重兼芳子のボランティア
ホスピスには、医師、看護師等の医療者や心のケアを担当するチャプレンやセラピストら、それぞれ役割をもった人が関わっている。そのなかで貴重な役割をになう人にボランティアの人たちがいる。
ボランティアは病院や患者のお手伝いをする単なるスタッフではなくて、「ホスピスに参加しているのだ」という自覚をもって積極的に関わっている人たちのことだが、わが国のホスピス創生期に市民ボランティアが積極的に関わって誕生したホスピスに桜町病院聖ヨハネホスピス(1993)がある。ホスピス計画当初から院内ボランティアに参加した人に芥川賞作家の重兼芳子(1927―1993)がいる。重兼さんはこの間、欧米のホスピスボランティア取材をはじめ、自らのがん手術後も精力的にホスピスケアの普及に努め、ホスピス棟の新設完成を待たずに亡くなった。けれど、その間の活動は当時の著作レポートから垣間見ることができる(講演録『さよならを言うまえに』春秋社 1994)。
①「素人を病棟や病室に入れるということは医療者の側にかなり抵抗があったんです。だからこそ私たちボランティアは、何度も何度もミーティングを繰り返して医療者の邪魔にならないこと、医療に関してはいっさい見ざる聞かざる言わざるに徹すること、ホスピスの動きを見ながら、医療者の動きをみながら、けっして出過ぎないこと。とにかく慎んで、慎んで周りの動きを見ながら、身をひくことをさんざん訓練してきたんです」
② 「患者さんの中にはアーメンが大きらいな人もいらっしゃる。私たちボランティアも、ナースもシスターたちもいちばん自分たちに戒めていることは宗教色を前面に出さない。自分たちの思想信条を押しつけない。私たちは無であろう、そして、無である私たちが患者さんたちのかすかな表情と訴えかけを、ほんとに耳を澄ませて聴きとろうと、そういうことをずっとしてきました」
③「ナースたちのカンファレンスのさいに、最初に話し合うのは、入ってきた患者さんがいちばん大事になさっているのは何だろうということですね。その方は、きっと髪をいちばん大事にしていらっしゃるにちがいない。では私たちは、腰までのびた長い髪をきれいにしてあげようと。もう起き上がれない方でしたから、ストレッチャーにお乗せして浴室にお連れして、そこでお風呂専門の訓練されたボランテイアが3人一組で、ナースの指示で洗ってさしあげるわけですね。それこそ指の股の先まで、ほんとうにきれいに洗ってさしあげるんです。『きもちいい』とおっしゃっていただくと、うれしいですよ。私はお風呂のお手伝いは苦手なので、おやつ作りのほうをやっていましたけど」
ここには、ホスピスボランティアのポジショニングについて示されている。医療者に対しては何よりも素人であり、入居してきた患者にとっては陰の存在であること。その一方で、ボランティアとしては「入浴のプロである」とか「おやつ作りならできる」というように自分の役割と才能を登録するかたちでホスピスに参加するのだ。
ボランティアの任務を具体的にあげてみると、食事時の配膳や下膳、部屋や廊下やトイレの掃除、庭の水まきに落ち葉掃き。ナースステーションの受付や家族の案内、買い物に散歩の手伝いだったり患者の入浴やマツサージ、花の水かえにオルガン弾きだったり。今日なら介護福祉士の業務の一端と重なっているようにみえる。
医療の現場に市民を入れるということは、かなり大胆な決断を迫られることになる。その意味でボランティアは大きな責任を背負っていたというべきだろう。だから当初、重兼さんは、ボランティアという名称はなにか偽善めいたニュアンスを感じたという。けれど、2年ほどボランティア活動のルーティンをこなしながら仲間と接していくと「名称にこだわる必要はないことを知った」といい、次のような自信にみちたことばで記述されていく。(『聖ヨハネホスピスの友人たち』(1990 講談社)
〈私たちは医療者と違って、まったくの無力である。痛みや苦しみを緩和するすべを持たない、少しの役にも立たない存在である。そのことが徹底して知らされたとき、私たちは無心に素直に、あるがままに病者のそばにいるしかないと覚悟を決める。
ありがたいことに、私たちが自分の無力を徹底して知ったとき、生が光を放ちはじめるのを感じるのだ。いつのまにか今在ることの手応えを身に受けているのだ。ボランティアの一人一人が、生き生きと輝いてみえはじめてくる。
これはなんだろう、と私は目を見張っている。普通の暮らしをしている一般市民の人たちが、いそいそとベッドサイドに通ってくる。そして病者の喜びを喜びとし、苦しみを苦しみとしてともに寄りそって生きようとする。それが好きだから、というごく自然な思いで続けられてゆくのである。〉
ここにある言葉を押さえてみると、ボランティアの存在は患者とその家族の周辺にいる医療者などのスタッフとは異なるいのちにふれている姿がみえてくる。重兼芳子は「お別れした方々は一度も振り返ってはくださらなかった。…あなたと私を分けた生と死。その命の谺(こだま)が響き合う」という小景を伝え、ボランティアが聖ヨハネホスピスの誕生に関わった意義を「市民の日常感覚を尊重して下さった。医療を密室化せずに、市民の日常と結びつけようとされた」からだと述べている。
(この項は「ホスピス・ボランティア(Ⅱ)」に続く)
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