2019年4月3日水曜日

「もしバナゲーム」ー“人生会議”(そのⅡ)



「終活」ということばは平成生まれ(2012年)の新語・流行語だ。人生さいごを迎える際の準備や始末を指す。一般的には葬儀や墓、遺産相続などが取り上げられることが多い。けれど、人生の最期にはもう一つ「いのちの始末」が先行している。終末期医療に介護など切実である。さらに尊厳死とか孤独死に平穏死といったことばも目につくようになった。一言でいえば、長生きする時代は死が見えるようにもなったことだ。そして医師はエビデンス(科学的根拠)から「そう遠くない日に…」とか「後1年です」と断言するかもしれない。そのとき、私たちはどう受け止め向き合うことができるだろうか。
ところが、そんな「もしものための話し合い」を想定した「もしバナゲーム」というカード遊びが巷に拡がっている。そこで遅ればせながら、ある街のデイサービス・カフェにでかけて、リクリエーション・ワークに参加してみた。その感想が以下である。

”人生会議”のゲーム化
カードは1セット36枚。そのうちの35枚には重い病気や、死が近づいたときの意思や願い事が書かれている。「祈る」の一言ですむかもしれないが、多くは友人や家族、さらには医師への訴えがゲームカードになっている。
「家で最期を迎える」「家族の負担にならない」だったり、「呼吸が苦しくない」とか「だれかの役に立つ」、「機械につながれていない」など。また、「自分が何を望むのか家族と確認することで口論を避ける」のカードもある。つまり系統だった言葉が用意されているのでもない。残りの1枚は「ワイルド・カード」で、独自の希望があるときに使う(例・「さいごは好きな楽曲を聴きたい」)。
一人遊びなら36枚のカードから、〈①私にとって、とても重要 ②私にとって、ある程度重要 ③私にとって、重要でない〉の3つに振り分けてみるといい。これまでは考えてもいなかった言葉が目に止まり、おもわず自身の死生観が見えてくるかもしれない。
私が加わった4人一組のレクリエーションルールをあげてみよう。
①各プレイヤーに5枚ずつカードを配り(計20枚)、次に場に5枚のカードを表向きに置く。残りのカードは中央に積む。
②プレイヤーは自分の順番が回ってきたら手札の中から不要なカードを一枚、場に置かれた札と交換する。その繰り返しで積み札がなくなったらゲーム終了。
③各人は手元にある5枚のカードから特に大事だとおもうカードを3枚選ぶ。選んだカードを開示して、みんなに説明する。
すると、「祈る」「自分の人生を振り返る」「不安がない」というカードを見せながら、もう1枚「誰かの役に立つ」のカードも捨てがたいと口にした男性がいた。また、「あらかじめ葬儀の準備をしておく」「お金の問題を整理しておく」の2枚を手にして、これで安心して逝くことができます、と微笑んだのは御婦人だった。もちろん、ここで第三者の批判があってはならない。
この場にもし、医師や看護師や介護関係者が参加していれば、どうなるだろうか。厚労省が昨年暮に「(終末期の)患者の意思決定支援」会議の愛称を「人生会議」と命名したACP(Advance Care Planning)の集う場面と重なっている(“人生会議”そのⅠ 参照)。つまり、「もしバナゲーム」は「人生会議」をそのまま遊戯化したものだともいえそうである。

終末期のゲームあそび
人生の最後の”願いや訴え”をことばカードにして遊戯化してしまう。
この力技はどこから引き出されるのだろうか。そんな問い方には、名著ホモ・ルーデンス(遊ぶひと)』ヨハン・ホイジンガ 1938年)を重ねてみることができる。そこには「遊び」こそホモ・サピエンス(賢いひと)である所以だ、人間と文化の本源的な要素だと述べられている。ちなみにホイジンガは遊戯という概念について、日本語の「遊び(名詞)」と「遊ぶ(動詞)」から、「緊張のゆるみ、娯楽、時間つぶし、気晴らし、物見遊山、賭け事、無為安逸、何かを演ずる、模倣する…」等、多彩でかつ深い「遊び」文化に言及(第2章)しているほどである。
また、学びは遊びから、ということばもある。スクール(学校)の始まりはスコーレ(遊び)からきている。あらためて “いのちことば”を集めてなった「もしバナゲーム」はホモ・ルーデンス(遊ぶひと)の強かさを示しているといっていいかもしれない。

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