2016年3月18日金曜日

餓死といういのち  ー餓死日記2


自由のきく「生活」のままに
日記によると母親のからだは慢性的にふらつき、頭痛、熱、さらに腰から下はちぎれるような痛さとだるさ、吐き気がつづいている。息子の様子は記述からは判然としないがほぼ寝たきり、トイレで出血したこと、新しい国民保険証が届いた日には感謝することばがあるが、二人とも医者に行った、薬をもらったという記述はない。息子は十何年ずっと一日に一食しかたべないとある。金銭は、家賃をはじめ電気・ガス・水道料金等の支払いが優先し、亡くなるまで滞納することはなかった。毎月支払いを終えると「ぶじ済まさせていただき有り難うございました」と記すことも忘れない。
母親は「早く死なせてください」と書いた、すぐその手で新聞が届いていないことに気づき、配達されなかった過去の日付まで即座に拾いだして、電話で不満をいい配達させたりもしている。テレビやラジオは見あたらず、社会への窓口は新聞(毎日新聞)のみ。「きょう1995年4月1日は、あの『阪神・淡路大震災』がおそった、1月17日から、ちょうど75日目にあたる」と記すなど、世間に背を向けたり、自ら閉じる態度はなかった。警察庁長官の狙撃事件、オウム事件についてもしっかり受けとめている。死ぬ三か月前には5万5千円で電話を手放すが、1月3850円と最大の出費となる新聞だけはさいごまで解約しようとしていない。
そんな母親の生活意志を際だたせているエピソードがある。日記が途絶える40日ほど前、体力・気力とも衰弱しきった頃の“70円”事件の顛末である。

1月31日(水) 1月分の電気代1226円を郵便局で収めた。間違って70円多くもらってきてしまいました。すみません。近日中にかえしに行かなければ。
2月1日(木) はれ、ひえる。(6・1度)
2月2日(金) 今日は、郵便局に先日知らずにおつりがないと思って、余分に頂きました70円を無事に返しに行かせて下さい。後で問題がおきませぬ様によろしくお願いします。朝9時すこし前、郵便局、先日1月31日(水)の時の男の受付の人がおられたので、おつり70円をあげて、おわびのアイサツしたが感じよく受け取って頂きまして、ありがとうございました。何時も何時もご心配やごくろうをおかけいたして申し訳ありません。
その足でスーパー。 甘食②360円、トウフ(キヌ)①88円、うの花200円、ソフトサラダ168円
2月3日(土) はれ、毎日きびしい寒さ。(8・9度)私はとうとう風を引いてしまった。昨日からは頭が痛く熱があって苦しい。今年はカーペットもないし火の気もないので寒くて寒くてたまらない。
2月4日(日)ねたきりの状態で食事がぜんぜんいけない。
2月5日(月)はれ、ひえる。(10・1度)9時過ぎスーパー 牛乳120円、ヨーグルト100×②200円。大根サラダ190円。お陰様で無事に行かせていただき、少しは食もいけました。
2月2日に郵便局に余分に頂いたお金70円を1月31日の時の受付の男の人に70円だったですねと念を押して返していたのに今日手紙に70円多く渡しているから返してほしいとあるが、先日の男の人は黙っていたのだろうか。又、うちが70円余分にあげるのだろうか、フにおちない。明日にでも郵便局に行ってはっきりとしなければ。
2月6日(火) 今日は郵便局のお金の問題を無事に解決させてください。お願いします。すでに70円は返しておりますので、よろしくお願いします。
朝9時半すぎ、郵便局へ先日お金70円をお返しした男の人がおられたので、たずねたところ、手紙は入れ違いにだした。たしかにお金は受けとっているといわれたのでほっとした。無事にすみましてありがとうございました。

こんなところにも、福祉の手を振り払う姿勢がみえている。
この母子の餓死報道がされると、多くの人が「なぜ母子を救えなかったのか」「行政はいったい何をしていたんだ」「母子はどうして役所に駆け込まなかったのか」といった思いを口にしたにちがいない。けれど、「覚え書き」によると、母親は、区役所の福祉相談を受けるつもりがないことは、死亡する1年前の日記や、日記が途絶える3日前にも記している。

1995年3月29日) 朝、年金係の人からの手紙が入っていた。昨日きたのだろう、うちがお金に困り、後、暫くしかここにおれないのを読まれて、相談するようにと、区役所と、西福祉事務所など教えて書いてあるが、私どもはここが、最後といって有るし、自分で家探しもできない、家に入らないといっている。それに良い人が世話をしてくれるとよいが悪い人にあったらたいへんと聞いているので、最後までガマンする。

1996年3月8日) …きれいに食べ物がなくなった。後はお茶だけで毎日何もたべられない。28円だけのこっているが、これでは何も買えない。子供がすいじゃくして死ぬのではないか、それが心配である。区役所等にたのんでも、私共は、まともには世話してもらえないし、どんな所に、やられて、どう生活をしなければ、出来ないかを考えると、子供と私も病気で苦しんでも、だれも、分かってもらえそうにないので、今の自由のきく生活のままで、二人共、死なせて頂きたい。…

「今の自由のきく生活のままで、二人共、死なせて頂きたい」
この一節から、人生の主題が衣・食・住のうちにはなく、内面の自由のうちにこそあることを伝えている。この生活意志によって「餓死」もまた、いのちことばとして際だたせている。死もいのち、メメント・モリ(死を思え)。そんな時代の幕開けの一端を刻印していたのだ。

無縁死といういのち -餓死日記

  
最近の流行ことばに「下流老人」がある。普通に暮らすことができない“下流”の生活を強いられている(生活保護基準に相当する)高齢者をさす造語だという。日に一度しか食事をとれず、スーパーで見切り品の惣菜だけを持ってレジに並ぶ老人。生活の苦しさから万引きを犯し、店員や警察官に叱責される老人。医療費が払えないため、病気を治療できずに自宅で市販薬を飲んで痛みをごまかす老人。そして誰にも看取られることなく、独りしずかに死を迎える姿をさして「孤独死」ともいう。
こうした無惨なことばが駆けめぐるなかで思いださせたのが「無縁死」。6年前、NHK・ドキュメント特集『無縁社会』(2010.1)が引き金となっていた。血縁・地縁・社縁の基盤が薄い、つまり身内や地域や職場等から孤立している単身者の死をそう呼んだ。凍死や餓死をふくめ無縁死の数は年間ざっと3万2千人、そのうち約千人が身元不明者(行政用語では行旅死亡人)。自宅の居間で死亡したのに身元不詳というケースもあったという。年間自殺者3万人という時代の暗さと符合しているようにみえる。

―孤独死も無縁死もいのちである。
そう呟いてみよう。すると、20年前になるが、無縁死・孤独死をあたかも事故死のように扱うほかなかった出来事が見えてくる。平成8年(1996の4月、東京の中心街(豊島区池袋)のアパートで77歳の母親と病気で寝たきりの41歳息子の文字通りの無縁死だった。死後20日以上経過して発見された二人の死因は栄養失調、餓死。息子は寝巻すがたのまま居間のふとんのなかで、母親は防寒用のズボンに茶色のジャンパーやカーディガンを重ね着したまま台所付近で死亡していた。
話題になったのは、餓死への道のりを克明に書き込んだ母親の日記が遺されていたことだった。飽食の時代といわれた頃で、なぜ母子は役所に駆け込まなかったか、行政は何をしていたのか。間もなくして「餓死した背景を明らかにする社会的意義がある」として日記は情報公開条例によって一般公開された(『池袋・母子餓死日記(覚え書き・全文)』公人の友社1996)。概要はわかった。一家は亡くなる11年前にアパートに引っ越してきた。4年前に夫は肺結核で死亡、その後は母親も腰痛等いくつかの持病を抱えながら脳に障害をもつ息子の世話で手一杯の日々。収入は2ヶ月に一度母親に支給される約8万円の年金。アパートの家賃は約8万5千円。母親は貯金の取り崩しにはじまって電話を売り、しのぎ、ついにはつかい果たした消費の先に死がのこった、そんな日々がA6判ノートに埋まっていた。

亡くなる1年前、アパートの契約更新前後の日記(原文のママ)である。
1995年(平成7年)3月24(金)うすぐもり、少しあたたかい。(13・8度)
  朝一寸顔そりした。朝、9時一寸すぎに、電気代支払用紙きた。1179円、引下8円。朝9時半すぎ郵便局。電気代、1179円、三月分おさめた。その足でスーパー。ご飯160、豆乳④320、果汁②200、カボチャニ180、(885円)
  主人の四回目の命日、バナナ、クッキー等、カボチャ煮、お茶、お水
今日は、主人の四回目の正月命日と言うのに、特別、何一つ、お気に入る物も、お供え出来ませず、本当にすみませんでした。今年で、この家での命日もおわりだと思いますが、現状では、どうする事も出来ませず、申し訳ありません。

3月25(土)今日新に契約書もらって更新してきた。雨、あたたかったり少しひえたり。(12・1度)
  今日は又、新たに家賃の契約をしてもらう日であるが、無事に、間違いなく、契約を、させて下さい。後、一日でも長くおられます様に、何卒、都合よく、はこばせて下さい、お願いします。契約は平成7年3月~平成9年4月11日までとなっている。
  朝10時半すぎ不動産。しばらく外でまって、こられた。
○家賃85000円 ○更新料85000円、不動産手数料42500円、合計212500円。○新通帳に85、000円とかかれ、別領収書に○27、500円の受取を書いてわたされた。お陰様で、今日無事に契約を、させて頂きまして、有り難うございました、けれ共、後が、長くは、お金が、有りませんので、その後はどうなるのでせうか、不安で、たまりません。
3月26(日)雨、小雪、ひえる。(4・5度)
  私は、昨日朝方から急に左り心臓のところが痛みだし、今日は、胃全部に痛みが広がって、ずきずきと痛み困っている。(略)
3月27(月)はれたりくもったり、ひえたり、あたたかったり。(12・9度)
 朝9時すぎ、本町スーパー。豆乳②160、果汁④400、一口アゲセン②149×②296、ゴボーサラダ160、(1、046円)
  ホームカレンダー今日来た。先月は、226日(日)に来た。
 朝10時頃、スーパー、コーンフレーク298、甘食⑧黒パン⑦180×②360、キヌトーフ83、黒ゴマ②65×②130、(897円)

「覚え書き」と表紙に記載された日録は日付・天気・気温に始まる家計簿に近い形式はさいごまで貫かれていた。引用した箇所は一家の末路を決定する重要なアパートの契約更新時期。夫の命日(祥月命日は3月24日)は家賃をはじめ月末の支払いのスタート日。アパートの契約更新に21万円という大金を用意しなければならなかった。喰うものを抑えてきたのも、契約を更新して、最後の身の置き場所にするためだった。
日録はスーパー等の買い物レシートの転記作業。食品・生活品目の購入記録がそのまま生活表現になっている。その行間を埋めるがために日々の心情不安を記す。生活とは金銭の出し入れである。やがて日記を記すことが生活の中心になっていく。書きためた日記はしばしばさかのぼって読み返され、過去日記にあらたに注意書きを加え、反省し、ときに祈る。
(この項、「餓死といういのち― 餓死日記2」につづく)

2016年3月1日火曜日

 明け渡すということ


―死の間際にかかわらず、どんなときでも、人は自分を明け渡すことによって、かぎりない平和を見いだすことができる。
死にゆく人の臨床にたちあった『死ぬ瞬間』の精神科医エリザベス・キューブラー・ロスはさいごの著書(『ライフ・レッスン』)でそんなメッセージをのこした。
明け渡しと降伏には大きなちがいがある。降伏とは、たとえば致命的な病気の診断を受けたときに「もうだめだ、これでおしまいだ!」ということだが、自分を明け渡すことは、いいと思った治療を積極的に選び、もしそれがどうしても無効だとわかったとき、大いなるものに身をゆだねる道を選ぶことだという。そして、さらに次のように明言した。
「降伏するとき、われわれは自分の人生を否定する。明け渡すとき、われわれはあるがままの人生を受け入れる。病気の犠牲者になることは降伏することである。しかし、どんな状況にあっても、つねに撰ぶことができるというのが明け渡しなのだ。状況から逃げ出すのが降伏であり、状況のただなかに身をすてるのが明け渡しである」

このフレーズから、義父の晩年の立ち居振る舞いをおもいだした。
若い頃は闊達なしごと人間だったようだが、わたしが知るようになってからの義父は最小限の必要な会話以外はしない、どちらかといえば寡黙な人だった。からだは大きくて病気らしい病気をしたこともなく、八十歳を過ぎても補聴器をつけて週に何度かは一人で電車に乗って出かけたりしていた。大相撲では当時貴乃花のファンでテレビ中継はさいごまで楽しんでいた。補聴器を左耳に、右耳にはヘッドフォンを挿入して、さらにテレビのボリュームは最大にするから建物全体がスピーカーというありさまで、家族は逆に耳栓をして観ることもしばしばだった。

杖をたよりに毎日散歩していた時期もあったが、歩行が困難になったときにさいごまでこだわったのは便所への歩行と自力での排泄だった。
ベッドから5メートルほどの手すりをつけた廊下を万里の長城を進むがごとくにゆっくりと脚をはこび、便所のドアにたどりついて更に便器までの2メートルの手すりにしがみついた。最初の頃は5分くらいだったのが、やがて10分になり15分になりした。その都度、家族は遠巻きに見て見ぬふりをした。見かねて手伝おうとすると叱責がとび、手で払いのける力があったからだ。その意思と努力はたいへんなもので、ついにはいざって進みむようにもなった。一ヶ月ほど続いたが、ついに便所にたどりつけないで途中で漏らし、へたり込んだりするようになった。それでも、這いながら便所を目指した。だれも止めなかったし、尿瓶にしたら、おむつにしたらと提案する者もいなかった。

そんなある日(もう20年も前のことだ)、明治生まれの義父はわたしをベッドまで呼ぶと「ヨネザワ君、君はいくつになったか」と尋ねた。
「わたしも、もう50をこえましたよ」とこたえると「そうか。わしのようになるには、君はまだ40年はあるんだな」といい、「残念だが、だめだ。これからは迷惑かける。宜しく頼む」と告げた。

その日から義父はトイレにいくことを断念し、立ち上がることも一切やめ、ベッドのなかで蓑虫のようにどんどん小さくなっていったようにおもう。いのちの明け渡しも近いと悟ったにちがいなかった。それから間もなくして義父は暑い夏、家人が口元にもっていった水差しを手ではらった翌日に、少しずつからだが冷えていき呼吸が止まった。自ら受けとめたいのち。91歳だった。