2014年12月6日土曜日

抱きぐせ・泣きぐせ

安楽死についてではなく、90歳を前にして『安楽に死にたい』(1997)という本を書いて亡くなった医師がいました。『育児の百科』(1967)の小児科医松田道雄です。
あのころ、わが家では『育児の百科』をマツダセンセイと呼んで、育児に不安があると、相談項目をさがしてはページを開き「心配しなくていい、気にしなくていい」という安心記述に何度もほっとした記憶があります。

たとえば当時、赤ん坊が泣くたびに抱くと「抱きぐせ」がついてよくないという俗信がはびこっていました。これに対してマツダセンセイはいうのです。
赤ちゃんが泣くのには、空腹で泣くのがいちばんおおい。排泄物でぬれて気持ちわるくなったため泣くと思われる場合もある。腸のなかにガスがたまって不快を感じて泣くと思われる場合もある。乳をのませてまだそれほど時間がたっていないのに泣いたら、母親はおむつがよごれていないかどうかをしらべる。それもきれいだとわかったとき、泣いている赤ちゃんをどうするかで、母親は迷う。だが迷うことはない。空腹でもなく、おむつがぬれているのでもないのに泣く子は、抱いてほしがっているのだ。泣くのをそのままにしておくと「泣きぐせ」がついてしまう。
「泣くことは赤ちゃんの唯一のコミュニケーションの手段だ。これが無視されるとなると、赤ちゃんは合図としてではなく怒りとして泣くようになる」と。※(『定本育児の百科』岩波文庫2007から)

マツダセンセイは「授乳」についても言っています。
「胸に抱いて乳をのませることで、母親は世界の誰よりも近く子どもの顔をみて肌にふれる。うれしいときにはどんな顔をし、つらいときはどんなにそれが変わり、からだが順調なときはどういう様子かを、母親は乳をのませることでまなぶ。…乳を吸うよろこび、乳をすわれるよろこび、それは生物的なものである。人間の大きなよろこびが生物的なものとつながる運命を拒否すべきではない」※
こうした考え方は当時、もう一つ育児書の手本として人気があった『スポック博士の育児書』(1966)との大きな違いでした。
授乳は赤ん坊に栄養を与えるためだけではなく、なによりも母子を安寧のうちにとりこむことができるということ。乳を含ませ、眠らせ、おむつを替え、そして抱くこと。このいのちへの配慮から愛は育まれるというのです。その関係を「甘え」ということばでのべられたのが土居健郎の『「甘え」の構造』(1971)だったようにおもいます。
「甘え」とは気持ちのうえで相手とつながっていること。動物行動学でいう「刷り込み」というこころの動きですが、満一歳までに手に入れることになる原始的な愛の関係です。「甘え」というのはことば以前の段階で動物的な衝動感情(恐怖)から、人間の感情を手にするために欠かすことのできない関係だと教えられたのです。

さて、『育児の百科』のマツダセンセイが90歳を前にして著したのが『安楽に死にたい』でした。
「高齢者の良識からすれば、もうCure(医者のやる治療)はたくさんだ、Care(親しい人の心のこもった世話)だけにしてほしいということだが、医者には理解しにくい。生物的生命を一分でも一秒でものばすのが医学の使命だと思っているからだ。医者は死に近い人間をTerminally illという。illがあるかぎり医者は治療をするのは当然と思っている。高齢者にとっては、illがあってもTerminal Lifeを生きたい」

ここには、赤ん坊が、はいはいからよちよち歩きを始め、たどたどしくことばを覚えていく、そんな往きのいのちの歩みにかかわる『育児の百科』の眼差しから、脚力が衰えてよちよち歩きになり、ことばもだんだんに不確かになっていく老いへの慰安。すなわち還りのいのちへの配慮をもとめて『安楽に死にたい』となったのです。
時代は長寿(少子高齢化)社会にむかっていました。このことばからわたしは、Cure(キュア)の系譜を「往きの医療」と呼び、Care(ケア)へと展開する高齢者介護や看取りが視野に入っている医療の軸を「還りの医療」と名付けたのでした(拙著『「幸せに死ぬ」ということ』1998)。



2 件のコメント:

F・T さんのコメント...

新たな媒体からの米沢さんの発信。ゼミご無沙汰の私にとっては大変ありがたいです。無責任で短気なコトバに溢れたネット空間に放たれる、慎重で、引き留め力のある米沢さんのことばは貴重です。楽しみにUP待ってます。でも、私はついついプリントアウトして紙面で読んでしまうのですが・・・

米沢慧 さんのコメント...

F・Tさん、ありがとうございます。これからも感想や意見
どうぞ、書き込んでください。