2018年10月13日土曜日

看護という道標 -漱石の時代の看護(2)


●制度としての看護・介護
今年(2018年)は明治・大正・昭和・平成期を経て“明治150年”にあたる。この間、平均寿命は男女とも80歳を超え、100歳以上の長寿者は6万人を超えている。明治33(1900)年は男女とも44歳、昭和三〇(1955)年は男63歳・女68歳、そして平成三〇(2018)年は男81歳・女87歳(資料・厚生統計協会)。生涯余命の平均は40歳から80歳と2倍に、「人生40」から「人生80」になった。このライフサイクルに後れをとりながらも病院化社会(20世紀)、そして「介護社会」(21世紀)をむかえたということだろう。
 それだけに今日の医療は、病の治癒や健康だけを対象にしているわけではない。脳死・臓器移植医療から生殖医療、再生医療等の分野まで、生命操作が自在になって生と死の境界を押しひろげるまでになってきている。
 さらに、医療の高度化、病院化システムによって、臨床の場でも看護という職種は多様化、高度化・専門分化が進み、日本看護協会では「認定看護師」(救急看護、認知症看護、乳がん看護など21分野)や「専門看護師」(がん看護、家族支援、在宅看護など13分野)を積極的に奨励するなど、長寿・医療社会に欠かせない役職を身につけようとしている。
 そして介護保険制度は、サービスが始まった2000年度は介護認定者は156万人だったが、現在は600万人を超えている。認定を受けた人の8割は自宅、あるいは「自宅ではない在宅」(サービス付き高齢者向け住宅など)で利用するが、介護従業者はケアマネージャー(介護支援専門員)やホームヘルパー(訪問介護員)をはじめ、医師・看護師、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士、管理栄養士・調理員等、さらにデイサービスや介護施設で働く介護職員など180万人以上の従業者(19種類あるという)に支えられている。
 
道標としての看護・介護
そうした専門資格者に支えられた今日の社会にあって、「漱石の時代の介抱・看病・看護」(『看護師のための明治文学』 ※表紙画像をクリック)はどう見えるのだろうか。
 明治といえば西欧医学の導入(医制)は明治7年、看護婦学校も明治19年、派出看護婦が定着したのも明治30年代になってから。人生50年の時代、正岡子規は35歳、石川啄木は27歳、夏目漱石は49歳という生涯だったが、それぞれ看護への思い入れは強かった。
 わが国では早い時期にレントゲン体験をした一人の石川啄木は、これも導入されて間もない聴診器を胸にあてられ、「思うこと盗みきかるる如くにて つと胸を引きぬ  聴診器より」と不安がりながらも「看護婦が徹夜するまで わが病い わるくなれとも密かに願える」と、入院中に看護婦への甘美なおもいを歌にしている。
 正岡子規は「看護婦として病院で修業することは医師の助手なること」で介抱とは違う、「病人を介抱するというのは病人を慰めること」だと訴えている。
 夏目漱石は、看護婦が「50グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌を混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた際。余は雀の子か烏の子のような心持ちがした」とい、「それは(看護という)仕事に溶け込んでいる好意である」とさえ記している。
 ☆
 これら、明治の文豪が身をもって訴えていた事柄は今日の専門性と技術向上に向かう医療・看護からは置き去りにされ無視されることばになっているのだろうか。求めていたのは、「(患者の)いのちの物語に寄りそってほしい」という感情であろう。
「いのちの物語」とは「生・老・病・死」といういのちのできごと。ここで生はいのち、老いもいのち、病もいのち、死もいのち。そんないのちの物語に手をさしのべ寄りそうことが「看護の本源」。そう問いかけていたようにみえる。
 さらに補足すれば、「看護」という概念は抱擁・介抱、看病・介護、看取りをとりこんだ温かい「いのちことば」なのだ。

2018年10月7日日曜日

さいごまで「自分らしく」あるために


 厚生労働省の人口動態統計から「死因別死亡率の推移」を追いかけていくとすぐ分かることがある。出生率は減少し年間100万人を割ろうという気配に対して死亡者は年間150万人に近づいている。死因も悪性新生物(がん)、心疾患、脳血管疾患に加えて、近年は肺炎と老衰が順位をあげてきている。まさに長寿社会、高齢者の増大に見合った傾向である。
 死亡診断書は、いつ・どこで・どんな理由で死亡したかが明示されるが、死亡原因に基づき死因の種類は次のように12番まで並んでいる。
1、病死及び自然死 2、交通事故 3、転倒・転落 4、溺水 5、煙・火災及び火焔による傷害 6、窒息 7中毒 8、その他の外因死 9,自殺 10、他殺 11、その他及び不詳の外因 12、不詳の死。
ほとんどが病死及び自然死。とはいえ死因は病気とはかぎらない。蜂に刺されて死ぬこともあれば、心疾患の患者が階段から足を踏み外して死ぬこともある。とにかく医師はこのどれかに〇印をつける(認定する)。死亡診断書の作成(出生証明書も)は“死亡診断書士”とでも呼ぶべき医師の特権事項なのである。たとえば、山の遭難事故等で「心肺停止状態で発見」という報道は医師による死亡認定以前の状態ということになる。葬儀・埋葬や戸籍抹消登記には不可欠の書式である。それだけに厚労省が発行している「死亡診断書記入マニュアル」は三十数ページと細かい指示も多い(ホームページで誰でも閲覧できる)。ことに死亡の原因欄には老衰や、終末期状態としての心不全、呼吸不全等はできるだけ記載しないようにと注意書きも細かい。

 老衰死、病院死、在宅死
 昨年、亡くなった日野原重明さんは、入院先の聖路加国際病院から自宅に帰り、経管栄養や点滴も断り静かに亡くなった(105歳)。見事な自然死。そして死因欄には呼吸不全と記載されていた。また、先頃亡くなった女優の朝丘雪路(82歳)さんの死因はアルツハイマー病認知症、とあった。著名人の死亡記事には死因に関心があつまるが、『「平穏死」のすすめ』の著者でもある特別養護老人ホームの常勤配置医師石飛幸三さんは「高齢者の死は大半が寿命であり老衰であり、病死とはいいがたい」と指摘している。「老衰」の記載を肯定している。
 新著の『さいごまで「自分らしく」あるために』(春秋社)に収録された在宅ケア研究会の全国大会のシンポジウムで二ノ坂保喜医師が「死亡診断書の記載」にふれて、「老衰とはできるだけ書くな、とあるが、近年は在宅や施設で診た患者さんの中では明らかに老衰だといえる人たちが増えてきています。その体にはたしかにがんもあるが、がんで死ぬんじゃなくて老衰だと思うときは、僕は堂々と『老衰』と書こうと決めています」と発言している。
 また、それに呼応してホスピス医の山崎章郎さんは「病院での死というのは、専門医によって管理された病死ということになるが、本人が希望されて家で亡くなる在宅死は家族によって支えられ、人生を生きぬいた物語として、老衰死は日本人には納得のいく“息をひきとる”という自然な死に方だ」という。

 「老衰死」ができる地域の可能性
 在宅医の高山義浩さんは『地域医療と暮らしのゆくえ』(医学書院)で、高齢者が自分らしく暮らせるように支えるのが「地域包括ケアシステム」だとすれば、老衰死ができる地域づくりと重なると指摘している。
 高山医師は都道府県別の老衰死率と在宅死率を取りあげているが興味深い着想である。ここで在宅死はいわゆる自宅死を指してはいない。高齢者が日常生活をしている場を「在宅」と呼んでいる。各地で定着してきたグループホーム、サービス付き高齢者住宅など、食事を共にする場を含めて「在宅」と見なしている(政府の指針も同じ)。そこから「在宅医療」をとらえなおす指標を探し出している。その際の医療の役割は次の四つだという。
 第1は療養支援。患者や家族の生活を支える観点からの多職種協働による医療の提供。
 第2は退院支援。病気や障害をもって退院する患者が自分の人生をどのように歩むかを選択し、適切な医療やケアを受けながら生活するための支援。
 第3は急変時対応。患者の病状が急変したときの緊急往診体制および入院病床の確保。
 第4は看取り。住み慣れた自宅や施設など、患者と家族が望む環境での人生の最終段階における医療の提供。
 これらの機能を医療がはたせば、たしかに在宅死(つまり老衰死ができる)を支える輪郭は見えるだろう。けれど、さいごに私たちが試されるのは「いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死行くを」(斎藤茂吉『赤光』)という場を描けるかどうかにかかわっている。

2018年4月10日火曜日

介抱と看病 ~漱石の時代の看護(1)



夏目漱石没後100年(平成28年)と、生誕150年(平成29年)を記念した「漱石と子規-友情の足跡」展を新築の漱石山房記念館(都内新宿区早稲田南町)でみる機会があった。
夏目漱石と正岡子規は大政奉還の年(慶応3年 1867年)生まれ。さしずめ明治一五〇年ともかさなる。東京生まれの漱石は若い頃は煉瓦造りの西洋建築に魅せられ建築家を志し、四国松山出身の子規は当時盛んだった自由民権運動の影響を受け政治家を志して上京した。そんな二人が出会い、互いに切磋琢磨しながら近代文学に大きな足跡を残すことになるが、もう一つ“人生50年”時代の生き死に(明治期の平均寿命は42歳)に正面から取り組んだ二人の物語としてとらえる視点があることに気づいた。

子規は、29歳で脊錐カリエスと診断され、その後は「牀六尺180センチ)」を「我が世界」にして生き35歳で逝った。この病床でさえ広過ぎる。「僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。…苦痛、煩悶、号泣に麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪るはかなさ」と記して叫ぶ。
 秋の蠅追へばまた来る叩けば死ぬ
 活きた目をつつきに来るか蠅の声
この日々のつらさから、「精神的と形式的」の介抱・看病論を述べている。「精神的の介抱といふのは看護人が同情を以て病人を介抱する事である。形式的の介抱といふのは病人をうまく取扱ふ事で、例へば薬を飲ませるとか繃帯を取替へるとか、背をさするとか、足を按摩するとか、着物や蒲団の工合を善く直してやるとか、そのほか浣腸沐浴は言ふまでもなく、始終病人の身体の心持よきやうに傍から注意してやる事。食事の献立などをうまくして病人を喜ばせるなども必要なる一カ条である」。(「病牀六尺」六十九)
ちなみに病院で修業する看護婦は医師の助手のようなもので病気の介抱には役にたたないとしている。そして絶命12時間前に筆記されたという絶筆の3句をあげておく。
 糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間に合はず
 をととひのへちまの水も取らざりき

一方、子どものころから病と慣れ親しんできた漱石は、43歳のおり胃潰瘍で入院した後、療養先の温泉宿で「修善寺の大患」と呼ばれる吐血体験を「30分の死」と名付け、そこから「則天去私」(私情を捨て去って天の心にしたがう)へと舵をきったといわれている。その契機となった一端は医師や看護婦の介抱・看病の所作に“好意”を観たことも大きかったのではないか。
 「看護婦は五十グラムの粥をコップの中に入れて、それを鯛味噌と混ぜ合わして、一匙ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀の子か烏の子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の献立表を作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを撰んで、あとはそれぎり反故にした」(『思い出す事など』)。
 「医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実も葢もない話である。けれども彼等の義務の中に、半分の好意を溶き込んで、それを病人の眼から透かして見たら、彼等の所作がどれほど尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである」(同前)と。
漱石はその後も何度か入院生活をしながら医師や看護婦観察を忘れず、『行人』『それから』などに体験エピソードを盛り込んでいる。漱石山房で息をひきとったのは四九歳。二人はそれぞれの人生を生ききった。

関連してもう一つ。漱石が入院したとき見舞いに来たひとりに石川啄木(1886-1912)がいる。啄木は、漱石の「修善寺の大患」の翌年、東京大学付属病院に施療患者として入院している。病名は腹膜炎。40日間の入院中に作歌したものは多い(『悲しき玩具』)が、病院詠の冒頭に載っているのが次の歌である。
 重い荷を下ろしたやうな
 気持なりき、
 この寝台の上に来ていねしとき。

 病院に来て、
 妻や子をいつくしむ
 まことの我にかへりけるかな。
入院となれば憂鬱で嫌なはずだが、病の身をあずける室を得た啄木は「重い荷を下ろ したやうな気持」だという。その一方で、日ごろは家族への思いなど考えることもないのに、家にいる妻や子がいとおしく思えてくるという。けれど、ここが介抱・看病・看護という「好意」に身をゆだねる室であったわけでもなかったのだ。

 話しかけて返事のなさに
 よく見れば、
 泣いてゐたりき、隣りの患者。

 夜おそく何処やらの室の騒がしさは
 人の死にたらむと、
 息をひそむる。
          (『看護師のための明治文学』へのメッセージ)

2018年1月14日日曜日

創めること。無事であること  -「老齢」を寿ぐ


 師走に飛び込んでくる喪中はがき、年明けにやってくる年賀状。前者は身近な人の消息が伝えられ、「年末年始のご挨拶はご遠慮申し上げます」。後者は、謹賀新年、迎春。「おめでとう。ご健康を祈ります」。こんなかたちでいつもの年越しバトン・リレーが続いている。
 ところが、私も75歳、れっきとした高齢者の一人。届く喪中はがきは年々増えて今年、数えてみたら14通も。「母、享年102歳」「父98歳」等の記述にはもう驚かないが、同世代からは「妻」や「夫」、兄妹の死が伝えられるようになった。また、賀状にも「92歳を前にして夫と老人ホームに居を移し終の住処とします」という転居通知を兼ねたものから、「高齢になり本年をもちまして新年のご挨拶を失礼させていただきます」の類も。それぞれに、身終いの気配が漂っている。
 ちなみに、わたしが賀状に記したメッセージは、亡き愛犬ロッシュの穏やかな涙目写真に「2018年。ご無事で」というものだった。

●創めること
 そんな年明けに小冊子『老老介護「いろは歌」』(私家版)が届いた。長野県諏訪市の平林英也さん(82歳)からの贈り物だった。20年ほど続けている諏訪湖半での「いのちのセミナー」に通っている方の、故人となった妻はるよさんとの晩年の交歓絵本。かつては優秀な精神科ナースだったという愛妻の認知症発症後の老老介護の日々(89歳没)が「いろは歌」の形式で遺されたのだった。

 「い」一日の始まりは、挨拶から
 夫「おはようございます」
 妻「今日はよろしくお願いします」
 この挨拶に続いて「夫婦の生年月日」「結婚記念日」に「住所」を毎朝、家内に言わせます。それは「今日」もいのちを与えられ、生きていることの証を、少しでも味わってほしかったためです。家内は、朝の挨拶のとき、よく言いました。
 「お互いに、どこも悪いところがなくて、よかったね」
 このことばを口にする家内は、幸せそのものでした。
 二人の気持ちがひとつになり、
 〈You are My Sunshine」をよく歌いました。

 綴られているのは、介護のつらさではない。「礼を言う妻のこころは、感謝の泉」とか「ゆ -豊かなこころは、忘却から」をあげてもいい。平林さんはいう。「わたしは、老老介護こそ〈新老人〉の生き方だとおもってやり遂げました」。どういうことだろうか。
〈新老人〉とは「次の世代若い人に、いつか来る人生の午後(老年期)のモデルになる」生き方が求められていた。105歳で亡くなった日野原重明さんが立ち上げた「新老人の会」の活動理念だった。
具体的なスローガンは、①愛し愛されること、②創(はじ)めること、③耐えること。なかでも、②は、何歳になっても「(なにかを)創めること」を忘れないこと。③の「耐えること」は人生の生き方が問われるもの。「耐える」という経験によって感性が磨かれ、不幸な人への共感と支える力が備わる。「新老人の会」は75歳以上をシニア会員、60歳以上をジュニア会員、20歳以上をサポート会員として、10年後(日野原さん100歳のとき)には10万人に達した。
平林さんは、この三つのスローガンに老老介護の原点を求めたのだった。とくに世間では否定的にとらえられる老老介護を「創める」ことは老人の「新しい生き方」に導くものにちがいない。それが〈新老人〉の生き方だ。「始まる」ではなく「創める」ということばに励まされて「いろは歌」が誕生したのである。

 ●無事であること
 ところで、私の賀状メッセージ「ご無事で」には、松飾りが街から消えたころ瀬戸内の島に住むK女がメールで応えてくれた。高校時代のクラスメートで、若いころから病いと戯れ、宥めてきたひとだ。
「ご無事で新年を迎えられた由。うれしくおもいます。この歳になると流石に次々といろんな事がありました。身内の死去や病気や怪我に心休まりません。7〜8月に危険な肺炎にかかり命の駆け引きをしましたが、相変わらず持ち前のしぶとさで復活しました。今は腰の問題を抱え年末にMRIをして一ヶ月ほど。…でもね、呑気に笑って本を読んでのおばあさん暮らしは少し早い。(笑)
 毎日家の周りにくる野鳥に癒されています。デッキにヤマガラ・シジュウガラ・メジロ・シロハラ・ツグミ・ヒヨドリ・ジョウビタキ・イソヒヨドリが常時きて賑やかです。トラツグミも姿を見せラッキーでした。ぶとカラス・ほそカラスや雀の群れもホオジロも来ています。
 今年はキジバトが玄関前の大きなトネリコの木に二度営巣し、見守るうち雛鳥の姿も見ましたが、周辺に居続けるハシブトカラスに襲われたらしく、巣立ちまでを見届けることは出来ませんでした。これは悲しい出来事の一つでした。まずは呑気な鳥談義でご挨拶を 又」

 「無事」はいのちの現在。老いにはかけがえのない力を誘うものなのである。無事の一年を祈ろう。

2017年10月10日火曜日

人生の午後

「人生、古来稀れ」というので70歳を古稀というが、100歳以上の超寿者はすでに6万人を超えている。100歳の人生設計を描くことが切実な時代に入った。その道標をいち早く示し自らがモデルとなった人が日野原重明さんだった。
この夏日野原さんは105歳でなくなったが、『生きていくあなたへ』(幻冬舎)という形でメッセージが遺されていた。全編が珠玉の語りことばで埋まっているが、その中からこころに留めたフレーズを引き合いにして、100歳人生を描いてみる。

〈人生の午後をどう生きるか。
 選ぶ物差し、価値観が必要で、自分の羅針盤を
 もたなくてはばらない。
 午後は午前より長いから。〉
ここで、老年期は「人生の午後」と規定され、青年期や成人期の羅針盤は役には立たないと明言されている。「人生の午後」は長いのである。
2000年、介護保険制度が誕生した年に、日野原さんは自身の90歳を記念して『生きかた上手』を出版し、総計120万部を超える売れ行きとなった。
そのテーマは「わたしは老人と呼ばれたい。それも新老人と」。あのとき、すでに「人生の午後」を生きる心構えが述べられ、人生の午後を生きる「新老人の会」も準備されていたのだった。「新老人」とは単なる元気な老人のことではない。「次の世代、若い人に、いつか来る人生の午後をいきる(新老人の)モデルになる」生き方が求められたのだった(『いのちを語る』)。
会のスローガンは、①愛すること、②創(はじ)めること、③耐えること。
なかでも、②の創めるとは、いくつになっても「(なにかを)創めること」を忘れない。新老人の規範そのものといっていいだろう。③の「耐えること」は人生の午後の生き方が問われるものだった。「耐える」という経験こそ、人としての感性が磨かれ、不幸な人への共感と支えることができる力が備わるのだとされた。
かくして「新老人の会」は75歳以上をシニア会員、60歳以上をジュニア会員、20歳以上をサポート会員として、10年後(日野原さん100歳のとき)会員数は10万人に達したのだった。

〈人は傷を与えたことは忘れるが、
 人から受けた傷や攻撃はどうしても忘れられない。
 それは人を恕せない人間の愚かさのためなのだ。〉
日野原さんは子どものころから体は弱かった。日米戦争中、空襲下の東京で聖路加国際病院の内科医として患者の治療や火傷者の救済にあたった。1970年には「よど号」ハイジャック事件で4日間の機内監禁後に100名の乗客とともに奇跡的に空港に降り立った。
「私は足の裏にこの地球に無事帰ったことを感じた瞬間、私の命が与えられたのだと直感しました」。同時に「私は自分が生きているのではなく、生かされていることに感謝しました」。そして「妻と一緒に泣きながら、これから自分の命を人のために使おう」と決心した。それが人生の支えになった。
日野原さんの医療者としての業績では、1996年のオーム真理教の地下鉄サリン事件では中毒患者640人を聖路加国際病院に入院させて1人の死亡者以外の患者を助けたことで知られるが、医療行政への視点からは、まだ緩和ケアとかホスピスという用語も取り組みもない時代に「延命の医学から生命(いのち)を与えるケアへ」と題した講演(日本死の臨床研究会1980年)は画期的なものだった。身近な病気の話では、高血圧・がん・糖尿病等の「成人病」から「生活習慣病」命名(1996年)への尽力があげられる。
「私の朝の食事はコーヒーとジュースだけ。元気というのはあくまで気がもたらすもので、カロリーではありません。昼も牛乳一本とクッキーですませることがほとんどです。まるで水分だけで私は生きているようです」。
これは臨床医のことばではない。医師であるまえに独自な生き方と個性がつたわってくる新老人の生き方であり、この生活意思はさいごまで貫かれた。

  〈最近僕は、「運動不足」より「感動不足」のほうが
深刻なのではないかと感じています。
だから、あなたとも一緒に心を躍動させて、感動の気持ちを
分かち合いたいなとおもいます。〉

 日野原さんとは、一度講演会(生と死を考える会・全国大会in横浜2008)の末席でご一緒したことがあった。舞台の袖から登壇されると会場から拍手と小さなどよめきがおこったことが思い出される。
『生きていくあなたへ』を読んで、こころが揺れ動いた箇所があった。それはお医者さん志望の動機にふれた幼少期のエピソードだった。
7歳のとき、お母さんが危篤になり、お医者さん(安永謙逸先生)が看るためにやってきた。そのとき必死に祈った。けれど、祈ったのは「お母さんを助けてください」ではなかった。「いまおもうと不思議ですが、どうか神様、母を救おうとしている安永先生を助けてください」と祈った。すると奇跡は起きた。お母さんは命をとり留めた。そして少年は医師を目指したのだった。

2017年7月28日金曜日

イネーブラー  ―認知症のひとに同伴する


認知症に関する手引き書はそのほとんどが介護者のために書かれている。認知症(dementia)の人は「呆けている人」「わけが分からない人」で、自身の病を訴える能力がなく、こころを喪失した脱け殻状態の人とみなされている。だから、認知症のケアは高齢者介護の中心課題になっている(我が国の“2025年問題”は、認知症患者がざっと700万人、65歳以上の高齢者5人に1人といった数字で示されている)。

ところが、クリスティーン・ブライデンさんの『認知症とともに生きる私』(大月書店)を読むと、認知症に対する偏見と固定観念を粉砕する基盤を欠いていたかがわかる。本書の原題はNothing About Us,Without Us!「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」とある。私たちとはだれを、どんな人を指すのか…。認知症患者? 認知症の人? 認知症のある人? …つまり、「認知症の患者である前に、一人の人間です」という訴えが聞こえてくる。
クリスティーン・ブライデンさんは、かつてオーストラリアの政府関連の科学技術者だった。シングルマザーとして3人の娘を育てながら1996年(当時46歳)にアルツハイマー病と診断され(後に前頭側頭型認知症と修正)、「完全に呆けるまで5年、3年後には介護状態になって死ぬ」といったシナリオが示され、いまなお「認知症とともに生きている人」なのである。
クリスティーンさんは若年性認知症の姿を自らカミングアウトした。そして認知症になるとはどういうことか、私は誰だったのか? いま誰なのか? そして死ぬとき、誰になっていくのか-そんなアイデンティティの危機に直面しながら“認知症サバイバー”として、認知症患者の権利擁護活動家として日々を重ねている( 専門医は脳のMRI画像から、この20年の活動はしんじられないと首をかしげるという)。

「認知症とともに生きる」とは、「認知の自己」が失われている生活が続いている。その段階で人生は減速車線にうつることになる。けれど、「感情の自己」と「スピリチュアルな自己」があるかぎり人として生きることができるとクリスティーンはいう。「認知の自己」はもう求めない。でも、「生きる意味を探す支援がほしい」と。そして、発症後まもなくして同伴者となった夫ポールへの信頼を口にしている。
〈慣れ親しんだポールの存在がいつもそこにあって、わたしはその彼を通して安心感を得ています。そして彼は愛ある存在感をもって私を安心させてくれます。ポールは私のケアパートナーであり、イネーブラーです。
私ができるだけ長く自立していられるように、彼はケアを調節して、私の自律を助けています。認知症を生きるこの人生で、私は権利擁護活動とポールとの関係性を通して、自分のスピリチュアリティについて新たに考え、生きる意味を見つけてきたのです〉

イネーブラー(enabler)※とはなにか。自分でできるように助ける人のことであり、carer,とかCaregiverにある「してあげる人」「保護する人」という意味を取りのぞいた、あくまでも対等な関係を重視した表現として示されている。それをイネブリング(enabling)と呼んでいる。
たとえば、①「(無条件に)ケアを与えること」は×であり、②私がやれることを代わりにやってくれることも×である。
つまり③単なるケア(介護)の対象者(対象物)とみなすのはだめ、×である。ここからがイネーブラーとなる。④できなくなってしまったことではなく、まだできることに着目してはたらきかけることであり、⑤日々、小さな達成感を得られるよう支援すること。
―「認知症とともに生きている人の深いところでつながり、この旅路を歩むことをイネーブル(enable)してください」。それがクリスティーンのメッセージなのだ。

あらためて、イネーブラーは、彼女がポールとの関係から、独自に引き出した思想概念だといえるだろう。依存ではなく自立(自律)した、二人のすこやかな関係(well-being)そのものを指している。(※ちなみに、この用語は通常、心理カウンセリングの用語として使われ、何らかの依存症にある人に対して、心ならずもその依存状態を支えてしまう人のこと。イネイブラー、イネーブラーとも。ここでは本書訳にしたがってイネーブラーとした)

認知症を生きる道を手探る人たちの発信は、わが国でも目につくようになっている(ルポ「希望の人びと」生井久美子 朝日新聞出版)。ここでは、認知症の人が同じ認知症の道を歩む仲間への呼びかけを紹介しておこう。(『認知症になっても人生は終わらない』harunosora
〈病気は、あなたのなかのほんの一部分です。苦手になることは無数の脳の働きなかのほんの一部分です。あなたは今もこれからもずっとあなたです。病気の症状は恥でしょうか? 病状とあなたの価値は無関係です。忘れたっていいんです。それは病気が起こすもので、あなたの人格とは何の関係もありません。〉
〈笑顔で生きる道はたくさんあります。そのために気持ちが落ち着いたら、先ず一番親しい人に病気のことを話してみましょう。きっとそのままのあなたを受け入れてくれます。〉30歳代後半に幻視。若年性レビー小体型認知症と診断された樋口直美さん 54歳)

〈認知症当事者は特別な人ではないのです。丹野智文という一人の人なのです。認知症の人というよりは認知症とともに生きる人だとおもってほしいです。〉
〈介護が必要なのは本当に重度になってからだとおもいます。いま、できることを奪わないでください。そして時間がかかるかもしれませんが待ってあげてください。一回できなくても次、できるかもと信じてあげてください〉(若年性アルツハイマー型認知症と診断され、「2年後には寝たきりになる」と言われた丹野智文さん 43歳)


わが国でも批准された障害者権利条約(2013年)には、Nothing about us without us.(私たち抜きに私たちのことを決めないで)という原則が謳われている。長い権利闘争の歴史の末に手にした権利だ。認知症の人の生き方にも、この原則が実現されなければならない。そのためにはだれもが介護者からパートナーへ、さらにイネーブラーへの踏みだしの一歩が問われることになる。「ユマニチュード」(ブログ・ラベル参照)はその向こうに見えてくるはずである。

2017年6月23日金曜日

ときあかり ―死出に添う



佐賀県唐津市の吉井栄子さん(「お世話宅配便」代表)を久しぶりに訪ねたとき「ときあかり」という言葉を教わった。当初は地元の銘酒の名まえかとおもったほどだった。いそいで辞書を引くと、明け方、東方がかすかに明るくなること(大辞林)とある。なるほど、とは思ったが、ここでは逆。むしろ、西方に沈みゆく陽の翳りのなかで彩るいのち―つまり、亡くなる直前に生気を取りもどしてみせる人の姿をさしているのだった。2,3のエピソードを引いてみよう。

―長いこと寝たきりだったお祖父ちゃんが急に散歩に行って、買い物に行って、部屋の片付けして、次の日また寝たきりに戻って、その次の日に亡くなった。
「今思えばとても不思議です。仏壇の引き出しにはお祖父ちゃんが入れたと思われる通帳と印鑑が入っていたと母が言っていました。お祖父ちゃんは自分が亡くなるってことわかっていたのかも知れないです」

―うちのばあちゃん、長く入院してやっと家にもどったら「ご飯が食べたい」といい、食欲が出てモリモリ食べておかわりまでして、その翌日に亡くなった。でも、家族はみんな「ばあちゃん、死ぬ前にいっぱい食べられて良かったねえ」と喜んだんですよ。

―認知症だった祖父が突然「紙と鉛筆貸して」って言って貸してあげた。何か書こうとしているんだけど書けないらしかった。「夜ももう遅いから書き物は明日にしよう? 明日になったら書けるよ」といって部屋の電気を消して出ていったら、翌朝紙と鉛筆もったまま亡くなっていた。電気を消さなければ。悪いことしたと思う。遺書のつもりで何か書こうとしていたんだろうな…。

「ときあかり」はロウソクの灯りに見立てることもできる。ロウソクは燃え尽きる直前に太く瞬き、その後に火は消える…。そんな〈いのち〉の名残劇を指している。
関連してもうひとつ、死の床にある人の「お迎え」現象がある。「親父が迎えにきてくれた。あの世で親父に会えると思うとたのしみだ」とか、「仏様がきているけど まだはやい。追い払ってくれ」「お花畑がみえてキレイだった」などと口にした人がそれぞれ追っかけるように亡くなっていく。

―はじめて幻覚のような症状が現れたのは、死期の一ヶ月前。家族が「だれ」と聞くと「男の人、とか女の人」とかで具体的な名前はいわず、一瞬にこにこしているようだった。家族が「おじちゃん(夫)がきたの」と聞くといなくなったとかで、穏やかな幻覚が多少あったようだが、それで苦しめられる様子はなかった。

―戦争体験者Sさん。「兄貴が今来てるんだけど、しゃべってほしいのに何にもしゃべってくれないんだよ、先生」と言われびっくりした。幻覚かどうか調べるために指を立て、「これ何本かわかりますか」とか、「私が誰だかわかりますか」と確かめたが、Sさんの認知は正常で、周囲のこともしっかり見えている。お兄さんは呉で戦艦陸奥が爆沈したときに死んだ乗組員で、私が「お兄さんはどこにいるの?」と尋ねると「そこにいるんだよ、先生、見えない?」と指差すが、私には見えない。Sさんは、いろいろ語りかけたが「やっぱり何も言ってくれない」と残念そうだった。(『現代の看取りにおける〈お迎え〉体験の語り 在宅ホスピス遺族アンケート』 ※東北大学文化社会学 岡部健他 遺族366人、「お迎え」体験は4割超)

これら「ときあかり」や「お迎え」はいずれも在宅死であり、病院や福祉施設ではほとんど見られない現象である。医療制度に支えられている現在、病院死が当たり前になっており、国民の8割が病院で亡くなっている。そこで登場してきたのが「尊厳死」とか「平穏死」への期待となったのである。これらの死に方は自然死(在宅死)からもっとも遠い死に方になっていることに気づく。それだけに「ときあかり」や「お迎え」現象は、医療施設では幻覚をともなった「せん妄」として治療の対象になってしまうのだ。
「臨床宗教師」を提唱した在宅医の岡部健さん(自ら末期がんで、2012年死去)は、「お迎え(ときあかりを含む)」がせん妄によるものかを論じるより「お迎え」(ときあかりも含む)を体験した患者がほぼ例外なく穏やかな最期を迎えることに着目すべきだとして、在宅医として体験した事例を残している。

〈肺がんによる低肺機能の70歳代後半の女性は3階に寝ていたが、ある日、お嫁さんが様子を見に階段を上がって行くと、いきなり「せっかくそこに母ちゃんが迎えに来てんのに、おまえが来たから消えてしまったじゃないか。なんてことしてくれるんだ」と怒鳴られた。それから一カ月後に、娘さんから「母が『今日死ぬから親戚を集めろ』と、おかしなことを言ってる」と電話が入った。往診にいくと、笑顔で「先生、ありがとうございました、今日で逝きます」と言う。けれど酸素濃度や血圧を測っても、どこにも悪いところがない。首をかしげながらも、私は娘さんに「本人がこう言うときは当たることが多いから、親戚を呼んであげたら」と伝えた。親戚がやってくると、おばあさんは枕元に集めて説教をはじめた。最期こそ言葉は不明瞭になりながらも。その晩に亡くなった。〉

岡部医師は「お迎え現象は、精神と肉体がほどよくバランスをとりながら衰えていったときにおこる」と指摘している。つまり、死の準備過程で起こる自然現象であり、これは家族に委ねられるべき場面だとしている。
ここで、わたしが遭遇した場面に触れよう。17年ほど前、90歳の義母が亡くなる前日、わたしが外出する際に交わした義母との数分の会話である。

ベッドの脇に立ったとき、唐突に「ヨネザワ君。わたし、もうすぐいなくなるから。ありがとう」という(義父母はわたしをさいごまでヨネザワくんと呼んだ)。
「もうすぐいなくなる…。そんな気がするんですか」
「来週はもういないとおもう。お世話になったわ」
わたしは(もうすぐ死ぬ? そんなこと言わないでがんばって)といういつもの言葉を飲み込んでいた。義母の目は、そういう返事を期待していなかったからだ。
「ぼくもいっしょに暮らせて、よかったですよ」と手を差し出した。
「長いこと、ありがとう。それから、××子は来週にはあなたに返すから」 
(『自然死への道』の「明け渡しのレッスン」から)

ここで××子とは妻の名前である。おもしろい言い方だなあとおもって「まだ、いいですよ」とことばを返したほどだったが、差し出した私の手を握りかえしながら“母”の顔でうなずいた。義母はその日の夕方、病院で診てもらうからと入院をせがみ、翌朝病院で一人看取られることなく亡くなった。これこそ、わたしが体験した「ときあかり」だったのだ。