死ぬときぐらい好きにさせてよ
平成から令和へ-この30年で大きく変わったことといえば、がんの告知が当たり前になったことだ。「画像診断PET-CT-MRIでは…ステージ2です」、まずはエビデンス(科学的根拠)から始まる。「新しい抗がん剤を試されると生存率はこれぐらいかわります…」「食べられなくなったら、胃ろうにしますか」「呼吸器はつけますか、つけませんか」。「さいごは在宅にしますか、ホスピスですか」
こんなやりとりによって、「人生最終段階の医療」態勢(ACP アドバンス・ケアプランニング)が整えられることになった(「人生会議」「もしバナゲーム」参照)。
そんな医療を見限って「死ぬときぐらい好きにさせてよ」ということばを遺して亡くなったのが樹木希林さん(2018年9月15日逝去)だった。そのセリフはこうだった(『樹木希林 120の遺言』)。
人は必ず死ぬというのに/
長生きを叶える技術ばかり進化して/
なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう。/
死を疎むこともなく、死を焦れることもなく。/
ひとつひとつの欲を手放して、/
身じまいをしていきたいとおもうのです。/
人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい。
希林さんが「全身がん」だったとはいえ、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」とは、自死を願ったことばでも、自暴自棄から発したものでもなかった。
死の臨床は感情労働である
鳥取市内で有床診療所「野の花診療所」のホスピス医・徳永進さんの近著『「いのち」の現場でとまどう』(高草木光一編・岩波書店)からも、同じような訴えが聞こえた。
その一つは「死の臨床(終末期)」が行政用語として「人生最終段階の医療」ということばに整えられたことにある。徳永医師は「臨床の定置網化」という表現で批判されていることだった。一言でいえば、どんなに医学が進んでも人の生と死を操作できるわけではない。「いのちの臨床は海だ」、それも「汽水域」だという。
「汽水域」というのは海水と水が混ざり合う領域のこと。穏やかな光が届いているかとおもうと、冷たい風に波のうねりが加わり、高くなったり、水がにごったり。そこは医療の役割を担った資格者や専門家が取り囲んでも乗り切れる海ではないという。医療・看護・介護といえば、肉体労働だとも精神労働だとも言い難いところがある。そこでは、見えないが無心の「感情労働」が大きな力になるのだという。
患者さんが亡くなったときに「やり通したね、頑張ったね」と医療者と患者さん家族が抱き合うことだってある。「医師と患者という関係をこえて、生身の人間を相手にした喜び、それが感情労働が力なんです。私は『第二感情労働』と呼んでいます」と。(ちなみに、「第一感情労働」とは、優しいふりをする人工的優しさ。さらに「患者さま」を口にする病院はインチキ、だという)
「受容(じゅよう)」と「従容(しょうよう」
それではもう一つ。人は人生の最終段階でどのような死を迎えるのか。
数千人の人を看取ってきたホスピス医には死にゆく人の姿はどう映っているのか。「死を受容する」という表現が一般化しているが、徳永医師はそう看做してはいない。「受容」ではなく、むしろ「従容」としての死があるという。
「受容」と「従容」はどう違うのだろうか。「(死の)受容」という言葉はホスピス用語として知られている。1970年代にエリザベス・キュブラー・ロスの「死とその過程」五段階説で衝撃的に登場した。がん告知に始まり、否認、怒り、取引、抑うつ、そして最後が「受容」となる。外来の思想ながら日本の医療界でも「受容」は終末期の聖なるいのちの姿としてホスピス用語として定着してきた。
「彼は死を受容した」とは、理性で手繰れる言葉である。それだけに強制語になりやすかったのはたしかだった。
これに対して「従容」とは「動じることなく、ゆったりとしているさま」であり、「従容として死に就く」というフレーズはわが風土に馴染んでいた。人生の最終段階には死に抗うことはなく、また積極的な「受容」のかたちでもない、自然死に通じている姿である。樹木希林さんの死への道標も「従容」だったのであろうか。
徳永医師自らがモデルとなった新劇舞台「野の花ものがたり」を観たことがある。その関連インタビュー(『民藝の仲間』399号)のなかでこう語っている。
「(たくさんの人を看取ってきた感想を聞かれて)不思議なことに、みんな死んでいかれる実力をもっておられる。若くても、赤ちゃんも、青年も、99歳のおばあちゃんでも。おとついまでは目でしゃべられていてもふっと今日は死を遂げられる。 …人間の本質的なものとして、自分の死は多くの人に見られたくないと思っている」
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