「いのちことば」のレッスン・メモ(2018/10/7更新)





ロゴについて  
「身」は人の字形に腹部を大きくそえた形で「身(はら)む」と読むのが原義、妊娠とあります(白川静『字統』『文字講話Ⅰ』)。身籠もる・身重・身二つ、そして身罷る。身という存在(あるというすがた・かたち)をいのちことばの原形とみなすということ。



メモ1 いのちの時代をいきること

『いま、「いのち」を考える』(梅原猛 河合隼雄 松井孝典 1999 岩波書店)からの抜き書き。
松井―いのちと生命とは違うでしょ。生命は実体、いのちは関係性でしょ。
河合―いのちとは外国語に訳せない。日本語の「身」という言葉がすごいでしょう。
梅原―身と心。身はボディでは困るし、心もスピリットでは困る。身を身体、心を精神というとまったくちがう。身と心はつながっている。…身を離れた心はなく、心を離れた身はない。その身と心を生かしているのがいのちです。

メモ2 いのちことばについて
―21世紀、わたしたちは「いのち」の時代をいきている。けれど、どんな「いのち」に出逢い、どんな「いのち」に立ち会っているのか。
有吉佐和子のベストセラー小説「恍惚の人」(1972)の舞台になったという石碑(都内・杉並区梅里児童遊園)の前にたったことがある。共働きの主人公の昭子が仕事を終え買い物袋を抱えて家路に急ぐ。この日、同じ敷地に住む義父が妻の死を理解できないことがわかる…そして記憶障害、妄想、やがて徘徊、失禁…。ここから読者(わたしたち)は昭子を通して認知症と介護の現実に向きあうことになった。けれど、このとき作家有吉は人間の尊厳を傷つけない「恍惚の人」を撰んだ。江戸時代の儒学者頼山陽『日本外史』の一文、「老いて病み、恍惚として人を識らず」から引いたという。当時41歳だった有吉は「老耄の極地は恍惚…あす私に待っている問題」としてとらえていた。つまり、いのちことばとして「恍惚の人」は撰ばれていたのだ。
では、介護・福祉社会の行政用語のままに「認知症」が定着した今日、あらたないのちことばは見つからないだろうか。

メモ3 いのちことばのレッスン
いのちに問いかける試みをレッスンと呼ぼう。ここでわたしは、自らの近未来のすがたと重ねて「老揺(たゆたい)」ということばを準備してみる。すると、次のような強かな覚悟のとことばに出合った。

  ―おくれて生きよう。
  ―忘れることと永遠とがひとつであるという感覚が今、自分のなかにある。
  ―ぼけはもうひとつの舞台。その舞台のルールをおぼえて、あるいは工夫して、ぼけのステージ ごとに演技をつづけたい。 (鶴見俊輔74歳時の『もうろく帖』から)

メモ4 春秋社100周年記念に寄せて 著者が選ぶ春秋社の本3冊より

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メモ5 米沢ゼミ@福岡 テーマリスト(於 にのさかクリニック・ 2018.8.26現在)

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