―今年も桜をむかえました。そして、夫は病いる身を全うしました。
お会いしたことはない。旧著『自然死への道』(朝日新書 2011年)を出して間もない、東北大地震の年の夏だったとおもう。読者からいただいた数少ない感想ハガキの一枚に「わたしは病いる身です」とあった。その後二度ほどハガキをいただいたが病状にふれられることはなかった。あれから5年、「病いる身を全うした」という連れ合いの方からの報告だったのだ。「病いる身を全うした」とは、なんとも見事なことば遣いだろうか。「病いる身」とは「病める身」のことではないからだ。以下、このことばにふれてみよう。
―老いる、病いる。そして明け渡す―
わたしはこの流れのなかで長寿・医療社会の「自然死」の可能性をさがそうとしていた。
わたしはこの流れのなかで長寿・医療社会の「自然死」の可能性をさがそうとしていた。
「病いる」は「老いる」と同じ響き、同じスタンスをつたえている。「老いる」とは加齢とともに体が衰えていく、老化という意味ではない。「老いをいきる」ということ。老いに抗うとか老いと闘うというのではない。同じように「病いる」とは、もちろん患者としてがんと闘うとか、病気に抗うということでもない。誤解をおそれずに言ってみれば、「老いる」が「老いをいきる」ことであるように「病いる」とは病気を無条件に受けとめていきること、すなわち「病いをいきる」ということ。そして(死因を問うまでもなく)いのちを明け渡す。この流れのなかで、いのちを全うするすがたを「自然死」と呼ぼうとおもったからだ。
そのモデルになったのが、俳優緒形拳の死にふれたエピソードだった。
緒形拳からのメッセージ
緒形拳の遺作となったテレビドラマは『風のガーデン』(倉本聰作 2008年)だった。ドラマは膵臓がん末期の息子(麻酔科医・中井貴一)を自宅で看取る父(在宅医・緒形拳)という医師親子の葛藤と和解の物語だった。とりわけ印象を強くしたのは、亡くなる数日前の完成記者会見での元気そうな姿と、そのとき口にしたことばだった。「(このドラマを通して)病いる姿を見て欲しい」。わたしはここで「病いる?」と聞こえた。そしてメモしたことを覚えている。
緒形拳は亡くなる8年ほど前から肝炎をわずらっており、5年前に肝がんに移行した。けれど、家族以外にはその事実を一切口外せず本人の強い意思でその後もふだん通り、役者緒形拳を貫いたことをニュースは伝えた。緒形さんは病気でありながら闘病の姿をだれにも見せなかった。患者としての暮らし方をさいごまで見せなかったということ。そんな事実が「病いる」ということばと重なった。
「病む」でなく「病い」でも「病める」でもなく「病いる」。「やまい」を辞書で引く、あるいはパソコンで「やまい」と打つと「病」であり、送りのある「病い」は誤りであるかのように排除されている。しかし、病と病いは同じではない。「病」はdisease、文字通りの病気。病名があきらかな疾患・疾病をさすことばだろう。「病い」はillness。痛み等患者自身が実感、受けとめ方にかかわっている気がした。東北地方では「病いる」ということばがあるともきくが、ここでは俳優緒形拳のことばとして受けとめたかった。
彼は、あるテレビ番組で「老いる」ことにふれてこんな語り方をしていた。
〈芝居とか映画は現実の世界とちがい、いいかげんな、どうでもいい虚構の世界だからこそ、本気でやらないと虚構がドラマにならない…。でも、この歳になって老いの演技を考えると、演技することが演技しないことにつながるのではとおもうようになった。緒形拳という役者はヘタだねえ、下手になったねえといわれるようになるのが、わたしの理想(笑い)…〉
緒形拳はここで、老いること、病いることは人生を全うするに欠かせない、といいたかったにちがいない。
「病いる」という道
イヴァン・イリイチは老・病・死に向かって自律的に闘える基礎を健康と呼んでいた。つまり、医療の手助けが最低限しか行われない生き方がもっとも健康によいとした(『脱病院化社会』1978)。
けれど、いま医療機関・病院は病人を相手にする機関とはかぎらない。健診から検診へ、早期発見早期治療ということばがあるように、積極的に健康な人を招きいれ、病(disease)探しに余念がない。まさに健康の王国と病気の王国に分ける機関になっている。
また、自らの乳がん体験からスーザン・ソンタグは「この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民となる」といい、誰しもがずっと健康な王国の住人でいたいとおもうが、早晩、病める人々の王国の住民として登録せざるを得なくなると述べている(『隠喩としての病い』1978)。
「病める人々の王国に移住する」とは立派な病名(がん)を手にし、患者として医療施設と医学用語の世界の住人になることだ。病の国の住人になったものは一日も早く治癒して、つまり患者の肩書きをすてて健康の王国に復帰したいと願う。けれど、がんのような病気は肉体の病気にもかかわらず、死を隠し持つ言葉のあや(隠喩)に足をとられ悩まされて、真の健康の王国へのパスポートを受け取ることが難しい。ではどうするか。悪しき病気観を一掃して「健康に病気になることだ」と語っている。
もう一つ、アーサー・W・フランクは『からだの知恵に聴く』のなかで「病いとは生き抜く体験のことである」といっている。彼も三〇代の心筋梗塞とがん体験から、人は患者になると「病気」の言葉の世界にのまれて、からだは病気が存在する「場所」のように扱われる。けれど、病いには生きるための希望や失望や喜びや悲しみの体験が力になっていくものだという。
これらのメッセージから、三つ目の国を「寛解の王国」と呼んでみることができる。病気が落ち着きおだやかになる寛解 remission ということばがある。ここでは、病気の国のことば(医療用語)や患者の国(医療施設)から解放されて、「健康に病気になる」あるいは「病いる身を全うする」居場所に赴くことができるかもしれない。長生きする時代、3人に1人はがんになるといわれる。けれど、がんは死に至る病ではなく、むしろがんとともに生きる王国と見定めることかもしれない。緒形拳の「老いる、病いる」という生き方はその範の一つになったのでは、とおもう。
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