2015年3月22日日曜日

メメント・モリ 東日本大震災のいのち


3,11東日本大震災のいのちことば
先に紹介した俳優杉良太郎の「このカワイソウを分けてもらわないと、生きていけない」ということばを聞いた直後から、わたしは揺れる余震の大きさに合わせるようにテレビ映像や新聞・週刊誌等から耳目にふれたかぎりの「このカワイソウ」を探したようにおもいます。そのおり、拾い書きした「ことばメモ」が残っていました。
今回、あらためて「このカワイソウ」を拾い出してみると、「メメント・モリ(死を想え、死を忘れるな)」ということばに変換できることに気付きました。

①「すり抜けていっちゃったんです。抱きしめようとおもったのに…。あのとき、しっかり抱きしめていたら…この胸にちゃんと抱かなかったから」(3歳の女の子を失った母親30歳・女川)

②「津浪に追われて必死に逃げたのさ。ずいぶんたって電柱にしがみついていた。あのとき死んでいりゃ、いまみたいなかなしい目にあわなくてすんだのに」(40歳 知的障害者 お風呂場で 石巻)
 
③「ランドセルはみつかった。ほら、名前がかいてある、××って。でも、まだ帽子がね…。入学式に履いていく靴がね、まだなんです。箱にはいったままだから。きれいなままだとおもう」(不明になった子どもの遺体をさがしている父親)

④「親父の『助けてくれ』という声がきこえた。でも、波にのまれていく瞬間だった。目があった。そのとき、助けられなかった。あの親父の目が一生忘れられない」(老人ホームに父を迎えにきていたという50代の男性・南相馬市)

⑤「おれたち、これから逃げるから。おばあちゃんはこれを喰って生き延びろ」と息子夫婦がおにぎり三つもってきた。「おめえたちは逃げろ。おれはじいちゃんの位牌をまもる。ここで死んでいく。こんなとき、おれは生きていちゃいけねえ」(原発20キロ圏、小学校の避難所で。おばあちゃん、86歳)

⑥「よかったー。父と母がみつかって。いっしょに見つかってよかったー。家の中で死んでいてよかったんだよ。家で死にたい、いっしょに死にたいと仲がよかったから。それに…いつになるかわからないといわれていたのに、25日に火葬がきまって、ほんとうによかった」(3週間後に自宅の瓦礫の下から両親を発見した男性34歳)

⑦「噂を追って息子のゆくえをさがしたよ。ヘリで運ばれたって聞いて病院にも歩いていった。噂があるうちはよかった。さがす道がなくなっても安置所には行けなかった。息子から〈無事か?〉(3月111517分)と携帯メールがあったのに、おれは気がつかなかった。ぶじだと返事してないから。ずっと」(3月30日海近くの遺体安置所で「息子だとわかるくらい、まだキレイだった」と父親)

⑧「中にはいると三百個くらいの棺がずらっとならんで、その一つ一つが顔の部分だけ、透明の板になっていて、その下に生前の顔写真と名前が書かれた紙がはってあるんです。探したら、顔が叔母さんの棺には『女』『不明』とだけ書いてあった。(遺体安置所に親戚のおばさんにお線香をあげるためにいた女子高校生。16歳)
 
⑨「人はひとりもいない。動いているのは犬や鳥。人の気配を感じるとすごい勢いでせまってきた。人間の手らしきものに群がっている鳥を追い払おうとしたが、ふっと放射能汚染のことが頭をよぎり足がすくんでなにもできなかった」(原発・半径20キロ圏内に入った40代の避難民男性)

⑩「親父が亡くなったのは3月14日午前5時12分。死因は『肺がん』とだけ。ほんとうに肺がんだったのかねとおもうけど、でも死亡診断書から推し量ると担当医が看取ってくれたんでしょうね」(遺体のまま3週間放置されていた父親の死亡診断書を受けとった男性)

ここに集めた“ことば”からは、祈りにちかい言葉を見つけながら、あらためて「メメント・モリ(死を想え)」をめぐらすほかありません。東北地方はしばしば大津浪に襲われ、記録されていますが、陸中遠野の伝説119篇を聞き書きした柳田国男の『遠野物語』(1910・明治42年)にも「先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻子を失い、生き残りたる二人の子とともに生き残った男」の伝承譚(99)として記載されています。「先年」とは2万人をこえる死傷者を出した三陸地震の大津波(明治29年)を指しているかもしれません。そうなら、そこから100年、いのちのリレーにふれたことばもありました。

⑪「かあちゃんと息子と両親を津浪でなくしました。学校へ通っていた娘だけ助かった。明治の三陸地震のとき先祖は海の近くで家が流され、同じ場所に家を建てましたが昭和三陸地震でまた流されました。それから、今度は海岸から2・5キロ離れたところに家を構えたのに今回も津浪に流されました。明治のとき僕のばあちゃんは8歳でひとり助かって家系をつないでくれました。今度は20歳になったばかりの娘だけが助かったんです。生き残ったものはしっかり生きないとね」(父親58歳 陸前高田)
(註 採りあげた①~⑪は3.11以降1ヶ月ほどのあいだに、テレビニュースやドキュメント番組、他に朝日・読売・日刊スポーツ新聞等からメモしたもの)


2015年3月12日木曜日

カワイソウ 東日本大震災のいのち


カワイソウを分けてもらう
東日本の大震災、4年目の3.11。それぞれの人にとっての3.11
目の当たりにした巨大津浪。安全神話を木っ端みじんに打ち壊した福島原発による被曝…。3.11からひと月たった4月13日、ある仕事で出掛けた京都でのこと。知恩院山門前でタクシー運転手に「お客さん、どちらから」と声をかけられ「東京から」と返すと、「逃げてきたのですか」と問い返され、ドキリと心が揺れたことを覚えています。時間は駆け足で過ぎていますが、私には未だに現地へ足をはこぶ機運(勇気)がやってきません。

3.11以降しばらくはテレビ画像に釘付けになりました。けれど、事態がみえない不安に苛立っていたと思います。「がんばろう、日本」とか「お見舞い申し上げます」とか、「きづな」とかいうことばが画像にもあふれるようになる前にテレビ画像からおもいもよらないことばが聞こえました。
「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけないんだよ
咄嗟のことで声の主がわかりませんでした。すると「杉良太郎」と縫い込まれた緑色のよれよれジャンパーの背中が映りました。杉良太郎さんはイスに座って炊き出しの最中で、貌の表情はみえません。たんたんと豚汁をお椀に移す作業をしており、その手を止めることもなくカメラ目線もなく、どうやら視聴者にむけて用意されたメッセージでもない、ひたすら自らに言い聞かせるような呟きことばだったのです。けれど、このことばがわたしの脳天を撃ったのでした。
ここで、「カワイソウ」とは無傷の対岸から被災地の悲劇にむかって「(あの人たちは)かわいそう」とつぶやいていることばではない。また、被災を受けた人たちの不幸をその身になって「かわいそう」と口にしてみせた同情や憐れみのことばでもない、不思議な呟きでした。この杉さんのことばを聞いて「あれは役者ゆえの台詞だよ」と一蹴した人もいましたが、もしそうなら、「杉良太郎は一級の役者だ」といいかえてもいいのです。

「カワイソウをわけてもらう」とは、4年たったいまでもその評価はかわりません。気付いたのですが、ここで「カワイソウをわけてもらう」とは同情から慈悲へ飛翔していく宮沢賢治が包摂してみせた世界と通じ合っているようにおもいます。
慈悲について。玄侑宗久氏は「助けようとは思わなくても自然に月光のように放散しだれもが浴する力そのもの」といっています。あるいは「慈悲とはからだから自然に放散する振る舞い、協調性のような気配」とも(『慈悲をめぐる心象スケッチ』)。
そうだとすると、「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけない」ということば(と杉良太郎さんの姿)は、被災者の困難を受けとめようとする慈悲と、その被災の哀しみを抱きしめ救済しようとする慈悲がない交ぜになって聞こえていたともいえます。
わたしの記憶ではこの「カワイソウ」を耳にして間もなく、わき出したかのように宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を口ずさむ声が周辺から聞こえてきました。それは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という賢治の慈悲の深さと重なっていたのです。

知られているように東北三陸地方は明治以降100年の間に2度3度の大地震と津波に襲われました。賢治は1896年(明治29)6月三陸海岸に大津波で2万1千人の死傷者が出た2か月後に岩手県花巻町に生まれています。その年の7月と9月には大風雨が続き北上川が増水し、夏になっても寒冷が続き稲は実らず赤痢や伝染病が流行しています(宮沢清六『兄のトランク』)。しかもこの天災はまるで賢治の生涯に合わせるかのように生まれた年から37年後の1933年(昭和8)、再び三陸海岸に大津波が押し寄せ死傷者3千人を出した震災の半年後の9月に賢治は亡くなっています。
「雨ニモマケズ」が黒い手帖に書き留められたのは、亡くなる2年前(11月3日の日付だけが横書き)。遺言をしたためるほど体が衰弱していたころでした。信仰が深かった賢治の慈悲のことばの集積地。誰もが諳んじてきたものです。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌トスコシノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨク ミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萓ブキノ 小屋ニイテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ 北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ ミンナニ デクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ

この最終節「ウイウモノニ ワタシハナリタイ」という賢治の願望に「カワイソウ」が回収され救済されているのがわかります。それは「ほんとうのさいわいを探しに行こう。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んでいこうね」というジョバンニの声(『銀河鉄道の夜』)と重なってもいます。(この稿は次回に続きます)