2015年7月31日金曜日

悼詞(とうし)



《人は死ぬから えらい どの人も 死ぬからえらい。
 わたしは 生きているので
 これまでに 死んだ人たちを たたえる。……。》

7月20日、哲学者鶴見俊輔さんが93歳で亡くなった。1960年代、いわゆる安保世代のわたしにとっては、3年前の吉本隆明さんの死(1924-2012)とあわせて“戦後”という指標の旗と幕が消えたことを確認することになったといえます。そして、その訃報を耳にして、すぐに本棚から探し出したのは、「私は不良少年だった」に始まる鶴見さんの自伝『期待と回想』ではなく、追悼文や弔辞を収めた『悼詞』(SORE 2008年)。上記の詩篇はその冒頭に掲げられていました。
《人は死ぬから えらい どの人も 死ぬからえらい》 このことばを口にして、大事なことを忘れていたという思いでした。人は誰もが死ぬことは知っている。いつか死ぬと思っている。けれど、目の前で死んでいくのはいつも私以外のだれかだということ。このおどろきから「わたしは (まだ)生きているので これまでに 死んだ人たちをたたえる」とつぶやいてみます。
すると、死者を悼むことばのうちに、生(いのち)のすがたかたちが凛として立ち上がってくるのです。

悼詞とは人の死をいたみとむらう詞。『悼詞』に収録された弔辞・追悼文は鶴見さんの交流の広さ深さを示す125人。作家、学者にとどまりません。銀行家の池田成彬(1950年没)からマンガ家の赤塚不二夫(2008年没)まで、ざっと410頁。どのページを開けてもいいのですが、たとえば、
「姉について 鶴見和子」(社会学者 1918-2006)の書き出しです。
死ぬ前に姉は私に言った。
「あなたは一生私を馬鹿にしていたんでしょう」
私は答えなかった。これから死んでゆく人に、いやそんなことはありません、尊敬していましたとおざなりのことを言うことはできない。
私は14歳のころ、東中野のカフェの女性としたしくなり、当時、津田塾の学生だった私の姉に手紙を託してもっていってもらった。私の姉は、私の委託にこたえて、学校帰りに、その手紙をとどけてくれた。
私の姉の介在によって、よい首尾だった。
こういう自分の利益のために、姉を使うことは、私の生涯、とくに、始めの五分の一において、しばしばだった。
その大恩ある人に対して死を前にして、何が言えよう。…(2006年)

ここには、場面の痛切(切実)さがそのまま悼詞になっています。そして、もう一人、岡部伊都子(随筆家 1922-2008)心に残るひとすじの生涯。わたしにとっても忘れがたい人なので、全文を引きます。

自分には病歴だけあって、学歴はない――。この言葉を遺して岡部伊都子さんは85歳の生涯を生きた。
心に残るひとすじの生涯だった。
1960年秋、神戸の「声なき声の会」で会った時から半世紀に近く、長いおつきあいだった。
もっと早く『おむすびの味』という著書を読んでいた。料理について書く人だとおもっていた。その人が、安保条約の強行採決に抗議する市民集会に出て、手を挙げて発言した。意外に思ったのだったが、後に彼女の生きた筋道を知ると、意外ではなくなった。
女学校2年で中退を余儀なくされ、後は1日の大半を寝て、本を読んで暮らした。小康を得て、婚約。その人は沖縄で戦死した。戦後、婚家を出て破産した実家に戻り、母との二人暮らしにはいる。ラジオへの投稿が放送され、それからは定期的に書くようになった。
岡部さんの文章はこのように特別の誕生をもった。敗戦から間もないころは、夏は戸を開け放ち、道行く人の耳にラジオの声が入ってくる時代だった。
「恋はやさし、と申しますが、そうでしょうか。」
道を歩く人の耳に、この書き出しが響くとき、その人は、一日の終わりまで忘れない。
そういう文体を、岡部さんは身につけた。病弱の生涯を、文章一筋に85年生きたのは、このたぐいまれなスタイルに負っている。
料理について、着物について書くこともあった。寺のたたずまいについて、山々の景色についても。
それらにも増して、彼女のこころには、戦争を受け入れることの出来ない婚約者を、そのとき理解することのなかった自分があった。沖縄は彼女の心に帰ってきて、去ることはなかった。戦争が終わって六十余年、彼女の中で燃え続けた炎は、消えることがなかった。
美しい人だった。その文章と面影は心に残っている。(2008年)

ここには、亡くなった人と生きている人の区別がありません。死者生者混ざり合って心がゆききしています。「悼死」の文章に共通項があるとしたら、人の死を契機にして書かれた掌編のにんげん論になっていることでしょう。

そして、もうひとつ。今回鶴見さんが亡くなった直後の『悼詞』では、以前ならほとんど気にもとめなかっただろう「あとがき」のことばが目に飛びこんできました。
「この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、86年にわたって傷つけた人のこと。そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる。 2008年8月18日 鶴見俊輔」

「悼詞」には、ひとを傷つけることなく生きていくことはできないという自戒もまた含まれているということです。合掌。

2015年7月15日水曜日

患者になること


病い(illness)は患者が医師のもとを訪ねるまでのものである。
疾患(disease)は受診のあと、患者が帰途についたときのものである。(作者不詳)

このフレーズは、病院で生まれ、病院(医療施設等)で死ぬ時代、つまり「病院化社会」を患者として生きる、その第一歩が書き込まれています。
患者は自分の病illnessについて物語る(ナラティブ)ために医師のもとに駆け込んでいます。最初にいつごろ心や身体の不調に気づくようになったか、どのような症状がはじまり、どのように進展して、結果として医師の相談しようとおもうにいたったかを説明したいわけです。ところが、医師は患者の病い(illness)の物語りをしっかり聴きとることはめったにありません。医師は平均すると患者の語り(ナラティブ)をたった18秒でさえぎる(平均しても28.6秒しか続かないとも、あるデータ)。
それだけ聴けば十分というのではありません。今日の医療社会はEBM(エビデンス・ベイスト・メディスン)を通して、つまり多岐にわたる検査や医療統計学等「科学的根拠」にしたがって、医師は患者の語る病いillness)を疾患(disease)の物語に移し替えて患者に語りかけることになります。つまり、病名をもらって医師のもとから帰途に向かったときから、血糖値や血圧等を気にする患者の生活に入ることになるわけです。
参考までに、EBM「科学的根拠に基づいた医学」(Evidence-Based Medicine)宣言は1992年アメリカ医師会雑誌に掲載されています。冒頭箇所は、「に基づいた医学は、直観、系統的でない臨床経験、病態生理学的合理付けを、臨床判断の十分な基本的根拠としては重要視しない。そして、臨床研究からの根拠の検証を重要視する。(津田敏秀『医学的根拠とは何か』岩波新書)

21世紀の医療社会。病気になる(患者になる)とは、診断を受けても「医学のことはよくわからないので、先生におまかせします」「先生の一番いいとおもわれる治療法でやってください」といった「おまかせ医療」ではすまなくなってきました。
1980年代半ば、もう30年前ですが長野県の総合病院で「患者が主役」「患者本位の医療」などを掲げて看護師たちといっしょに「入院案内(病院案内ではない)」を作成したことがありますが、その際、参考資料として病院から手渡されたのは「入院心得」でした。当時はこうした表記を異様なことだとおもう患者も医療者もいませんでした。
「患者との人間関係までを含めた医療学」の必要性を説く声(河合隼雄)がでてくるなかで登場したのが「患者学」でした。

『患者革命』の著者中島みちは次のように規定してみせました。
「患者の身体についての情報は基本的に患者自身のものであること。そして医療者は患者に対し、患者が自分の身体で引き受ける医療について理解し納得できるように支える務めがあること」
ここで患者革命! とは患者が医療を革命的に変えることなのか、それとも患者が変わることなのか。著者は「両方です」と言いきっています。患者の意識が変われば医療の現場の患者への対応も変わらずにはいられなくなる。また患者の立場に立って考える人が増えれば医療のシステムを患者中心に変えていくことができるのだというように。
患者学という表現について考えるとすぐ思い出される用語に、インフォームド・コンセント(informed consent)があります。医師会によって「説明と同意」と訳され、ながいあいだ医師が患者に同意を取り付ける手続きになっていました。

重大な病気に直面したとき私たちは医療者の前でどのような患者になればいいのか。
このような「病院化社会」の到来によって引き出されたのが患者学でした。『元気が出る患者学』(2003年)の著者(柳田邦男)は、病気と治療法について正しい知識と情報をもつこと。そのうえで、医師の前でどんな患者であるべきかを「診療の受け方10カ条」として提示しています。そのなかでは、「不安なときはセカンドオピニオンへの協力を求める」「自分の家族事情、仕事、生き方、死生観を伝える」そして「医療にも限界があることを知る」などが目を引きます。ことに「医療にも限界があること」。病気に勝てない時がくる。そのときに問われるのが死生観であり患者としての「生き方」だ。考える患者になってほしい、この一点が医学・医療学にない「患者学」の核心だったということになります。

医療社会はいまや三人に1人ががん患者になるといわれています。さいごに採り上げたい一冊は『がん患者学』(柳原和子・晶文社 2000年)。
柳原さんこそ「患者学」の命名者といえます。著者は、自身の五年生存率20パーセントと告げられた卵巣がんでの闘病体験からがん患者としての人生を考えた人でした。自らの治療のために5年、10年と長期生存をとげている患者を直接訪ね、抗がん剤治療の体験を聴き、栄養学から食生活までの記録を集め、がん専門医には質問を繰り返した600ページの大冊です。死と向き合いつつ「医療社会」を生きる患者の姿が浮き彫りにされています。さらに柳原和子さんは自らのがん再発日記のかたちで、がん患者として生ききった記録を『百万回の永訣』(中央公論社 2005年)として遺しました。過酷な記録を通してもなお、いかにいのちを自己受けとめできるのか、その問いが読後に突きささってきます。
(注)作者不詳。『ナラティブ・ベイスト・メディスン』(金剛出版)より