2015年1月31日土曜日

99歳 老ジャーナリストの杖


昨年、「岡村昭彦の会」※で、久しぶりにむのたけじさんの講演を聴く機会を得ました。「岡村昭彦の写真―生きること死ぬことのすべて」と題した岡村昭彦没後30年目の大回顧展(東京都写真美術館)を前にした集いで演題は「昭彦君が生きていたら」というものでした。
むのたけじ(1915年秋田県生まれ)さんといえば戦争期に朝日新聞記者としてジャワ戦線の従軍記者等に携わった人ですが、1945年8月15日戦争責任をとるかたちで30歳で退社、1948年には秋田県横手市で週刊新聞『たいまつ』を創刊し主幹として健筆をふるい、休刊(1978年)後は一般民衆の立場から国家権力の横暴に対しての発言を期待され、その都度的確に応えてきた戦後を代表するフリーランスジャーナリストです。岡村昭彦はベトナム戦争の渦中で捕虜収容所で解放民族戦線ファット副議長との会見に成功したフリーランスの報道写真家。この二人には明治百年を足場に緊迫した対談『1968年歩み出すための素材』(1968)があります。

むのさんは80歳代になって胃がんや肺がんなどの大病がつづき、目も不自由で、その日は車いす姿でしたが、90人ほどの会場いっぱいの聴衆を前にして「マイクは使いません。マイクなしでわたしの声が届かないようでは話す意味がありません」と響く声は一瞬のうちに人の心をとらえるものでした。そして冒頭から「アキヒコの馬鹿野郎! なんで早く死んだ。俺より14年も遅く生まれてきて、この爺さまが99歳と3ヶ月も生きているのに、60歳にもならずにくたばるなんて。…彼は死んではいけなかった。生きていたら、アルカイダのミスター・ビン=ラディン(2001.9.11 NY貿易センタービル爆破事件)に会見しただろう。それができたのは岡村昭彦だけだ」とインパクトのある展開になりました。
(※この講演に関心ある人は「岡村昭彦の会」(http//:akihiko.kazekusa.jp/)「会報24」で閲覧できます。米沢慧は当会の世話人)

そんな反骨のジャーナリストむのたけじさんの『99歳一日一言』(岩波新書)には、年輪の詰まった365日分の語録が収まっています。たとえば、
・1月5日:一人では歴史は作れない。と同時に、その一人がいたから歴史が始まって進んだこともある。ひとり、一人、ヒトリの力
・1月6日:歴史の長い道のりに変化をおこす出来事は、しばしばたった一人の一瞬の決意から発生する。それが人間、それが歴史だ。「太陽が地球を回っているのではなく、地球が太陽を回っている」という人がたった一人いた。その人を人類は殺すところだった。このことを決して忘れず、人類よ、たった一人をいつも大切にしよう

99歳一日一言』にはもうひとつ齢を重ねた人だからこその老いをいきるいのちことば(生命、生活、人生)が4章(冬―春―夏―秋)に分けられ、主題は季語のように重ねられていました。
冬期(1月――3月)の主題は「夜が朝を産む」。少年期の人生指針にもなっていたでしょうか、ピュアな語録が選ばれています。

《子どもの頃から朝より夕刻が好きだった。なぜか? 今わかった。開けない夜はない、と思い知るのは朝ではなく夕刻だから。》
《日の出は拝めば終わる。人の世の夜明けはなにをも拝まないところからはじまる。朝日に願いを、夕日に感謝をいうのを反対にしてみよう。》
 
春期は「いざ、三歩前進」(4月――6月)、夏期は「自分を鮮明に生きる。それが美しい」(7月――9月)。
そして4章の秋期は「死ぬ時そこが生涯のてっぺん」10月―12月)。
《ステッキ1本は他人からもらって、1本は自分で買った。それを外出時に用いだしたのは94歳から。2年経ってからだにすっかり馴染んだ。道を歩くとき、左右の足音にステッキの音が入って足の運びを元気づける。一番の変化はステッキを用いると前身が直立することだ。ステッキなしだとつい前屈みになる。1メートル半の小柄な肉体がステッキを大地に立てると、ピーンと直立して、呼吸まで立派になる。》

ここでは、上寿に向かって自身のからだを支える2本のステッキが比喩的なかたちで引き出されています。そして《強風でも散らぬ葉がある。無風でも散る葉がある。世の葉たちよ、身の行く末を風のせいにするな》

老ジャーナリストは生涯現役をつらぬく覚悟なのです。

2015年1月17日土曜日

ホスピス猫の話

老人ホームの医師が書いた本に患者に寄りそう猫の話があります。アメリカのロードアイランド州の重度の認知症を患う高齢者が多数入居しているナーシングホーム(介護付き有料老人ホーム)。そこには患者たちの人気者になっている猫が6匹ほどいますが、そのうちの1匹の雄猫オスカーは天国に旅立とうとしている患者をいち早く見抜く力をもっているというのです(『オスカー』デイヴィッド・ドーサ 栗木さつき訳 早川書房)
ふだんオスカーは餌と水のあるフロントデスクの脇に現れる以外はどこかに隠れています。ある日、特定の部屋に現れ、患者のベッドに寄りそうようになり、やがて寝ずの番をすると間もなくしてその人は亡くなっていった…。それが5人6人と続くと、オスカーがそばで過ごすのは死期が迫った患者に限られていることがわかった。しかも、その事実がわかるとみんなに気味悪がられるどころか、歓迎されるようになっていたのです。

[証言1] 最初の1週間オスカーは居室の戸口の前を行き来したり、ドアのところでのぞき込んだりしてました。けれど、ある日ドアをあけると母のベッドに飛び乗らず、不安がったわたしの傍にすわったんです。信じられます? あたしが頭を撫でるとごろごろ喉を鳴らしました。それから廊下で会うとわたしを護衛するみたいに母の部屋まで一緒にあるいてくれて。母が亡くなるまでずっと一緒にいてくれました。

[証言2] オスカーは部屋では長居はしませんでしたが、母が亡くなる数時間前にはオスカーは閉じた部屋のドアの前をいったりきたりしはじめたの。そのときオスカーはひどく元気がなかった。ドアを開けてやったら一直線にベッドに走っていき、母の横に飛び乗ってそのまま丸くなり、どうしても動こうとしなかった。数時間後に母は亡くなりましたが、葬儀屋さんがきてもオスカーはそばを離れませんでしたわ。

[証言3] オスカーは天使だとおもう。さっき、母が亡くなるまでここにいてくれました。そして、いまは私のためにいてくれます。オスカーが傍にいると孤独が癒されるの。いまどうなっているのかわかっているよという感覚でここに居るの。それでオスカーと一緒にいると、これは自然のことなんだっておもえてくるの。

[証言4] 解せないのは、自分が必要とされていることがオスカーにはわかるらしいってこと。とくに見返りを求めているふうでもない。顎の下や耳の後ろを掻いてやるくらいはするわ。でもそれだって、そうしていれば私の気持ちが休まることを承知のうえという感じなの。母が亡くなるときは私が自宅にもどった直後のことだったけれど、母はひとりぼっちじゃなかったわ。そばにオスカーがいたんだもの。

[証言5] オスカーはその仕事を終えると、いつもぐったりするの(ホームのスタッフ)。

ナーシングホームの主治医でもある著者は、オスカーの予知行動について医学誌に発表し反響を呼んだといいます。その一つは第二次世界大戦の退役軍人からのもので、「先の長くない兵士の身体からは甘い芳香が漂っていた」と語ったそうです。細胞が死ぬと炭水化物は様々な酸化化合物に分解され、その際甘い香りを発する。ケトン体という化合物で糖尿病の患者の息の匂いを嗅ぐと血糖値の高さを判断できるのと同じものだ。ひょっとしてオスカーは死の直前に体内から発散される化合物の香りが基準値よりも高いことを嗅ぎわけていたのではないか、というのです。
だからといって、ここで“死期を感知する猫”の特異性にこだわることはないとおもいます。ナーシングホームには重度の認知症を抱え、どうにもできない現実(施設への不満も含めて)に怯えている人や怒っている人。また介護者のなかには思うように介護ができず苛立ったり罪に意識に駆られたりする人もいたといいます。そうした人のこころの葛藤にふっと割り込んでくるオスカーの“シックス・センス”におどろき共感するだけで十分な気がします。

ここで、吉本隆明さんが自らの死の三ヶ月前に、16年余り生きた最愛の猫への愛着を語った『フランシス子へ』(講談社)のなかの一節を引いてみます。
《フランシス子が死んだ。ぼくよりはるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった。
一匹の猫とひとりの人間が死ぬこと。
どうちがうかっていうと、あんまりちがわないねえって感じがします。
おんなじだなあって。どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまう。
たいていに猫は死ぬときに黙って姿を消すもので、そうすると飼い主はおそらくどこかで死んだんじゃないかって、ずいぶんせつない思いをします。
…フランシス子はそうじゃなくて、亡くなるときも僕のそばで亡くなった。
最後の最後は、猫がよくあまえるときに鳴らす首とか、脇の下とか、動くのはそれくらいで、なんの言葉もないけど、そこまでいっしょにいられたんだったら、もう、言うことはないよなあって。》
《…それは何かといったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。あの合わせ鏡のような同体感…》

人のそばで亡くなっていく猫がいるのだから、人もまた猫に看取られて死ぬのがあってもいいのではないか。
最近のことです。吠えることを忘れてしまった13歳になる愛犬ロッシュが、深夜わたしのベッドに潜り込んでくるようになりました。犬になっても、人になってもいい。どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまうから。



2015年1月4日日曜日

身寄りになるということ(2)「間柄」について

前回の「身寄りになるということ」は介護の視点からふれました。今回はわたしの体験事例から、血縁とか家族を超えた「間柄」という視点に移して考えてみたいとおもいます。
間もなく三回忌、103歳で亡くなったコマイ・トキさんとの忘れがたいエピソードです。
トキさんは妻の女子大時代の先生で、都庁ビルがみえる西新宿の公営アパートで独り暮らしの女性でした。30年ほど前から妻とは年に一、二度消息を訊ねる電話のやりとりが続き、やがて年に一、二度いっしょに街で食事をするような間柄になっていました。
そんなトキさんの特養ホームへの入居手続きに関与したのは私たちでした。上寿100歳を目前にしてアパートをひきはらい、ベッドの傍に馴染みのちゃぶだいと茶だんすを並べて〈トキさんの部屋〉をつくったのでした。けれど、トキさんの認知症は進みわたしたちが誰だか分かりません。

その3年前、T医科大病院老人科の診断を受けたとき、トキさんは自分の名前と生年月日はすらすら誤りなく答えました。しかし、医師から「ところで、今日は何月何日ですか」と訊ねられてから場面がおかしくなったのです。
「先生。…今日が何月何日か、わたし知りません。でも先生…今日が何月何日だかわからなくても、わたし生きていくのに困ったりしませんから」
「……」
「今日が何日か、たぶん新聞をみればわかります」「……」
「新聞を拝借できればおしえてさしあげますわ」「……」
この一方的なやりとりにわたしたちは付添人ながら息をのみ、なぜか心の中で大拍手。笑いをこらえるのに苦労したほどです。さらにトキさんは続けたのです。
「先生、わたしに家族がいれば、今日が何月何日かも教えてくれるでしょう。でもね、私は一人で暮らしていますでしょう? 教えてくれる者がまわりにいないのですよ」
そう言って私たちに同意をもとめるかのように振りむいたのです。わたしたちは顔を見合わせ、いそいで同感し頷いていたほどです。
その日トキさんは医師の前で精一杯の主張をし、自身を際だたせました。わたしたちはその光景を手に汗をにじませ、なぜか共感し応援していたのです。このとき私たちはトキさんとは深い「身寄り」の間柄になっていたに違いありません。

ともあれ、その日、医師はトキさんの攻撃をクールに受けとめ、アルツハイマー病の兆候のある画像をわたしたちに示しながら、記憶障害、見当識障害をたてに「認知症です」と口にしたのでした。その帰り、わたしは認知症の人とのコミュニケーションにふれたナオミ・フェイル(Naomi Feil )の『バリデーション』(筒井書房)を購入しました。それによれば、トキさんは「認知の混乱」から第2段階(日時、季節の混乱)へと一歩踏みこんだということでした。
私たちはいつから「身寄り」になったでしょうか。30年のつきあいがそうさせたのは間違いありません。けれど「身寄りになる」間柄には何かのきっかけがあるにちがいないのです。
そこでさらに九年前にさかのぼる、ある事由がでてきました。六月のある日、慶応大学病院の救急外来から「コマイ・トキさんをご存じですか」と電話があったことでした。
その日トキさんは新宿の高層ビル内の下りエスカレーターで転び顔面を強打し、出血して慶大病院に運びこまれたのです。さいわい入れ歯が損傷した以外、脚にすり傷と打撲の痛みはあるが日常生活にさしさわりはないということでした。「ただ、ご高齢でもあり、このままお帰りいただくわけにいかなかった」。そこで、トキさんはしぶしぶわたしたちの名前を口にしたというわけです。
病院に駆けつけると、トキさんは迷惑だといわんばかりに、不機嫌そうな表情を私たちにみせました。担当医師はわたしたちに一通りの説明をして「お大事に」といって見送ってくれたのですが、トキさんは不満でした。「センセイは当人のわたしに口にしなかったことを、他人のあなたにもっともらしく説明していた」と。

トキさんは救急車に乗せられ病院に運ばれたのがショックでした。雨の日に傘をもって28階の歯医者に行ったこと、なによりもエスカレーターでつまずくようなみっともない転び方をしたこと、まだまだからだに衰えはなかったはずだ、とくりかえし反省し悔やんだのです。わたしは元気づけるように「ついてない日だったんですよ。でも、大きなケガでなくてよかった」といい、自宅に送り届けようと病院のタクシー乗り場に急いだのです。ところが、トキさんはそれを拒みJR信濃町駅に歩きだしたのです。
「あなた、わたしは一人で暮らしているの。だから、帰り道をきちっと覚えて時間がどれだけかかるか確かめておかなければ、次の治療の日にやってこられないじゃないの」
そして新宿駅までくると「ありがとう。うれしかったわ」といい、デパ地下に連れていくとウナギ弁当を買って私たちに手渡すと、いつものように「じゃあ」といって一人バスに乗りこんだのです。
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この一日の出来事が私たちに「身寄りになる」関係をうながしたようにおもいます。
それから暫くしてトキさんは、母親が心配しているとか、おじいさんに会いに行ってきたなどといい、生家があったという六本木界隈にバスやタクシーででかけるようになり、、そのうちの何度かは私たちが交番に迎えにいくことにもなったのでした。あらためて「身寄りになる」とは、血縁的なつながりからは遠く家族を超えた間柄のように思えてきます。

30年前、私たちが訪ねたトキさんの住む公営アパートは階段をあがった二階の1DKでした。その和室には白いシーツが載った寝具一式が丁寧に折りたたまれてあるだけ、「いつどこで逝っても恥ずかしくないように」という佇まいでした。家系400年という旗本の末裔の矜持だったのでしょう。葬儀は青山にある菩提寺で特養ホームの馴染みだったスタッフ数人と私たち。自身の葬儀・永大供養料等一切は元気なころに収められていたのでした。

●お知らせ

慌ただしく年を越しました。まだスタートしたばかりですが、アクセス数が800を超えてたしかな感触をいただいています。10日に一度はなんとか更新したいとおもっています。なお、昨年(2014年)、共同通信社から全国各紙に配信された米沢慧の連載コラム『和みあういのち』(10回)が挿絵カットを描いてくれた大伴好海さんのブログに掲載されています(http://konominote.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html)。本ブログと関連する箇所もあります。こちらも覗いていただければ幸いです。