2015年5月12日火曜日

せわぁない(世話ぁない)


大河ドラマ「花燃ゆ」を観ながら、ほぼ毎回出くわしたセリフに「せわぁない」があります。とくに吉田松陰の母親である滝が口にします。松陰が脱藩や建白書、密航そして投獄といった破天荒な行動を続けるなかで、韻を押すかのように「せわぁない」ということばが笑みとともに飛び出す。その絶妙の間にはしばしば感服します。
「いいセリフだなあ」とおもいます。人のふるまいと場面がこの一言で和むのです。
「せわぁない」は、「気にかけなくていい、心配はいらない」あるいは「大丈夫、大したことはない」というニュアンスで使われる長州ことば(山口県)になっていますが、実は私が生まれ育った奥出雲(島根県)でも、よく耳にした馴染みのあるものでした。
「せわぁない?」「せわぁないがねー」
弱虫だった子どもの頃、母もまた、わたしの前で何度か口にしたことばだったのです。

「世話」「世話をする」といえば、介護、介護する。面倒をみる。Take care of …。
「世話を焼く」もあり、「世話になる」や「世話が焼ける」に「世話がない」など、私たちは「世話」ことばのなかで暮らしています。
「せわぁない」とは「世話ぁない」。世話をしたり、世話になったりがないこと。けれど、「世話」が閉め出された、かといって、見放さない。手放さないで配慮がなされている様子であり、関わりとして見えてきます。
もし「せわぁない(世話ぁない)」という環境が整えられたら、世話にまつわる規範や約束事を打ち消した新鮮なコミュニティが誕生し、福祉社会が成就したといえるかもしれません。

「ぼけてもいいよ」
「せわぁない(世話ぁない)」に匹敵する環境を介護現場でみつけることは出来ないでしょうか。そのヒントになることばに「ぼけてもいいよ」があります。
福岡市内で早い時期(1991年)に「ぼけても住みなれた町で、普通に暮らしたい」という人たちのケアに取り組んで誕生した「宅老所・よりあい」(代表・下村恵美子)。実はその第2宅老所所長村瀬孝生さんの『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社 2006年)という“名著”に由来します。毎朝10数人の人がやってきて身を寄せ合って一日をすごす一軒の民家ですが、ここには不思議なことに「世話をする」という介護の構えがまったくみえません。訪ねて気付いたのはまさに(ぼけても)せわぁない(世話ぁない)」という解放区にみえたことでした。
そんな環境をつくりだしたエピソードのひとつ、〈湯飲みをキャッチする営み〉という見出しのついた一文をあげてみます。

次郎さんはよく物を投げた。言葉を失いかけていた次郎さんは、「アアアア~ッ」と奇声を上げながら、目についたものを手当たりしだいに投げるのだ。
それぞれが自宅から集い、「おはようございます」とあいさつを交わしながら席につく。のどが渇いていようがいまいがとりあえずお茶をだす。そのお茶の入った湯飲みを次郎さんは投げる。

チョロと湯飲みに口をつけ、すすったか否か、その瞬間に「アアアア~ッ」と声をあげる。そして湯飲みが放たれる。湯飲みから飛び出すお茶は周囲を水浸しにしながら大きな音を立てて座卓の上に落下し、転がる。
のけぞる人。逃げる人。「なんなっ! そげなことをしたらいかん!」と烈火のごとく怒る人。「あ~あ」と消極的な非難の声をあげる人。あたりは騒然と化す。

僕たちは葛藤した。お茶を差しだせば必ずそれを投げることは目に見えている。だからといって次郎さんにはお茶を出さないと結論づけるのはあまりに差別的。第一、このままだと次郎さんが孤立する。
湯飲みを投げないように職員が阻止すると、次郎さんの興奮はさらに加速する。どうしたらよいものか。

ある日のこと。次郎さんはいつものように湯飲みを投げた。職員はその湯飲みを落としてなるものかと、決死のダイビングで上手に受けとめたのだ。すると周囲は「よくやった」と歓喜に包まれた。投げることへの非難から受け取ったことへのよろこびへと、場の雰囲気がとってかわる。
この日を境に、僕たちは阻止するのではなく、うまく受け取ることに専念することにした。投げる人と受け取る人がいることで場は大いに盛り上がった。
その次郎さんも、最近は湯飲みをなげない。すっかり落ち着いてしまった。投げる人がいないので場がちっとも盛り上がらないのだ。

村瀬さんは、このエピソードを通して『呆け』の多くは孤独であること、あるいは孤立していることが原因のひとつではないか、というのです。「よく分からないものを分からぬままに、あえて立ち入ることなく添い続ける。意味のある無しにかかわらず、それを受け入れる余白が社会にあることだ」と。この「余白」こそが、「ぼけてもいいよ」と「せわぁない」という環境を一つにしているようにおもいます。

この4月、新設の特別養護老人ホーム「よりあいの森」(3ユニット・28人)のボスになった村瀬さんは、それぞれのユニットの名前が「ばんざい」「わっしょい」「あっぱれ」に決まったことをうれしそうに話してくれました。命名は最初に入居してきたひとの第一声が「ばんざい」だった、そして「わっしょい」「あっぱれ」と続いたからだといいます。

「せわぁない」という声の主はだれなのかをよく熟知している人の笑顔がそこにありました。

2015年4月22日水曜日

ホームホスピス 共暮らし


日本の風土から生まれたホスピス運動
「ホームホスピスかあさんの家」は10周年を迎え、各地に広がる運動の中で「ホームホスピス」「かあさんの家」という呼称だけが一人歩きをはじめて、高齢者向けのアパートの冠に使用されたり、貧困ビジネスすれすれのものまで登場するようになったのです。そこで全国ホームホスピス推進委員会をつくり、『ホームホスピス「かあさんの家」のつくりかた』の理念を公開し、その活動を「ホームホスピスかあさんの家」と商標登録することでホスピス運動としての性格が鮮明になりました。その理念は、大きく分けると次の5つになっています。

第1 住まい 既存住宅、空き家を活用する。地域住民に馴染みの環境であること。
・以前は診療所があった家を改装したもの(神戸なごみの里・雲雀丘)
・田園地帯で敷地内に納屋がある典型的な農家の家屋(熊本市・われもこう)
・広い敷地に70坪の畑のある古民家(福岡県久留米市・たんがくの家)
第2 暮らし 一軒あたり5,6人の小規模であること。
・ともに暮らす住人同士のつながりができること。
・本人の希望を支え、本人のもてる力に働きかけること。
・家族の意思を尊重すること。
第3 看取り 生活の延長戦上にある自然死の尊重。家族の看取りを支える。
・家族の出入りが自由で、泊まることもできる。
・エンゼルケアを一緒に行う
第4 連携 地域の社会資源を利用し、様々な職種と連携していること。
・ケアプランには、フォーマル、インフォーマルが混在する。
・かかりつけ医と訪問看護サービスが導入されていること。
・家族もチームの一員であり、家族の力を奪わないようにすること。
第5 地域づくり 地域住民との連携、日頃からコミュニケーションをはかる
・地域の「看取り文化」の継承とコミュニティ医の再生をめざす
・実習生や研修生をの受け入れとボランティア活動

ホームホスピスはかたくなに定員5人。5人の入居者にヘルパー5人、日中2人、夜間は1人の24時間交替制で入居者の日々を支えている。また、入居者にはそれぞれ個別のケア・マネージャーがついています。
制度の制約にしばられることなくお年寄りや重篤な病いをもつ人が棲み暮らす小さな「家」であることが念頭におかれています。そこを基点にして医療・看護・福祉が地域のなかで有機的につながり展開していくこと。リーダーの市原美穂さんはそれを「ムーブメント」と呼んでいます。これらを整理すると次のことが確認できるとおもいます。
①「かあさんの家」は看取りに焦点をあてるのではなく、暮らしのなかでいのちを全うする運動であること。
②「かあさんの家のスタッフは同じ死の哲学を共有し、利用者のあるがままの生き様を見守ることに徹していること。
③なによりも「ホームホスピス」「かあさんの家」は施設ではない。暮らしの場であること。
これは血縁をこえて支えあう身寄りになる家の創出でもあるということです。

ホスピス運動といえば、西欧で定着した経緯から日本にどう制度として移植し定着させるかであり、ホスピスケアといえば末期がん患者等への医療施設として、疼痛ケアをはじめ緩和医療の定着として受けとめられてきました。
たしかに近代ホスピスはマザー・テレサの活動の源流とされるアイルランドのマザー・エイケンヘッドの修道会活動(1815年)に端を発して200年になります。その理念は死にゆく人のホームをつくり世話をすることでした(ジュナール・S・ブレイク/細野容子監訳『ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド』春秋社)。そして、セント・クリストファー・ホスピスに代表されるように医療施設化の流れがありました。
けれど、ホスピス運動は西欧の理念を導入することではありません。日本にふさわしい、あるいは日本人の死生観に照らした運動があってしかるべきでした。

あらためて「ホームホスピス・かあさんの家」運動は、私たちの社会が少子高齢化した日本の風土からうまれたホスピス運動だといえます。民家を活用するホームホスピス。これは施設ではありません。市民のホスピス活動として根付く足場が示されているのです。
さらに、もうひとつ指摘しておきたいとおもいます。ホスピス運動は女性の手による人権運動でもあったことです。マザー・エイケンヘッドからマザー・テレサへという、生きることの困難に直面し、尊厳を失った人たちを無条件で受けとめ癒すという大きな流れがあります。そこに、フローレンス・ナイチンゲールの看護に、シシリー・ソンダース、エリザベス・キュブラー・ロスという近代医療の世界で大きく展開してきました。近代ホスピスの歩みには“5人の母”の役割があったのです。
そしてわたしは、市原美穂さんに宮崎の「ホームホスピスかあさんの家」でお会いしたおり「市原さんは日本のホスピスの母ですよ」と口にしたのでした。


ホームホスピス かあさんの家


民家のもつ力
10年ほど前、宮崎市で市原美穂さんが立ち上げた看取りの家、「ホームホスピス・かあさんの家」の仲間が増えてきました。九州に5,関西7,関東2,東北1の計17箇所。さらに予定候補が10カ所と確実に全国に根付きはじめています。
ホームホスピスを立ちあげるためにまず取り組むのは家さがしです。新しく建てる「家」ではなく、以前からその地域で誰かが住んでいた「家」です。ホームホスピスは「民家」を借りるところからスタートしています。

――なぜ、民家でしょうか。市原美穂さんは新著『暮らしの中で逝く』(木星舎)で、民家のもつ包容力について専門家(園田眞理子)のことばを載せています。
「建物って時間を経たものほど鍛えられているのでパワーがあるんですよ。居心地が悪いものはやはり寿命が短い。だて、みんなが手塩にかけて育てて、生き延びてこられたってことはその建物はすごく生命力があることですから。建物にも競争が働いていて、居心地が悪いものはどこかで壊されたりする。時間が経過して、そこに住んでいた人が慈しんだ場所ほどクオリティが高い」
木造の日本家屋がもつ温もり、襖や障子で区切られたほどよいプライバシーを保つ部屋、家のどこにいても人の気配が感じられる空間。ご飯が炊けるにおい、玄関でおしゃべりしている声が聞こえる…、できるなら食器棚や本棚、タンスにテーブルまでそのまま使わせてもらえる「空き民家」を借りるのです。

先ごろ、訪ねた「ホームホスピス・かあさんの家」の仲間である「ホームホスピス・たんがくの家」(福岡県久留米市)も古民家を改修したもので、広い敷地内には70坪の畑もあります。「たんがく」とは、地元の伝統芸能の田楽(でんがく)の方言ですが、あわせて当地では蛙(カエル)の呼び名だともいいます。名称へのこだわりは、地域ケアに対する独自な指針、それに地元への愛着が反映します。「NPO法人たんがく」の理事長樋口千恵子さんのライフワークとして、また在宅医療に関わってきた看護職の集大成として4年前に誕生したのです。

――「ホームホスピス・たんがくの家」はどういう人の不安に応えようとしているのですか。(案内ちらしから)
「家で看たかばってん、腰の曲がったばあちゃんしかおらん。若いもんは働きよるけん看られん」
「がんの末期たい。できるだけ看たかばってん、病状がひどなったら看きらんごとなる。畳の上で逝かせたか」
「認知症のじいちゃんば看よるたい。心臓も悪かけん不安たい」
「どうにか一人で暮らしよる母ばってん、いつ具合が悪くなるか心配たい」
「車いすで退院するたい。息子が『東京においで』と言うてくれるばってん行こごとなか。ばってん、一人じゃ不安たい」
「家内が一生懸命、寝たきりのばあちゃんば看てくれよる。ばってん、もう無理のごたる」
「たんがくの家」はこのような思いをすくい取って、その現実を受けとめる場所になっているのです。
「たんがくの家」は古い障子やふすまをそのまま残して、縁側からは陽が差し込み、窓越しに見える近所の人の暮らし(畑仕事や田のあぜ道に腰を降ろして話し込んでいる様子など)が見え、家の中ではご飯の準備をする音、みそ汁の匂い、こどもの笑い声が聞こえたりして、病棟・病室や施設からは無縁な“自分の家”の日常になっていました。そこでスタッフとともに地元の在宅医や訪問看護師、ヘルパー、ボランティアなど様々な職種の人たちが365日かかわり、24時間支えているのです。
(この項は次回に続きます

2015年4月4日土曜日

みとりびと―いのち継ぐかたち


おくりびと

評判になった映画に『おくりびと』がありました。
「おくりびと」とは葬儀社に勤め、遺体を棺に納める湯灌・納棺の仕事を専従にしている納棺師。湯灌といっても死者を湯浴みさせるわけではなく、アルコールで拭き、白衣を着せ、髪を整え、手を組んで数珠を持たせ、納棺するまでの作業に、遺族が固唾をのんで見守っているシーンでは、「身内でだれか亡くなっても、こんなプロの納棺師にお願いできるなら安心だわ」という声も聞こえていました。
在宅死から病院死へ、そして自宅葬から斎場葬へ。今日の死(いのち)の受容のあり方を象徴させる「おくりびと」の存在が妙に気になりました。胸の内では「死者を送る前に、看取りがあるのでは」とか、「看取り・見送りはひとつだろう」という郷愁のような思いでした。古典の像を描くとすれば、斎藤茂吉の次の歌でしょうか。

 いのちある人あつまりて
 我が母のいのち死行くを見たり死にゆくを

母の危篤を聞いていそぎ夜汽車にゆられ郷里の母の臨終に間に合ったときの情景(処女歌集『赤光』から)です。ここで「看とり」とは「いのちある人」が集って「いのち死にゆく人」の姿をしっかり見届け見送ること、死(いのち)の受けとめ手になることとして活写されています。

みとりびと

作家・野坂昭如は「自らの死を子らに見せることが一番大事な教育である」と語っていました。見送るより看とること、「おくりびと」ではなく「みとりびと」になることが大事なのだと。そこで採りあげたいのが『いのちつぐ「みとりびと」』(農文協 全4巻)。『家族を看取る』という著書もある写真家國森康宏の子ども向けの読む写真集(というよりも絵本写真)。場所は滋賀県琵琶湖周辺の農村集落。じいちゃん、ばあちゃんが「いのち死にゆく人」としてしっかり映し撮られ、「いのちある人」の看取り見送る表情が四季の彩りのなかで、四つの物語として納められている。

「いのち死にゆく人」の前には「いのちつぐ人」として子どもがいること。
たとえば、小学校五年生の『恋(れん)ちゃんはじめての看取り(1巻)』。
九〇歳を過ぎても毎日のように畑仕事をしていたおばあちゃんが、急にからだが弱くなり、一週間ふとんから出られなくなり、そのまま亡くなった。写真は枕元でそっとおばあちゃんの額にてのひらを添える子どもの表情を写し撮っていました。この掌は何を受けとったのだろうか。著者は「あとがき」で、死と向きあった恋ちゃんの「人は死んでしまうと、つめたくなり、二度と生き返りません」と確認しながら「でも、おおばあちゃんは私のなかで生きつづけています」というたしかなことばを引き出していました。

『月になったナミばあちゃん―「旅立ち」はふるさとで わが家で(第2巻)』では、「いのち死にゆく人」が親しい人たちのこころをひとつにあつめる力をもっていることを教えてくれました。寄りそう人だれもがはじめはうろたえ、とまどい、悲しみ、そして「さよなら」「ありがとう」のことばを口のしていき、よろこび泣き笑いしながら、死にゆく人を見守り見送るシーンに子どもの眼差しが加わっていました。

また、『白衣をぬいだドクター花戸―暮らしの場でみんなと輪になって(第3巻)』の主役は看とりの背後に立つ在宅医でした。
写真家ユージン・スミスには、初期を代表するフォト・エッセイ「カントリー・ドクター」とか、ベッドに横たわっている死者の姿を撮った「スペインの村」(1951年)があり、その重厚な写真を感銘深くみた記憶があります。
けれど、ここでは、哀しい情景にかわって医師は「いのち死にゆく人」と「みとりびと」を引き合わせる、いいかえればいのちのバトンを引き継ぐための「たちあいびと」として引き出されていたことでした。そして生―殖―死という〈いのち〉のリズムを継承する証として「生誕」すなわち、いのちの受けとめ手として赤ん坊の貌で写真絵本が結ばれていました。
人の死(いのち)は終わりではなく、はじまりでもあるというわけです。ここから引き継ぐいのちを、河野愛子歌集(「黒羅」)から引いておきます。

子は抱かれみな子は抱かれ子は抱かれ人の子は抱かれていくるもの




2015年3月22日日曜日

メメント・モリ 東日本大震災のいのち


3,11東日本大震災のいのちことば
先に紹介した俳優杉良太郎の「このカワイソウを分けてもらわないと、生きていけない」ということばを聞いた直後から、わたしは揺れる余震の大きさに合わせるようにテレビ映像や新聞・週刊誌等から耳目にふれたかぎりの「このカワイソウ」を探したようにおもいます。そのおり、拾い書きした「ことばメモ」が残っていました。
今回、あらためて「このカワイソウ」を拾い出してみると、「メメント・モリ(死を想え、死を忘れるな)」ということばに変換できることに気付きました。

①「すり抜けていっちゃったんです。抱きしめようとおもったのに…。あのとき、しっかり抱きしめていたら…この胸にちゃんと抱かなかったから」(3歳の女の子を失った母親30歳・女川)

②「津浪に追われて必死に逃げたのさ。ずいぶんたって電柱にしがみついていた。あのとき死んでいりゃ、いまみたいなかなしい目にあわなくてすんだのに」(40歳 知的障害者 お風呂場で 石巻)
 
③「ランドセルはみつかった。ほら、名前がかいてある、××って。でも、まだ帽子がね…。入学式に履いていく靴がね、まだなんです。箱にはいったままだから。きれいなままだとおもう」(不明になった子どもの遺体をさがしている父親)

④「親父の『助けてくれ』という声がきこえた。でも、波にのまれていく瞬間だった。目があった。そのとき、助けられなかった。あの親父の目が一生忘れられない」(老人ホームに父を迎えにきていたという50代の男性・南相馬市)

⑤「おれたち、これから逃げるから。おばあちゃんはこれを喰って生き延びろ」と息子夫婦がおにぎり三つもってきた。「おめえたちは逃げろ。おれはじいちゃんの位牌をまもる。ここで死んでいく。こんなとき、おれは生きていちゃいけねえ」(原発20キロ圏、小学校の避難所で。おばあちゃん、86歳)

⑥「よかったー。父と母がみつかって。いっしょに見つかってよかったー。家の中で死んでいてよかったんだよ。家で死にたい、いっしょに死にたいと仲がよかったから。それに…いつになるかわからないといわれていたのに、25日に火葬がきまって、ほんとうによかった」(3週間後に自宅の瓦礫の下から両親を発見した男性34歳)

⑦「噂を追って息子のゆくえをさがしたよ。ヘリで運ばれたって聞いて病院にも歩いていった。噂があるうちはよかった。さがす道がなくなっても安置所には行けなかった。息子から〈無事か?〉(3月111517分)と携帯メールがあったのに、おれは気がつかなかった。ぶじだと返事してないから。ずっと」(3月30日海近くの遺体安置所で「息子だとわかるくらい、まだキレイだった」と父親)

⑧「中にはいると三百個くらいの棺がずらっとならんで、その一つ一つが顔の部分だけ、透明の板になっていて、その下に生前の顔写真と名前が書かれた紙がはってあるんです。探したら、顔が叔母さんの棺には『女』『不明』とだけ書いてあった。(遺体安置所に親戚のおばさんにお線香をあげるためにいた女子高校生。16歳)
 
⑨「人はひとりもいない。動いているのは犬や鳥。人の気配を感じるとすごい勢いでせまってきた。人間の手らしきものに群がっている鳥を追い払おうとしたが、ふっと放射能汚染のことが頭をよぎり足がすくんでなにもできなかった」(原発・半径20キロ圏内に入った40代の避難民男性)

⑩「親父が亡くなったのは3月14日午前5時12分。死因は『肺がん』とだけ。ほんとうに肺がんだったのかねとおもうけど、でも死亡診断書から推し量ると担当医が看取ってくれたんでしょうね」(遺体のまま3週間放置されていた父親の死亡診断書を受けとった男性)

ここに集めた“ことば”からは、祈りにちかい言葉を見つけながら、あらためて「メメント・モリ(死を想え)」をめぐらすほかありません。東北地方はしばしば大津浪に襲われ、記録されていますが、陸中遠野の伝説119篇を聞き書きした柳田国男の『遠野物語』(1910・明治42年)にも「先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻子を失い、生き残りたる二人の子とともに生き残った男」の伝承譚(99)として記載されています。「先年」とは2万人をこえる死傷者を出した三陸地震の大津波(明治29年)を指しているかもしれません。そうなら、そこから100年、いのちのリレーにふれたことばもありました。

⑪「かあちゃんと息子と両親を津浪でなくしました。学校へ通っていた娘だけ助かった。明治の三陸地震のとき先祖は海の近くで家が流され、同じ場所に家を建てましたが昭和三陸地震でまた流されました。それから、今度は海岸から2・5キロ離れたところに家を構えたのに今回も津浪に流されました。明治のとき僕のばあちゃんは8歳でひとり助かって家系をつないでくれました。今度は20歳になったばかりの娘だけが助かったんです。生き残ったものはしっかり生きないとね」(父親58歳 陸前高田)
(註 採りあげた①~⑪は3.11以降1ヶ月ほどのあいだに、テレビニュースやドキュメント番組、他に朝日・読売・日刊スポーツ新聞等からメモしたもの)


2015年3月12日木曜日

カワイソウ 東日本大震災のいのち


カワイソウを分けてもらう
東日本の大震災、4年目の3.11。それぞれの人にとっての3.11
目の当たりにした巨大津浪。安全神話を木っ端みじんに打ち壊した福島原発による被曝…。3.11からひと月たった4月13日、ある仕事で出掛けた京都でのこと。知恩院山門前でタクシー運転手に「お客さん、どちらから」と声をかけられ「東京から」と返すと、「逃げてきたのですか」と問い返され、ドキリと心が揺れたことを覚えています。時間は駆け足で過ぎていますが、私には未だに現地へ足をはこぶ機運(勇気)がやってきません。

3.11以降しばらくはテレビ画像に釘付けになりました。けれど、事態がみえない不安に苛立っていたと思います。「がんばろう、日本」とか「お見舞い申し上げます」とか、「きづな」とかいうことばが画像にもあふれるようになる前にテレビ画像からおもいもよらないことばが聞こえました。
「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけないんだよ
咄嗟のことで声の主がわかりませんでした。すると「杉良太郎」と縫い込まれた緑色のよれよれジャンパーの背中が映りました。杉良太郎さんはイスに座って炊き出しの最中で、貌の表情はみえません。たんたんと豚汁をお椀に移す作業をしており、その手を止めることもなくカメラ目線もなく、どうやら視聴者にむけて用意されたメッセージでもない、ひたすら自らに言い聞かせるような呟きことばだったのです。けれど、このことばがわたしの脳天を撃ったのでした。
ここで、「カワイソウ」とは無傷の対岸から被災地の悲劇にむかって「(あの人たちは)かわいそう」とつぶやいていることばではない。また、被災を受けた人たちの不幸をその身になって「かわいそう」と口にしてみせた同情や憐れみのことばでもない、不思議な呟きでした。この杉さんのことばを聞いて「あれは役者ゆえの台詞だよ」と一蹴した人もいましたが、もしそうなら、「杉良太郎は一級の役者だ」といいかえてもいいのです。

「カワイソウをわけてもらう」とは、4年たったいまでもその評価はかわりません。気付いたのですが、ここで「カワイソウをわけてもらう」とは同情から慈悲へ飛翔していく宮沢賢治が包摂してみせた世界と通じ合っているようにおもいます。
慈悲について。玄侑宗久氏は「助けようとは思わなくても自然に月光のように放散しだれもが浴する力そのもの」といっています。あるいは「慈悲とはからだから自然に放散する振る舞い、協調性のような気配」とも(『慈悲をめぐる心象スケッチ』)。
そうだとすると、「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけない」ということば(と杉良太郎さんの姿)は、被災者の困難を受けとめようとする慈悲と、その被災の哀しみを抱きしめ救済しようとする慈悲がない交ぜになって聞こえていたともいえます。
わたしの記憶ではこの「カワイソウ」を耳にして間もなく、わき出したかのように宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を口ずさむ声が周辺から聞こえてきました。それは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という賢治の慈悲の深さと重なっていたのです。

知られているように東北三陸地方は明治以降100年の間に2度3度の大地震と津波に襲われました。賢治は1896年(明治29)6月三陸海岸に大津波で2万1千人の死傷者が出た2か月後に岩手県花巻町に生まれています。その年の7月と9月には大風雨が続き北上川が増水し、夏になっても寒冷が続き稲は実らず赤痢や伝染病が流行しています(宮沢清六『兄のトランク』)。しかもこの天災はまるで賢治の生涯に合わせるかのように生まれた年から37年後の1933年(昭和8)、再び三陸海岸に大津波が押し寄せ死傷者3千人を出した震災の半年後の9月に賢治は亡くなっています。
「雨ニモマケズ」が黒い手帖に書き留められたのは、亡くなる2年前(11月3日の日付だけが横書き)。遺言をしたためるほど体が衰弱していたころでした。信仰が深かった賢治の慈悲のことばの集積地。誰もが諳んじてきたものです。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌トスコシノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨク ミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萓ブキノ 小屋ニイテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ 北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ ミンナニ デクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ

この最終節「ウイウモノニ ワタシハナリタイ」という賢治の願望に「カワイソウ」が回収され救済されているのがわかります。それは「ほんとうのさいわいを探しに行こう。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んでいこうね」というジョバンニの声(『銀河鉄道の夜』)と重なってもいます。(この稿は次回に続きます)


2015年2月26日木曜日

アイ・コンタクト 後藤健二さんの死(続き)


フリーランスという死に方
後藤健二さんの人質事件が判明した直後に朝日新聞の「天声人語」はこんな語り口で始めていました。
『戦争や紛争のさなかで取材するジャーナリストは、様々な危険に出くわす。敵意を持った相手もいる。1960年代、「泥と炎」のベトナム戦争でまず名をあげた日本人カメラマン岡村昭彦は、笑顔が大事という持論を持っていた。「世界のどこへ行っても、相手が拒否できない笑顔を自分がもっているかどうかで、生き延びられるかどうかまで決まる」と。しかし、その笑顔も、相手が狂気じみていては、いかんともしがたい』(121日)

岡村はたしかに「相手に拒否されない笑顔(とアイ・コンタクト)」は、文化圏の異なる地域に足を踏み入れる際のフリーランサーのたしなみだといっていました。また、アフリカの戦争取材でアジア人として最初に取材した1968年のビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)では「笑顔も猛獣には効かなかった」と笑い話にしたことがあります。
その岡村が亡くなって30年、もし生きていたらフリーランスの戦争写真家の先輩として後藤健二さんの死について、どう語るでしょうか。すると即座にわたしの耳に「(後藤さんの死は)不注意な死」という声が聞こえてくるのです。

「不注意な死」とはどういうことでしょうか。
岡村は戦場取材の当初、一本のたばこは兵士を和ませ、うち解けあうのに欠かせない「笑顔」に次ぐアイテムとして重宝していました。ところが、たばこの煙と臭いが一瞬のうちに戦闘の標的にされた例をあげました。
「弾丸の飛びかう戦場の姿を、そのまま世界中の人に送りとどけ、戦争の無意味さを訴えようというのだから、いつかは死に見舞われるであろう。だが、その危険なしに戦争の報道はできない。私はこの戦場の取材が、どのような条件でも可能なように、からだを鍛え、経験を重ねてきたつもりだ。だが、従軍記者として、未熟のまま死ぬのはいやだった。そして、未熟のほうが死の危険率はたかい。ちょっとした(・・・・・・)不注意(・・・)が死に直結したのを私は何回も見てきている」(「ラッキー・ショット」から)
彼にとっては予測を超えた思いがけない死もまた、不注意な死なのです。

岡村はその後も、行方不明・死亡説が流れたほどの危険な地域に足を踏み入れました。南ベトナム民族解放戦線の捕虜収容所に53日間も収容されましたが、当時の副議長との貴重な会見にも成功しました(1965)。入国取材禁止明けの5年後にはベトナム戦争中最大の侵攻作戦(1971)に単独ルートで従軍し“証拠力の強い”写真によってアメリカ軍撤退を「LIFE」誌にスクープしました。この間の取材ではライフ誌カメラマンのラリー・バローズを始め沢田教一、嶋元啓三郎ら多くのフリーランスカメラマンの死が伝えられましたが、このとき、岡村は彼らの死を「不注意な死」だと言いきり、「私も(戦場で)死ぬときは不注意で死ぬだろう」(「フリーランス・ウオー・フォトグラファーの死」1972年)と記しています。
ここで「不注意な死」は、戦場カメラマンとしてのスキルに留まらないフリーランサーとしての生き方を律する自らへのきびしいいのちことばになっていました。

戦争写真家といえば、著名なロバート・キャパ(1913-1954)がいます。スペイン戦争から第二次大戦へ。「敵弾に倒れる義勇兵」は戦争写真の決定的なイメージをつくりました。近代戦争の戦場を「画家のカンバスのように記録した」(ジョン・スタインベック)というキャパもインドシナ戦争の渦中の1957年、ホー・チ・ミンがディエンビエンフーの要塞を陥落させた直後、ベトナムのメコン・デルタで地雷原にふれてあっけなく死亡しましたが、ここでも岡村はキャパの死は第2次大戦後の戦争を見誤った「不注意な死」と断定していました。
地雷原が出現するのは第2次大戦後、核戦争が危惧される時代の高度なゲリラ戦争に呼応した兵器の一つでした。ヘリコプターが戦場に出現するのはその後間もなくのことです。つまり、地雷原を踏んだキャパの死は広島・長崎への原爆投下後の高度化した戦闘戦略を見誤ったか見逃したがゆえの「不注意な死」という見解だったのです。

では後藤健二さんの死はどうだったでしょうか。岡村がいう「不注意な死」を振りかざして断定しては21世紀の歴史認識を欠くことになりそうです。なぜなら私たちが立ち会ったのは、情報ネット社会を戦闘ステージに見立てた戦慄と恐怖を戦略にしたかつてないものでした。しかも、戦場とはいえ私たちの日常生活の事件として反映させたことです。とはいえ、世界地勢図のなかの中東アラブ諸国の現実を垣間見ることもできないのです。
けれど、後藤さんの死を文字通りの「人質としての死」とみるとどうなるでしょうか。すると、長い間世界史に登場しなかった宗教国家が台頭し突出してきた構図はみえます。つまり、イスラム原理主義という宗教的な迷妄と欧米の文明史的な略奪が正面から向きあった姿です。そのクレバス・裂け目に無辜(むこ)の人が宙づりにされ、取引の対象にされたのではないか、それが後藤さんの姿だったのです。この死を蛮勇の死とは、誰もいえないはずです。

後藤さんの本『ルワンダの祈り』や『ダイヤモンドより平和が欲しい』、前回引用した『もしも学校に行けたら』からは、死線をこえて手にした光景が示され、そして後藤さんの語り口や眼差しは未来を信じる少年や少女に向けられていることでした。後藤さんのつぶやきをひろっておきます。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟だった。」(2010年9月7日のツイッター『週刊朝日』2/22より)
「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人のおろかさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸を締め付けられる。声を出して、自分に言い聞かせないとやってられない。」(201012月1日のツイッター『週刊朝日』2/22より)