病い(illness)は患者が医師のもとを訪ねるまでのものである。
疾患(disease)は受診のあと、患者が帰途についたときのものである。(作者不詳)
このフレーズは、病院で生まれ、病院(医療施設等)で死ぬ時代、つまり「病院化社会」を患者として生きる、その第一歩が書き込まれています。
患者は自分の病(illness)について物語る(ナラティブ)ために医師のもとに駆け込んでいます。最初にいつごろ心や身体の不調に気づくようになったか、どのような症状がはじまり、どのように進展して、結果として医師の相談しようとおもうにいたったかを説明したいわけです。ところが、医師は患者の病い(illness)の物語りをしっかり聴きとることはめったにありません。医師は平均すると患者の語り(ナラティブ)をたった18秒でさえぎる(平均しても28.6秒しか続かないとも、あるデータ)。
それだけ聴けば十分というのではありません。今日の医療社会はEBM(エビデンス・ベイスト・メディスン)を通して、つまり多岐にわたる検査や医療統計学等「科学的根拠」にしたがって、医師は患者の語る病い(illness)を疾患(disease)の物語に移し替えて患者に語りかけることになります。つまり、病名をもらって医師のもとから帰途に向かったときから、血糖値や血圧等を気にする患者の生活に入ることになるわけです。
参考までに、EBM「科学的根拠に基づいた医学」(Evidence-Based
Medicine)宣言は1992年アメリカ医師会雑誌に掲載されています。冒頭箇所は、「に基づいた医学は、直観、系統的でない臨床経験、病態生理学的合理付けを、臨床判断の十分な基本的根拠としては重要視しない。そして、臨床研究からの根拠の検証を重要視する。(津田敏秀『医学的根拠とは何か』岩波新書)
21世紀の医療社会。病気になる(患者になる)とは、診断を受けても「医学のことはよくわからないので、先生におまかせします」「先生の一番いいとおもわれる治療法でやってください」といった「おまかせ医療」ではすまなくなってきました。
1980年代半ば、もう30年前ですが長野県の総合病院で「患者が主役」「患者本位の医療」などを掲げて看護師たちといっしょに「入院案内(病院案内ではない)」を作成したことがありますが、その際、参考資料として病院から手渡されたのは「入院心得」でした。当時はこうした表記を異様なことだとおもう患者も医療者もいませんでした。
「患者との人間関係までを含めた医療学」の必要性を説く声(河合隼雄)がでてくるなかで登場したのが「患者学」でした。
『患者革命』の著者中島みちは次のように規定してみせました。
「患者の身体についての情報は基本的に患者自身のものであること。そして医療者は患者に対し、患者が自分の身体で引き受ける医療について理解し納得できるように支える務めがあること」
ここで患者革命! とは患者が医療を革命的に変えることなのか、それとも患者が変わることなのか。著者は「両方です」と言いきっています。患者の意識が変われば医療の現場の患者への対応も変わらずにはいられなくなる。また患者の立場に立って考える人が増えれば医療のシステムを患者中心に変えていくことができるのだというように。
患者学という表現について考えるとすぐ思い出される用語に、インフォームド・コンセント(informed
consent)があります。医師会によって「説明と同意」と訳され、ながいあいだ医師が患者に同意を取り付ける手続きになっていました。
重大な病気に直面したとき私たちは医療者の前でどのような患者になればいいのか。
このような「病院化社会」の到来によって引き出されたのが患者学でした。『元気が出る患者学』(2003年)の著者(柳田邦男)は、病気と治療法について正しい知識と情報をもつこと。そのうえで、医師の前でどんな患者であるべきかを「診療の受け方10カ条」として提示しています。そのなかでは、「不安なときはセカンドオピニオンへの協力を求める」「自分の家族事情、仕事、生き方、死生観を伝える」そして「医療にも限界があることを知る」などが目を引きます。ことに「医療にも限界があること」。病気に勝てない時がくる。そのときに問われるのが死生観であり患者としての「生き方」だ。考える患者になってほしい、この一点が医学・医療学にない「患者学」の核心だったということになります。
このような「病院化社会」の到来によって引き出されたのが患者学でした。『元気が出る患者学』(2003年)の著者(柳田邦男)は、病気と治療法について正しい知識と情報をもつこと。そのうえで、医師の前でどんな患者であるべきかを「診療の受け方10カ条」として提示しています。そのなかでは、「不安なときはセカンドオピニオンへの協力を求める」「自分の家族事情、仕事、生き方、死生観を伝える」そして「医療にも限界があることを知る」などが目を引きます。ことに「医療にも限界があること」。病気に勝てない時がくる。そのときに問われるのが死生観であり患者としての「生き方」だ。考える患者になってほしい、この一点が医学・医療学にない「患者学」の核心だったということになります。
医療社会はいまや三人に1人ががん患者になるといわれています。さいごに採り上げたい一冊は『がん患者学』(柳原和子・晶文社 2000年)。
柳原さんこそ「患者学」の命名者といえます。著者は、自身の五年生存率20パーセントと告げられた卵巣がんでの闘病体験からがん患者としての人生を考えた人でした。自らの治療のために5年、10年と長期生存をとげている患者を直接訪ね、抗がん剤治療の体験を聴き、栄養学から食生活までの記録を集め、がん専門医には質問を繰り返した600ページの大冊です。死と向き合いつつ「医療社会」を生きる患者の姿が浮き彫りにされています。さらに柳原和子さんは自らのがん再発日記のかたちで、がん患者として生ききった記録を『百万回の永訣』(中央公論社 2005年)として遺しました。過酷な記録を通してもなお、いかにいのちを自己受けとめできるのか、その問いが読後に突きささってきます。
(注)作者不詳。『ナラティブ・ベイスト・メディスン』(金剛出版)より
1 件のコメント:
ぼくも次第に高齢者の仲間入りをしています。医者に行く機会も増えています。病院や医院にいくと、昼間なのに、多くの患者がいることに驚きます。医療が日常化しているのを感じます。ぼくはよく散歩します。地域の医療機関の評判は散歩仲間から入手できます。結構信頼がおけます。しかし、重大な病気となると、口コミだけでは対処できません。栁田邦男の『元気が出る患者学』を読んでみることにします。貴重な情報をありがとうございました。(hideaki)
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