2019年7月11日木曜日

「いのち」の位相をひもとく

 ─病院医療から地域包括ケアへ

 少子高齢化社会の真っ只中で元号が「平成」から「令和」に代わった。この間、わが国の医療水準・介護水準・栄養水準・衛生水準等どれをとっても飛躍的に高くなったことだけは疑えないだろう。
 では、「いのち」の位相はどう変化したのだろうか。
 私が引き出した視点は長寿社会の分岐点となる介護保険法の施行(2000年)である。ここから「病院の世紀から地域包括ケアへ」という汽水域に入ったのではないか。そこから、「いのち」の位相を繙いておく。

 ▶いのちの社会学
 ①『病院の世紀の理論』 猪飼周平 有斐閣(2010
 20世紀の医療は治療医学として病院を中核として診療所との二元的な医療システムで繁栄してきた。「3時間待って3分間医療」と揶揄される一方で「病院死」は1976年に「在宅死」を抜いて「病院で生まれ病院で死ぬ」社会が定着し、そのまま「予防・治療・福祉」を包括した地域ケアに向かったとされる。他に『日本の医療 制度と医療』島崎謙治・東大出版会(2011

 ②『ケアの社会学 ─当事者主権の福祉社会学へ』 上野千鶴子 太田出版(2011
 急所は「ケアをすること、ケアをされること」にふれた4つの権利(ケアする権利、ケアされる権利、ケアを強制されない権利、(不適切な)ケアされることを強制されない権利)。「よいケア」とはケアされる者とケアをする者双方の満足を含まなければいけない。また、介護保険制度は、ケアワークが「不払い労働から支払い労働になった」ことを画期的な成果の一つとし、さらに次世代福祉社会の構想にもふれている。
 関連しては大熊由紀子『物語 介護保険(上下)(岩波書店・2011)がある。因みに「介護」が国語辞典に登場するのは昭和53年(「広辞苑」)である。

 ③『ナラティブ・ベイスト・メディスン 編集 T・グリーンハル&B・ハーウィ ッツ 斎藤清二他訳 金剛出版(2001
 今日の医学は、エビデンス・ベイスト・メディスン(科学的根拠に基づいた医療)によって大きな成果をあげてきた。けれど、人はそれぞれ自分の「ナラティブ(物語り」を生きており、「病気」もまた、その人の物語の一部であること。そこに注目したもう一つの医療が「ナラティブ・ベイスト・メディスン」
 たとえば、治療が不可能な場合や高齢者のケアには、その人がどのような「物語」を生きようとするのか。患者は自分の病について物語るために医師のもとにやってくる。それに応え援助する「対話」が還りの医療や福祉介護に大きな道をひらいていったのである。

 ▶いのちの場所
 HUMANITUDE(ユマニチュード)』イヴ・ジネスト&マレスコッテ 本田美奈子監修 辻谷真一郎訳 トライアリスト東京(2014
 「ユマニチュード」とはフランス語で「人間らしさ」を意味する。本書は体育学を専攻した二人のフランス人による、認知症の人や高齢者など、ケアを必要とする人に向けたコミュニケーションの哲学であり、その技法を指している。具体的には「見る」「話す」「触れる」「立つ」という人間の特性に働きかけることでケアを受ける人に「自分が人間であること」「大切な存在であること」を伝える。わが国でも支持され広まったケアの技法の第一は「あなたに会いに来た」ことを示すことから始まる。その他、同著者による『「ユマニチュード」という革命』 誠文堂新光社(2016)がある。

 ⑤『「在宅ホスピス」という仕組み』 山崎章郎 新潮選書(2018
 平成2年(1990)、一般病院での悲惨な終末期医療の現状を訴え、ベストセラーとなった『病院で死ぬということ』(主婦の友社)から30年。ホスピス運動の旗を振り続けてきた著者の到達点。落ち着いた居場所は在宅診療専門診療所。年間100万人の介護者と150万人の病死者が日常となるという「2025年問題」を前にした、尊厳ある死を迎えるためのテキストといえる。
 関連して、都道府県別の老衰死率と在宅死率等の分析から捉えた『地域医療と暮らしのゆくえ』高山義浩 医学書院 2016)。さらに、地域共同体が崩れていく中で「看取り」の文化を継承する民家再生活動を立ち上げた女性たちの『ホームホスピス「かあさんの家」のつくり方』市原美穂 木星舎 2011)をあげておきたい。
 ※
 これらを「ひもとく」際に下支えしてくれた文献をここで補っておこう。『いのちとは何か 幸福ゲノム・病』本庶佑 岩波書店(2009)。『養育事典』芹沢俊介、山口康弘他編 明石書店(2014)。『中動態の世界』國分功一郎 医学書院(2017)。『バイオエシックス その継承と発展』丸山マサ美編 川島書店(2018)。そして『サピエンス全史』(上下)ユヴァル・ノア・ハラリ 柴田裕之訳 河出書房新社(2016)


2019年4月3日水曜日

「もしバナゲーム」ー“人生会議”(そのⅡ)



「終活」ということばは平成生まれ(2012年)の新語・流行語だ。人生さいごを迎える際の準備や始末を指す。一般的には葬儀や墓、遺産相続などが取り上げられることが多い。けれど、人生の最期にはもう一つ「いのちの始末」が先行している。終末期医療に介護など切実である。さらに尊厳死とか孤独死に平穏死といったことばも目につくようになった。一言でいえば、長生きする時代は死が見えるようにもなったことだ。そして医師はエビデンス(科学的根拠)から「そう遠くない日に…」とか「後1年です」と断言するかもしれない。そのとき、私たちはどう受け止め向き合うことができるだろうか。
ところが、そんな「もしものための話し合い」を想定した「もしバナゲーム」というカード遊びが巷に拡がっている。そこで遅ればせながら、ある街のデイサービス・カフェにでかけて、リクリエーション・ワークに参加してみた。その感想が以下である。

”人生会議”のゲーム化
カードは1セット36枚。そのうちの35枚には重い病気や、死が近づいたときの意思や願い事が書かれている。「祈る」の一言ですむかもしれないが、多くは友人や家族、さらには医師への訴えがゲームカードになっている。
「家で最期を迎える」「家族の負担にならない」だったり、「呼吸が苦しくない」とか「だれかの役に立つ」、「機械につながれていない」など。また、「自分が何を望むのか家族と確認することで口論を避ける」のカードもある。つまり系統だった言葉が用意されているのでもない。残りの1枚は「ワイルド・カード」で、独自の希望があるときに使う(例・「さいごは好きな楽曲を聴きたい」)。
一人遊びなら36枚のカードから、〈①私にとって、とても重要 ②私にとって、ある程度重要 ③私にとって、重要でない〉の3つに振り分けてみるといい。これまでは考えてもいなかった言葉が目に止まり、おもわず自身の死生観が見えてくるかもしれない。
私が加わった4人一組のレクリエーションルールをあげてみよう。
①各プレイヤーに5枚ずつカードを配り(計20枚)、次に場に5枚のカードを表向きに置く。残りのカードは中央に積む。
②プレイヤーは自分の順番が回ってきたら手札の中から不要なカードを一枚、場に置かれた札と交換する。その繰り返しで積み札がなくなったらゲーム終了。
③各人は手元にある5枚のカードから特に大事だとおもうカードを3枚選ぶ。選んだカードを開示して、みんなに説明する。
すると、「祈る」「自分の人生を振り返る」「不安がない」というカードを見せながら、もう1枚「誰かの役に立つ」のカードも捨てがたいと口にした男性がいた。また、「あらかじめ葬儀の準備をしておく」「お金の問題を整理しておく」の2枚を手にして、これで安心して逝くことができます、と微笑んだのは御婦人だった。もちろん、ここで第三者の批判があってはならない。
この場にもし、医師や看護師や介護関係者が参加していれば、どうなるだろうか。厚労省が昨年暮に「(終末期の)患者の意思決定支援」会議の愛称を「人生会議」と命名したACP(Advance Care Planning)の集う場面と重なっている(“人生会議”そのⅠ 参照)。つまり、「もしバナゲーム」は「人生会議」をそのまま遊戯化したものだともいえそうである。

終末期のゲームあそび
人生の最後の”願いや訴え”をことばカードにして遊戯化してしまう。
この力技はどこから引き出されるのだろうか。そんな問い方には、名著ホモ・ルーデンス(遊ぶひと)』ヨハン・ホイジンガ 1938年)を重ねてみることができる。そこには「遊び」こそホモ・サピエンス(賢いひと)である所以だ、人間と文化の本源的な要素だと述べられている。ちなみにホイジンガは遊戯という概念について、日本語の「遊び(名詞)」と「遊ぶ(動詞)」から、「緊張のゆるみ、娯楽、時間つぶし、気晴らし、物見遊山、賭け事、無為安逸、何かを演ずる、模倣する…」等、多彩でかつ深い「遊び」文化に言及(第2章)しているほどである。
また、学びは遊びから、ということばもある。スクール(学校)の始まりはスコーレ(遊び)からきている。あらためて “いのちことば”を集めてなった「もしバナゲーム」はホモ・ルーデンス(遊ぶひと)の強かさを示しているといっていいかもしれない。

2019年1月11日金曜日

”人生会議"  ー制度化された終末期ケアをめぐって



 《ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」に決定しましたー 人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合う取り組み、「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」について、愛称を「人生会議」に決定しましたのでお知らせします。》
      ☆
 上記は師走を前にした平成301130日(金)、厚労省のホームページ(照会先・医政局地域計画課)の掲示板である。
この見出しを読んでみて即座に理解できた人はどれだけいただろうか。ここでACP(advance care planning)とは、平成30年度診療報酬改定に際して、看取り加算の要件となった「(終末期の)患者の意思決定支援」に基づく「事前ケア計画」会議のこと。その愛称を公募した結果、千件を超える応募数から「人生会議」としたという報告だった。
「人生の最終段階の医療」とは、病院の延命治療に限らない在宅医療や介護の現場等での死を迎える時期をさしている。また、悪性腫瘍、心不全・呼吸不全等の時期や、認知症さらにはフレイル(健常から要介護へ移行する段階)でも終末期判断はある。医師が一年以内に亡くなるかもしれないと判断できそうならACP(人生会議)は奨励されるという。その際の主題になるのは、たとえば、
①人生最後を過ごしたい場所は?(自宅、病院、介護施設、その他)。
②自分で食べることができなくなり、回復もできないと判断された時の栄養手段は?(経鼻チューブ栄養、中心静脈栄養、胃ろう…)、
③医師が回復不能と判断した時に、してほしくないこと?(心肺蘇生、人工呼吸器、気管切開…)。さらに、④患者の意思確認が不可能な場合、誰に?(家族、代理人)等。
こんな重たいことを確かめ聞き出す会合を「人生会議」にしようというのだ。その会議には患者・家族を真ん中に主治医、看護師、ケアマネージャー、介護福祉士など多職種の医療ケアチームが取り囲んでいる「地域包括ケア」の構図と重なってみえる。
ここで意思決定のキーワードを思い浮かべると、けっして簡単ではない。家族との関係性、地域性、文化などがその人の価値観や意思決定に関わるからだ。話し合いは繰り返し行われることや、本人の希望が変わってもよいことも前提になる。それだけに戒めも必要であろう。心の準備ができていない人に決めることを要求したり、事前指示書の作成を目的にしてしまったり。
主役はあくまでも患者本人。患者の意思や心の揺れを見逃さないで、繰り返し話し合うことが求められる。
関連して厚労省は、1130日(いい看取り・看取られ)を「人生会議の日」「人生の最終段階における医療・ケアについて考える日」と命名している。私達は今日、人生最後の死に方まで医療の手を借りないと生涯を全うすることができないということだろうか。
     ☆
ここで、在宅医の鐘ヶ江寿美子さん(佐賀県小城市)から聴いた“3つの死”を引き合いにしてみよう。
末期がんのOさん(78歳)との在宅診療初日のこと。Oさんは「私はこれまで、三度死んだんです」と語りだした。1つは40歳時の交通事故による左下肢切断(それに伴う職業の大転換)。2つは76歳時に余命1~2年とされた前立腺がん(ステージⅣ)。3つ目はその直後のレビー小体型認知症(幻視・幻聴)。この「三つの死」は当初は妻が聞き役だった。今度は医師が聞き手になった。そして2年後、妻に面倒かけたくないと自ら病院に入院し亡くなったという。「三つの死」はたしかに生きてきた徴、「生きてきてよかった」というOさんのメッセージだったのではないか、それが鐘ヶ江医師の感想だった。
「人生会議」とは、そんな聞き手、受けとめ手になる人によって、いのちを伴奏するケアのかたち」が整うことではないか。わたしたちはそれを「ファミリー・トライアングル」と呼んでいる。OさんにはB(家族)とC(医師)という陣形(三角形)ができている。声をかけ(コーチング)、目で合図する(アイ・コンタクト)と、「共にいる」ことに根ざした共感が支えになっている。三人目、三番目の役割が支えになるはずである。関連して、作家の柳田邦男さんには「二・五人称」という表現がある。一人称は私(患者)、二人称は家族や恋人、そして三人目の医師や看護師や介護の専門家は、患者や家族に寄りそっていく「二・五人称」の視線が大事だと。

2018年10月13日土曜日

看護という道標 -漱石の時代の看護(2)


●制度としての看護・介護
今年(2018年)は明治・大正・昭和・平成期を経て“明治150年”にあたる。この間、平均寿命は男女とも80歳を超え、100歳以上の長寿者は6万人を超えている。明治33(1900)年は男女とも44歳、昭和三〇(1955)年は男63歳・女68歳、そして平成三〇(2018)年は男81歳・女87歳(資料・厚生統計協会)。生涯余命の平均は40歳から80歳と2倍に、「人生40」から「人生80」になった。このライフサイクルに後れをとりながらも病院化社会(20世紀)、そして「介護社会」(21世紀)をむかえたということだろう。
 それだけに今日の医療は、病の治癒や健康だけを対象にしているわけではない。脳死・臓器移植医療から生殖医療、再生医療等の分野まで、生命操作が自在になって生と死の境界を押しひろげるまでになってきている。
 さらに、医療の高度化、病院化システムによって、臨床の場でも看護という職種は多様化、高度化・専門分化が進み、日本看護協会では「認定看護師」(救急看護、認知症看護、乳がん看護など21分野)や「専門看護師」(がん看護、家族支援、在宅看護など13分野)を積極的に奨励するなど、長寿・医療社会に欠かせない役職を身につけようとしている。
 そして介護保険制度は、サービスが始まった2000年度は介護認定者は156万人だったが、現在は600万人を超えている。認定を受けた人の8割は自宅、あるいは「自宅ではない在宅」(サービス付き高齢者向け住宅など)で利用するが、介護従業者はケアマネージャー(介護支援専門員)やホームヘルパー(訪問介護員)をはじめ、医師・看護師、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士、管理栄養士・調理員等、さらにデイサービスや介護施設で働く介護職員など180万人以上の従業者(19種類あるという)に支えられている。
 
道標としての看護・介護
そうした専門資格者に支えられた今日の社会にあって、「漱石の時代の介抱・看病・看護」(『看護師のための明治文学』 ※表紙画像をクリック)はどう見えるのだろうか。
 明治といえば西欧医学の導入(医制)は明治7年、看護婦学校も明治19年、派出看護婦が定着したのも明治30年代になってから。人生50年の時代、正岡子規は35歳、石川啄木は27歳、夏目漱石は49歳という生涯だったが、それぞれ看護への思い入れは強かった。
 わが国では早い時期にレントゲン体験をした一人の石川啄木は、これも導入されて間もない聴診器を胸にあてられ、「思うこと盗みきかるる如くにて つと胸を引きぬ  聴診器より」と不安がりながらも「看護婦が徹夜するまで わが病い わるくなれとも密かに願える」と、入院中に看護婦への甘美なおもいを歌にしている。
 正岡子規は「看護婦として病院で修業することは医師の助手なること」で介抱とは違う、「病人を介抱するというのは病人を慰めること」だと訴えている。
 夏目漱石は、看護婦が「50グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌を混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた際。余は雀の子か烏の子のような心持ちがした」とい、「それは(看護という)仕事に溶け込んでいる好意である」とさえ記している。
 ☆
 これら、明治の文豪が身をもって訴えていた事柄は今日の専門性と技術向上に向かう医療・看護からは置き去りにされ無視されることばになっているのだろうか。求めていたのは、「(患者の)いのちの物語に寄りそってほしい」という感情であろう。
「いのちの物語」とは「生・老・病・死」といういのちのできごと。ここで生はいのち、老いもいのち、病もいのち、死もいのち。そんないのちの物語に手をさしのべ寄りそうことが「看護の本源」。そう問いかけていたようにみえる。
 さらに補足すれば、「看護」という概念は抱擁・介抱、看病・介護、看取りをとりこんだ温かい「いのちことば」なのだ。

2018年10月7日日曜日

さいごまで「自分らしく」あるために


 厚生労働省の人口動態統計から「死因別死亡率の推移」を追いかけていくとすぐ分かることがある。出生率は減少し年間100万人を割ろうという気配に対して死亡者は年間150万人に近づいている。死因も悪性新生物(がん)、心疾患、脳血管疾患に加えて、近年は肺炎と老衰が順位をあげてきている。まさに長寿社会、高齢者の増大に見合った傾向である。
 死亡診断書は、いつ・どこで・どんな理由で死亡したかが明示されるが、死亡原因に基づき死因の種類は次のように12番まで並んでいる。
1、病死及び自然死 2、交通事故 3、転倒・転落 4、溺水 5、煙・火災及び火焔による傷害 6、窒息 7中毒 8、その他の外因死 9,自殺 10、他殺 11、その他及び不詳の外因 12、不詳の死。
ほとんどが病死及び自然死。とはいえ死因は病気とはかぎらない。蜂に刺されて死ぬこともあれば、心疾患の患者が階段から足を踏み外して死ぬこともある。とにかく医師はこのどれかに〇印をつける(認定する)。死亡診断書の作成(出生証明書も)は“死亡診断書士”とでも呼ぶべき医師の特権事項なのである。たとえば、山の遭難事故等で「心肺停止状態で発見」という報道は医師による死亡認定以前の状態ということになる。葬儀・埋葬や戸籍抹消登記には不可欠の書式である。それだけに厚労省が発行している「死亡診断書記入マニュアル」は三十数ページと細かい指示も多い(ホームページで誰でも閲覧できる)。ことに死亡の原因欄には老衰や、終末期状態としての心不全、呼吸不全等はできるだけ記載しないようにと注意書きも細かい。

 老衰死、病院死、在宅死
 昨年、亡くなった日野原重明さんは、入院先の聖路加国際病院から自宅に帰り、経管栄養や点滴も断り静かに亡くなった(105歳)。見事な自然死。そして死因欄には呼吸不全と記載されていた。また、先頃亡くなった女優の朝丘雪路(82歳)さんの死因はアルツハイマー病認知症、とあった。著名人の死亡記事には死因に関心があつまるが、『「平穏死」のすすめ』の著者でもある特別養護老人ホームの常勤配置医師石飛幸三さんは「高齢者の死は大半が寿命であり老衰であり、病死とはいいがたい」と指摘している。「老衰」の記載を肯定している。
 新著の『さいごまで「自分らしく」あるために』(春秋社)に収録された在宅ケア研究会の全国大会のシンポジウムで二ノ坂保喜医師が「死亡診断書の記載」にふれて、「老衰とはできるだけ書くな、とあるが、近年は在宅や施設で診た患者さんの中では明らかに老衰だといえる人たちが増えてきています。その体にはたしかにがんもあるが、がんで死ぬんじゃなくて老衰だと思うときは、僕は堂々と『老衰』と書こうと決めています」と発言している。
 また、それに呼応してホスピス医の山崎章郎さんは「病院での死というのは、専門医によって管理された病死ということになるが、本人が希望されて家で亡くなる在宅死は家族によって支えられ、人生を生きぬいた物語として、老衰死は日本人には納得のいく“息をひきとる”という自然な死に方だ」という。

 「老衰死」ができる地域の可能性
 在宅医の高山義浩さんは『地域医療と暮らしのゆくえ』(医学書院)で、高齢者が自分らしく暮らせるように支えるのが「地域包括ケアシステム」だとすれば、老衰死ができる地域づくりと重なると指摘している。
 高山医師は都道府県別の老衰死率と在宅死率を取りあげているが興味深い着想である。ここで在宅死はいわゆる自宅死を指してはいない。高齢者が日常生活をしている場を「在宅」と呼んでいる。各地で定着してきたグループホーム、サービス付き高齢者住宅など、食事を共にする場を含めて「在宅」と見なしている(政府の指針も同じ)。そこから「在宅医療」をとらえなおす指標を探し出している。その際の医療の役割は次の四つだという。
 第1は療養支援。患者や家族の生活を支える観点からの多職種協働による医療の提供。
 第2は退院支援。病気や障害をもって退院する患者が自分の人生をどのように歩むかを選択し、適切な医療やケアを受けながら生活するための支援。
 第3は急変時対応。患者の病状が急変したときの緊急往診体制および入院病床の確保。
 第4は看取り。住み慣れた自宅や施設など、患者と家族が望む環境での人生の最終段階における医療の提供。
 これらの機能を医療がはたせば、たしかに在宅死(つまり老衰死ができる)を支える輪郭は見えるだろう。けれど、さいごに私たちが試されるのは「いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死行くを」(斎藤茂吉『赤光』)という場を描けるかどうかにかかわっている。

2018年4月10日火曜日

介抱と看病 ~漱石の時代の看護(1)



夏目漱石没後100年(平成28年)と、生誕150年(平成29年)を記念した「漱石と子規-友情の足跡」展を新築の漱石山房記念館(都内新宿区早稲田南町)でみる機会があった。
夏目漱石と正岡子規は大政奉還の年(慶応3年 1867年)生まれ。さしずめ明治一五〇年ともかさなる。東京生まれの漱石は若い頃は煉瓦造りの西洋建築に魅せられ建築家を志し、四国松山出身の子規は当時盛んだった自由民権運動の影響を受け政治家を志して上京した。そんな二人が出会い、互いに切磋琢磨しながら近代文学に大きな足跡を残すことになるが、もう一つ“人生50年”時代の生き死に(明治期の平均寿命は42歳)に正面から取り組んだ二人の物語としてとらえる視点があることに気づいた。

子規は、29歳で脊錐カリエスと診断され、その後は「牀六尺180センチ)」を「我が世界」にして生き35歳で逝った。この病床でさえ広過ぎる。「僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。…苦痛、煩悶、号泣に麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪るはかなさ」と記して叫ぶ。
 秋の蠅追へばまた来る叩けば死ぬ
 活きた目をつつきに来るか蠅の声
この日々のつらさから、「精神的と形式的」の介抱・看病論を述べている。「精神的の介抱といふのは看護人が同情を以て病人を介抱する事である。形式的の介抱といふのは病人をうまく取扱ふ事で、例へば薬を飲ませるとか繃帯を取替へるとか、背をさするとか、足を按摩するとか、着物や蒲団の工合を善く直してやるとか、そのほか浣腸沐浴は言ふまでもなく、始終病人の身体の心持よきやうに傍から注意してやる事。食事の献立などをうまくして病人を喜ばせるなども必要なる一カ条である」。(「病牀六尺」六十九)
ちなみに病院で修業する看護婦は医師の助手のようなもので病気の介抱には役にたたないとしている。そして絶命12時間前に筆記されたという絶筆の3句をあげておく。
 糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合はず
 をととひのへちまの水も取らざりき

一方、子どものころから病と慣れ親しんできた漱石は、43歳のおり胃潰瘍で入院した後、療養先の温泉宿で「修善寺の大患」と呼ばれる吐血体験を「30分の死」と名付け、そこから「則天去私」(私情を捨て去って天の心にしたがう)へと舵をきったといわれている。その契機となった一端は医師や看護婦の介抱・看病の所作に“好意”を観たことも大きかったのではないか。
 「看護婦は五十グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌と混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀の子か烏の子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の献立表を作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを撰んで、あとはそれぎり反故にした」(『思い出す事など』)。
 「医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実も葢もない話である。けれども彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼等の所作がどれほど尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである」(同前)と。
漱石はその後も何度か入院生活をしながら医師や看護婦観察を忘れず、『行人』『それから』などに体験エピソードを盛り込んでいる。漱石山房で息をひきとったのは四九歳。二人はそれぞれの人生を生ききった。

関連してもう一つ。漱石が入院したとき見舞いに来たひとりに石川啄木(1886-1912)がいる。啄木は、漱石の「修善寺の大患」の翌年、東京大学付属病院に施療患者として入院している。病名は腹膜炎。40日間の入院中に作歌したものは多い(『悲しき玩具』)が、病院詠の冒頭に載っているのが次の歌である。
 重い荷を下ろしたやうな
 気持なりき、
 この寝台の上に来ていねしとき。

 病院に来て、
 妻や子をいつくしむ
 まことの我にかへりけるかな。
入院となれば憂鬱で嫌なはずだが、病の身をあずける室を得た啄木は「重い荷を下ろ したやうな気持」だという。その一方で、日ごろは家族への思いなど考えることもないのに、家にいる妻や子がいとおしく思えてくるという。けれど、ここが介抱・看病・看護という「好意」に身をゆだねる室であったわけでもなかったのだ。

 話しかけて返事のなさに
 よく見れば、
 泣いてゐたりき、隣りの患者。

 夜おそく何処やらの室の騒がしさは
 人の死にたらむと、
 息をひそむる。
          (『看護師のための明治文学』へのメッセージ)

2018年1月14日日曜日

創めること。無事であること  -「老齢」を寿ぐ


 師走に飛び込んでくる喪中はがき、年明けにやってくる年賀状。前者は身近な人の消息が伝えられ、「年末年始のご挨拶はご遠慮申し上げます」。後者は、謹賀新年、迎春。「おめでとう。ご健康を祈ります」。こんなかたちでいつもの年越しバトン・リレーが続いている。
 ところが、私も75歳、れっきとした高齢者の一人。届く喪中はがきは年々増えて今年、数えてみたら14通も。「母、享年102歳」「父98歳」等の記述にはもう驚かないが、同世代からは「妻」や「夫」、兄妹の死が伝えられるようになった。また、賀状にも「92歳を前にして夫と老人ホームに居を移し終の住処とします」という転居通知を兼ねたものから、「高齢になり本年をもちまして新年のご挨拶を失礼させていただきます」の類も。それぞれに、身終いの気配が漂っている。
 ちなみに、わたしが賀状に記したメッセージは、亡き愛犬ロッシュの穏やかな涙目写真に「2018年。ご無事で」というものだった。

●創めること
 そんな年明けに小冊子『老老介護「いろは歌」』(私家版)が届いた。長野県諏訪市の平林英也さん(82歳)からの贈り物だった。20年ほど続けている諏訪湖半での「いのちのセミナー」に通っている方の、故人となった妻はるよさんとの晩年の交歓絵本。かつては優秀な精神科ナースだったという愛妻の認知症発症後の老老介護の日々(89歳没)が「いろは歌」の形式で遺されたのだった。

 「い」一日の始まりは、挨拶から
 夫「おはようございます」
 妻「今日はよろしくお願いします」
 この挨拶に続いて「夫婦の生年月日」「結婚記念日」に「住所」を毎朝、家内に言わせます。それは「今日」もいのちを与えられ、生きていることの証を、少しでも味わってほしかったためです。家内は、朝の挨拶のとき、よく言いました。
 「お互いに、どこも悪いところがなくて、よかったね」
 このことばを口にする家内は、幸せそのものでした。
 二人の気持ちがひとつになり、
 〈You are My Sunshine」をよく歌いました。

 綴られているのは、介護のつらさではない。「礼を言う妻のこころは、感謝の泉」とか「ゆ -豊かなこころは、忘却から」をあげてもいい。平林さんはいう。「わたしは、老老介護こそ〈新老人〉の生き方だとおもってやり遂げました」。どういうことだろうか。
〈新老人〉とは「次の世代若い人に、いつか来る人生の午後(老年期)のモデルになる」生き方が求められていた。105歳で亡くなった日野原重明さんが立ち上げた「新老人の会」の活動理念だった。
具体的なスローガンは、①愛し愛されること、②創(はじ)めること、③耐えること。なかでも、②は、何歳になっても「(なにかを)創めること」を忘れないこと。③の「耐えること」は人生の生き方が問われるもの。「耐える」という経験によって感性が磨かれ、不幸な人への共感と支える力が備わる。「新老人の会」は75歳以上をシニア会員、60歳以上をジュニア会員、20歳以上をサポート会員として、10年後(日野原さん100歳のとき)には10万人に達した。
平林さんは、この三つのスローガンに老老介護の原点を求めたのだった。とくに世間では否定的にとらえられる老老介護を「創める」ことは老人の「新しい生き方」に導くものにちがいない。それが〈新老人〉の生き方だ。「始まる」ではなく「創める」ということばに励まされて「いろは歌」が誕生したのである。

 ●無事であること
 ところで、私の賀状メッセージ「ご無事で」には、松飾りが街から消えたころ瀬戸内の島に住むK女がメールで応えてくれた。高校時代のクラスメートで、若いころから病いと戯れ、宥めてきたひとだ。
「ご無事で新年を迎えられた由。うれしくおもいます。この歳になると流石に次々といろんな事がありました。身内の死去や病気や怪我に心休まりません。7〜8月に危険な肺炎にかかり命の駆け引きをしましたが、相変わらず持ち前のしぶとさで復活しました。今は腰の問題を抱え年末にMRIをして一ヶ月ほど。…でもね、呑気に笑って本を読んでのおばあさん暮らしは少し早い。(笑)
 毎日家の周りにくる野鳥に癒されています。デッキにヤマガラ・シジュウガラ・メジロ・シロハラ・ツグミ・ヒヨドリ・ジョウビタキ・イソヒヨドリが常時きて賑やかです。トラツグミも姿を見せラッキーでした。ぶとカラス・ほそカラスや雀の群れもホオジロも来ています。
 今年はキジバトが玄関前の大きなトネリコの木に二度営巣し、見守るうち雛鳥の姿も見ましたが、周辺に居続けるハシブトカラスに襲われたらしく、巣立ちまでを見届けることは出来ませんでした。これは悲しい出来事の一つでした。まずは呑気な鳥談義でご挨拶を 又」

 「無事」はいのちの現在。老いにはかけがえのない力を誘うものなのである。無事の一年を祈ろう。