2015年6月28日日曜日

回生

リハビリ
数年前、ある雑誌から「リハビリ中の人に勇気を与える3冊」というアンケートに応えて挙げた本があります。一つは大島渚(2013年没)の『癒されゆく日々』(NHK出版)。大島さんは1996年2月に脳卒中を発症以来、入院、要療養、通院を通してのリハビリがそのまま日常化したかたちで生活が取り込まれていました。
本人にとってリハビリとはどんなものだったのか。たとえば右手が動かない。「麻痺している」と断定したいほどぴくりもとうごきません。しかし療法士に「これは麻痺ではありません」「それは失調した右手です」と言いきかされて療法を続けました。
つまり、療法士によるリハビリは、失われた機能を回復するというよりは「放置すれば退化してしまう身体機能をそのまま維持していくこと」に重点が置かれていることでした。大島さんは日々のリハビリ表現がそのまま社会復帰へとつながり、その後映画『御法度』を完成させたのでした。

二つ目は同じく脳卒中で死線をさまよった後帰還してきた免疫学者(能作者でもある)多田富雄(19342009)の『寡黙なる巨人』(集英社)。多田さんは2001年に仕事先で倒れ(脳梗塞)、重度の右半身不随、構語障害さらに嚥下障害に陥る。闘病生活については逐次エッセイ(「鈍重なる巨人」「死の中からの生」他)等で発表されました。
意識が戻ったとき、真っ先に死を願った。体は麻痺して寝返りもうてない。声も出ないから苦しさを訴えることもできない。舌が落ち込んで息ができないから、体を45度に傾けて寝ていなければならない。口からはなにも食べられず、体は何本もの管につながれていた。それでも大小便は出る。それをとってもらうのは地獄の苦しみだ。「強制的に生きさせられる者の受苦だ」とあります。
しかし、なんとか死地を脱したとき、「自分の置かれた状態」の受けとめの試練に多田さんはたちむかったのです。リハビリです。
―麻痺した右半身はもう元に戻るはずがない。医師の端くれだからそんなことはわかる。けれど、幸いかけ算も物の名前も覚えている。認識能力に異常はなかった。そうなら少しでも言葉が口にできるように、チューブからではなく口からものを食べることができるようにするべきだ。

はじめはベッドに座ることも、車椅子に乗り移ることもできない。人に抱えられながらリハビリ室に通う。口が利けないから、黙々と従うほかなかった。そんなある日、麻痺していた右足の親指がぴくりと動いた。予期しなかったことで半信半疑で、何度か試しているうちにまた動かなくなった。しかし、この事実は勇気を与えたのです。
「かすかな頼りない動きであったが、はじめての自発運動だったので私は妻と何度も確かめ合って喜びの涙を流しました。自分の中で何かが生まれている感じでした。…希望のあいまいな形が現れてきたような気がしました」(「鈍重なる巨人」)
ぴくりと動いた右足の親指から後遺症の現実を超えるいのちの源を感じ取ったのです。「体は回復しないが、生命は回復している。その生命は新しい人のものです」
「リハビリとは、単なる機能回復訓練ではない。生命力の回復、生きる実感の回復だ」
その後左手だけでパソコンを打ち文筆生活を送ることを可能にしたのでした。

関連して3冊目として多田富雄×鶴見和子の往復書簡『邂逅』(藤原書店・2003)を挙げました。社会学者(歌人でもある)の鶴見和子(1918-2006)さんは脳出血で倒れ運動神経は壊滅状態で左片麻痺の身体とともに11年現役として全うされましたが、その間多田さんと鶴見さんは病前には一度も相まみえることはありませんでした。
書簡の中で鶴見さんは、脳出血で倒れた後の自分の変化を「回生」という言葉にしてみせました。倒れた当初、まだ歩けないときには自分は死んだと思っていた。だが言語能力と認識能力は完全に残っていたので、自分は「半分死んで半分生きている、死者と生者がわたしのなかにともに生きている」そういう思いが続いた。そこに「歩いて回生の一歩をはじめる」リハビリへの展開があったのです。

鶴見さんはリハビリ訓練を当初は「回生の道場」と見て、「回生の花道とせむ冬枯れし田んぼにたてる小さき病院」と詠んでいます。しかし、病院を車椅子で出るわけにはいかない。歩いて出なければ。そんな熱い思いから「回生の花道」としたといいます。鶴見さんは書簡で多田さんに力説している。
1997年は、わたしにとって回生――本当の意味の『回生』元年になりました。そこで、それ以前と以後との違いを考えてみると、人間は倒れてのちにはじまりがある、決してそのままで熄むのではない。それは何かというと、人間にとって『歩く』ということは生きることの基本的な力になる。だから、もしその潜在能力が少しでも残っているならば、どうしても『歩く』ことが生きるために必要になります。わたしは、1995年に倒れたけれど、1997年に歩きはじめて、本当の意味での『回生』が始まったのです」

このように比較してみると、二人はリハビリテーションから独自なかたちで生命の源泉にふれていたことがわかります。
半身の自由と声とを失いながら脳梗塞から生還した多田富雄さんは「体は回復しないが、生命は回復している。その生命は新しい人のものです」というように。
そして脳出血から帰還した鶴見和子さんは、身体障害者として新しい人生を切り開く覚悟を「回生」ということばにして、こんな歌を遺しました。
感受性の貧しかりしを嘆くなり倒れし前の我が身我がこころ

この二人の巨人の肉声を通して、わたしは〈超寿〉ということばを受け取ったようにおもったのです。これは赤ん坊が直立歩行に向かい言葉を手にする(つまり、人間になる)満一歳までのバイタルパワーに匹敵する、生命意思のようなものにちがいありません。リハビリ訓練の何よりの力は、生への限りない意欲を高める〈超寿〉への刺激、揺さぶりにあるのです。さいごに多田さんのメッセージです。

「リハビリは単なる機能回復訓練ではない。心身に障害を負ったものの社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復、全人的復権である。ことばをしゃべる能力も直立二足歩行を回復することも基本的人権に属する」

2015年6月21日日曜日

アルツハイマー


アルツハイマー病の告知
この春、67歳の知人女性から「やっと第2の人生が始まるとおもったのに、認知症になった。アルツハイマー病です」とメールが届きました。認知症患者に同行したついでに検査の受けたというのです。まさかと、本人にも自覚症状はなく、簡易知能評価スケールでも27点(満点30点)。ライターとしての仕事になんの支障もでていない。ごく最近まで「告知」といえば、早期発見早期治療という立場からの「がん告知」をさしていました。

認知症といえばアルツハイマー病。高齢者の知的退行のもっとも多い疾患とされるもので、脳の萎縮と大脳皮質の老人班が特徴で症状が進行するといわれてきました。
この名称がひろく知られるようになったのは先進諸国が高齢社会を迎えた20年ほどのことで、そのエポックメーキングになったのは1994年、アメリカ合衆国元大統領ロナルド・レーガンの国民への次のようなメッセージからでした。
「先日、ある人からわたしはアルツハイマー病にかかっている数百万のアメリカ人の一人である、と告げられた。ナンシー(妻)と私は、私人としてこの事実を受け止めるか、あるいは世間に公表すべきか、決心しなければならなかった。そして私たちは、世間に公表することが重要だと感じた」(2004年6月5日死去)。
『ベン・ハー』でアカデミー賞に輝いた映画スターのチャールトン・ヘストンも「いまアルツハイマー病を患っている。もしあなた方の名前を思いだせなくなったり、同じはなしを繰り返したら、この病気のせいだ。ゆるしてほしい。役者としてこれまで恵まれた人生だった。わたしはまだ、あきらめないし屈伏もしない」と公表したのは2002年でした。

アルツハイマー病「第1症例」
アルツハイマー病とは、その特異症例を公表(1906年)した精神科医アロイス・アルツハイマーの名前がそのままつけられています。けれど、その信憑性はながいあいだ疑われていました。肝心の「第一症例」の記録が見当たらなかったからです。発掘(正確には再発見)されたのはレーガン元大統領の“告知”の翌年(1995年)、フランクフルト大学の病院地下の精神科書庫の奥からでした。
そのカルテは衝撃的な記載から始まっていた。
「あなたのお名前は?」
「アウグステ」。
「姓は?」
「アウグステ」
「あなたのご主人のお名前は?」「アウグステだと思います」
「ご主人ですよ?」「あっそう、主人の…」
19011126日にアルツハイマー自身が記載した第一患者アウグステ・Dの初日のカルテです(1901年といえば、第1回ノーベル物理学賞受賞者にレントゲンがいた)。   さらに3日後の記述もこうだ。
「ご機嫌はいかがですか」
「いつもと一緒です。いったい誰がわたしをここへ連れてきたんですか?」
「ここはどこですか?」
「さしあたって今いったようにお金がないんです。自分でもわからないわ、まったくわからないの、何ていうことなんでしょう、どうすりゃいいの?」
「お名前は?」
「D・アウグステ夫人!」
このような会話のやりとりに出くわすと、介護保険利用の際の要介護度アセスメント(記憶障害、見当織障害等の)と重なってくるほどそっくりです。
カルテの主はアウグステ・D。1850年5月16日生まれの鉄道書記官の妻、51歳。夫への不信から奇妙な行動をとるようになった。知人に対して恐怖心を抱く。家中のありとあらゆるものをどこかに隠し、あとで見つけることができなかった。アルツハイマーはそんな健忘症と病的な嫉妬の裏に特異な病気が潜むと考え、彼女が亡くなるまでの5年間毎日のように診察し詳細に記録し、そして死後に脳を解剖した。
その成果はその年の精神科医学会で「大脳皮質における特異で重篤な疾患の経過について」と題してアルツハイマー自身がスライド等をつかって発表した。会場には若き日のユングらもいたというが、質問もないまま見事に無視された。
この歴史的発表がなぜ注目されなかったのかは20世紀初頭の精神医学界の潮流と深く関係していたのはいうまでもありません。「第一症例」の発見者コンラート・マウラーはアルツハイマーの伝記(『アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡』(保健同人社)のなかでそのあたりも興味深く伝えています。

21世紀の病い
アルツハイマー(18641915)は、ベルリンの大学で精神病に脳病理学をとりいれた講義を聴いて「顕微鏡の精神医学」に関心をもったといいます。当時の精神医学には二つの潮流があり、もっとも力があったのは精神病の原因を心にもとめる精神派でその雄といえばいうまでもなくジクムント・フロイトでした。アルツハイマーはフロイトと並び“現代精神医学の父”と称された身体派の雄クレペリンのもとで精神病の解剖学的基盤の解明に取り組んでいたのです。けれど、脳を顕微鏡で覗いてなにがわかるのか、と学会ではまったく相手にされませんでした。関心がフロイトの精神分析のほうに集中していたのは当然でした。
しかし、フロイトに批判的だった師のクレペリンが、アルツハイマーの論文「大脳皮質の特異な疾患について」をもとに自身の教科書のなかで「臨床的解釈は現時点では不明である」としながらも、アルツハイマー病の名前をつけて分類し歴史上に刻印(1910年)したことです。

1915年、アルツハイマーが51歳で死去した際の弔辞・弔文でもアルツハイマー病にふれられることはなく、わずかに娘婿が「1906年、それまでに知られていない特異な疾患をアルツハイマーは詳細に記載した。大脳皮質に特異物質が沈着し、細繊維が太い束と叢に変化することがもっとも顕著な解剖的特徴である。今日われわれはこの病気をクレペリンにしたがい“アルツハイマー病”と呼んでいる」とふれただけだったのです。
病名として一人歩きしてきたアルツハイマー病の第一例「アウグステ・D」の詳細なカルテがコンラート・マウラーによって病院地下から発見されたのは80年後。そして「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断は誤りがなかった。彼が診断した患者アウグステ・Dは実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた」(1998年、フランクフルター・アルゲマイネ紙)と認知されたのです。

ざっと100年、精神科医アロイス・アルツハイマーは長寿の深淵をひらく病いを21世紀に届けたのです。