2016年6月25日土曜日

ホスピス・ボランティア(Ⅱ)   ホスピタリティ

ホスピタリティ
重兼芳子はボランティアの意義を「市民の日常感覚を尊重して下さった。医療を密室化せずに、市民の日常と結びつけようとされた」とした。この指摘について『風になって――聖ヨハネホスピスボランティア10年史』(社会福祉法人聖ヨハネ会・2000年)を手にしてみると、「(ボランティアは)生き甲斐(QOL)にふれた“社会の風”を吹き込んでくれる人」ということばで示されていた。そして重兼芳子が口にした「命の谺(こだま)」は「―10年史」では〈ホスピタリティ〉ということばに引き継がれていったようにみえる。
「〈友人〉と重兼芳子さんが書かれた患者さん、そのご家族、スタッフ、ボランティアなどが織りなす静かな微笑を含んだホスピスの空気。意図せずに出会い、瞬時のお別れをくりかえすホスピスで、いただく豊かな贈り物は謙遜と勇気、そして愛です。無償の行為であるはずのボランティアが喜々として活動できるのはこの出会いがあるから。その出会いを豊かなものにしている。それがホスピタリティなんです」。

ホスピタリティ(hospitality)、歓待、もてなし。鷲田清一によれば、歓特(hospitality)と敵意(ホスティリティ hostility)という二つの言葉はともに、ラテン語で客とか異邦人(敵)を意味するhospesから派生しているという。「他者をむかえ入れる、異邦人を歓待する。敵・味方の区別なく、いや異邦のひとであればこそ、手厚くもてなす。これは、相手をもてなすにあたって条件をつけないことである。それは看護の心であるとともに、ほんとは家族の心でもある」(『まなざしの記憶――だれかの傍らで』TBSブリタニカ)。
では、ボランティアにとってホスピタリティにはどんな配慮があったのだろうか。『―10年史』の座談会の発言から拾ってみよう。

「実際にここ(ホスピス)で死を迎えようとする方々が入ってくる時、その人自身とその家族にとってここは得体の知れない他人ばかりいる場所なのです。同時にその人や家族にとっても彼らは得体の知れない他人なのです。私がホスピタリティと言った時に意味したいのは、ここで出会うのがお互いに全く得体の知れない人であって、そうしたことをお互いに認め合うことから始まるケアやサポート、さらには人間関係といったことです。つまり、相手が思ったことが伝わらないということを、最初に認めてはじめて始まるケア、人間関係だとおもいます」

「実際、人間が生まれて来るときに、たった一人で生まれてくる事がないように、死を迎えるときもたった一人では迎えられないと思います。最後の最後まで他人の手を煩わせなければならない。そういった関わりを否定することは絶対できない。そうして、その人が生きてきた生き方を全うしようという時には、他人に身を委ねることができる、そういった信頼関係を築かなければおそらく無理でしょう。ホスピスというのは入ってくる人たちと信頼を結んでいく手段が、単にお医者さんと患者さんといった固定された関係だけではなく、もっといろいろな選択肢を用意することができる、そういう柔軟性を持った場所である。それがホスピタリティを有したホスピスだということが言えないでしょうか」

これらの発言には、知らない者同士が出合ってなお支えあう関係になることができる、実際にできたという歓びである。さらに注意深く押さえたいのは、医師や看護師や患者家族でもない、つまりそれらの関係に割り込むのではない3人目、あるいは3番目の力として支えられたこと。異邦人を歓待する。いや異邦の人であればこそ、手厚くもてなす。もてなすにあたってどんな条件もない。その〈ホスピタリティ) の根幹にふれているボランティアは、介護・看護のこころにいきつく。
もう一度重兼芳子のボランティア体験(『さようならをいう前に』)から引いてみよう。臨終が近いAさんの部屋に入ったときの様子である。

――優しい顔で静かに寝ていらっしゃる。で、Aさんの奥さまに「よく眠ってらっしゃいますねえ」と言ったんです。そうしたら「いや、眠っているんじゃなくて意識がないのです。 もう、呼びかけても聞こえませんしね。もう覚悟を決めました」とおっしゃる。わたしは半年近くお付き合いした方ですから、もう、なんか胸がこんなになっちゃって辛くてたまらないもんだから、手を握って、おもわず「わたし、あなたとお友達になってよかったで~す」といったんです。「この半年、あなたみたいな素晴らしい人に友達になっていただいてありがとうございました」って。「ご家族も、後のこともきちっとなさるから、安らかにお眠りくだざいね」と。
もう聞こえないって分かってて言ったんです。そうしましたら(Aさんは)涙をバーッと流されて、目じりのほうにながれるんです。奥さまもびっくりしちゃつて「お父さん、お父さん、聞こえたの?」って。(Aさんの)涙を二人で両側からふいてさしあげたんです。それで「さようなら。ありがとうございました」って。「わたしはあなたのことを忘れませんよ」って。

この情景は、患者―家族―医師という診療現場の構図ではなく、〈Aさんの妻―Aさん―ボランティア(重兼)〉の親密なトライアングル・ケアのかたちになっている。セラビストの鈴木秀子はそのひとときを「仲よし時間」と呼んでいる(『死にゆく者からの言葉』文藝春秋)。しかもこの親密な時間を呼び込むことができるのは必ずしも家族ではない。どんな話をしても動揺しない人、自分の気持ちをあるがままに受けいれてくれる人。それは友人だったり遠い親戚だったり、カウンセラーだったり、ボランティアだったりする場合が多いという。

ホスピス・ボランティア(Ⅰ)  重兼芳子のボランティア論


重兼芳子のボランティア
ホスピスには、医師、看護師等の医療者や心のケアを担当するチャプレンやセラピストら、それぞれ役割をもった人が関わっている。そのなかで貴重な役割をになう人にボランティアの人たちがいる。
ボランティアは病院や患者のお手伝いをする単なるスタッフではなくて、「ホスピスに参加しているのだ」という自覚をもって積極的に関わっている人たちのことだが、わが国のホスピス創生期に市民ボランティアが積極的に関わって誕生したホスピスに桜町病院聖ヨハネホスピス(1993)がある。ホスピス計画当初から院内ボランティアに参加した人に芥川賞作家の重兼芳子(19271993)がいる。重兼さんはこの間、欧米のホスピスボランティア取材をはじめ、自らのがん手術後も精力的にホスピスケアの普及に努め、ホスピス棟の新設完成を待たずに亡くなった。けれど、その間の活動は当時の著作レポートから垣間見ることができる(講演録『さよならを言うまえに』春秋社 1994)。

①「素人を病棟や病室に入れるということは医療者の側にかなり抵抗があったんです。だからこそ私たちボランティアは、何度も何度もミーティングを繰り返して医療者の邪魔にならないこと、医療に関してはいっさい見ざる聞かざる言わざるに徹すること、ホスピスの動きを見ながら、医療者の動きをみながら、けっして出過ぎないこと。とにかく慎んで、慎んで周りの動きを見ながら、身をひくことをさんざん訓練してきたんです」

「患者さんの中にはアーメンが大きらいな人もいらっしゃる。私たちボランティアも、ナースもシスターたちもいちばん自分たちに戒めていることは宗教色を前面に出さない。自分たちの思想信条を押しつけない。私たちは無であろう、そして、無である私たちが患者さんたちのかすかな表情と訴えかけを、ほんとに耳を澄ませて聴きとろうと、そういうことをずっとしてきました」

③「ナースたちのカンファレンスのさいに、最初に話し合うのは、入ってきた患者さんがいちばん大事になさっているのは何だろうということですね。その方は、きっと髪をいちばん大事にしていらっしゃるにちがいない。では私たちは、腰までのびた長い髪をきれいにしてあげようと。もう起き上がれない方でしたから、ストレッチャーにお乗せして浴室にお連れして、そこでお風呂専門の訓練されたボランテイアが3人一組で、ナースの指示で洗ってさしあげるわけですね。それこそ指の股の先まで、ほんとうにきれいに洗ってさしあげるんです。『きもちいい』とおっしゃっていただくと、うれしいですよ。私はお風呂のお手伝いは苦手なので、おやつ作りのほうをやっていましたけど」

ここには、ホスピスボランティアのポジショニングについて示されている。医療者に対しては何よりも素人であり、入居してきた患者にとっては陰の存在であること。その一方で、ボランティアとしては「入浴のプロである」とか「おやつ作りならできる」というように自分の役割と才能を登録するかたちでホスピスに参加するのだ。
ボランティアの任務を具体的にあげてみると、食事時の配膳や下膳、部屋や廊下やトイレの掃除、庭の水まきに落ち葉掃き。ナースステーションの受付や家族の案内、買い物に散歩の手伝いだったり患者の入浴やマツサージ、花の水かえにオルガン弾きだったり。今日なら介護福祉士の業務の一端と重なっているようにみえる。
医療の現場に市民を入れるということは、かなり大胆な決断を迫られることになる。その意味でボランティアは大きな責任を背負っていたというべきだろう。だから当初、重兼さんは、ボランティアという名称はなにか偽善めいたニュアンスを感じたという。けれど、2年ほどボランティア活動のルーティンをこなしながら仲間と接していくと「名称にこだわる必要はないことを知った」といい、次のような自信にみちたことばで記述されていく。(『聖ヨハネホスピスの友人たち』(1990 講談社)

〈私たちは医療者と違って、まったくの無力である。痛みや苦しみを緩和するすべを持たない、少しの役にも立たない存在である。そのことが徹底して知らされたとき、私たちは無心に素直に、あるがままに病者のそばにいるしかないと覚悟を決める。
ありがたいことに、私たちが自分の無力を徹底して知ったとき、生が光を放ちはじめるのを感じるのだ。いつのまにか今在ることの手応えを身に受けているのだ。ボランティアの一人一人が、生き生きと輝いてみえはじめてくる。
これはなんだろう、と私は目を見張っている。普通の暮らしをしている一般市民の人たちが、いそいそとベッドサイドに通ってくる。そして病者の喜びを喜びとし、苦しみを苦しみとしてともに寄りそって生きようとする。それが好きだから、というごく自然な思いで続けられてゆくのである。〉

ここにある言葉を押さえてみると、ボランティアの存在は患者とその家族の周辺にいる医療者などのスタッフとは異なるいのちにふれている姿がみえてくる。重兼芳子は「お別れした方々は一度も振り返ってはくださらなかった。…あなたと私を分けた生と死。その命の谺(こだま)が響き合う」という小景を伝え、ボランティアが聖ヨハネホスピスの誕生に関わった意義を「市民の日常感覚を尊重して下さった。医療を密室化せずに、市民の日常と結びつけようとされた」からだと述べている。


(この項は「ホスピス・ボランティア(Ⅱ)」に続く)