2015年2月14日土曜日

フリーランサー 後藤健二さんの死


フリーランスという生き方
フリーランス・ジャーナリスト後藤健二さんがイスラム国によって殺害されて間もなくの2月4日、政府自民党の高村正彦副総裁は、後藤健二さんのシリア入国は「どんなに使命感が高くても、真の勇気ではなく蛮勇(向こう見ずの勇気)といわざるを得ない」とコメントしました。さらに「亡くなった方にむちを打つためにいっているのではない」「後藤さんの遺志を継ぐ人たちには、細心の注意を払って蛮勇にならない行動をしてほしいからだ」というダメだしをしていました。

この発言にわたしは同感も同意もできませんでした。なぜなら、こういう物言いができる(あるいは、同意できる)人は、危害が及ばない、安全な場に身を置いている人に限られるだろう、そう思うからです。もうひとつ、後藤さんの行動はフリーランス・ジャーナリストとして逸脱していたのでしょうか。なによりも後藤健二さんの死は蛮勇死ではなかったとおもうからです。

新聞・テレビ等の会社組織のジャーナリズムに所属しているスタッフ記者なら、イスラム国の中枢のゾーンに派遣されることはありえません。危険だからです。元NHKのジャーナリスト池上彰氏は面識のあった後藤さんの行動に関連して語っています。
「…NHKだけがバグダッド支局を維持しましたが、民放はみな撤退しました。それでも、現地の映像やリポートが欲しい民放が頼ったのが、後藤さんのようなフリーランスという微妙な立場のジャーナリストでした。フリージャーナリストなら、会社の責任ではなく『勝手に』紛争地に行って、『勝手に』取材してくれる。すべてのリスクを彼らに背負わせて、何かあったら自己責任というわけです。そういう世界で生きている後藤さんだからこその判断ですね」(『文藝春秋』3月号 佐藤優氏対談「イスラム国との『新・戦争論』から」)

ランスlanceとは槍のことで、ランサーとはその槍をもって闘う中世の槍騎兵。フリーランサーあるいはフリーランスとは自由騎士。槍一本とそれを扱う技術と戦場体験に勇気を元手に自分を必要としている領主と契約するプロの騎士ということになります。
フリーランス・ジャーナリストで、戦争報道写真家の先駆者といえば、1960年代のベトナム戦争取材で知られる岡村昭彦(1929-1985)がいます。岡村は「二度と武器を持たぬと誓った日本人の一人として、私が戦場にもってゆく武器は、ちいさなカメラだけだった。カメラが、私の武器だった」と述べていました。殺し合う戦場でのジャーナリストの武器をカメラに見立てました。彼はたぶんに倫理的な動機からフリーランサーとして戦争を記録(「南ヴェトナム戦争従軍記」)したのでした。

では後藤健二さんはどうだったでしょうか。わたしが見た数少ない後藤健二さんの取材映像で明快だったのは主語が常に「わたし」であり、「わたしの視線」としてメッセージが届けられていたことです。また、著書等からも、後藤さんの資質からくるフリーランサーとしての生き方が十分に見て取れるものでした。
中東を取材した、比較的早い時期の『もしも学校に行けたら アフガニスタンの少女・マリアムの物語』(汐文社)から拾ってみます。
『「対テロ戦争」「テロとの戦い」とわたしたちがまるで記号のように使う言葉の裏側で、こんなにたくさんの人たちの生活がズタズタに破壊されていることを、知らないでいたのです。あるいは知らせずにいたのです。自分は、いかに盲目的だったかと激しく自分を責めました。アフガニスタンの戦争は、まったく終わっていません。それどころか、世界を巻き込んで広がっています。その中でわたしたちにできることは、さまざまな方法で、彼らに手をさしのべ続けることなのではないか、そう思います』

あらためて、後藤さんもまた、ひたすらにフリーランスの道程を歩むほかなかった人であることがわかります。(この稿は次回に続きます)

1 件のコメント:

F・T さんのコメント...

他人に対して使う『自己責任』という言葉をこんな残酷に感じたことはなかった。映像とも絡みあって、その言葉が、今にも自分に向かってきそうで、言葉を吐いた人も聞いた人も、皆どこかで身体を硬直させ思考を停止させていたのではないか。後藤さんについての米沢さんのことばは、その硬直を緩ませる。人としての後藤さんのすがたが素直に届く。