段階説で衝撃的に登場した。がん告知に始まり、否認、怒り、取引、抑うつ、そして最後が「受容」となる。外来の思想ながら日本の医療界でも「受容」は終末期の聖なるいのちの姿としてホスピス用語として定着してきた。
「彼は死を受容した」とは、理性で手繰れる言葉である。それだけに強制語になりやすかったのはたしかだった。
 これに対して「従容」とは「動じることなく、ゆったりとしているさま」であり、「従容として死に就く」というフレーズはわが風土に馴染んでいた。人生の最終段階には死に抗うことはなく、また積極的な「受容」のかたちでもない、自然死に通じている姿である。樹木希林さんの死への道標も「従容」だったのであろうか。

 徳永医師自らがモデルとなった新劇舞台「野の花ものがたり」を観たことがある。その関連インタビュー(『民藝の仲間』399号)のなかでこう語っている。
「(たくさんの人を看取ってきた感想を聞かれて)不思議なことに、みんな死んでいかれる実力をもっておられる。若くても、赤ちゃんも、青年も、99歳のおばあちゃんでも。おとついまでは目でしゃべられていてもふっと今日は死を遂げられる。 …人間の本質的なものとして、自分の死は多くの人に見られたくないと思っている」

 

2019年7月11日木曜日

「いのち」の位相をひもとく

 ─病院医療から地域包括ケアへ

 少子高齢化社会の真っ只中で元号が「平成」から「令和」に代わった。この間、わが国の医療水準・介護水準・栄養水準・衛生水準等どれをとっても飛躍的に高くなったことだけは疑えないだろう。
 では、「いのち」の位相はどう変化したのだろうか。
 私が引き出した視点は長寿社会の分岐点となる介護保険法の施行(2000年)である。ここから「病院の世紀から地域包括ケアへ」という汽水域に入ったのではないか。そこから、「いのち」の位相を繙いておく。

 ▶いのちの社会学
 ①『病院の世紀の理論』 猪飼周平 有斐閣(2010
 20世紀の医療は治療医学として病院を中核として診療所との二元的な医療システムで繁栄してきた。「3時間待って3分間医療」と揶揄される一方で「病院死」は1976年に「在宅死」を抜いて「病院で生まれ病院で死ぬ」社会が定着し、そのまま「予防・治療・福祉」を包括した地域ケアに向かったとされる。他に『日本の医療 制度と医療』島崎謙治・東大出版会(2011

 ②『ケアの社会学 ─当事者主権の福祉社会学へ』 上野千鶴子 太田出版(2011
 急所は「ケアをすること、ケアをされること」にふれた4つの権利(ケアする権利、ケアされる権利、ケアを強制されない権利、(不適切な)ケアされることを強制されない権利)。「よいケア」とはケアされる者とケアをする者双方の満足を含まなければいけない。また、介護保険制度は、ケアワークが「不払い労働から支払い労働になった」ことを画期的な成果の一つとし、さらに次世代福祉社会の構想にもふれている。
 関連しては大熊由紀子『物語 介護保険(上下)(岩波書店・2011)がある。因みに「介護」が国語辞典に登場するのは昭和53年(「広辞苑」)である。

 ③『ナラティブ・ベイスト・メディスン 編集 T・グリーンハル&B・ハーウィ ッツ 斎藤清二他訳 金剛出版(2001
 今日の医学は、エビデンス・ベイスト・メディスン(科学的根拠に基づいた医療)によって大きな成果をあげてきた。けれど、人はそれぞれ自分の「ナラティブ(物語り」を生きており、「病気」もまた、その人の物語の一部であること。そこに注目したもう一つの医療が「ナラティブ・ベイスト・メディスン」
 たとえば、治療が不可能な場合や高齢者のケアには、その人がどのような「物語」を生きようとするのか。患者は自分の病について物語るために医師のもとにやってくる。それに応え援助する「対話」が還りの医療や福祉介護に大きな道をひらいていったのである。

 ▶いのちの場所
 HUMANITUDE(ユマニチュード)』イヴ・ジネスト&マレスコッテ 本田美奈子監修 辻谷真一郎訳 トライアリスト東京(2014
 「ユマニチュード」とはフランス語で「人間らしさ」を意味する。本書は体育学を専攻した二人のフランス人による、認知症の人や高齢者など、ケアを必要とする人に向けたコミュニケーションの哲学であり、その技法を指している。具体的には「見る」「話す」「触れる」「立つ」という人間の特性に働きかけることでケアを受ける人に「自分が人間であること」「大切な存在であること」を伝える。わが国でも支持され広まったケアの技法の第一は「あなたに会いに来た」ことを示すことから始まる。その他、同著者による『「ユマニチュード」という革命』 誠文堂新光社(2016)がある。

 ⑤『「在宅ホスピス」という仕組み』 山崎章郎 新潮選書(2018
 平成2年(1990)、一般病院での悲惨な終末期医療の現状を訴え、ベストセラーとなった『病院で死ぬということ』(主婦の友社)から30年。ホスピス運動の旗を振り続けてきた著者の到達点。落ち着いた居場所は在宅診療専門診療所。年間100万人の介護者と150万人の病死者が日常となるという「2025年問題」を前にした、尊厳ある死を迎えるためのテキストといえる。
 関連して、都道府県別の老衰死率と在宅死率等の分析から捉えた『地域医療と暮らしのゆくえ』高山義浩 医学書院 2016)。さらに、地域共同体が崩れていく中で「看取り」の文化を継承する民家再生活動を立ち上げた女性たちの『ホームホスピス「かあさんの家」のつくり方』市原美穂 木星舎 2011)をあげておきたい。
 ※
 これらを「ひもとく」際に下支えしてくれた文献をここで補っておこう。『いのちとは何か 幸福ゲノム・病』本庶佑 岩波書店(2009)。『養育事典』芹沢俊介、山口康弘他編 明石書店(2014)。『中動態の世界』國分功一郎 医学書院(2017)。『バイオエシックス その継承と発展』丸山マサ美編 川島書店(2018)。そして『サピエンス全史』(上下)ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳 河出書房新社(2016)


2019年4月3日水曜日

「もしバナゲーム」ー“人生会議”(そのⅡ)



「終活」ということばは平成生まれ(2012年)の新語・流行語だ。人生さいごを迎える際の準備や始末を指す。一般的には葬儀や墓、遺産相続などが取り上げられることが多い。けれど、人生の最期にはもう一つ「いのちの始末」が先行している。終末期医療に介護など切実である。さらに尊厳死とか孤独死に平穏死といったことばも目につくようになった。一言でいえば、長生きする時代は死が見えるようにもなったことだ。そして医師はエビデンス(科学的根拠)から「そう遠くない日に…」とか「後1年です」と断言するかもしれない。そのとき、私たちはどう受け止め向き合うことができるだろうか。
ところが、そんな「もしものための話し合い」を想定した「もしバナゲーム」というカード遊びが巷に拡がっている。そこで遅ればせながら、ある街のデイサービス・カフェにでかけて、リクリエーション・ワークに参加してみた。その感想が以下である。

”人生会議”のゲーム化
カードは1セット36枚。そのうちの35枚には重い病気や、死が近づいたときの意思や願い事が書かれている。「祈る」の一言ですむかもしれないが、多くは友人や家族、さらには医師への訴えがゲームカードになっている。
「家で最期を迎える」「家族の負担にならない」だったり、「呼吸が苦しくない」とか「だれかの役に立つ」、「機械につながれていない」など。また、「自分が何を望むのか家族と確認することで口論を避ける」のカードもある。つまり系統だった言葉が用意されているのでもない。残りの1枚は「ワイルド・カード」で、独自の希望があるときに使う(例・「さいごは好きな楽曲を聴きたい」)。
一人遊びなら36枚のカードから、〈①私にとって、とても重要 ②私にとって、ある程度重要 ③私にとって、重要でない〉の3つに振り分けてみるといい。これまでは考えてもいなかった言葉が目に止まり、おもわず自身の死生観が見えてくるかもしれない。
私が加わった4人一組のレクリエーションルールをあげてみよう。
①各プレイヤーに5枚ずつカードを配り(計20枚)、次に場に5枚のカードを表向きに置く。残りのカードは中央に積む。
②プレイヤーは自分の順番が回ってきたら手札の中から不要なカードを一枚、場に置かれた札と交換する。その繰り返しで積み札がなくなったらゲーム終了。
③各人は手元にある5枚のカードから特に大事だとおもうカードを3枚選ぶ。選んだカードを開示して、みんなに説明する。
すると、「祈る」「自分の人生を振り返る」「不安がない」というカードを見せながら、もう1枚「誰かの役に立つ」のカードも捨てがたいと口にした男性がいた。また、「あらかじめ葬儀の準備をしておく」「お金の問題を整理しておく」の2枚を手にして、これで安心して逝くことができます、と微笑んだのは御婦人だった。もちろん、ここで第三者の批判があってはならない。
この場にもし、医師や看護師や介護関係者が参加していれば、どうなるだろうか。厚労省が昨年暮に「(終末期の)患者の意思決定支援」会議の愛称を「人生会議」と命名したACP(Advance Care Planning)の集う場面と重なっている(“人生会議”そのⅠ 参照)。つまり、「もしバナゲーム」は「人生会議」をそのまま遊戯化したものだともいえそうである。

終末期のゲームあそび
人生の最後の”願いや訴え”をことばカードにして遊戯化してしまう。
この力技はどこから引き出されるのだろうか。そんな問い方には、名著ホモ・ルーデンス(遊ぶひと)』ヨハン・ホイジンガ 1938年)を重ねてみることができる。そこには「遊び」こそホモ・サピエンス(賢いひと)である所以だ、人間と文化の本源的な要素だと述べられている。ちなみにホイジンガは遊戯という概念について、日本語の「遊び(名詞)」と「遊ぶ(動詞)」から、「緊張のゆるみ、娯楽、時間つぶし、気晴らし、物見遊山、賭け事、無為安逸、何かを演ずる、模倣する…」等、多彩でかつ深い「遊び」文化に言及(第2章)しているほどである。
また、学びは遊びから、ということばもある。スクール(学校)の始まりはスコーレ(遊び)からきている。あらためて “いのちことば”を集めてなった「もしバナゲーム」はホモ・ルーデンス(遊ぶひと)の強かさを示しているといっていいかもしれない。

2019年1月11日金曜日

”人生会議"  ー制度化された終末期ケアをめぐって



 《ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」に決定しましたー 人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合う取り組み、「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」について、愛称を「人生会議」に決定しましたのでお知らせします。》
      ☆
 上記は師走を前にした平成301130日(金)、厚労省のホームページ(照会先・医政局地域計画課)の掲示板である。
この見出しを読んでみて即座に理解できた人はどれだけいただろうか。ここでACP(advance care planning)とは、平成30年度診療報酬改定に際して、看取り加算の要件となった「(終末期の)患者の意思決定支援」に基づく「事前ケア計画」会議のこと。その愛称を公募した結果、千件を超える応募数から「人生会議」としたという報告だった。
「人生の最終段階の医療」とは、病院の延命治療に限らない在宅医療や介護の現場等での死を迎える時期をさしている。また、悪性腫瘍、心不全・呼吸不全等の時期や、認知症さらにはフレイル(健常から要介護へ移行する段階)でも終末期判断はある。医師が一年以内に亡くなるかもしれないと判断できそうならACP(人生会議)は奨励されるという。その際の主題になるのは、たとえば、
①人生最後を過ごしたい場所は?(自宅、病院、介護施設、その他)。
②自分で食べることができなくなり、回復もできないと判断された時の栄養手段は?(経鼻チューブ栄養、中心静脈栄養、胃ろう…)、
③医師が回復不能と判断した時に、してほしくないこと?(心肺蘇生、人工呼吸器、気管切開…)。さらに、④患者の意思確認が不可能な場合、誰に?(家族、代理人)等。
こんな重たいことを確かめ聞き出す会合を「人生会議」にしようというのだ。その会議には患者・家族を真ん中に主治医、看護師、ケアマネージャー、介護福祉士など多職種の医療ケアチームが取り囲んでいる「地域包括ケア」の構図と重なってみえる。
ここで意思決定のキーワードを思い浮かべると、けっして簡単ではない。家族との関係性、地域性、文化などがその人の価値観や意思決定に関わるからだ。話し合いは繰り返し行われることや、本人の希望が変わってもよいことも前提になる。それだけに戒めも必要であろう。心の準備ができていない人に決めることを要求したり、事前指示書の作成を目的にしてしまったり。
主役はあくまでも患者本人。患者の意思や心の揺れを見逃さないで、繰り返し話し合うことが求められる。
関連して厚労省は、1130日(いい看取り・看取られ)を「人生会議の日」「人生の最終段階における医療・ケアについて考える日」と命名している。私達は今日、人生最後の死に方まで医療の手を借りないと生涯を全うすることができないということだろうか。
     ☆
ここで、在宅医の鐘ヶ江寿美子さん(佐賀県小城市)から聴いた“3つの死”を引き合いにしてみよう。
末期がんのOさん(78歳)との在宅診療初日のこと。Oさんは「私はこれまで、三度死んだんです」と語りだした。1つは40歳時の交通事故による左下肢切断(それに伴う職業の大転換)。2つは76歳時に余命1~2年とされた前立腺がん(ステージⅣ)。3つ目はその直後のレビー小体型認知症(幻視・幻聴)。この「三つの死」は当初は妻が聞き役だった。今度は医師が聞き手になった。そして2年後、妻に面倒かけたくないと自ら病院に入院し亡くなったという。「三つの死」はたしかに生きてきた徴、「生きてきてよかった」というOさんのメッセージだったのではないか、それが鐘ヶ江医師の感想だった。
「人生会議」とは、そんな聞き手、受けとめ手になる人によって、いのちを伴奏するケアのかたち」が整うことではないか。わたしたちはそれを「ファミリー・トライアングル」と呼んでいる。OさんにはB(家族)とC(医師)という陣形(三角形)ができている。声をかけ(コーチング)、目で合図する(アイ・コンタクト)と、「共にいる」ことに根ざした共感が支えになっている。三人目、三番目の役割が支えになるはずである。関連して、作家の柳田邦男さんには「二・五人称」という表現がある。一人称は私(患者)、二人称は家族や恋人、そして三人目の医師や看護師や介護の専門家は、患者や家族に寄りそっていく「二・五人称」の視線が大事だと。

2018年10月13日土曜日

看護という道標 -漱石の時代の看護(2)


●制度としての看護・介護
今年(2018年)は明治・大正・昭和・平成期を経て“明治150年”にあたる。この間、平均寿命は男女とも80歳を超え、100歳以上の長寿者は6万人を超えている。明治33(1900)年は男女とも44歳、昭和三〇(1955)年は男63歳・女68歳、そして平成三〇(2018)年は男81歳・女87歳(資料・厚生統計協会)。生涯余命の平均は40歳から80歳と2倍に、「人生40」から「人生80」になった。このライフサイクルに後れをとりながらも病院化社会(20世紀)、そして「介護社会」(21世紀)をむかえたということだろう。
 それだけに今日の医療は、病の治癒や健康だけを対象にしているわけではない。脳死・臓器移植医療から生殖医療、再生医療等の分野まで、生命操作が自在になって生と死の境界を押しひろげるまでになってきている。
 さらに、医療の高度化、病院化システムによって、臨床の場でも看護という職種は多様化、高度化・専門分化が進み、日本看護協会では「認定看護師」(救急看護、認知症看護、乳がん看護など21分野)や「専門看護師」(がん看護、家族支援、在宅看護など13分野)を積極的に奨励するなど、長寿・医療社会に欠かせない役職を身につけようとしている。
 そして介護保険制度は、サービスが始まった2000年度は介護認定者は156万人だったが、現在は600万人を超えている。認定を受けた人の8割は自宅、あるいは「自宅ではない在宅」(サービス付き高齢者向け住宅など)で利用するが、介護従業者はケアマネージャー(介護支援専門員)やホームヘルパー(訪問介護員)をはじめ、医師・看護師、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士、管理栄養士・調理員等、さらにデイサービスや介護施設で働く介護職員など180万人以上の従業者(19種類あるという)に支えられている。
 
道標としての看護・介護
そうした専門資格者に支えられた今日の社会にあって、「漱石の時代の介抱・看病・看護」(『看護師のための明治文学』 ※表紙画像をクリック)はどう見えるのだろうか。
 明治といえば西欧医学の導入(医制)は明治7年、看護婦学校も明治19年、派出看護婦が定着したのも明治30年代になってから。人生50年の時代、正岡子規は35歳、石川啄木は27歳、夏目漱石は49歳という生涯だったが、それぞれ看護への思い入れは強かった。
 わが国では早い時期にレントゲン体験をした一人の石川啄木は、これも導入されて間もない聴診器を胸にあてられ、「思うこと盗みきかるる如くにて つと胸を引きぬ  聴診器より」と不安がりながらも「看護婦が徹夜するまで わが病い わるくなれとも密かに願える」と、入院中に看護婦への甘美なおもいを歌にしている。
 正岡子規は「看護婦として病院で修業することは医師の助手なること」で介抱とは違う、「病人を介抱するというのは病人を慰めること」だと訴えている。
 夏目漱石は、看護婦が「50グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌を混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた際。余は雀の子か烏の子のような心持ちがした」とい、「それは(看護という)仕事に溶け込んでいる好意である」とさえ記している。
 ☆
 これら、明治の文豪が身をもって訴えていた事柄は今日の専門性と技術向上に向かう医療・看護からは置き去りにされ無視されることばになっているのだろうか。求めていたのは、「(患者の)いのちの物語に寄りそってほしい」という感情であろう。
「いのちの物語」とは「生・老・病・死」といういのちのできごと。ここで生はいのち、老いもいのち、病もいのち、死もいのち。そんないのちの物語に手をさしのべ寄りそうことが「看護の本源」。そう問いかけていたようにみえる。
 さらに補足すれば、「看護」という概念は抱擁・介抱、看病・介護、看取りをとりこんだ温かい「いのちことば」なのだ。

2018年10月7日日曜日

さいごまで「自分らしく」あるために


 厚生労働省の人口動態統計から「死因別死亡率の推移」を追いかけていくとすぐ分かることがある。出生率は減少し年間100万人を割ろうという気配に対して死亡者は年間150万人に近づいている。死因も悪性新生物(がん)、心疾患、脳血管疾患に加えて、近年は肺炎と老衰が順位をあげてきている。まさに長寿社会、高齢者の増大に見合った傾向である。
 死亡診断書は、いつ・どこで・どんな理由で死亡したかが明示されるが、死亡原因に基づき死因の種類は次のように12番まで並んでいる。
1、病死及び自然死 2、交通事故 3、転倒・転落 4、溺水 5、煙・火災及び火焔による傷害 6、窒息 7中毒 8、その他の外因死 9,自殺 10、他殺 11、その他及び不詳の外因 12、不詳の死。
ほとんどが病死及び自然死。とはいえ死因は病気とはかぎらない。蜂に刺されて死ぬこともあれば、心疾患の患者が階段から足を踏み外して死ぬこともある。とにかく医師はこのどれかに〇印をつける(認定する)。死亡診断書の作成(出生証明書も)は“死亡診断書士”とでも呼ぶべき医師の特権事項なのである。たとえば、山の遭難事故等で「心肺停止状態で発見」という報道は医師による死亡認定以前の状態ということになる。葬儀・埋葬や戸籍抹消登記には不可欠の書式である。それだけに厚労省が発行している「死亡診断書記入マニュアル」は三十数ページと細かい指示も多い(ホームページで誰でも閲覧できる)。ことに死亡の原因欄には老衰や、終末期状態としての心不全、呼吸不全等はできるだけ記載しないようにと注意書きも細かい。

 老衰死、病院死、在宅死
 昨年、亡くなった日野原重明さんは、入院先の聖路加国際病院から自宅に帰り、経管栄養や点滴も断り静かに亡くなった(105歳)。見事な自然死。そして死因欄には呼吸不全と記載されていた。また、先頃亡くなった女優の朝丘雪路(82歳)さんの死因はアルツハイマー病認知症、とあった。著名人の死亡記事には死因に関心があつまるが、『「平穏死」のすすめ』の著者でもある特別養護老人ホームの常勤配置医師石飛幸三さんは「高齢者の死は大半が寿命であり老衰であり、病死とはいいがたい」と指摘している。「老衰」の記載を肯定している。
 新著の『さいごまで「自分らしく」あるために』(春秋社)に収録された在宅ケア研究会の全国大会のシンポジウムで二ノ坂保喜医師が「死亡診断書の記載」にふれて、「老衰とはできるだけ書くな、とあるが、近年は在宅や施設で診た患者さんの中では明らかに老衰だといえる人たちが増えてきています。その体にはたしかにがんもあるが、がんで死ぬんじゃなくて老衰だと思うときは、僕は堂々と『老衰』と書こうと決めています」と発言している。
 また、それに呼応してホスピス医の山崎章郎さんは「病院での死というのは、専門医によって管理された病死ということになるが、本人が希望されて家で亡くなる在宅死は家族によって支えられ、人生を生きぬいた物語として、老衰死は日本人には納得のいく“息をひきとる”という自然な死に方だ」という。

 「老衰死」ができる地域の可能性
 在宅医の高山義浩さんは『地域医療と暮らしのゆくえ』(医学書院)で、高齢者が自分らしく暮らせるように支えるのが「地域包括ケアシステム」だとすれば、老衰死ができる地域づくりと重なると指摘している。
 高山医師は都道府県別の老衰死率と在宅死率を取りあげているが興味深い着想である。ここで在宅死はいわゆる自宅死を指してはいない。高齢者が日常生活をしている場を「在宅」と呼んでいる。各地で定着してきたグループホーム、サービス付き高齢者住宅など、食事を共にする場を含めて「在宅」と見なしている(政府の指針も同じ)。そこから「在宅医療」をとらえなおす指標を探し出している。その際の医療の役割は次の四つだという。
 第1は療養支援。患者や家族の生活を支える観点からの多職種協働による医療の提供。
 第2は退院支援。病気や障害をもって退院する患者が自分の人生をどのように歩むかを選択し、適切な医療やケアを受けながら生活するための支援。
 第3は急変時対応。患者の病状が急変したときの緊急往診体制および入院病床の確保。
 第4は看取り。住み慣れた自宅や施設など、患者と家族が望む環境での人生の最終段階における医療の提供。
 これらの機能を医療がはたせば、たしかに在宅死(つまり老衰死ができる)を支える輪郭は見えるだろう。けれど、さいごに私たちが試されるのは「いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死行くを」(斎藤茂吉『赤光』)という場を描けるかどうかにかかわっている。

2018年4月10日火曜日

介抱と看病 ~漱石の時代の看護(1)



夏目漱石没後100年(平成28年)と、生誕150年(平成29年)を記念した「漱石と子規-友情の足跡」展を新築の漱石山房記念館(都内新宿区早稲田南町)でみる機会があった。
夏目漱石と正岡子規は大政奉還の年(慶応3年 1867年)生まれ。さしずめ明治一五〇年ともかさなる。東京生まれの漱石は若い頃は煉瓦造りの西洋建築に魅せられ建築家を志し、四国松山出身の子規は当時盛んだった自由民権運動の影響を受け政治家を志して上京した。そんな二人が出会い、互いに切磋琢磨しながら近代文学に大きな足跡を残すことになるが、もう一つ“人生50年”時代の生き死に(明治期の平均寿命は42歳)に正面から取り組んだ二人の物語としてとらえる視点があることに気づいた。

子規は、29歳で脊錐カリエスと診断され、その後は「牀六尺180センチ)」を「我が世界」にして生き35歳で逝った。この病床でさえ広過ぎる。「僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。…苦痛、煩悶、号泣に麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪るはかなさ」と記して叫ぶ。
 秋の蠅追へばまた来る叩けば死ぬ
 活きた目をつつきに来るか蠅の声
この日々のつらさから、「精神的と形式的」の介抱・看病論を述べている。「精神的の介抱といふのは看護人が同情を以て病人を介抱する事である。形式的の介抱といふのは病人をうまく取扱ふ事で、例へば薬を飲ませるとか繃帯を取替へるとか、背をさするとか、足を按摩するとか、着物や蒲団の工合を善く直してやるとか、そのほか浣腸沐浴は言ふまでもなく、始終病人の身体の心持よきやうに傍から注意してやる事。食事の献立などをうまくして病人を喜ばせるなども必要なる一カ条である」。(「病牀六尺」六十九)
ちなみに病院で修業する看護婦は医師の助手のようなもので病気の介抱には役にたたないとしている。そして絶命12時間前に筆記されたという絶筆の3句をあげておく。
 糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合はず
 をととひのへちまの水も取らざりき

一方、子どものころから病と慣れ親しんできた漱石は、43歳のおり胃潰瘍で入院した後、療養先の温泉宿で「修善寺の大患」と呼ばれる吐血体験を「30分の死」と名付け、そこから「則天去私」(私情を捨て去って天の心にしたがう)へと舵をきったといわれている。その契機となった一端は医師や看護婦の介抱・看病の所作に“好意”を観たことも大きかったのではないか。
 「看護婦は五十グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌と混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀の子か烏の子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の献立表を作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを撰んで、あとはそれぎり反故にした」(『思い出す事など』)。
 「医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実も葢もない話である。けれども彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼等の所作がどれほど尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである」(同前)と。
漱石はその後も何度か入院生活をしながら医師や看護婦観察を忘れず、『行人』『それから』などに体験エピソードを盛り込んでいる。漱石山房で息をひきとったのは四九歳。二人はそれぞれの人生を生ききった。

関連してもう一つ。漱石が入院したとき見舞いに来たひとりに石川啄木(1886-1912)がいる。啄木は、漱石の「修善寺の大患」の翌年、東京大学付属病院に施療患者として入院している。病名は腹膜炎。40日間の入院中に作歌したものは多い(『悲しき玩具』)が、病院詠の冒頭に載っているのが次の歌である。
 重い荷を下ろしたやうな
 気持なりき、
 この寝台の上に来ていねしとき。

 病院に来て、
 妻や子をいつくしむ
 まことの我にかへりけるかな。
入院となれば憂鬱で嫌なはずだが、病の身をあずける室を得た啄木は「重い荷を下ろ したやうな気持」だという。その一方で、日ごろは家族への思いなど考えることもないのに、家にいる妻や子がいとおしく思えてくるという。けれど、ここが介抱・看病・看護という「好意」に身をゆだねる室であったわけでもなかったのだ。

 話しかけて返事のなさに
 よく見れば、
 泣いてゐたりき、隣りの患者。

 夜おそく何処やらの室の騒がしさは
 人の死にたらむと、
 息をひそむる。
          (『看護師のための明治文学』へのメッセージ)

2018年1月14日日曜日

創めること。無事であること  -「老齢」を寿ぐ


 師走に飛び込んでくる喪中はがき、年明けにやってくる年賀状。前者は身近な人の消息が伝えられ、「年末年始のご挨拶はご遠慮申し上げます」。後者は、謹賀新年、迎春。「おめでとう。ご健康を祈ります」。こんなかたちでいつもの年越しバトン・リレーが続いている。
 ところが、私も75歳、れっきとした高齢者の一人。届く喪中はがきは年々増えて今年、数えてみたら14通も。「母、享年102歳」「父98歳」等の記述にはもう驚かないが、同世代からは「妻」や「夫」、兄妹の死が伝えられるようになった。また、賀状にも「92歳を前にして夫と老人ホームに居を移し終の住処とします」という転居通知を兼ねたものから、「高齢になり本年をもちまして新年のご挨拶を失礼させていただきます」の類も。それぞれに、身終いの気配が漂っている。
 ちなみに、わたしが賀状に記したメッセージは、亡き愛犬ロッシュの穏やかな涙目写真に「2018年。ご無事で」というものだった。

●創めること
 そんな年明けに小冊子『老老介護「いろは歌」』(私家版)が届いた。長野県諏訪市の平林英也さん(82歳)からの贈り物だった。20年ほど続けている諏訪湖半での「いのちのセミナー」に通っている方の、故人となった妻はるよさんとの晩年の交歓絵本。かつては優秀な精神科ナースだったという愛妻の認知症発症後の老老介護の日々(89歳没)が「いろは歌」の形式で遺されたのだった。

 「い」一日の始まりは、挨拶から
 夫「おはようございます」
 妻「今日はよろしくお願いします」
 この挨拶に続いて「夫婦の生年月日」「結婚記念日」に「住所」を毎朝、家内に言わせます。それは「今日」もいのちを与えられ、生きていることの証を、少しでも味わってほしかったためです。家内は、朝の挨拶のとき、よく言いました。
 「お互いに、どこも悪いところがなくて、よかったね」
 このことばを口にする家内は、幸せそのものでした。
 二人の気持ちがひとつになり、
 〈You are My Sunshine」をよく歌いました。

 綴られているのは、介護のつらさではない。「礼を言う妻のこころは、感謝の泉」とか「ゆ -豊かなこころは、忘却から」をあげてもいい。平林さんはいう。「わたしは、老老介護こそ〈新老人〉の生き方だとおもってやり遂げました」。どういうことだろうか。
〈新老人〉とは「次の世代若い人に、いつか来る人生の午後(老年期)のモデルになる」生き方が求められていた。105歳で亡くなった日野原重明さんが立ち上げた「新老人の会」の活動理念だった。
具体的なスローガンは、①愛し愛されること、②創(はじ)めること、③耐えること。なかでも、②は、何歳になっても「(なにかを)創めること」を忘れないこと。③の「耐えること」は人生の生き方が問われるもの。「耐える」という経験によって感性が磨かれ、不幸な人への共感と支える力が備わる。「新老人の会」は75歳以上をシニア会員、60歳以上をジュニア会員、20歳以上をサポート会員として、10年後(日野原さん100歳のとき)には10万人に達した。
平林さんは、この三つのスローガンに老老介護の原点を求めたのだった。とくに世間では否定的にとらえられる老老介護を「創める」ことは老人の「新しい生き方」に導くものにちがいない。それが〈新老人〉の生き方だ。「始まる」ではなく「創める」ということばに励まされて「いろは歌」が誕生したのである。

 ●無事であること
 ところで、私の賀状メッセージ「ご無事で」には、松飾りが街から消えたころ瀬戸内の島に住むK女がメールで応えてくれた。高校時代のクラスメートで、若いころから病いと戯れ、宥めてきたひとだ。
「ご無事で新年を迎えられた由。うれしくおもいます。この歳になると流石に次々といろんな事がありました。身内の死去や病気や怪我に心休まりません。7〜8月に危険な肺炎にかかり命の駆け引きをしましたが、相変わらず持ち前のしぶとさで復活しました。今は腰の問題を抱え年末にMRIをして一ヶ月ほど。…でもね、呑気に笑って本を読んでのおばあさん暮らしは少し早い。(笑)
 毎日家の周りにくる野鳥に癒されています。デッキにヤマガラ・シジュウガラ・メジロ・シロハラ・ツグミ・ヒヨドリ・ジョウビタキ・イソヒヨドリが常時きて賑やかです。トラツグミも姿を見せラッキーでした。ぶとカラス・ほそカラスや雀の群れもホオジロも来ています。
 今年はキジバトが玄関前の大きなトネリコの木に二度営巣し、見守るうち雛鳥の姿も見ましたが、周辺に居続けるハシブトカラスに襲われたらしく、巣立ちまでを見届けることは出来ませんでした。これは悲しい出来事の一つでした。まずは呑気な鳥談義でご挨拶を 又」

 「無事」はいのちの現在。老いにはかけがえのない力を誘うものなのである。無事の一年を祈ろう。

2017年10月10日火曜日

人生の午後

「人生、古来稀れ」というので70歳を古稀というが、100歳以上の超寿者はすでに6万人を超えている。100歳の人生設計を描くことが切実な時代に入った。その道標をいち早く示し自らがモデルとなった人が日野原重明さんだった。
この夏日野原さんは105歳でなくなったが、『生きていくあなたへ』(幻冬舎)という形でメッセージが遺されていた。全編が珠玉の語りことばで埋まっているが、その中からこころに留めたフレーズを引き合いにして、100歳人生を描いてみる。

〈人生の午後をどう生きるか。
 選ぶ物差し、価値観が必要で、自分の羅針盤を
 もたなくてはばらない。
 午後は午前より長いから。〉
ここで、老年期は「人生の午後」と規定され、青年期や成人期の羅針盤は役には立たないと明言されている。「人生の午後」は長いのである。
2000年、介護保険制度が誕生した年に、日野原さんは自身の90歳を記念して『生きかた上手』を出版し、総計120万部を超える売れ行きとなった。
そのテーマは「わたしは老人と呼ばれたい。それも新老人と」。あのとき、すでに「人生の午後」を生きる心構えが述べられ、人生の午後を生きる「新老人の会」も準備されていたのだった。「新老人」とは単なる元気な老人のことではない。「次の世代、若い人に、いつか来る人生の午後をいきる(新老人の)モデルになる」生き方が求められたのだった(『いのちを語る』)。
会のスローガンは、①愛すること、②創(はじ)めること、③耐えること。
なかでも、②の創めるとは、いくつになっても「(なにかを)創めること」を忘れない。新老人の規範そのものといっていいだろう。③の「耐えること」は人生の午後の生き方が問われるものだった。「耐える」という経験こそ、人としての感性が磨かれ、不幸な人への共感と支えることができる力が備わるのだとされた。
かくして「新老人の会」は75歳以上をシニア会員、60歳以上をジュニア会員、20歳以上をサポート会員として、10年後(日野原さん100歳のとき)会員数は10万人に達したのだった。

〈人は傷を与えたことは忘れるが、
 人から受けた傷や攻撃はどうしても忘れられない。
 それは人を恕せない人間の愚かさのためなのだ。〉
日野原さんは子どものころから体は弱かった。日米戦争中、空襲下の東京で聖路加国際病院の内科医として患者の治療や火傷者の救済にあたった。1970年には「よど号」ハイジャック事件で4日間の機内監禁後に100名の乗客とともに奇跡的に空港に降り立った。
「私は足の裏にこの地球に無事帰ったことを感じた瞬間、私の命が与えられたのだと直感しました」。同時に「私は自分が生きているのではなく、生かされていることに感謝しました」。そして「妻と一緒に泣きながら、これから自分の命を人のために使おう」と決心した。それが人生の支えになった。
日野原さんの医療者としての業績では、1996年のオーム真理教の地下鉄サリン事件では中毒患者640人を聖路加国際病院に入院させて1人の死亡者以外の患者を助けたことで知られるが、医療行政への視点からは、まだ緩和ケアとかホスピスという用語も取り組みもない時代に「延命の医学から生命(いのち)を与えるケアへ」と題した講演(日本死の臨床研究会1980年)は画期的なものだった。身近な病気の話では、高血圧・がん・糖尿病等の「成人病」から「生活習慣病」命名(1996年)への尽力があげられる。
「私の朝の食事はコーヒーとジュースだけ。元気というのはあくまで気がもたらすもので、カロリーではありません。昼も牛乳一本とクッキーですませることがほとんどです。まるで水分だけで私は生きているようです」。
これは臨床医のことばではない。医師であるまえに独自な生き方と個性がつたわってくる新老人の生き方であり、この生活意思はさいごまで貫かれた。

  〈最近僕は、「運動不足」より「感動不足」のほうが
深刻なのではないかと感じています。
だから、あなたとも一緒に心を躍動させて、感動の気持ちを
分かち合いたいなとおもいます。〉

 日野原さんとは、一度講演会(生と死を考える会・全国大会in横浜2008)の末席でご一緒したことがあった。舞台の袖から登壇されると会場から拍手と小さなどよめきがおこったことが思い出される。
『生きていくあなたへ』を読んで、こころが揺れ動いた箇所があった。それはお医者さん志望の動機にふれた幼少期のエピソードだった。
7歳のとき、お母さんが危篤になり、お医者さん(安永謙逸先生)が看るためにやってきた。そのとき必死に祈った。けれど、祈ったのは「お母さんを助けてください」ではなかった。「いまおもうと不思議ですが、どうか神様、母を救おうとしている安永先生を助けてください」と祈った。すると奇跡は起きた。お母さんは命をとり留めた。そして少年は医師を目指したのだった。

2017年7月28日金曜日

イネーブラー  ―認知症のひとに同伴する


認知症に関する手引き書はそのほとんどが介護者のために書かれている。認知症(dementia)の人は「呆けている人」「わけが分からない人」で、自身の病を訴える能力がなく、こころを喪失した脱け殻状態の人とみなされている。だから、認知症のケアは高齢者介護の中心課題になっている(我が国の“2025年問題”は、認知症患者がざっと700万人、65歳以上の高齢者5人に1人といった数字で示されている)。

ところが、クリスティーン・ブライデンさんの『認知症とともに生きる私』(大月書店)を読むと、認知症に対する偏見と固定観念を粉砕する基盤を欠いていたかがわかる。本書の原題はNothing About Us,Without Us!「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」とある。私たちとはだれを、どんな人を指すのか…。認知症患者? 認知症の人? 認知症のある人? …つまり、「認知症の患者である前に、一人の人間です」という訴えが聞こえてくる。
クリスティーン・ブライデンさんは、かつてオーストラリアの政府関連の科学技術者だった。シングルマザーとして3人の娘を育てながら1996年(当時46歳)にアルツハイマー病と診断され(後に前頭側頭型認知症と修正)、「完全に呆けるまで5年、3年後には介護状態になって死ぬ」といったシナリオが示され、いまなお「認知症とともに生きている人」なのである。
クリスティーンさんは若年性認知症の姿を自らカミングアウトした。そして認知症になるとはどういうことか、私は誰だったのか? いま誰なのか? そして死ぬとき、誰になっていくのか-そんなアイデンティティの危機に直面しながら“認知症サバイバー”として、認知症患者の権利擁護活動家として日々を重ねている( 専門医は脳のMRI画像から、この20年の活動はしんじられないと首をかしげるという)。

「認知症とともに生きる」とは、「認知の自己」が失われている生活が続いている。その段階で人生は減速車線にうつることになる。けれど、「感情の自己」と「スピリチュアルな自己」があるかぎり人として生きることができるとクリスティーンはいう。「認知の自己」はもう求めない。でも、「生きる意味を探す支援がほしい」と。そして、発症後まもなくして同伴者となった夫ポールへの信頼を口にしている。
〈慣れ親しんだポールの存在がいつもそこにあって、わたしはその彼を通して安心感を得ています。そして彼は愛ある存在感をもって私を安心させてくれます。ポールは私のケアパートナーであり、イネーブラーです。
私ができるだけ長く自立していられるように、彼はケアを調節して、私の自律を助けています。認知症を生きるこの人生で、私は権利擁護活動とポールとの関係性を通して、自分のスピリチュアリティについて新たに考え、生きる意味を見つけてきたのです〉

イネーブラー(enabler)※とはなにか。自分でできるように助ける人のことであり、carer,とかCaregiverにある「してあげる人」「保護する人」という意味を取りのぞいた、あくまでも対等な関係を重視した表現として示されている。それをイネブリング(enabling)と呼んでいる。
たとえば、①「(無条件に)ケアを与えること」は×であり、②私がやれることを代わりにやってくれることも×である。
つまり③単なるケア(介護)の対象者(対象物)とみなすのはだめ、×である。ここからがイネーブラーとなる。④できなくなってしまったことではなく、まだできることに着目してはたらきかけることであり、⑤日々、小さな達成感を得られるよう支援すること。
―「認知症とともに生きている人の深いところでつながり、この旅路を歩むことをイネーブル(enable)してください」。それがクリスティーンのメッセージなのだ。

あらためて、イネーブラーは、彼女がポールとの関係から、独自に引き出した思想概念だといえるだろう。依存ではなく自立(自律)した、二人のすこやかな関係(well-being)そのものを指している。(※ちなみに、この用語は通常、心理カウンセリングの用語として使われ、何らかの依存症にある人に対して、心ならずもその依存状態を支えてしまう人のこと。イネイブラー、イネーブラーとも。ここでは本書訳にしたがってイネーブラーとした)

認知症を生きる道を手探る人たちの発信は、わが国でも目につくようになっている(ルポ「希望の人びと」生井久美子 朝日新聞出版)。ここでは、認知症の人が同じ認知症の道を歩む仲間への呼びかけを紹介しておこう。(『認知症になっても人生は終わらない』harunosora
〈病気は、あなたのなかのほんの一部分です。苦手になることは無数の脳の働きなかのほんの一部分です。あなたは今もこれからもずっとあなたです。病気の症状は恥でしょうか? 病状とあなたの価値は無関係です。忘れたっていいんです。それは病気が起こすもので、あなたの人格とは何の関係もありません。〉
〈笑顔で生きる道はたくさんあります。そのために気持ちが落ち着いたら、先ず一番親しい人に病気のことを話してみましょう。きっとそのままのあなたを受け入れてくれます。〉30歳代後半に幻視。若年性レビー小体型認知症と診断された樋口直美さん 54歳)

〈認知症当事者は特別な人ではないのです。丹野智文という一人の人なのです。認知症の人というよりは認知症とともに生きる人だとおもってほしいです。〉
〈介護が必要なのは本当に重度になってからだとおもいます。いま、できることを奪わないでください。そして時間がかかるかもしれませんが待ってあげてください。一回できなくても次、できるかもと信じてあげてください〉(若年性アルツハイマー型認知症と診断され、「2年後には寝たきりになる」と言われた丹野智文さん 43歳)


わが国でも批准された障害者権利条約(2013年)には、Nothing about us without us.(私たち抜きに私たちのことを決めないで)という原則が謳われている。長い権利闘争の歴史の末に手にした権利だ。認知症の人の生き方にも、この原則が実現されなければならない。そのためにはだれもが介護者からパートナーへ、さらにイネーブラーへの踏みだしの一歩が問われることになる。「ユマニチュード」(ブログ・ラベル参照)はその向こうに見えてくるはずである。

2017年6月23日金曜日

ときあかり ―死出に添う



佐賀県唐津市の吉井栄子さん(「お世話宅配便」代表)を久しぶりに訪ねたとき「ときあかり」という言葉を教わった。当初は地元の銘酒の名まえかとおもったほどだった。いそいで辞書を引くと、明け方、東方がかすかに明るくなること(大辞林)とある。なるほど、とは思ったが、ここでは逆。むしろ、西方に沈みゆく陽の翳りのなかで彩るいのち―つまり、亡くなる直前に生気を取りもどしてみせる人の姿をさしているのだった。2,3のエピソードを引いてみよう。

―長いこと寝たきりだったお祖父ちゃんが急に散歩に行って、買い物に行って、部屋の片付けして、次の日また寝たきりに戻って、その次の日に亡くなった。
「今思えばとても不思議です。仏壇の引き出しにはお祖父ちゃんが入れたと思われる通帳と印鑑が入っていたと母が言っていました。お祖父ちゃんは自分が亡くなるってことわかっていたのかも知れないです」

―うちのばあちゃん、長く入院してやっと家にもどったら「ご飯が食べたい」といい、食欲が出てモリモリ食べておかわりまでして、その翌日に亡くなった。でも、家族はみんな「ばあちゃん、死ぬ前にいっぱい食べられて良かったねえ」と喜んだんですよ。

―認知症だった祖父が突然「紙と鉛筆貸して」って言って貸してあげた。何か書こうとしているんだけど書けないらしかった。「夜ももう遅いから書き物は明日にしよう? 明日になったら書けるよ」といって部屋の電気を消して出ていったら、翌朝紙と鉛筆もったまま亡くなっていた。電気を消さなければ。悪いことしたと思う。遺書のつもりで何か書こうとしていたんだろうな…。

「ときあかり」はロウソクの灯りに見立てることもできる。ロウソクは燃え尽きる直前に太く瞬き、その後に火は消える…。そんな〈いのち〉の名残劇を指している。
関連してもうひとつ、死の床にある人の「お迎え」現象がある。「親父が迎えにきてくれた。あの世で親父に会えると思うとたのしみだ」とか、「仏様がきているけど まだはやい。追い払ってくれ」「お花畑がみえてキレイだった」などと口にした人がそれぞれ追っかけるように亡くなっていく。

―はじめて幻覚のような症状が現れたのは、死期の一ヶ月前。家族が「だれ」と聞くと「男の人、とか女の人」とかで具体的な名前はいわず、一瞬にこにこしているようだった。家族が「おじちゃん(夫)がきたの」と聞くといなくなったとかで、穏やかな幻覚が多少あったようだが、それで苦しめられる様子はなかった。

―戦争体験者Sさん。「兄貴が今来てるんだけど、しゃべってほしいのに何にもしゃべってくれないんだよ、先生」と言われびっくりした。幻覚かどうか調べるために指を立て、「これ何本かわかりますか」とか、「私が誰だかわかりますか」と確かめたが、Sさんの認知は正常で、周囲のこともしっかり見えている。お兄さんは呉で戦艦陸奥が爆沈したときに死んだ乗組員で、私が「お兄さんはどこにいるの?」と尋ねると「そこにいるんだよ、先生、見えない?」と指差すが、私には見えない。Sさんは、いろいろ語りかけたが「やっぱり何も言ってくれない」と残念そうだった。(『現代の看取りにおける〈お迎え〉体験の語り 在宅ホスピス遺族アンケート』 ※東北大学文化社会学 岡部健他 遺族366人、「お迎え」体験は4割超)

これら「ときあかり」や「お迎え」はいずれも在宅死であり、病院や福祉施設ではほとんど見られない現象である。医療制度に支えられている現在、病院死が当たり前になっており、国民の8割が病院で亡くなっている。そこで登場してきたのが「尊厳死」とか「平穏死」への期待となったのである。これらの死に方は自然死(在宅死)からもっとも遠い死に方になっていることに気づく。それだけに「ときあかり」や「お迎え」現象は、医療施設では幻覚をともなった「せん妄」として治療の対象になってしまうのだ。
「臨床宗教師」を提唱した在宅医の岡部健さん(自ら末期がんで、2012年死去)は、「お迎え(ときあかりを含む)」がせん妄によるものかを論じるより「お迎え」(ときあかりも含む)を体験した患者がほぼ例外なく穏やかな最期を迎えることに着目すべきだとして、在宅医として体験した事例を残している。

〈肺がんによる低肺機能の70歳代後半の女性は3階に寝ていたが、ある日、お嫁さんが様子を見に階段を上がって行くと、いきなり「せっかくそこに母ちゃんが迎えに来てんのに、おまえが来たから消えてしまったじゃないか。なんてことしてくれるんだ」と怒鳴られた。それから一カ月後に、娘さんから「母が『今日死ぬから親戚を集めろ』と、おかしなことを言ってる」と電話が入った。往診にいくと、笑顔で「先生、ありがとうございました、今日で逝きます」と言う。けれど酸素濃度や血圧を測っても、どこにも悪いところがない。首をかしげながらも、私は娘さんに「本人がこう言うときは当たることが多いから、親戚を呼んであげたら」と伝えた。親戚がやってくると、おばあさんは枕元に集めて説教をはじめた。最期こそ言葉は不明瞭になりながらも。その晩に亡くなった。〉

岡部医師は「お迎え現象は、精神と肉体がほどよくバランスをとりながら衰えていったときにおこる」と指摘している。つまり、死の準備過程で起こる自然現象であり、これは家族に委ねられるべき場面だとしている。
ここで、わたしが遭遇した場面に触れよう。17年ほど前、90歳の義母が亡くなる前日、わたしが外出する際に交わした義母との数分の会話である。

ベッドの脇に立ったとき、唐突に「ヨネザワ君。わたし、もうすぐいなくなるから。ありがとう」という(義父母はわたしをさいごまでヨネザワくんと呼んだ)。
「もうすぐいなくなる…。そんな気がするんですか」
「来週はもういないとおもう。お世話になったわ」
わたしは(もうすぐ死ぬ? そんなこと言わないでがんばって)といういつもの言葉を飲み込んでいた。義母の目は、そういう返事を期待していなかったからだ。
「ぼくもいっしょに暮らせて、よかったですよ」と手を差し出した。
「長いこと、ありがとう。それから、××子は来週にはあなたに返すから」 
(『自然死への道』の「明け渡しのレッスン」から)

ここで××子とは妻の名前である。おもしろい言い方だなあとおもって「まだ、いいですよ」とことばを返したほどだったが、差し出した私の手を握りかえしながら“母”の顔でうなずいた。義母はその日の夕方、病院で診てもらうからと入院をせがみ、翌朝病院で一人看取られることなく亡くなった。これこそ、わたしが体験した「ときあかり」だったのだ。

2017年4月13日木曜日

〈かけはし〉という夢


豊橋市(愛知県)で介護福祉タクシー開業20年になる株式会社かけはしの山田和男(69歳)さんのホスピス運動を紹介してみよう。
福祉タクシーといえば、病気の人、障がいのある人、介護が必要な高齢者を送り迎えするのが仕事。東三河(豊橋市、田原市など8市町村、約75万人)なら、いつでもどこへも24時間の対応。現在スタッフは3人、4台の車両。車は地域で唯一、医師や看護師が同乗して使用できる人工呼吸器や痰吸引器等を備えた大型車で、ストレッチャー(車輪付きベッド)の重篤患者を搬送する機会が増えている。去年1年間の利用者数は千人を超える。病院から自宅へ、A病院からB病院へ、自宅から施設へ。施設から病院へ…。「それだけではありませんよ」と山田さんは、孫の結婚式や、コンサート会場への送迎なども話題にし、九州まで「さいごの旅に」を伴走した家族の愉しいエピソードも。そして、昨年9月、山田さんは「東三河をホスピスの街にしたい」という願いから「かけはしの会」を立ちあげた。

山田さんをホスピスへとかりたてたおもいは「かけはし」にあった。
50歳になったら、社会に恩返しをしたい」とNPO活動として始めた搬送サービスだったが、それには妻かつ子さんが命名した「かけはし」への願いとともにあった。
2009年、最愛の妻であり仕事の右腕もあったかつ子さんが5年の闘病のすえ乳がんで亡くった。その時に豊橋医療センター(国立病院機構)で佐藤健医師からていねいな緩和ケアを受け、ホスピス運動に出会い、様々な勉強会にも参加するようになった。そして、搬送では末期がんや老揺期の重篤な病で死を目前にし苦しみを抱えた家族の姿が目につくようになっていた。

病院へ向かう車内では「あの病院へはいきたくない」といった呟きがもれたりする。おもわず「先生も看護師さんも、よろこんで迎えていただけますよ」と口にしたりすることがある。退院の日の病室では不安な表情だった患者が自宅に近づくにしたがって穏やかになり「ありがとう」と声をかけられることもある。こんなとき、「死を待つひとの家」を開設したマザー・テレサの「人生の99%が不幸だったとしても、さいごの1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものにかわる」という言葉に出合った。そして「残りの人生、この仕事を通して、いのちのかけはしができないだろうか」。
そこで刺激を受けたのが『病院で死ぬのはもったいない―〈いのち〉を受けとめる新しい町へ』という、二人の在宅医山崎章郎、二ノ坂保喜と米沢慧が立ちあげた「3人の会」(2012年7月結成)の「市民ホスピスへの道」という運動だった。

東三河でうまれ育ち暮らし、亡くなるときに良かったなとおもう街にしたい。
山田さんがそんな思いを駆り立てることになったのは、早い時期に『ホスピス』を翻訳(1981年)紹介した岡村昭彦が、雑誌記者の「ホスピスは日本に根づきますか」という質問に「ホスピスとは医療施設ではありません。いのちの運動なのだということをまず認識してほしい」と釘をさした上で、次の6項目を挙げていたことだった。
1 地域社会との結びつきがないホスピスはホスピス精神に反して、がん病棟になってしまう。
2 コミュニティのなかで、生命の質を高める生活をしながら「死にゆく人」を中心にケアしようというのがホスピス運動。
3 ホスピス運動は、携わる人のすべてが平等・対等でないとうまくいかない。
4 ホスピス運動は、自分の住んでいる地域の課題から手をつけるべきだ。
5 ホスピス運動は、地域社会のなかで1人1人が参加できるボランティア活動。まず自分ができること(話し相手になること、手を握ってあげることなど)を登録することからはじまる。
6 ホスピス活動は、死んでいく人の世話を通して死にゆく人から学ぶこと。

これらに照らしてあらためてホスピスが「根づいた」とだれが言えるだろうか。
近年は「地域包括ケアシステム」といった行政からの要請に急かされている。そうなら、この6項目を元手に、地域でその人らしくいのちを全うできる街づくりを市民の課題にして行動するべきではないのか。かくして山田和男さんは「かけはしの会」を設立した。スローガンは「東三河をホスピスの街へ」。そしてスタートしたのが、いのちを考える巡回セミナー(隔月)。すでに豊橋市、田原市、新城市などで始まっている。その任に就いたのがわたし、米沢慧。(※kakehashinokai.jimdo.com

これまで「いのちを受けとめる郷へ」「いのちを伴走するケアのかたち」「病院化社会をいきること」「病院・病棟はだれのためのものか」などのテーマで2時間。さいわい毎回20~40人と盛況。がん末期の人などが空き家を利用して暮らす「ホームホスピス」を目指している人もいるが、社会福祉士、介護福祉士に訪問ボランティアナース、ソーシャルワーカー、薬剤師に鍼灸師等の肩書きにこだわることなく、「かけはし」を思い描いているところだ。

2017年2月16日木曜日

ユマニチュード Ⅱ 〈世話するヒト〉宣言


認知症のケア・メソッドとして知られる仏国で生まれたHumanitude ユマニチュード(イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ)は、英語のHuman/ヒューマン(人間らしい)と-tude(状態、性質)あるいはAtiude(態度)を重ねた“人間らしさを取りもどす”とか“人間の尊厳の回復”という意味がこめられた思想概念として示されている。
さらに補足すれば、Humanitude ユマニチュードはフランス領マルティニーク島出身の詩人であり政治家であったエメ・フェルナン・ダヴィッド・セザールが1940年代に提唱した植民地に住む黒人が自らの“黒人らしさ”を取りもどそうとした運動であるNegritude ネグリチュードにその起源をもつという。
そこで、もうひとつ。わたしはユマニチュード〈世話するヒト〉と呼んでみたい気がする。その起源に思いをはせたのは実は次にあげる小さな新聞記事だった。

〈仏南部の洞窟で発見された20万年前の人類の祖先、初期のネアンデルタール人が一緒に住む高齢者らに食糧を分け与えていたのではないかとする説がアメリカの科学アカデミー紀要に発表された。
遺跡でみつかった人骨の分析から、この人物は性別は不明だが4050歳代。生前に歯をすべて失っていた。動物では親が子の面倒をみる以外にお互いに手助けすることはほとんどない。また、人間以外の霊長類で歯を失うことは餓死を意味しており、一緒に住む高齢者の世話をするのは、人間を他の動物と区別する特徴とされている。「周囲の者が世話をしていたとしか考えられない」とみている。これまでの研究では、人間がお互いの世話をしあうのは現世人類の祖先である約五万年前のホモ・サピエンスの時代とされていたが、これを大きく覆すものだという。〉(「読売新聞」2001年9月11日)

20年近く前、この記事から〈世話するヒト〉を発見したとおもう。読んでおもわず「人間ってすごいなあ」と呟いたことを覚えている。介護保険法が施行された間もなくのことで、義父母二人の老揺期と終末期の介護(義母は要介護5)が重なっていたころだった。
20万年前の4050歳代といえば、今日では80歳代の高齢者だろう。遠く、旧人(ネアンデルタール人)にまで遡っても、介護をしていたこと。ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)の前に、まず〈世話するヒト〉であったということになる。
私たちは大脳皮質(思考・言語などの高次機能)の知能に人間の尊厳性をおいている。けれど、実はもう一つ大脳辺縁系(感情等を支配する情動脳)に支えられてこその尊厳ではないか…。理性・観念は宇宙の無限遠点をめざすが、情動はひたすらに地上の愛を全うするヒトであり続ける…。
私たちは、抱いてもらったように、食べさせてもらったように、眠らせてもらったように世話をし、そして看取り・葬る。
グリム童話「じゅみょう」にみる人間70歳寿命説もまた、老いて歯がなくなり、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなっても、なお人は支えて生きていくこと。他人を世話するという力を、他の哺乳動物(イヌ・ロバ・サル)と一線を画す〈世話するヒト〉の存在として肯定したかったのだろう…。この記事を支えにしてわたしは『「還りのいのち」を支える』(2002年・主婦の友社)、『ホスピスという力』(2002年・日本医療企画)を著したのだった。

人類学者川田順造は、ヒトの祖先が、直立二足歩行によって得たものは大きな脳をもつことや、声帯が下がり構音器官が発達して、二重分節の言語を話せるようになっただけではない。二足歩行は、ある嵩と重さをもった「荷物を運ぶ」能力をもった〈運ぶヒト〉という視点がいると次のようにいう。
〈ホモ・サピエンス Homo sapiens 「知恵のあるヒト」という自己陶酔気味の正式の学名のほかに、ホモ・ルーデンス Homo ludens 「遊ぶヒト」(ヨハン・ホイジンガ)、ホモ・ヒエラルキクス Homo hierararhius 「階層化好きのヒト」(ルイ・ヂュモン)などの綽名をつけた先人にならって、わたしはホモ・ポルターンス Homo portans「運ぶヒト」と呼びたい〉(『〈運ぶヒト〉の人類学』)
その伝からいえば、care(世話、配慮、関心、心配など)、世話をする(care of)、配慮する、気にかける(are about)。このCareの語源はラテン語のcuraに由来しているという。気遣い、苦労、思いやり、献身につながる。あらためて、ここで〈世話するヒト〉宣言をしておきたいとおもう。


2017年1月10日火曜日

ユマニチュード ―〈世話するヒト〉



フランスに端を発したケア・メソッド「ユマニチュード」は、イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティの二人が35年かけて作り上げた認知症の人に対するトータルケアとして知られている。一般には①見る、②話す、③触れる、そして④立つ。この4つを柱とする技法とされ、これまでテレビ映像を始め専門誌の特集等で広く紹介され、病院や介護施設にも根をおろしてきている。
「ユマニチュード」研修に参加した知人に聞くと「看護技術というより、人として向き合う力をもらいました」といい、「だれでも(あなたも)〈世話する人〉になれるとおもいます」という答えがかえってきた。

Humanitude ユマニチュード」とは、英語のHuman/ヒューマン(人間らしい)と-tude(状態、性質)あるいはAtiude(態度)を重ねた造語で“人間らしさを取りもどす”とか“人間の尊厳の回復”という意味がこめられた思想概念として提示されている。「ユマニチュード」の同伴者である本田美和子医師は、「さまざまな機能が低下しして他の人に依存しなければならない状況になっても最期の日まで尊厳をもって暮らし続けることができるように支える態度」だという。
原著『Humanitude ユマニチュード』(イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ本田美和子 辻谷真一郎訳 トライアスト東京)は「人間とは何か―」、この問いかけからはじまっている。
「1799年の終わりごろ、アヴェロン村近くの森のはずれでのことだった。猟師の一団が奇妙な動きをして自分たちを避けようとする生きものの姿を認めた。…四つ足で歩き、どんぐりや木の根や草を口にし、顔に表情はなく、ことばを話さず、近づくと向かってくる…。」
18世紀末のフランス革命の後、ヴィクトルと呼ばれることになる8、9歳の野生児発見とその捕獲扱いに「ユマニチュード」の原点を置いている。
ヴィクトルは直立歩行と言語の発達がまったくみられなかったがゆえに檻に入れられ、観察が続けられ四〇歳頃まで生きたが、「理性も社会性もなく獣性以外いかなる属性も見いだせない」として、人間に値しない生物種(『哺乳類』ヒト科の生きもの)という扱いに終始した。「精神障害や認知記憶障害のある者もまた、理性や自制心、自律心の高さを基盤とする人間の尊厳という名の下に人間の名に値しないと判断され、時には生きるに値しないと判断されてきた」と記して立ち位置を鮮明にしている。
イヴ・ジネスト氏はいう。「病状がどうあろうとも、最期まで人間として感じていられるように、私たちは、ユマニチュードを用いてその絆を再び確立します。これは、相手を人間として認識する哲学なのです」と。
ちなみに「アヴェロンの野生児の感覚器官の機能発達」(『アヴェロンの野生児』J.M.G.イタール 中野善達・松田清訳 福村出版)によれば「感覚器官のうちで文明度が顕著にあがったのは味覚の感覚だった」とある。ジネスト氏も認知記憶障害の人がさいごまで強く残る感受性は味覚、スパイスが大事だと語っていた。

では、認知記憶障害のある高齢者の人を前にして、先の四つの柱によるユマニチュードに基づいて、〈世話するヒト〉になってみよう。
   1 見つめる (愛の表現)
  ・見ないことは「あなたは存在しない」と告げること
  ・水平に見つめる →平等な関係を伝える
 ・正面から見る →正直である
  ・近くから見つめる →やさしさ、親密さ
 ・長く見つめる →あたたかさ 
2 話しかける (トーンをやさしく)
  ・沈黙のケア現場に言葉をあふれさせる(オートフィートバック)
  ・「手をあげてください(3秒待つ)いま、背中を拭いていますよ
…あたたかいですね …きれいになってきもちいいですね」
3 触れる (優しさを相手に伝える)
   ・体に触れることは脳にふれること
   ・「ひろく、やわらかく、ゆっくり、なでるように、包み込むように…」
   ・触れることは自由をもたらす    
4 立つ (知性の根幹、人間であること)
   ・1日に合計20分間立つことができれば、寝たきりになることはない。
・人は死を迎える日まで、立つことができる。
   ・身体整容や清拭を1日30分立った状態ですれば寝たきりにならない

あらためて、「介護するということは目を見つめて話しかけ、眼差しとことばによって、あらゆるものを失った人たちの揺るぎない主権を認識することである」。
触れるということは、相手を生かすことができるものでもあれば、ほとんど悪意のないまま殺すことができるものでもあること。けれど介護をするために相手に触れる。この避けられない馴れ馴れしい行為を、しこりを残すことなく受け入れてもらえるようになるには、並はずれた技量と繊細な配慮がなければならないだろう。


2016年11月24日木曜日

日本のホスピスが忘れてきたもの


―三人の会(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)鼎談企画によせて
(日本ホスピス・在宅研究会全国大会in久留米 2017.2.5.


●日本のホスピス40年をめぐって
西欧に誕生したホスピスの近代史を押さえようとすれば、19世紀初頭アイルランドのマザー・エイケンヘッドの修道会活動「死にゆく人々のためのホスピス」に端を発しておよそ200年。シシリー・ソンダースによる近代ホスピスの誕生(セント・クリストファー・ホスピス 1967)からは50年。では、わが国のホスピスはどのような経緯で今日にいたっているのか。概略次の3期に分けてみることができよう。

第1期。 セント・クリストファー・ホスピス(1967設立)が、わが国に紹介されたのは10年後の1997年。新聞見出しは「天国への安息所・英国の『死を看とる』専門病院」(朝日新聞7月13日夕刊)。この年、日本死の臨床研究会が発足した。
わが国のホスピス誕生の契機は1980年にロンドンで開催された第1回世界ホスピス会議(会期5日間・16カ国68人参加)に精神科医・柏木哲夫氏、チャプレン・斎藤武氏がオブザーバーとし参加。そして翌年の1981年に聖隷三方原ホスピス、1984年の淀川キリスト教病院ホスピスが誕生。ホスピスは揺籃期に入った。

第2期。 1990年WHOの指針にしたがって、ホスピスは緩和医療、緩和ケア病棟(がんとエイズに限定)として医療保険制度に繰り込まれ、終末期医療(ターミナルケア)として認知されることになった。この時期、外科医からホスピス医に転進したのが山崎章郎医師。「病院は(がんで)亡くなっていく人の力にはなれない」と著した『病院で死ぬということ』(1990)はベストセラーとなり、映画化されホスピスは市民権を手にした。ちなみに日本ホスピス・在宅ケア研究会の発足は1992年。

そして第3期は21世紀。 長寿社会の到来と重ねてみることができる。介護保険法の施行(2000年)に始まり、がん医療の均てん化を重視したがん対策基本法(2007年)をベースに、在宅療養支援診療の強化、地域包括ケアシステムといった態勢が整備されるなかで各地にホスピスの裾野はひろがってきたようにみえる。

けれど、「日本にホスピスは根づいた」といえるだろうか。名著『ホスピスへの遠い道』(春秋社)の著者岡村昭彦(19291986)は、発表当時(1984)、「ホスピスは日本に根づきますか」という質問に「ホスピスとは施設ではなくて運動なのだということをまず認識してもらいたい」と釘をさしていた。そして、「地域社会との結びつきがないホスピス運動はホスピス精神に反して、がん病棟になってしまう」こと、「ホスピスはコミュニティのなかで、一人一人が参加できるボランティア活動」である、といった言葉を遺している。大きな変動期にある現在、ホスピスの原点から遠ざかっているのではないか、検証してみる時期にきているのは間違いない。

●近代ホスピス運動の原点に立って考えてみる
そこで討議テーマは「日本のホスピスが忘れてきたもの」となった。
何を忘れてきたのか。この課題に向き合うには恰好のテキストがあった。前述の第1回世界ホスピス会議(1980)の課題に立ち返ってみることである。
大会記録は1981年に“Hospice : the living idea”として出版され、わが国では岡村昭彦監訳『ホスピスケアハンドブック――この運動の反省と未来』として刊行(家の光協会 1984)され、ソンダース女史没後には追悼記念出版として『ホスピス―その理念と運動』(雲母書房2006)と原題に戻して再刊された。5日間にわたって討議された全8章のテーマを掲げてみる。
① ホスピスの思想
② ひとつの生き方としてのホスピス
③ 死期を迎えるための哲学
④ 今日の痛みの概念
⑤ 死にゆく患者の症状の緩和
⑥ 運動神経系疾患に対するホスピスケア
⑦ 世界に広がるホスピス運動
⑧ 成果、失敗、そして未来:ホスピスを分析すると
これらはシシリー・ソンダースの思想とセント・クリストファー・ホスピスの設立理念にそったものだが、今日も何一つ旧いテーマはない。ひとつの生き方としてのホスピス、死期を迎えるための哲学。さらに運動神経系疾患(ALS)に対するホスピスケア100例の紹介などは、がん患者にのみ目をむけてきた日本のホスピス運動がいかに視野狭窄で、「いのち」という視点が欠けていたことがわかる。
あらためて、「日本のホスピスが忘れてきたものは何か」。やはり、「(ホスピスの)成果、失敗、そして未来」という視野に立つ試みということになる。思想としてのホスピス、運動としてのホスピス、臨床としてのホスピス等、重いテーマがまっている。
今回は、日本のホスピス運動の渦中で牽引してきた山崎章郎氏と、在宅ホスピスに取り組みながら、アジアのホスピスにも関心を示す二ノ坂保喜氏と、「(日本が)忘れてきたもの」だけではなく「新たに身につけたもの」を探り、語り合えればとおもう。

わたしの視点を添えれば、いま私たちの生活地平には「メメント・モリ(死を想え)」という重い視界がひろがっている。阪神淡路大震災(1995)から東日本大震災(2011)に福島原発のメルトダウン――わたしたちは、未曾有の死の体験を共有している。この間にはいのちに寄り添うNPO法人の立ち上げをはじめ、市民ホスピス運動の試みがある。そこに触れたいとおもう。