●「手術死」は医療事故?
新聞の切り抜きを整理をしながら、いつもなら指して気にもとめない病院死にふれた記事にであった。
その一つは群馬大学病院の手術死問題だった。2014年、群馬大学病院の男性医師の腹腔鏡や開腹の手術を受けた患者18人が術後あいついで死亡した経緯について第三者調査委員会の調査報告に関した記事で、この夏、担当医師を懲戒解雇相当にし、他に指導教授等9人の処分で落着したことは各紙が大きく扱ったのは見出しで追ってもわかる。
「手術死続発を放置 収益優先手術数競う」「患者の安全軽視 医師、問題意識なく執刀」「二つの外科に深い溝 専門が同じでも口きかず」など、大学病院内の機構に問題があったという指摘が多かった。そのなかで、一紙だけ、「病状や体調から手術は無理な例や、手術の妥当性に疑問がのこる例が半数を占めている」と指摘していた(読売新聞「群大手術死・教訓(下)」2016.8.3朝刊)。
手術ができるはずはないなかで、なぜ「手術死」が相次いでおきたのか。病院の関係者の間では「最後の砦として重症患者を引き受けているから」という考え方が根強かったという。「人手が少ないのに手術したのが悪いといわれればそうかもしれない。ではやめようとなったときに誰が(治療を)引き受けるのですか」と。
「患者のため」を見失った次のような医師のことばがあげられている。
「『手術さえしてくれれば』と思い詰める患者もいる。実際には手術をするメリットが小さくても『できる』といって手術をしてしまう」
「手術をしない選択肢を示すと、患者が『見捨てられた』と感じて落胆する」
一方患者遺族の声からは「今なら手術できるといわれた。そう言われたら今を逃したら治らないんだ」と手術を即決したともいう。
これらのやりとりから、医療者と患者家族のあいだには「手術」ということばは外科治療としてではなく、治癒・生存には不可欠な手段、さいごの砦として思いが一つになって共有されていったということだろうか。「手術」はどこかの段階で治療・治癒が目的ではなく、「死」を打ち消すための医療行為のように――。たしかに重い病気ほど「手術」が期待される。いまや生死を逆転させる「移植手術」まで可能になったのだから。
「(手術は)できるか、できないか」「(手術を)やったほうがいいか、やらないほうがいいか」、そして「手術止めていれば…」。この問い詰め方は臨床技術からだったのか、いのちの受けとめという場所からだったのか。それを見失ったとき「手術死は医療事故」というところに落着したというのだろうか。
●「がん死」は自然死への道?
二つ目は、「がんの罹患年齢がに高齢化、将来寿命と一体化も」という記事である(北海道新聞 2016.7.3朝刊)。
がんはすでに国民病といわれ、①日本人の二人に一人は、がんになる。②三人に一人ががんで死亡している。そして、③今後、日本人の二人に一人ががんで死亡するといわれてきた。ところが、事態はさらに促進している。
「近い将来、寿命の限界に近づく頃になって、はじめてがんが見つかり、がんで亡くなる時代が来る」という。札幌がんセミナー理事長・小林博北大名誉教授(腫瘍学)が日本がん予防学会で発表した。厚労省の人口動態統計などからがん死亡年齢はおよそ30年前より10歳以上延びて平均で男女とも70歳を超えている。がんの罹患年齢についても10年間で10歳以上伸びていずれも70歳代である。つまり、がん患者になるのは高齢になってからであり、長寿を全うする人のほとんどががん死になるという報告である。
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これらの記事から何を受けとったらいいのだろうか。長寿社会の未来がひらかれたというのではない。けれど「手術死」とか、「がん死」とか、「自然死」とかの概念が、微妙にスライドしながら新たな模索をはじめているようにみえる。
ここに「高齢者」も付けくわえてみよう。年寄りや老人がすり替わったのではない。また、厚労省が規定する70歳以上の人が「高齢者」ではない。ここで、自らの年齢に即して口にすれば、長寿社会の老年期をいきる新世代として「高齢者」と呼ぼうとおもっている。同時に、やがてその先に訪れるだろう超高齢の世界を、わたしは老揺期(たゆたいき)と呼んで、できることなら「介護を受ける」よろこびを手にできたらとおもう。