○救急車さわぎの背景にあるもの
この夏、救急車さわぎがあった。一人暮らしの90歳男性が熱中症で死亡。発見されたのは2週間後の9月はじめ。男性には弟妹二人(いずれも80代)がいた。半径100㍍以内の同じ5丁目町会だが、今年に入って訪問しあうことはなかったという。知らない人ではなかった。新聞記事やテレビニュースではなく、わが家の鼻先での出来事だったのだ。
その一方で、心肺停止状態の高齢者が救急搬送される事例も各地で増えている。長野市民病院救急センターでは、救急搬送は年間約90例。そのうちの半数が85歳以上の超高齢だという。一緒に暮らしている老父母の呼吸がとまっている現場にたちあえば救急車を呼んでしまうかもしれない。呼べば救急センターに搬送され、蘇生を受けることになる。挿管され、点滴が行われ、器械による心臓マッサージが施され、「穏やか」な死とはほど遠い環境に遺体が置かれてしまう(「長野医報」6月)。
これらは、いま、全国各地のどこでもおきている医療事故だといっていい。
なぜ、防げないのだろうか。医療社会の直中にあって、住民の交流が減り、掛かりつけ医や施設の嘱託医などとの関わりもうまく機能していないからだ。要は、地域社会のなかで住民と医師との連携がうまくできていれば防ぐことはできるはずなのである。
○信州・上田市のNPO法人「新田の風」の試み
そこで、紹介したいのが長野県上田市新田地区の医師井益雄(い内科クリニック院長)さん。井さんは、かつて「信州に上医あり」といわれた故若月俊一医師(長野県厚生連佐久総合病院)の薫陶を受けた一人で、1980年代の終わりには、佐久地域で365日24時間体制の在宅医療を始めた医師で、当時家族の介護負担を軽くするため、浴槽を家に持ち込む「お風呂カー」が走らせたという挿話もあるほどだ。井さんはその後上田市でクリニックを開業。
資料によれば上田市は人口12万人。新田地区は1712世帯、ざっと4千人(男1900人 女2071人)。そのうち65歳以上の高齢者は1056人(男478人、女578人)。高齢者率は26・6%。そして65歳以上単身世代は561人(男263人、女288人)。高齢単身世帯率は32・8%。
4人に1人が高齢者、そのうちの3割が単身世帯という地域での医師の役割はなにか。井さんは、これまでの経験から「在宅ケアはコミュニティのケアだ」という考えをさらに一歩踏みこんで地元自治会をベースに診療所、薬局、福祉関係者による「安心して老いを迎えられる街づくりチーム」を発足(2010)させた。住民自らの手による介護の社会化は次のような流れでとらえられていた。
①元気なうちは社会参加交流、つまり仲間づくり。
②要介護者になれば、その人を在宅でささえる。つまり支援の輪をつくること。
③やがて、世話になる。つまり、順番に必要に応じて支援される。
④施設の自宅化。つまり、施設に入っても自宅の雰囲気を(小規模多機能施設)。
⑤自宅の施設化。つまり在宅を支えるチーム訪問。
井さんは地域住民の一人として新田地区自治会にはたらきかけ、3年かけてNPO法人「新田の風」(http://www.shinden-kaze.org)を立ちあげ初代理事長としてスタートをきった。そして小規模多機能居宅介護施設「新田の家」を誘致(2014)、住民交流の場「ふれあいサロン ~風~」もオープン(2015)した。
○エンディング・ノート「いのちの選択」
「新田の風」の立ち上げによって、住民間で交流を深める基盤は整った。これからは、介護者の役割を担える人材を育てることであり、そこに診療所、薬局、福祉が連携をとりあって地域全体を支える道をつけることだった。そこで井さんが「新田の風」の事業のひとつとしてまっさきに掲げたのが「エンディング・ノート」の作成。終末期の意思を示す簡易版シート「いのちの選択」である。
(クリックして拡大) |
「病名・病状の告知」「余命の告知」「終末期の医療」「延命治療の有無」「最後の時はどこで迎えたいか」の5項目で、選択肢から希望する内容を選んでチェックを入れる方式だ。
たとえば「終末期で、望む生命維持処置は」の項目では ①心臓マッサージなど心肺蘇生 ②人工呼吸器 ③胃ろう ④延命措置は望まず自然死を希望する ⑤すでに「尊厳死宣言書」を作成した といった5つの選択肢が用意されている。そのうえで「家族の同意蘭」「本人」の署名捺印。
このシートは、上田薬剤師会の協力で薬局内に置かれ、「お薬手帳」に貼りつけておけるようになっている。「お薬手帳と一緒に保管されれば、救急搬送時にも医師の目に留まりやすいだろう」というのが井さんの主張である。
そして「いのちの選択」シートには、「健康状態等により考え方が変わった場合は、新しいものを添付しましょう」と明記してあるのが特徴だ。病状等の変化によって、意思表示は可変的であること。「まだ決めていない」など、患者のこころの揺らぎも受けとめられている。いずれにせよ、「元気なうちに自分の行く末を決めておくこと」を地域包括ケアの指針の一つとしている医師は、まだ少ないにちがいない。
井さんは言う。「ゴールは安らかな看取りです」