2015年9月4日金曜日

ナラティブホーム



「さようなら」「さらば」
私たちが親しんで使っている「別れことば」に「さようなら」があります。
ところが、国語辞典でしらべると、サヨウナラ(サラバ)は①元来、接続詞で「それならば」の意(広辞苑)、②語源「左様ならば(それでは)これにてごめん」(明鏡国語辞典)とあります。元来は、先行のことを受けて、後続のことが起こることを示す「左様ならば」「然らば」という意味の接続詞だった。それが別れことばとしていつの間にか独り歩きしていったというわけです。ですから「さようなら」を簡単に「グッドバイ」におきかえることはできないことになります。
ちなみに世界の「別れことば」には、①神のご加護を願うものとして「グッドバイ(Good-bye)」「アデューAdieu」など、②再会を願うものとして「シー・ユー・アゲインSee you again、再見サイチェン」など、そして③「お元気で」と願う「フェアウェルFarewel」「安寧(アンニョン)」などの三タイプに分けられる(竹内整一『やまと言葉で哲学する』春秋社)とありますが、「さようなら(さらば)」はどのタイプにも該当しません。はみ出しています。「さようなら」は、いのちことばかもしれません。

この「さようなら(さようであるならば)」が人生さいごのときに素直に言えたら、そして、その「さようなら」のことば受けて「さようであるならば」と同じように応えられるような力になれれば……。そんな絵図を描きながら高齢者介護や、終末期医療に足を踏みこんでいる医師がいました。チューリップの球根で知られる人口5万人ほどの富山県砺波市の佐藤伸彦さん。「ものがたりの郷」と名付けて、病院でも在宅でもない終末期の居場所を立ちあげています。
「ものがたりの郷」について佐藤医師はこう言い切ります。
――ここでは「ものがたられるいのち」が主役になります。
老いるとは、いままでできていたことが少しずつできなくなることです。病いや障害は重度になってくるとからだが思うようにならなくなってきます。その事態をどれだけきちんと「さようなら(さようであるか、さようであるならば)」といえるのかということが、老いを生きていくうえで大切なことです。「命」には終わりがやってきます。けれど、一人の人間の人生として、ものがたられる「いのち」があることを、いまは是非知ってほしい。ものがたられる「いのち」「さようなら」に私たち医療者も「さようなら(そうであるならば)」と受けとめ支えたい。高齢者医療は敗者処理の医療ではありません。人が、人として人間の最期の生を援助する専門医療です(『ナラティブホームの物語』医学書院)。

※「ものがたりの郷(さと)」は家族も自由に寝泊まりできる病室でもなく施設でもない。ものがたり診療所に隣接した平屋建ての賃貸アパートの15室。洋室9畳にキッチン・バスつきの約25平方メートル(家賃5万円の他介護・医療保険の自己負担と食事代等の目安で月額1318万円相当)。その大きな役割を担うのが佐藤さんが理事長の医療法人社団「ナラティブホーム」(ものがたり診療所・ものがたり訪問看護ステーション・ものがたりホームヘルパーステーション・ものがたり居宅介護支援ステーションの4事業)。スタッフは常勤医2名、非常勤医1名。看護師9名、介護福祉士8名等全26名に診療補助犬一匹。事業室は共同であり情報交換も密に行われ24時間365日対応である。

「カルテ」から「ナラティブシート」へ
「ものがたりの郷」の入居者は重度の認知症の人やがん末期の人にかぎりません。病院で治療の手だてがなく退院をうながされた人、高度医療が必要で介護施設にいられない人、脳梗塞などで寝たきりだが在宅では難しいといった人たちです。そんな人たちには、カルテにかわってナラティブシートが用意されています。患者のナラティブ(ものがたり)が日録として採用されています。
カルテはドイツ語、日本語では診療録。医師法では患者の診察をした際にその経過をのこすことが義務づけられています。簡略化した例をあげてみると、{・喉が痛い、咳が出る。体温380度、咽頭の発赤、扁桃腺の腫大あり。白血球数高値。―扁桃腺炎。―抗生剤投与、安静}です。看護記録でいえば、食事に排泄。食べて出すという人間の基本的な行動の記録がならぶことになります。それではものがたられる「いのち」の記録にならない。そこで患者Aさんの姿はナラティブ(物語り)やスタッフとの会話を日記のように、語り継ぐように忠実に記録されるのです。たとえば、認知症の人とのある日の会話から。
―誕生日。いくつになりましたか。
「わからん」
86歳ですよ。
「ほんまけ。いい年やね。満で88やろ。数えで百や。百まで生きなん!」
佐藤さんは「認知症の人は、その関係性が切れないように必死に自分のアイデンティティにしがみついているようにみえる」といいます。いのちは質だけを問うてはいけないのです。不可避としての「さようなら(そうならなければならないならば)」を前にしても、なお、いのちには深さがあるということです。

取材に伺った日(5月3日)、日当たりの良い部屋で、2年ちかく眠り続けているという80代の女性に会いました。「この部屋はサンクチュアリ(聖域)」と佐藤さんはつぶやき、わたしはその温かいからだに手を添えさせていただきました。


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...


「老いるとは、いままでできていたことが少しずつできなくなることです。病いや障害は重度になってくるとからだが思うようにならなくなってきます。その事態をどれだけきちんと「さようなら(さようであるか、さようであるならば)」といえるのかということが、老いを生きていくうえで大切なことです。」

 そろそろ老いの段階に入りつつあるぼくにとって、大切な言葉です。自分ができなくなったことを受けとめて、そうであるならば、それをいのちの物語として再構成みようとぼくは考えます。ひとりの人間としてものがたられる「いのち」のあることを書いていきたいとおもいます。
 いいお話しをありがとうございました。
(hideaki)