2015年3月12日木曜日

カワイソウ 東日本大震災のいのち


カワイソウを分けてもらう
東日本の大震災、4年目の3.11。それぞれの人にとっての3.11
目の当たりにした巨大津浪。安全神話を木っ端みじんに打ち壊した福島原発による被曝…。3.11からひと月たった4月13日、ある仕事で出掛けた京都でのこと。知恩院山門前でタクシー運転手に「お客さん、どちらから」と声をかけられ「東京から」と返すと、「逃げてきたのですか」と問い返され、ドキリと心が揺れたことを覚えています。時間は駆け足で過ぎていますが、私には未だに現地へ足をはこぶ機運(勇気)がやってきません。

3.11以降しばらくはテレビ画像に釘付けになりました。けれど、事態がみえない不安に苛立っていたと思います。「がんばろう、日本」とか「お見舞い申し上げます」とか、「きづな」とかいうことばが画像にもあふれるようになる前にテレビ画像からおもいもよらないことばが聞こえました。
「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけないんだよ
咄嗟のことで声の主がわかりませんでした。すると「杉良太郎」と縫い込まれた緑色のよれよれジャンパーの背中が映りました。杉良太郎さんはイスに座って炊き出しの最中で、貌の表情はみえません。たんたんと豚汁をお椀に移す作業をしており、その手を止めることもなくカメラ目線もなく、どうやら視聴者にむけて用意されたメッセージでもない、ひたすら自らに言い聞かせるような呟きことばだったのです。けれど、このことばがわたしの脳天を撃ったのでした。
ここで、「カワイソウ」とは無傷の対岸から被災地の悲劇にむかって「(あの人たちは)かわいそう」とつぶやいていることばではない。また、被災を受けた人たちの不幸をその身になって「かわいそう」と口にしてみせた同情や憐れみのことばでもない、不思議な呟きでした。この杉さんのことばを聞いて「あれは役者ゆえの台詞だよ」と一蹴した人もいましたが、もしそうなら、「杉良太郎は一級の役者だ」といいかえてもいいのです。

「カワイソウをわけてもらう」とは、4年たったいまでもその評価はかわりません。気付いたのですが、ここで「カワイソウをわけてもらう」とは同情から慈悲へ飛翔していく宮沢賢治が包摂してみせた世界と通じ合っているようにおもいます。
慈悲について。玄侑宗久氏は「助けようとは思わなくても自然に月光のように放散しだれもが浴する力そのもの」といっています。あるいは「慈悲とはからだから自然に放散する振る舞い、協調性のような気配」とも(『慈悲をめぐる心象スケッチ』)。
そうだとすると、「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけない」ということば(と杉良太郎さんの姿)は、被災者の困難を受けとめようとする慈悲と、その被災の哀しみを抱きしめ救済しようとする慈悲がない交ぜになって聞こえていたともいえます。
わたしの記憶ではこの「カワイソウ」を耳にして間もなく、わき出したかのように宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を口ずさむ声が周辺から聞こえてきました。それは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という賢治の慈悲の深さと重なっていたのです。

知られているように東北三陸地方は明治以降100年の間に2度3度の大地震と津波に襲われました。賢治は1896年(明治29)6月三陸海岸に大津波で2万1千人の死傷者が出た2か月後に岩手県花巻町に生まれています。その年の7月と9月には大風雨が続き北上川が増水し、夏になっても寒冷が続き稲は実らず赤痢や伝染病が流行しています(宮沢清六『兄のトランク』)。しかもこの天災はまるで賢治の生涯に合わせるかのように生まれた年から37年後の1933年(昭和8)、再び三陸海岸に大津波が押し寄せ死傷者3千人を出した震災の半年後の9月に賢治は亡くなっています。
「雨ニモマケズ」が黒い手帖に書き留められたのは、亡くなる2年前(11月3日の日付だけが横書き)。遺言をしたためるほど体が衰弱していたころでした。信仰が深かった賢治の慈悲のことばの集積地。誰もが諳んじてきたものです。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌トスコシノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨク ミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萓ブキノ 小屋ニイテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ 北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ ミンナニ デクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ

この最終節「ウイウモノニ ワタシハナリタイ」という賢治の願望に「カワイソウ」が回収され救済されているのがわかります。それは「ほんとうのさいわいを探しに行こう。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んでいこうね」というジョバンニの声(『銀河鉄道の夜』)と重なってもいます。(この稿は次回に続きます)


1 件のコメント:

Kon さんのコメント...

最も辛い場所に生きることへの線引きでも、向こう岸の話としてでもなく、
カワイソウを「わけてもらう」とは改めて深い深い言葉だと思いました。

確かに、わけてもらわねば、本当に生きていけないと思えます。
賢治の言う「ほんたうのさいわい」に向けては。