2017年7月28日金曜日

イネーブラー  ―認知症のひとに同伴する


認知症に関する手引き書はそのほとんどが介護者のために書かれている。認知症(dementia)の人は「呆けている人」「わけが分からない人」で、自身の病を訴える能力がなく、こころを喪失した脱け殻状態の人とみなされている。だから、認知症のケアは高齢者介護の中心課題になっている(我が国の“2025年問題”は、認知症患者がざっと700万人、65歳以上の高齢者5人に1人といった数字で示されている)。

ところが、クリスティーン・ブライデンさんの『認知症とともに生きる私』(大月書店)を読むと、認知症に対する偏見と固定観念を粉砕する基盤を欠いていたかがわかる。本書の原題はNothing About Us,Without Us!「私たちのことを、私たち抜きに決めないで」とある。私たちとはだれを、どんな人を指すのか…。認知症患者? 認知症の人? 認知症のある人? …つまり、「認知症の患者である前に、一人の人間です」という訴えが聞こえてくる。
クリスティーン・ブライデンさんは、かつてオーストラリアの政府関連の科学技術者だった。シングルマザーとして3人の娘を育てながら1996年(当時46歳)にアルツハイマー病と診断され(後に前頭側頭型認知症と修正)、「完全に呆けるまで5年、3年後には介護状態になって死ぬ」といったシナリオが示され、いまなお「認知症とともに生きている人」なのである。
クリスティーンさんは若年性認知症の姿を自らカミングアウトした。そして認知症になるとはどういうことか、私は誰だったのか? いま誰なのか? そして死ぬとき、誰になっていくのか-そんなアイデンティティの危機に直面しながら“認知症サバイバー”として、認知症患者の権利擁護活動家として日々を重ねている( 専門医は脳のMRI画像から、この20年の活動はしんじられないと首をかしげるという)。

「認知症とともに生きる」とは、「認知の自己」が失われている生活が続いている。その段階で人生は減速車線にうつることになる。けれど、「感情の自己」と「スピリチュアルな自己」があるかぎり人として生きることができるとクリスティーンはいう。「認知の自己」はもう求めない。でも、「生きる意味を探す支援がほしい」と。そして、発症後まもなくして同伴者となった夫ポールへの信頼を口にしている。
〈慣れ親しんだポールの存在がいつもそこにあって、わたしはその彼を通して安心感を得ています。そして彼は愛ある存在感をもって私を安心させてくれます。ポールは私のケアパートナーであり、イネーブラーです。
私ができるだけ長く自立していられるように、彼はケアを調節して、私の自律を助けています。認知症を生きるこの人生で、私は権利擁護活動とポールとの関係性を通して、自分のスピリチュアリティについて新たに考え、生きる意味を見つけてきたのです〉

イネーブラー(enabler)※とはなにか。自分でできるように助ける人のことであり、carer,とかCaregiverにある「してあげる人」「保護する人」という意味を取りのぞいた、あくまでも対等な関係を重視した表現として示されている。それをイネブリング(enabling)と呼んでいる。
たとえば、①「(無条件に)ケアを与えること」は×であり、②私がやれることを代わりにやってくれることも×である。
つまり③単なるケア(介護)の対象者(対象物)とみなすのはだめ、×である。ここからがイネーブラーとなる。④できなくなってしまったことではなく、まだできることに着目してはたらきかけることであり、⑤日々、小さな達成感を得られるよう支援すること。
―「認知症とともに生きている人の深いところでつながり、この旅路を歩むことをイネーブル(enable)してください」。それがクリスティーンのメッセージなのだ。

あらためて、イネーブラーは、彼女がポールとの関係から、独自に引き出した思想概念だといえるだろう。依存ではなく自立(自律)した、二人のすこやかな関係(well-being)そのものを指している。(※ちなみに、この用語は通常、心理カウンセリングの用語として使われ、何らかの依存症にある人に対して、心ならずもその依存状態を支えてしまう人のこと。イネイブラー、イネーブラーとも。ここでは本書訳にしたがってイネーブラーとした)

認知症を生きる道を手探る人たちの発信は、わが国でも目につくようになっている(ルポ「希望の人びと」生井久美子 朝日新聞出版)。ここでは、認知症の人が同じ認知症の道を歩む仲間への呼びかけを紹介しておこう。(『認知症になっても人生は終わらない』harunosora
〈病気は、あなたのなかのほんの一部分です。苦手になることは無数の脳の働きなかのほんの一部分です。あなたは今もこれからもずっとあなたです。病気の症状は恥でしょうか? 病状とあなたの価値は無関係です。忘れたっていいんです。それは病気が起こすもので、あなたの人格とは何の関係もありません。〉
〈笑顔で生きる道はたくさんあります。そのために気持ちが落ち着いたら、先ず一番親しい人に病気のことを話してみましょう。きっとそのままのあなたを受け入れてくれます。〉30歳代後半に幻視。若年性レビー小体型認知症と診断された樋口直美さん 54歳)

〈認知症当事者は特別な人ではないのです。丹野智文という一人の人なのです。認知症の人というよりは認知症とともに生きる人だとおもってほしいです。〉
〈介護が必要なのは本当に重度になってからだとおもいます。いま、できることを奪わないでください。そして時間がかかるかもしれませんが待ってあげてください。一回できなくても次、できるかもと信じてあげてください〉(若年性アルツハイマー型認知症と診断され、「2年後には寝たきりになる」と言われた丹野智文さん 43歳)


わが国でも批准された障害者権利条約(2013年)には、Nothing about us without us.(私たち抜きに私たちのことを決めないで)という原則が謳われている。長い権利闘争の歴史の末に手にした権利だ。認知症の人の生き方にも、この原則が実現されなければならない。そのためにはだれもが介護者からパートナーへ、さらにイネーブラーへの踏みだしの一歩が問われることになる。「ユマニチュード」(ブログ・ラベル参照)はその向こうに見えてくるはずである。

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

イネブラー又は、イネ-ブリングをマイナスイメージで話す人が多いです。
まるで、いろんな依存で苦しんでいる方々への、バックでの支援は、その相手をつぶすような言い方をされます。それが、親子だったりすると、親が子供の依存からの脱却を邪魔している悪者という時に使われます。親子の間の、又は、親子だからこその感情はあることを前提にして、そこに、第三者がどうかかわりかではないでしょうか?親であることを真正面から否定される傾向は、間違っています。そういう意味で、イネブリングの解釈は、間違って伝わると、人と人の絆様でも否定することになるのです。親だから、家族だから冷静になれないことはあるかもしれません。周りを気にして、自分を責め、その結果、目の前の依存の状態に冷静に付き合えないこともあります。まして、その当事者が、信頼できる血の繋がりのある人がいなかったり、孤独の中で生きてきたときに、他人でも人との間に安心感があれば、立ち向かう力が生まれるはずです。イネブリング、又はイネブラーを治療の邪魔ものにする風潮に、疑問を感じます。