2015年6月21日日曜日

アルツハイマー


アルツハイマー病の告知
この春、67歳の知人女性から「やっと第2の人生が始まるとおもったのに、認知症になった。アルツハイマー病です」とメールが届きました。認知症患者に同行したついでに検査の受けたというのです。まさかと、本人にも自覚症状はなく、簡易知能評価スケールでも27点(満点30点)。ライターとしての仕事になんの支障もでていない。ごく最近まで「告知」といえば、早期発見早期治療という立場からの「がん告知」をさしていました。

認知症といえばアルツハイマー病。高齢者の知的退行のもっとも多い疾患とされるもので、脳の萎縮と大脳皮質の老人班が特徴で症状が進行するといわれてきました。
この名称がひろく知られるようになったのは先進諸国が高齢社会を迎えた20年ほどのことで、そのエポックメーキングになったのは1994年、アメリカ合衆国元大統領ロナルド・レーガンの国民への次のようなメッセージからでした。
「先日、ある人からわたしはアルツハイマー病にかかっている数百万のアメリカ人の一人である、と告げられた。ナンシー(妻)と私は、私人としてこの事実を受け止めるか、あるいは世間に公表すべきか、決心しなければならなかった。そして私たちは、世間に公表することが重要だと感じた」(2004年6月5日死去)。
『ベン・ハー』でアカデミー賞に輝いた映画スターのチャールトン・ヘストンも「いまアルツハイマー病を患っている。もしあなた方の名前を思いだせなくなったり、同じはなしを繰り返したら、この病気のせいだ。ゆるしてほしい。役者としてこれまで恵まれた人生だった。わたしはまだ、あきらめないし屈伏もしない」と公表したのは2002年でした。

アルツハイマー病「第1症例」
アルツハイマー病とは、その特異症例を公表(1906年)した精神科医アロイス・アルツハイマーの名前がそのままつけられています。けれど、その信憑性はながいあいだ疑われていました。肝心の「第一症例」の記録が見当たらなかったからです。発掘(正確には再発見)されたのはレーガン元大統領の“告知”の翌年(1995年)、フランクフルト大学の病院地下の精神科書庫の奥からでした。
そのカルテは衝撃的な記載から始まっていた。
「あなたのお名前は?」
「アウグステ」。
「姓は?」
「アウグステ」
「あなたのご主人のお名前は?」「アウグステだと思います」
「ご主人ですよ?」「あっそう、主人の…」
19011126日にアルツハイマー自身が記載した第一患者アウグステ・Dの初日のカルテです(1901年といえば、第1回ノーベル物理学賞受賞者にレントゲンがいた)。   さらに3日後の記述もこうだ。
「ご機嫌はいかがですか」
「いつもと一緒です。いったい誰がわたしをここへ連れてきたんですか?」
「ここはどこですか?」
「さしあたって今いったようにお金がないんです。自分でもわからないわ、まったくわからないの、何ていうことなんでしょう、どうすりゃいいの?」
「お名前は?」
「D・アウグステ夫人!」
このような会話のやりとりに出くわすと、介護保険利用の際の要介護度アセスメント(記憶障害、見当織障害等の)と重なってくるほどそっくりです。
カルテの主はアウグステ・D。1850年5月16日生まれの鉄道書記官の妻、51歳。夫への不信から奇妙な行動をとるようになった。知人に対して恐怖心を抱く。家中のありとあらゆるものをどこかに隠し、あとで見つけることができなかった。アルツハイマーはそんな健忘症と病的な嫉妬の裏に特異な病気が潜むと考え、彼女が亡くなるまでの5年間毎日のように診察し詳細に記録し、そして死後に脳を解剖した。
その成果はその年の精神科医学会で「大脳皮質における特異で重篤な疾患の経過について」と題してアルツハイマー自身がスライド等をつかって発表した。会場には若き日のユングらもいたというが、質問もないまま見事に無視された。
この歴史的発表がなぜ注目されなかったのかは20世紀初頭の精神医学界の潮流と深く関係していたのはいうまでもありません。「第一症例」の発見者コンラート・マウラーはアルツハイマーの伝記(『アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡』(保健同人社)のなかでそのあたりも興味深く伝えています。

21世紀の病い
アルツハイマー(18641915)は、ベルリンの大学で精神病に脳病理学をとりいれた講義を聴いて「顕微鏡の精神医学」に関心をもったといいます。当時の精神医学には二つの潮流があり、もっとも力があったのは精神病の原因を心にもとめる精神派でその雄といえばいうまでもなくジクムント・フロイトでした。アルツハイマーはフロイトと並び“現代精神医学の父”と称された身体派の雄クレペリンのもとで精神病の解剖学的基盤の解明に取り組んでいたのです。けれど、脳を顕微鏡で覗いてなにがわかるのか、と学会ではまったく相手にされませんでした。関心がフロイトの精神分析のほうに集中していたのは当然でした。
しかし、フロイトに批判的だった師のクレペリンが、アルツハイマーの論文「大脳皮質の特異な疾患について」をもとに自身の教科書のなかで「臨床的解釈は現時点では不明である」としながらも、アルツハイマー病の名前をつけて分類し歴史上に刻印(1910年)したことです。

1915年、アルツハイマーが51歳で死去した際の弔辞・弔文でもアルツハイマー病にふれられることはなく、わずかに娘婿が「1906年、それまでに知られていない特異な疾患をアルツハイマーは詳細に記載した。大脳皮質に特異物質が沈着し、細繊維が太い束と叢に変化することがもっとも顕著な解剖的特徴である。今日われわれはこの病気をクレペリンにしたがい“アルツハイマー病”と呼んでいる」とふれただけだったのです。
病名として一人歩きしてきたアルツハイマー病の第一例「アウグステ・D」の詳細なカルテがコンラート・マウラーによって病院地下から発見されたのは80年後。そして「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断は誤りがなかった。彼が診断した患者アウグステ・Dは実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた」(1998年、フランクフルター・アルゲマイネ紙)と認知されたのです。

ざっと100年、精神科医アロイス・アルツハイマーは長寿の深淵をひらく病いを21世紀に届けたのです。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

アルツハイマーの最初の症例がわかった話を興味深く読みました。ぼくは今、わずかですが
フロイトを読んでいます。今はフロイトよりアルツハイマーの方が人々の関心を集めているようです。これからは精神(フロイト)と大脳皮質(アルツハイマー)の両面から、頭の病の問題は考えていった方がいいのでしょうか。(hideaki)

Kon さんのコメント...

認知症は、まだまだ未知な部分が多いということですね。衝撃的でした!
ちなみに、祖母は季節も自分の年齢もわかりません。最も良き時期の記憶しかなくなったとしても、たとえそれさえ失ったとしても、身体の機能や記憶を超えた”その人の存在そのもの”のようなもの、を感じます。そういうとき、頭脳や、感情や、記憶を超えた見えない何かが人間の存在にはある、宿っている、と感じざるをえないときがあります。限りなくほかをそぎ落としてもそこへ向かっているようにさえ見えることもあります。
あらゆる感覚が崩れていったとしても、固有の個性を感じます。「これだ!」というものが目の前に現れると、暴力的なぐらい、無心にそこへ向かって何かを確認しようとします。
いろいろなことがわからなくなっても、できるだけ不安な状態にならずに過ごせればいいなあというのが理想ですが・・