ホスピタリティ
重兼芳子はボランティアの意義を「市民の日常感覚を尊重して下さった。医療を密室化せずに、市民の日常と結びつけようとされた」とした。この指摘について『風になって――聖ヨハネホスピスボランティア10年史』(社会福祉法人聖ヨハネ会・2000年)を手にしてみると、「(ボランティアは)生き甲斐(QOL)にふれた“社会の風”を吹き込んでくれる人」ということばで示されていた。そして重兼芳子が口にした「命の谺(こだま)」は「―10年史」では〈ホスピタリティ〉ということばに引き継がれていったようにみえる。
「〈友人〉と重兼芳子さんが書かれた患者さん、そのご家族、スタッフ、ボランティアなどが織りなす静かな微笑を含んだホスピスの空気。意図せずに出会い、瞬時のお別れをくりかえすホスピスで、いただく豊かな贈り物は謙遜と勇気、そして愛です。無償の行為であるはずのボランティアが喜々として活動できるのはこの出会いがあるから。その出会いを豊かなものにしている。それがホスピタリティなんです」。
ホスピタリティ(hospitality)、歓待、もてなし。鷲田清一によれば、歓特(hospitality)と敵意(ホスティリティ hostility)という二つの言葉はともに、ラテン語で客とか異邦人(敵)を意味するhospesから派生しているという。「他者をむかえ入れる、異邦人を歓待する。敵・味方の区別なく、いや異邦のひとであればこそ、手厚くもてなす。これは、相手をもてなすにあたって条件をつけないことである。それは看護の心であるとともに、ほんとは家族の心でもある」(『まなざしの記憶――だれかの傍らで』TBSブリタニカ)。
では、ボランティアにとってホスピタリティにはどんな配慮があったのだろうか。『―10年史』の座談会の発言から拾ってみよう。
「実際にここ(ホスピス)で死を迎えようとする方々が入ってくる時、その人自身とその家族にとってここは得体の知れない他人ばかりいる場所なのです。同時にその人や家族にとっても彼らは得体の知れない他人なのです。私がホスピタリティと言った時に意味したいのは、ここで出会うのがお互いに全く得体の知れない人であって、そうしたことをお互いに認め合うことから始まるケアやサポート、さらには人間関係といったことです。つまり、相手が思ったことが伝わらないということを、最初に認めてはじめて始まるケア、人間関係だとおもいます」
「実際、人間が生まれて来るときに、たった一人で生まれてくる事がないように、死を迎えるときもたった一人では迎えられないと思います。最後の最後まで他人の手を煩わせなければならない。そういった関わりを否定することは絶対できない。そうして、その人が生きてきた生き方を全うしようという時には、他人に身を委ねることができる、そういった信頼関係を築かなければおそらく無理でしょう。ホスピスというのは入ってくる人たちと信頼を結んでいく手段が、単にお医者さんと患者さんといった固定された関係だけではなく、もっといろいろな選択肢を用意することができる、そういう柔軟性を持った場所である。それがホスピタリティを有したホスピスだということが言えないでしょうか」
これらの発言には、知らない者同士が出合ってなお支えあう関係になることができる、実際にできたという歓びである。さらに注意深く押さえたいのは、医師や看護師や患者家族でもない、つまりそれらの関係に割り込むのではない3人目、あるいは3番目の力として支えられたこと。異邦人を歓待する。いや異邦の人であればこそ、手厚くもてなす。もてなすにあたってどんな条件もない。その〈ホスピタリティ) の根幹にふれているボランティアは、介護・看護のこころにいきつく。
もう一度重兼芳子のボランティア体験(『さようならをいう前に』)から引いてみよう。臨終が近いAさんの部屋に入ったときの様子である。
――優しい顔で静かに寝ていらっしゃる。で、Aさんの奥さまに「よく眠ってらっしゃいますねえ」と言ったんです。そうしたら「いや、眠っているんじゃなくて意識がないのです。 もう、呼びかけても聞こえませんしね。もう覚悟を決めました」とおっしゃる。わたしは半年近くお付き合いした方ですから、もう、なんか胸がこんなになっちゃって辛くてたまらないもんだから、手を握って、おもわず「わたし、あなたとお友達になってよかったで~す」といったんです。「この半年、あなたみたいな素晴らしい人に友達になっていただいてありがとうございました」って。「ご家族も、後のこともきちっとなさるから、安らかにお眠りくだざいね」と。
もう聞こえないって分かってて言ったんです。そうしましたら(Aさんは)涙をバーッと流されて、目じりのほうにながれるんです。奥さまもびっくりしちゃつて「お父さん、お父さん、聞こえたの?」って。(Aさんの)涙を二人で両側からふいてさしあげたんです。それで「さようなら。ありがとうございました」って。「わたしはあなたのことを忘れませんよ」って。
この情景は、患者―家族―医師という診療現場の構図ではなく、〈Aさんの妻―Aさん―ボランティア(重兼)〉の親密なトライアングル・ケアのかたちになっている。セラビストの鈴木秀子はそのひとときを「仲よし時間」と呼んでいる(『死にゆく者からの言葉』文藝春秋)。しかもこの親密な時間を呼び込むことができるのは必ずしも家族ではない。どんな話をしても動揺しない人、自分の気持ちをあるがままに受けいれてくれる人。それは友人だったり遠い親戚だったり、カウンセラーだったり、ボランティアだったりする場合が多いという。
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