2015年1月4日日曜日

身寄りになるということ(2)「間柄」について

前回の「身寄りになるということ」は介護の視点からふれました。今回はわたしの体験事例から、血縁とか家族を超えた「間柄」という視点に移して考えてみたいとおもいます。
間もなく三回忌、103歳で亡くなったコマイ・トキさんとの忘れがたいエピソードです。
トキさんは妻の女子大時代の先生で、都庁ビルがみえる西新宿の公営アパートで独り暮らしの女性でした。30年ほど前から妻とは年に一、二度消息を訊ねる電話のやりとりが続き、やがて年に一、二度いっしょに街で食事をするような間柄になっていました。
そんなトキさんの特養ホームへの入居手続きに関与したのは私たちでした。上寿100歳を目前にしてアパートをひきはらい、ベッドの傍に馴染みのちゃぶだいと茶だんすを並べて〈トキさんの部屋〉をつくったのでした。けれど、トキさんの認知症は進みわたしたちが誰だか分かりません。

その3年前、T医科大病院老人科の診断を受けたとき、トキさんは自分の名前と生年月日はすらすら誤りなく答えました。しかし、医師から「ところで、今日は何月何日ですか」と訊ねられてから場面がおかしくなったのです。
「先生。…今日が何月何日か、わたし知りません。でも先生…今日が何月何日だかわからなくても、わたし生きていくのに困ったりしませんから」
「……」
「今日が何日か、たぶん新聞をみればわかります」「……」
「新聞を拝借できればおしえてさしあげますわ」「……」
この一方的なやりとりにわたしたちは付添人ながら息をのみ、なぜか心の中で大拍手。笑いをこらえるのに苦労したほどです。さらにトキさんは続けたのです。
「先生、わたしに家族がいれば、今日が何月何日かも教えてくれるでしょう。でもね、私は一人で暮らしていますでしょう? 教えてくれる者がまわりにいないのですよ」
そう言って私たちに同意をもとめるかのように振りむいたのです。わたしたちは顔を見合わせ、いそいで同感し頷いていたほどです。
その日トキさんは医師の前で精一杯の主張をし、自身を際だたせました。わたしたちはその光景を手に汗をにじませ、なぜか共感し応援していたのです。このとき私たちはトキさんとは深い「身寄り」の間柄になっていたに違いありません。

ともあれ、その日、医師はトキさんの攻撃をクールに受けとめ、アルツハイマー病の兆候のある画像をわたしたちに示しながら、記憶障害、見当識障害をたてに「認知症です」と口にしたのでした。その帰り、わたしは認知症の人とのコミュニケーションにふれたナオミ・フェイル(Naomi Feil )の『バリデーション』(筒井書房)を購入しました。それによれば、トキさんは「認知の混乱」から第2段階(日時、季節の混乱)へと一歩踏みこんだということでした。
私たちはいつから「身寄り」になったでしょうか。30年のつきあいがそうさせたのは間違いありません。けれど「身寄りになる」間柄には何かのきっかけがあるにちがいないのです。
そこでさらに九年前にさかのぼる、ある事由がでてきました。六月のある日、慶応大学病院の救急外来から「コマイ・トキさんをご存じですか」と電話があったことでした。
その日トキさんは新宿の高層ビル内の下りエスカレーターで転び顔面を強打し、出血して慶大病院に運びこまれたのです。さいわい入れ歯が損傷した以外、脚にすり傷と打撲の痛みはあるが日常生活にさしさわりはないということでした。「ただ、ご高齢でもあり、このままお帰りいただくわけにいかなかった」。そこで、トキさんはしぶしぶわたしたちの名前を口にしたというわけです。
病院に駆けつけると、トキさんは迷惑だといわんばかりに、不機嫌そうな表情を私たちにみせました。担当医師はわたしたちに一通りの説明をして「お大事に」といって見送ってくれたのですが、トキさんは不満でした。「センセイは当人のわたしに口にしなかったことを、他人のあなたにもっともらしく説明していた」と。

トキさんは救急車に乗せられ病院に運ばれたのがショックでした。雨の日に傘をもって28階の歯医者に行ったこと、なによりもエスカレーターでつまずくようなみっともない転び方をしたこと、まだまだからだに衰えはなかったはずだ、とくりかえし反省し悔やんだのです。わたしは元気づけるように「ついてない日だったんですよ。でも、大きなケガでなくてよかった」といい、自宅に送り届けようと病院のタクシー乗り場に急いだのです。ところが、トキさんはそれを拒みJR信濃町駅に歩きだしたのです。
「あなた、わたしは一人で暮らしているの。だから、帰り道をきちっと覚えて時間がどれだけかかるか確かめておかなければ、次の治療の日にやってこられないじゃないの」
そして新宿駅までくると「ありがとう。うれしかったわ」といい、デパ地下に連れていくとウナギ弁当を買って私たちに手渡すと、いつものように「じゃあ」といって一人バスに乗りこんだのです。
 ★
この一日の出来事が私たちに「身寄りになる」関係をうながしたようにおもいます。
それから暫くしてトキさんは、母親が心配しているとか、おじいさんに会いに行ってきたなどといい、生家があったという六本木界隈にバスやタクシーででかけるようになり、、そのうちの何度かは私たちが交番に迎えにいくことにもなったのでした。あらためて「身寄りになる」とは、血縁的なつながりからは遠く家族を超えた間柄のように思えてきます。

30年前、私たちが訪ねたトキさんの住む公営アパートは階段をあがった二階の1DKでした。その和室には白いシーツが載った寝具一式が丁寧に折りたたまれてあるだけ、「いつどこで逝っても恥ずかしくないように」という佇まいでした。家系400年という旗本の末裔の矜持だったのでしょう。葬儀は青山にある菩提寺で特養ホームの馴染みだったスタッフ数人と私たち。自身の葬儀・永大供養料等一切は元気なころに収められていたのでした。

●お知らせ

慌ただしく年を越しました。まだスタートしたばかりですが、アクセス数が800を超えてたしかな感触をいただいています。10日に一度はなんとか更新したいとおもっています。なお、昨年(2014年)、共同通信社から全国各紙に配信された米沢慧の連載コラム『和みあういのち』(10回)が挿絵カットを描いてくれた大伴好海さんのブログに掲載されています(http://konominote.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html)。本ブログと関連する箇所もあります。こちらも覗いていただければ幸いです。

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