認知症のケア・メソッドとして知られる仏国で生まれたHumanitude ユマニチュード(イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ)は、英語のHuman/ヒューマン(人間らしい)と-tude(状態、性質)あるいはAttitude(態度)を重ねた“人間らしさを取りもどす”とか“人間の尊厳の回復”という意味がこめられた思想概念として示されている。
さらに補足すれば、Humanitude ユマニチュードはフランス領マルティニーク島出身の詩人であり政治家であったエメ・フェルナン・ダヴィッド・セザールが1940年代に提唱した植民地に住む黒人が自らの“黒人らしさ”を取りもどそうとした運動であるNegritude ネグリチュードにその起源をもつという。
そこで、もうひとつ。わたしはユマニチュードを〈世話するヒト〉と呼んでみたい気がする。その起源に思いをはせたのは実は次にあげる小さな新聞記事だった。
〈仏南部の洞窟で発見された20万年前の人類の祖先、初期のネアンデルタール人が一緒に住む高齢者らに食糧を分け与えていたのではないかとする説がアメリカの科学アカデミー紀要に発表された。
遺跡でみつかった人骨の分析から、この人物は性別は不明だが40~50歳代。生前に歯をすべて失っていた。動物では親が子の面倒をみる以外にお互いに手助けすることはほとんどない。また、人間以外の霊長類で歯を失うことは餓死を意味しており、一緒に住む高齢者の世話をするのは、人間を他の動物と区別する特徴とされている。「周囲の者が世話をしていたとしか考えられない」とみている。これまでの研究では、人間がお互いの世話をしあうのは現世人類の祖先である約五万年前のホモ・サピエンスの時代とされていたが、これを大きく覆すものだという。〉(「読売新聞」2001年9月11日)
20年近く前、この記事から〈世話するヒト〉を発見したとおもう。読んでおもわず「人間ってすごいなあ」と呟いたことを覚えている。介護保険法が施行された間もなくのことで、義父母二人の老揺期と終末期の介護(義母は要介護5)が重なっていたころだった。
20万年前の40~50歳代といえば、今日では80歳代の高齢者だろう。遠く、旧人(ネアンデルタール人)にまで遡っても、介護をしていたこと。ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)の前に、まず〈世話するヒト〉であったということになる。
20万年前の40~50歳代といえば、今日では80歳代の高齢者だろう。遠く、旧人(ネアンデルタール人)にまで遡っても、介護をしていたこと。ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)の前に、まず〈世話するヒト〉であったということになる。
私たちは大脳皮質(思考・言語などの高次機能)の知能に人間の尊厳性をおいている。けれど、実はもう一つ大脳辺縁系(感情等を支配する情動脳)に支えられてこその尊厳ではないか…。理性・観念は宇宙の無限遠点をめざすが、情動はひたすらに地上の愛を全うするヒトであり続ける…。
私たちは、抱いてもらったように、食べさせてもらったように、眠らせてもらったように世話をし、そして看取り・葬る。
グリム童話「じゅみょう」にみる人間70歳寿命説もまた、老いて歯がなくなり、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなっても、なお人は支えて生きていくこと。他人を世話するという力を、他の哺乳動物(イヌ・ロバ・サル)と一線を画す〈世話するヒト〉の存在として肯定したかったのだろう…。この記事を支えにしてわたしは『「還りのいのち」を支える』(2002年・主婦の友社)、『ホスピスという力』(2002年・日本医療企画)を著したのだった。
人類学者川田順造は、ヒトの祖先が、直立二足歩行によって得たものは大きな脳をもつことや、声帯が下がり構音器官が発達して、二重分節の言語を話せるようになっただけではない。二足歩行は、ある嵩と重さをもった「荷物を運ぶ」能力をもった〈運ぶヒト〉という視点がいると次のようにいう。
〈ホモ・サピエンス Homo sapiens 「知恵のあるヒト」という自己陶酔気味の正式の学名のほかに、ホモ・ルーデンス Homo ludens 「遊ぶヒト」(ヨハン・ホイジンガ)、ホモ・ヒエラルキクス
Homo hierararhius 「階層化好きのヒト」(ルイ・ヂュモン)などの綽名をつけた先人にならって、わたしはホモ・ポルターンス Homo portans「運ぶヒト」と呼びたい〉(『〈運ぶヒト〉の人類学』)
その伝からいえば、care(世話、配慮、関心、心配など)、世話をする(care of)、配慮する、気にかける(are about)。このCareの語源はラテン語のcuraに由来しているという。気遣い、苦労、思いやり、献身につながる。あらためて、ここで〈世話するヒト〉宣言をしておきたいとおもう。