2016年5月31日火曜日

いのちの臨界 -最期の医療



治療中止の判断が「終末期」をつくる
「終末期」とか「終末期医療」は、病院で産まれ病院で死ぬという文字通りの医療社会になってうまれたことばである。
日本救急医学会は、治療中止の判断が必要になる時期を「終末期」としている。「医療の継続にもかかわらず、死が間近に迫っている状況」を指しているが、その判断は主治医と主治医以外の複数の医師により、客観的になされる必要があるとして、次の4つの場合を終末期としている。
①脳死と診断された場合
②生命が人工的な装置に依存し、生命維持に必須な臓器の機能不全が不可逆的な場合
③他の治療法がなく数時間ないし数日以内に死亡することが予測される場合
④回復不能な病気の末期であることが、積極的な治療の開始後に判明した場合
要するに、治療中止の判断が必要になったときが「終末期」ということになる。このとき患者は死の過程に導かれ、蘇生の道も断たれた状態になる。「終末期」とは延命・救命医療が極めつくした結果として出現したいのちのステージである。この段階での治療行為についてアメリカでは「医学的無益(medical futility)」ということばで語られている本を読んだことがある。医師の倫理から推し量ってみると、回復の望みがない患者に、医学的に無益な延命治療をずるずると続けることは「非倫理的である」というものであった。
けれど、この立場には医療資本と医療機関から導かれた医師の傲慢な論理が浮き彫りになっていただけである。

 「往きの医療」と「還りの医療」
わたしは、そうした病院化した社会に「いのち」という視点がいるのではないかと考えてきた。平均寿命が80歳を超える長寿社会のライフサイクルには往路と帰路がある、いのちには折り返し点があるというもの。成長期・成人期に相当する往きのいのちには「往きの医療」がふさわしい。脳死・臓器移植法に代表される先端医療をはじめとする救命・延命治療(医療)のあり方である。その一方で、人生を折り返したいのちの維持と還りのいのちを受けとめるにふさわしい「還りの医療」が応えるべきだと区別して考えてきた(『「幸せに死ぬ」ということーターミナルライフの発見』1998年)。
往きの医療がいかに死を遠ざけるかに寄与する医療だとすれば、「還りの医療」は、認知症を生きる老揺(たゆたい)期や、そう遠くない時点で確実に訪れるであろう死を受け入れるステージに寄りそう最期の医療(ケア)をさしている。
還りの医療は、死とその過程をいのちの深さとして肯定的に受けとめる眼差しがいるのはいうまでもない。

ちなみに、わが国で、還りのいのちへの対応が見えたのは2006年。富山県の射水市民病院で末期がん患者の人工呼吸器が取り外されたことが引き金になり、国や関連学会などで議論が加速し、相次いで指針ができた。国は2015年、指針の名称や用語について「終末期医療」を「人生の最終段階における医療」に変更し、「指針」では本人の意思を尊重し、医師らから適切な情報提供や説明に基づいた話し合いを重視することを原則とした。そのうえで「胃ろう」の選択をはじめ、人生最期の居場所をどこにするか(居宅、医療機関、介護施設)、意思表示が試されるなど、平穏死への道を遠いものにしている。私たちは臨死への眼差しをどんどん失っていくのだろうか。

 「臨界点」に向かういのち
在宅医内藤いづみさんが私との往復書簡(『いのちのレッスン』)でもらしたことばがある。
「赤ちゃんを産むときには、これが臨界点、ここを超えたら出産というのがあります。それと同じで、ぎりぎりまで生ききると、これ以上は生きられないという臨界点に死があるようにおもいます」
ここで生誕と死をいのちの流れで起きる出来事としてみている。産まれることと死ぬことは、(いのちの)臨界点ということばで往きと還りが重ねられ、一つになっている。
赤ん坊は、胎内(えら呼吸)で9ヶ月、臨界点からオギャーと一声、肺呼吸の世界に届けられ受けとめられる。いのちは往きの相でたちあがり成長期の姿を彩ることになる。やがて、老年期から死期に向かう。還りのいのちは「これ以上は生ききれない」という臨界点、自然死として送りだされ、温かく受けとめられている。とても示唆的である。それだけではない。内藤いづみさんは、臨界としての「死(寿命)」にはスピリチュアルな痛みをともなうことについても次のように語っている。

―たぶんそれ(痛み・註)は、「誕生」の苦しみとは逆の、「死」に行く道のりでの苦しみ、いわば、次のトンネルに入っていくための苦しみだと思います。ちょうど誕生の苦しみとして陣痛があるようなものです。無痛分娩と同じように無痛死にしてしまっていいの? と、心のなかで問いかけることがあります。産む力も、生まれる力も、死にゆく力も、本来、人に備わっているのではないかと感じるのです。

―そのような魂の痛みは医療が主導的に関われるものではなく、その人のものです。ではどうするのかといえば、それは、家族がしっかりと抱きしめるしかない。もし愛する人や家族がいなかったら、ご縁のある人たち、人生でめぐりあった友人たち、そういう人たちが撫でたり、声をかけたり、抱きしめてあげる。それしかない。赤子を「よしよし」となだめるのと同じです。そういうことしか、最期の痛みは緩和できないのではないかと感じています。(曽野綾子との対話『「いのち」の話がしたい』から)

いのちは、質を問わない。ただ、いのちの深さのなかで受けとめられるということである。



1 件のコメント:

青柳貞一郎 さんのコメント...

ご無沙汰をしております。東京医大の青柳です。
先日NHKクローズアップ現代で「臨床宗教師」を特集した番組がありました。死を前にした患者さんが死への恐怖によるスピリチュアルペインを癒す手段として宗教に関わる人が家族とは別に介入することで死を安らかな物にしようとする試みで、短い番組なので深くは解りませんでしたが、意味のあるもの、現代の医療現場に欠けているものを補う物であると感じました。米澤さんは「臨床宗教師」について何かご意見などはありますでしょうか。
私は既成の宗教観やそれに基づく死生観を押し付ける事なく、個々の患者さんにとって死をどのように受け止めるかを一緒に考えるのであれば、限られた時間を畏れることだけで過ごしてしまう事を免れて、家族と共に自分の死を受け入れる準備ができる(家族だけではそのような直裁的な話は難しいこともあるでしょうから)という点で有意義であるように思います。ただ時間もかかる事であり、費用面など解決するべき問題も多いようには思いました。