2015年5月25日月曜日

逝く力、看取る力



3年前、二人の在宅医のホスピス活動にふれた語らいと講演を一冊にした『病院で死ぬのはもったいない―〈いのち〉を受けとめる新しい町へ』(春秋社 2012)があります。
一人は山崎章郎さん(ケアタウン小平クリニック院長 東京)。「病院は死にゆく人の支えにはならない」と外科医の声を伝えた『病院で死ぬということ』(1990年)は、ひろく読まれ、わが国ホスピス運動の先駆けにもなりました。近年は東京郊外の半径3~5キロにしぼったエリアで医療・看護・介護等から子育てまで、ケアの循環と地域ネットワークが一つになる町づくりがすすめられています。
もう一人は福岡市で外科医から在宅医に転進してキャリア20年、『在宅ホスピス物語』(青海社 2011)の二ノ坂保喜さん(にのさかクリニック院長)。活動は多彩で、バングラディッシュでの医療ボランティア活動をはじめ、重度の障害児の一時預かりの場所として民家を改修した「地域生活センター・小さなたね」の開設など、「人権としてのホスピス」という立場にたって行動している医師でもあります。
本書は多くの読者のこころをとらえましたが、わたしが二人のホスピス医から学んだことは、「人はだれもが逝く力を備えており、また人はだれもが看取る力をもっている」ということでした。

逝く力について
山崎章郎さんはこんな語り口で話してくれました。
70歳の女性患者に、「Aさんはいまのご自分の状態をどんなふうに考えていますか」と聞いたんですね。そのわたしの問いかけに患者さんは言葉が詰まってしまったんです。しばらく沈黙があってそのうちに閉じた瞼から涙がにじみ出てきました。そしてか細い声で「余命いくばくもないと思っています」と応えてくださった。それで「余命いくばくもないと考えているんですね。そう感じているんですね」というと、患者さんは閉眼したままうなずきました。そこで「では、もし余命いくばくもないんだったら、これからどうしたいですか」と聞いた。その方は目を開けて「毎日孫に会いたい」と言ったんですよ。「え、どのようなお孫さんですか」ってわたしが聞いたら急にニコッとして孫の自慢話をはじめて「そういうお孫さんだったら毎日会いたいですね」って。それで、われわれの話を固唾を呑むように聴いていたご家族に「Aさんに、毎日お孫さんに会わせてあげてください」とわたしが言ったら、ご家族はほっとした表情で大きく頷いたんです。〉
山崎さんは、Aさんが死を受けとめようとしている場面に「逝く力」をみたのです。そして、この患者の逝く力を支えるために、お孫さんを引き合いにして、家族の「看取る力」が引き出されたのです。

看取る力について
二ノ坂保喜さんは「看取り」の力が立ち上がる場面をある情景から引き出しています。
〈肝臓がん・肝硬変の女性の方でしたが、吐血したんですね。余命があと1~2週間という方。そうすると家族がわっと集まって(動揺して)、もうこれ以上は無理だ、お母さんが倒れてしまう。だから、入院させましょう、入院させると安心だって(救急車を呼ぼうと)いうんです。入院させると安心って誰が安心ですか。自分たちが安心なんです。もう少し突っ込んで「じゃあ本人にとってはどうですか」と問います。「病院に行っても、病気そのものは治らないので症状は変わらない。でも病院にいったらどうなるかっていうと、患者さんにとっては家族から離されるという孤独を背負わされることになります」〉
二ノ坂さんはそこで、家族にこんな訴えをしてみます。「入院するのは治って帰るために入院するんですね。でもいま入院すると家族から見放されて孤独のなかで死んでいくために入院することになります。吐血などには私たちがちゃんとします。最期まで必ず対処します、いまはお母さんの一大事なのだから、少し無理をしてでも、皆さんおかあさんのそばにいてあげてくれませんか」と〉
ここで家族みんなの看取る力が一つになり、「逝く力」の支えになっていったのです。
この二人の語り口からは、これまで千人を超える人を看取り見送ってきた市井医ならではの、深い洞察とその立ち位置からの配慮が伝わってきます。
あらためて「人は〈いのち〉を受けとめる力をもっている」ということを教えられたのでした。

[お知らせ]3人の会が発足しました。
数年来「ホスピスは定着したのか、これでいいのか?」という問題意識を共有するようになっていた3人(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)が3年前(20121229日)、大阪に集まって語り合った4時間の内容を主にまとめたのが『病院で死ぬのはもったいない』でした。出版後には、日本ホスピス在宅研究会長崎大会、日本死の臨床研究会年次大会(別府)等でも3人で語り合う機会がありました。各地で運動体のような集いができたらと考えて、今年の1月11日、二ノ坂保喜さんの日本医師会赤ひげ大賞受賞記念祝賀会の席上、「3人の会」発足を宣言しました。
3人それぞれの経験や考えを各地で披露し、地域の在宅医・ホスピス運動家と共に語り合い、地域の人たちといのちを受けとめる運動を定着させることができればと考えています。現在、福岡県宗像市(9月)、佐賀県(8月)などから声をかけて頂いています。先ずは直近の6月14日(日)、「大和生と死を考える会」22周年記念講演会のポスターを添付しました。午後の4時間を割いて3人の講演とシンポジウムを予定しています。


2015年5月12日火曜日

せわぁない(世話ぁない)


大河ドラマ「花燃ゆ」を観ながら、ほぼ毎回出くわしたセリフに「せわぁない」があります。とくに吉田松陰の母親である滝が口にします。松陰が脱藩や建白書、密航そして投獄といった破天荒な行動を続けるなかで、韻を押すかのように「せわぁない」ということばが笑みとともに飛び出す。その絶妙の間にはしばしば感服します。
「いいセリフだなあ」とおもいます。人のふるまいと場面がこの一言で和むのです。
「せわぁない」は、「気にかけなくていい、心配はいらない」あるいは「大丈夫、大したことはない」というニュアンスで使われる長州ことば(山口県)になっていますが、実は私が生まれ育った奥出雲(島根県)でも、よく耳にした馴染みのあるものでした。
「せわぁない?」「せわぁないがねー」
弱虫だった子どもの頃、母もまた、わたしの前で何度か口にしたことばだったのです。

「世話」「世話をする」といえば、介護、介護する。面倒をみる。Take care of …。
「世話を焼く」もあり、「世話になる」や「世話が焼ける」に「世話がない」など、私たちは「世話」ことばのなかで暮らしています。
「せわぁない」とは「世話ぁない」。世話をしたり、世話になったりがないこと。けれど、「世話」が閉め出された、かといって、見放さない。手放さないで配慮がなされている様子であり、関わりとして見えてきます。
もし「せわぁない(世話ぁない)」という環境が整えられたら、世話にまつわる規範や約束事を打ち消した新鮮なコミュニティが誕生し、福祉社会が成就したといえるかもしれません。

「ぼけてもいいよ」
「せわぁない(世話ぁない)」に匹敵する環境を介護現場でみつけることは出来ないでしょうか。そのヒントになることばに「ぼけてもいいよ」があります。
福岡市内で早い時期(1991年)に「ぼけても住みなれた町で、普通に暮らしたい」という人たちのケアに取り組んで誕生した「宅老所・よりあい」(代表・下村恵美子)。実はその第2宅老所所長村瀬孝生さんの『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社 2006年)という“名著”に由来します。毎朝10数人の人がやってきて身を寄せ合って一日をすごす一軒の民家ですが、ここには不思議なことに「世話をする」という介護の構えがまったくみえません。訪ねて気付いたのはまさに(ぼけても)せわぁない(世話ぁない)」という解放区にみえたことでした。
そんな環境をつくりだしたエピソードのひとつ、〈湯飲みをキャッチする営み〉という見出しのついた一文をあげてみます。

次郎さんはよく物を投げた。言葉を失いかけていた次郎さんは、「アアアア~ッ」と奇声を上げながら、目についたものを手当たりしだいに投げるのだ。
それぞれが自宅から集い、「おはようございます」とあいさつを交わしながら席につく。のどが渇いていようがいまいがとりあえずお茶をだす。そのお茶の入った湯飲みを次郎さんは投げる。

チョロと湯飲みに口をつけ、すすったか否か、その瞬間に「アアアア~ッ」と声をあげる。そして湯飲みが放たれる。湯飲みから飛び出すお茶は周囲を水浸しにしながら大きな音を立てて座卓の上に落下し、転がる。
のけぞる人。逃げる人。「なんなっ! そげなことをしたらいかん!」と烈火のごとく怒る人。「あ~あ」と消極的な非難の声をあげる人。あたりは騒然と化す。

僕たちは葛藤した。お茶を差しだせば必ずそれを投げることは目に見えている。だからといって次郎さんにはお茶を出さないと結論づけるのはあまりに差別的。第一、このままだと次郎さんが孤立する。
湯飲みを投げないように職員が阻止すると、次郎さんの興奮はさらに加速する。どうしたらよいものか。

ある日のこと。次郎さんはいつものように湯飲みを投げた。職員はその湯飲みを落としてなるものかと、決死のダイビングで上手に受けとめたのだ。すると周囲は「よくやった」と歓喜に包まれた。投げることへの非難から受け取ったことへのよろこびへと、場の雰囲気がとってかわる。
この日を境に、僕たちは阻止するのではなく、うまく受け取ることに専念することにした。投げる人と受け取る人がいることで場は大いに盛り上がった。
その次郎さんも、最近は湯飲みをなげない。すっかり落ち着いてしまった。投げる人がいないので場がちっとも盛り上がらないのだ。

村瀬さんは、このエピソードを通して『呆け』の多くは孤独であること、あるいは孤立していることが原因のひとつではないか、というのです。「よく分からないものを分からぬままに、あえて立ち入ることなく添い続ける。意味のある無しにかかわらず、それを受け入れる余白が社会にあることだ」と。この「余白」こそが、「ぼけてもいいよ」と「せわぁない」という環境を一つにしているようにおもいます。

この4月、新設の特別養護老人ホーム「よりあいの森」(3ユニット・28人)のボスになった村瀬さんは、それぞれのユニットの名前が「ばんざい」「わっしょい」「あっぱれ」に決まったことをうれしそうに話してくれました。命名は最初に入居してきたひとの第一声が「ばんざい」だった、そして「わっしょい」「あっぱれ」と続いたからだといいます。

「せわぁない」という声の主はだれなのかをよく熟知している人の笑顔がそこにありました。