2016年10月11日火曜日

「手術死」と「がん死」



●「手術死」は医療事故?
新聞の切り抜きを整理をしながら、いつもなら指して気にもとめない病院死にふれた記事にであった。
その一つは群馬大学病院の手術死問題だった。2014年、群馬大学病院の男性医師の腹腔鏡や開腹の手術を受けた患者18人が術後あいついで死亡した経緯について第三者調査委員会の調査報告に関した記事で、この夏、担当医師を懲戒解雇相当にし、他に指導教授等9人の処分で落着したことは各紙が大きく扱ったのは見出しで追ってもわかる。
「手術死続発を放置 収益優先手術数競う」「患者の安全軽視 医師、問題意識なく執刀」「二つの外科に深い溝 専門が同じでも口きかず」など、大学病院内の機構に問題があったという指摘が多かった。そのなかで、一紙だけ、「病状や体調から手術は無理な例や、手術の妥当性に疑問がのこる例が半数を占めている」と指摘していた(読売新聞「群大手術死・教訓(下)」2016.8.3朝刊)。
手術ができるはずはないなかで、なぜ「手術死」が相次いでおきたのか。病院の関係者の間では「最後の砦として重症患者を引き受けているから」という考え方が根強かったという。「人手が少ないのに手術したのが悪いといわれればそうかもしれない。ではやめようとなったときに誰が(治療を)引き受けるのですか」と。
「患者のため」を見失った次のような医師のことばがあげられている。
「『手術さえしてくれれば』と思い詰める患者もいる。実際には手術をするメリットが小さくても『できる』といって手術をしてしまう」
「手術をしない選択肢を示すと、患者が『見捨てられた』と感じて落胆する」
一方患者遺族の声からは「今なら手術できるといわれた。そう言われたら今を逃したら治らないんだ」と手術を即決したともいう。

これらのやりとりから、医療者と患者家族のあいだには「手術」ということばは外科治療としてではなく、治癒・生存には不可欠な手段、さいごの砦として思いが一つになって共有されていったということだろうか。「手術」はどこかの段階で治療・治癒が目的ではなく、「死」を打ち消すための医療行為のように――。たしかに重い病気ほど「手術」が期待される。いまや生死を逆転させる「移植手術」まで可能になったのだから。
「(手術は)できるか、できないか」「(手術を)やったほうがいいか、やらないほうがいいか」、そして「手術止めていれば…」。この問い詰め方は臨床技術からだったのか、いのちの受けとめという場所からだったのか。それを見失ったとき「手術死は医療事故」というところに落着したというのだろうか。

●「がん死」は自然死への道?
二つ目は、「がんの罹患年齢がに高齢化、将来寿命と一体化も」という記事である(北海道新聞 2016.7.3朝刊)。
がんはすでに国民病といわれ、①日本人の二人に一人は、がんになる。②三人に一人ががんで死亡している。そして、③今後、日本人の二人に一人ががんで死亡するといわれてきた。ところが、事態はさらに促進している。
「近い将来、寿命の限界に近づく頃になって、はじめてがんが見つかり、がんで亡くなる時代が来る」という。札幌がんセミナー理事長・小林博北大名誉教授(腫瘍学)が日本がん予防学会で発表した。厚労省の人口動態統計などからがん死亡年齢はおよそ30年前より10歳以上延びて平均で男女とも70歳を超えている。がんの罹患年齢についても10年間で10歳以上伸びていずれも70歳代である。つまり、がん患者になるのは高齢になってからであり、長寿を全うする人のほとんどががん死になるという報告である。

(クリックして拡大)
現代の平均寿命の特徴は生命曲線図(図表)で見ることができる。Aは自然な原因による死亡率(明治時代の平均寿命は42歳)。ゼロ歳時で100%生存、20歳で約半分、40歳を超えて生きる人は長生きをする。では「2025年」問題Aと呼ばれている団塊の世代は75歳頃までは現役で多くの人が顕在であるが、このゾーンに入ったらばたばたと亡くなっていくことになる。小林氏は「今後は80歳、90歳と延びると予想されるが、がんが寿命と一体化するようになれば、がんは積極的な治療の対象でなくなるかもしれない」と。ここまで来ると、この死はがん患者の死ではなく、自然死のひとつ、老衰死に相当する「がん死」ということになる。

これらの記事から何を受けとったらいいのだろうか。長寿社会の未来がひらかれたというのではない。けれど「手術死」とか、「がん死」とか、「自然死」とかの概念が、微妙にスライドしながら新たな模索をはじめているようにみえる。
ここに「高齢者」も付けくわえてみよう。年寄りや老人がすり替わったのではない。また、厚労省が規定する70歳以上の人が「高齢者」ではない。ここで、自らの年齢に即して口にすれば、長寿社会の老年期をいきる新世代として「高齢者」と呼ぼうとおもっている。同時に、やがてその先に訪れるだろう超高齢の世界を、わたしは老揺期(たゆたいき)と呼んで、できることなら「介護を受ける」よろこびを手にできたらとおもう。

2016年9月22日木曜日

エンディング・ノート「いのちの選択」



○救急車さわぎの背景にあるもの
この夏、救急車さわぎがあった。一人暮らしの90歳男性が熱中症で死亡。発見されたのは2週間後の9月はじめ。男性には弟妹二人(いずれも80代)がいた。半径100㍍以内の同じ5丁目町会だが、今年に入って訪問しあうことはなかったという。知らない人ではなかった。新聞記事やテレビニュースではなく、わが家の鼻先での出来事だったのだ。
その一方で、心肺停止状態の高齢者が救急搬送される事例も各地で増えている。長野市民病院救急センターでは、救急搬送は年間約90例。そのうちの半数が85歳以上の超高齢だという。一緒に暮らしている老父母の呼吸がとまっている現場にたちあえば救急車を呼んでしまうかもしれない。呼べば救急センターに搬送され、蘇生を受けることになる。挿管され、点滴が行われ、器械による心臓マッサージが施され、「穏やか」な死とはほど遠い環境に遺体が置かれてしまう(「長野医報」6月)。
これらは、いま、全国各地のどこでもおきている医療事故だといっていい。
なぜ、防げないのだろうか。医療社会の直中にあって、住民の交流が減り、掛かりつけ医や施設の嘱託医などとの関わりもうまく機能していないからだ。要は、地域社会のなかで住民と医師との連携がうまくできていれば防ぐことはできるはずなのである。

○信州・上田市のNPO法人「新田の風」の試み
そこで、紹介したいのが長野県上田市新田地区の医師井益雄(い内科クリニック院長)さん。井さんは、かつて「信州に上医あり」といわれた故若月俊一医師(長野県厚生連佐久総合病院)の薫陶を受けた一人で、1980年代の終わりには、佐久地域で36524時間体制の在宅医療を始めた医師で、当時家族の介護負担を軽くするため、浴槽を家に持ち込む「お風呂カー」が走らせたという挿話もあるほどだ。井さんはその後上田市でクリニックを開業。
資料によれば上田市は人口12万人。新田地区は1712世帯、ざっと4千人(男1900人 女2071人)。そのうち65歳以上の高齢者は1056人(男478人、女578人)。高齢者率は266%。そして65歳以上単身世代は561人(男263人、女288人)。高齢単身世帯率は328%。
4人に1人が高齢者、そのうちの3割が単身世帯という地域での医師の役割はなにか。井さんは、これまでの経験から「在宅ケアはコミュニティのケアだ」という考えをさらに一歩踏みこんで地元自治会をベースに診療所、薬局、福祉関係者による「安心して老いを迎えられる街づくりチーム」を発足(2010)させた。住民自らの手による介護の社会化は次のような流れでとらえられていた。
①元気なうちは社会参加交流、つまり仲間づくり。
②要介護者になれば、その人を在宅でささえる。つまり支援の輪をつくること。
③やがて、世話になる。つまり、順番に必要に応じて支援される。
④施設の自宅化。つまり、施設に入っても自宅の雰囲気を(小規模多機能施設)。
⑤自宅の施設化。つまり在宅を支えるチーム訪問。
井さんは地域住民の一人として新田地区自治会にはたらきかけ、3年かけてNPO法人「新田の風」(http://www.shinden-kaze.org)を立ちあげ初代理事長としてスタートをきった。そして小規模多機能居宅介護施設「新田の家」を誘致(2014)、住民交流の場「ふれあいサロン ~風~」もオープン(2015)した。

○エンディング・ノート「いのちの選択」
「新田の風」の立ち上げによって、住民間で交流を深める基盤は整った。これからは、介護者の役割を担える人材を育てることであり、そこに診療所、薬局、福祉が連携をとりあって地域全体を支える道をつけることだった。そこで井さんが「新田の風」の事業のひとつとしてまっさきに掲げたのが「エンディング・ノート」の作成。終末期の意思を示す簡易版シート「いのちの選択」である。

(クリックして拡大)

「病名・病状の告知」「余命の告知」「終末期の医療」「延命治療の有無」「最後の時はどこで迎えたいか」の5項目で、選択肢から希望する内容を選んでチェックを入れる方式だ。
たとえば「終末期で、望む生命維持処置は」の項目では ①心臓マッサージなど心肺蘇生 ②人工呼吸器 ③胃ろう ④延命措置は望まず自然死を希望する ⑤すでに「尊厳死宣言書」を作成した といった5つの選択肢が用意されている。そのうえで「家族の同意蘭」「本人」の署名捺印。
このシートは、上田薬剤師会の協力で薬局内に置かれ、「お薬手帳」に貼りつけておけるようになっている。「お薬手帳と一緒に保管されれば、救急搬送時にも医師の目に留まりやすいだろう」というのが井さんの主張である。
そして「いのちの選択」シートには、「健康状態等により考え方が変わった場合は、新しいものを添付しましょう」と明記してあるのが特徴だ。病状等の変化によって、意思表示は可変的であること。「まだ決めていない」など、患者のこころの揺らぎも受けとめられている。いずれにせよ、「元気なうちに自分の行く末を決めておくこと」を地域包括ケアの指針の一つとしている医師は、まだ少ないにちがいない。
井さんは言う。「ゴールは安らかな看取りです」


2016年7月31日日曜日

老揺(たゆたい)期を伴奏する


半年前、「いのちを考えるセミナー」の常連のひとり佐賀県の在宅医K・S子さんから「老揺(たゆたい)期 に入った78母が入院、ついに私が主介護者に」と率直に胸の内をひらいたメールが届いた。そのポイントをあげてみよう。
① 昨年秋まで自宅でほぼ自立した生活を送っていた母が、胸椎圧迫骨折を受傷し入院。下肢の麻痺や排泄障害を呈し、一時寝たきりとなった。さらに入院後、強い幻覚と妄想に襲われ、深夜に「知らない場所に移されたから助けに来てほしい」、「ベッドに犬小屋をたてられた」などと携帯電話で私に連絡してきた。軽いパーキンソン様症状もあり、レビー小体型認知症と診断された。
② 認知症ケアはまず「寄り添う」ことが大切とされるが、いざ当事者になってみると認知症介護に伴う心身の疲労だけでなく、親がどんどん変貌していく様子に悲哀と、「過去(健康なとき)のあの母にはもう会えない」という喪失感に思いが乱れている。
③ この思いは介護専門員や医療者は抱かない感情だ。5年前医師として認知症の人と家族会の世話人を引き受けてきたが、はたしてこれまでご家族の気持ちにどこまで共感しえていたのか、経験と理解が不足していたと痛感している。
④ 同時にまた、家族や身内ではないから医師として寄り添えたのではともいえる。母親の介護 を正面から受けとめ、これからが医師として正念場だと考えているー。
「老揺(たゆたい)期」→五官の老衰、認知症等がみられる還りのいのちのステージ。

わたしはK医師の思いに共感しながら、気になったので次のような返信メールを送った。
「こころの内は十分に受けとめました。けれど、誤解をおそれずにお伝えしたいのは、この状況は医師としてではなく、娘としての正念場だと受けとめるべきかとおもいます。娘の代役はいません。いわんや専門家(医師)と家族(娘)の役割を同時に引き受けるのではなく、まずは医師(専門家)を降りること。主治医は誰かに替わってもらうこと。そして、医師としてではなく家族(娘)として、それこそ『ぼけてもいいよ』というポジションを母のまえでしっかり見せることだとおもいます」と。

●ファミリー・トライアングルという構図
ここで思いだしたのは、介護保険法が施行される前後の10数年、6畳間にベッド二つを並べ寝たきり状態になった義父母の介護体験である。とはいえ、わたしが何をしたというのではない。娘(妻)の役割を基点にしたうえで私の立ち位置(3番目の役割)が問われていたことだった。からだが不自由になった老揺(たゆたい)期の義母、義父を支えるにはそれぞれ三角形・鼎のかたちになっていることが必要だった。そこでわたしが象ったケア・メソッドがファミリー・トライアングルだった。
ここで介護するという場合、老親(患者)を中心において家族や専門家(医師・看護師・介護者)が周りを囲むというかたちではなりたたない、支えることにはならない。わたしにはこの確認が最初にあったことである。つまり、老親を支えるには、[娘―義父(義母)―医師]、または[娘(妻)―義父(義母)―私]という関わり方が三角形(△)のかたちになっていること。そのためには三人目の役割を(自覚的に)引き受けてはじめて支える関係ができる。わたしは、このケア構図をファミリー・トライアングル(FTと名付け著したのが『「還りのいのち」を支える』(主婦の友社 2002年)だった。
要するに「共にある」というポジショニングが大事におもわれた。そこで、わたしはもうひとつサッカーの陣形としてのトライアングルとも重ねてみた。ゴールにむかって息をあわせボールを蹴るのだが、そこでは、コーチング(呼びかけ、指示)とアイ・コンタクト(目で合図する)が欠かせない。なによりトライアングルは3人目、3番目との連携と距離によって変わってくるだろう。
だから、3人で正三角形をつくることではない。それぞれの立場や関係によって三角形の辺の長さや角度は異なるのはいうまでもない。たしかなことは「三角形の内角の和は2直角(180度)」という支えあう構図をしっかり産み出すことだとおもっている。

老揺(たゆたい)期を伴奏する
至近な母親の例をあげてみよう。連れ合いを亡くして15年、老揺期(要介護度2 93歳)、独り暮らしを続けた郷里(奥出雲)を離れて、現在は娘(次女)家族が住む松江市内の居宅型老人ホームに移って3年になる。そこでのファミリー・トライアングルの第1は[娘(次女)―母親―孫娘(看護師)]。近隣に住む二人、とりわけ母親―孫(看護師)が大きな安心につながっている。これをベースに第2のトライアングルとして[娘(次女)―母親―娘(長女・大阪在住)]。さらに[長女(大阪在住)―母親―孫(看護師)]、そして私の関わりは[長男(東京)―母親―妹(次女)]など。相談事では母親抜きのトライアングル[長男―看護師(孫娘)―長女]といった場合もある。
こうしたファミリー・トライアングルの形成は、遠距離の感覚とか、役割分担の交替などによって、いわゆる要介護度を親和度にかえることもできるとおもっている。さいわい母は耳も達者で、携帯電話(かけ放題)を手放さずことなく主役の座におり、いまのところコーチングとアイ・コンタクトは滞ってはいないとおもう。
 ★
さて、先ごろK医師からメールをいただいた。
「母の疾患は新たな主治医に、わたしは母の老揺期を共に歩むことにしました。さいわい母は平穏に落ち着いています」と。

2016年6月25日土曜日

ホスピス・ボランティア(Ⅱ)   ホスピタリティ

ホスピタリティ
重兼芳子はボランティアの意義を「市民の日常感覚を尊重して下さった。医療を密室化せずに、市民の日常と結びつけようとされた」とした。この指摘について『風になって――聖ヨハネホスピスボランティア10年史』(社会福祉法人聖ヨハネ会・2000年)を手にしてみると、「(ボランティアは)生き甲斐(QOL)にふれた“社会の風”を吹き込んでくれる人」ということばで示されていた。そして重兼芳子が口にした「命の谺(こだま)」は「―10年史」では〈ホスピタリティ〉ということばに引き継がれていったようにみえる。
「〈友人〉と重兼芳子さんが書かれた患者さん、そのご家族、スタッフ、ボランティアなどが織りなす静かな微笑を含んだホスピスの空気。意図せずに出会い、瞬時のお別れをくりかえすホスピスで、いただく豊かな贈り物は謙遜と勇気、そして愛です。無償の行為であるはずのボランティアが喜々として活動できるのはこの出会いがあるから。その出会いを豊かなものにしている。それがホスピタリティなんです」。

ホスピタリティ(hospitality)、歓待、もてなし。鷲田清一によれば、歓特(hospitality)と敵意(ホスティリティ hostility)という二つの言葉はともに、ラテン語で客とか異邦人(敵)を意味するhospesから派生しているという。「他者をむかえ入れる、異邦人を歓待する。敵・味方の区別なく、いや異邦のひとであればこそ、手厚くもてなす。これは、相手をもてなすにあたって条件をつけないことである。それは看護の心であるとともに、ほんとは家族の心でもある」(『まなざしの記憶――だれかの傍らで』TBSブリタニカ)。
では、ボランティアにとってホスピタリティにはどんな配慮があったのだろうか。『―10年史』の座談会の発言から拾ってみよう。

「実際にここ(ホスピス)で死を迎えようとする方々が入ってくる時、その人自身とその家族にとってここは得体の知れない他人ばかりいる場所なのです。同時にその人や家族にとっても彼らは得体の知れない他人なのです。私がホスピタリティと言った時に意味したいのは、ここで出会うのがお互いに全く得体の知れない人であって、そうしたことをお互いに認め合うことから始まるケアやサポート、さらには人間関係といったことです。つまり、相手が思ったことが伝わらないということを、最初に認めてはじめて始まるケア、人間関係だとおもいます」

「実際、人間が生まれて来るときに、たった一人で生まれてくる事がないように、死を迎えるときもたった一人では迎えられないと思います。最後の最後まで他人の手を煩わせなければならない。そういった関わりを否定することは絶対できない。そうして、その人が生きてきた生き方を全うしようという時には、他人に身を委ねることができる、そういった信頼関係を築かなければおそらく無理でしょう。ホスピスというのは入ってくる人たちと信頼を結んでいく手段が、単にお医者さんと患者さんといった固定された関係だけではなく、もっといろいろな選択肢を用意することができる、そういう柔軟性を持った場所である。それがホスピタリティを有したホスピスだということが言えないでしょうか」

これらの発言には、知らない者同士が出合ってなお支えあう関係になることができる、実際にできたという歓びである。さらに注意深く押さえたいのは、医師や看護師や患者家族でもない、つまりそれらの関係に割り込むのではない3人目、あるいは3番目の力として支えられたこと。異邦人を歓待する。いや異邦の人であればこそ、手厚くもてなす。もてなすにあたってどんな条件もない。その〈ホスピタリティ) の根幹にふれているボランティアは、介護・看護のこころにいきつく。
もう一度重兼芳子のボランティア体験(『さようならをいう前に』)から引いてみよう。臨終が近いAさんの部屋に入ったときの様子である。

――優しい顔で静かに寝ていらっしゃる。で、Aさんの奥さまに「よく眠ってらっしゃいますねえ」と言ったんです。そうしたら「いや、眠っているんじゃなくて意識がないのです。 もう、呼びかけても聞こえませんしね。もう覚悟を決めました」とおっしゃる。わたしは半年近くお付き合いした方ですから、もう、なんか胸がこんなになっちゃって辛くてたまらないもんだから、手を握って、おもわず「わたし、あなたとお友達になってよかったで~す」といったんです。「この半年、あなたみたいな素晴らしい人に友達になっていただいてありがとうございました」って。「ご家族も、後のこともきちっとなさるから、安らかにお眠りくだざいね」と。
もう聞こえないって分かってて言ったんです。そうしましたら(Aさんは)涙をバーッと流されて、目じりのほうにながれるんです。奥さまもびっくりしちゃつて「お父さん、お父さん、聞こえたの?」って。(Aさんの)涙を二人で両側からふいてさしあげたんです。それで「さようなら。ありがとうございました」って。「わたしはあなたのことを忘れませんよ」って。

この情景は、患者―家族―医師という診療現場の構図ではなく、〈Aさんの妻―Aさん―ボランティア(重兼)〉の親密なトライアングル・ケアのかたちになっている。セラビストの鈴木秀子はそのひとときを「仲よし時間」と呼んでいる(『死にゆく者からの言葉』文藝春秋)。しかもこの親密な時間を呼び込むことができるのは必ずしも家族ではない。どんな話をしても動揺しない人、自分の気持ちをあるがままに受けいれてくれる人。それは友人だったり遠い親戚だったり、カウンセラーだったり、ボランティアだったりする場合が多いという。

ホスピス・ボランティア(Ⅰ)  重兼芳子のボランティア論


重兼芳子のボランティア
ホスピスには、医師、看護師等の医療者や心のケアを担当するチャプレンやセラピストら、それぞれ役割をもった人が関わっている。そのなかで貴重な役割をになう人にボランティアの人たちがいる。
ボランティアは病院や患者のお手伝いをする単なるスタッフではなくて、「ホスピスに参加しているのだ」という自覚をもって積極的に関わっている人たちのことだが、わが国のホスピス創生期に市民ボランティアが積極的に関わって誕生したホスピスに桜町病院聖ヨハネホスピス(1993)がある。ホスピス計画当初から院内ボランティアに参加した人に芥川賞作家の重兼芳子(19271993)がいる。重兼さんはこの間、欧米のホスピスボランティア取材をはじめ、自らのがん手術後も精力的にホスピスケアの普及に努め、ホスピス棟の新設完成を待たずに亡くなった。けれど、その間の活動は当時の著作レポートから垣間見ることができる(講演録『さよならを言うまえに』春秋社 1994)。

①「素人を病棟や病室に入れるということは医療者の側にかなり抵抗があったんです。だからこそ私たちボランティアは、何度も何度もミーティングを繰り返して医療者の邪魔にならないこと、医療に関してはいっさい見ざる聞かざる言わざるに徹すること、ホスピスの動きを見ながら、医療者の動きをみながら、けっして出過ぎないこと。とにかく慎んで、慎んで周りの動きを見ながら、身をひくことをさんざん訓練してきたんです」

「患者さんの中にはアーメンが大きらいな人もいらっしゃる。私たちボランティアも、ナースもシスターたちもいちばん自分たちに戒めていることは宗教色を前面に出さない。自分たちの思想信条を押しつけない。私たちは無であろう、そして、無である私たちが患者さんたちのかすかな表情と訴えかけを、ほんとに耳を澄ませて聴きとろうと、そういうことをずっとしてきました」

③「ナースたちのカンファレンスのさいに、最初に話し合うのは、入ってきた患者さんがいちばん大事になさっているのは何だろうということですね。その方は、きっと髪をいちばん大事にしていらっしゃるにちがいない。では私たちは、腰までのびた長い髪をきれいにしてあげようと。もう起き上がれない方でしたから、ストレッチャーにお乗せして浴室にお連れして、そこでお風呂専門の訓練されたボランテイアが3人一組で、ナースの指示で洗ってさしあげるわけですね。それこそ指の股の先まで、ほんとうにきれいに洗ってさしあげるんです。『きもちいい』とおっしゃっていただくと、うれしいですよ。私はお風呂のお手伝いは苦手なので、おやつ作りのほうをやっていましたけど」

ここには、ホスピスボランティアのポジショニングについて示されている。医療者に対しては何よりも素人であり、入居してきた患者にとっては陰の存在であること。その一方で、ボランティアとしては「入浴のプロである」とか「おやつ作りならできる」というように自分の役割と才能を登録するかたちでホスピスに参加するのだ。
ボランティアの任務を具体的にあげてみると、食事時の配膳や下膳、部屋や廊下やトイレの掃除、庭の水まきに落ち葉掃き。ナースステーションの受付や家族の案内、買い物に散歩の手伝いだったり患者の入浴やマツサージ、花の水かえにオルガン弾きだったり。今日なら介護福祉士の業務の一端と重なっているようにみえる。
医療の現場に市民を入れるということは、かなり大胆な決断を迫られることになる。その意味でボランティアは大きな責任を背負っていたというべきだろう。だから当初、重兼さんは、ボランティアという名称はなにか偽善めいたニュアンスを感じたという。けれど、2年ほどボランティア活動のルーティンをこなしながら仲間と接していくと「名称にこだわる必要はないことを知った」といい、次のような自信にみちたことばで記述されていく。(『聖ヨハネホスピスの友人たち』(1990 講談社)

〈私たちは医療者と違って、まったくの無力である。痛みや苦しみを緩和するすべを持たない、少しの役にも立たない存在である。そのことが徹底して知らされたとき、私たちは無心に素直に、あるがままに病者のそばにいるしかないと覚悟を決める。
ありがたいことに、私たちが自分の無力を徹底して知ったとき、生が光を放ちはじめるのを感じるのだ。いつのまにか今在ることの手応えを身に受けているのだ。ボランティアの一人一人が、生き生きと輝いてみえはじめてくる。
これはなんだろう、と私は目を見張っている。普通の暮らしをしている一般市民の人たちが、いそいそとベッドサイドに通ってくる。そして病者の喜びを喜びとし、苦しみを苦しみとしてともに寄りそって生きようとする。それが好きだから、というごく自然な思いで続けられてゆくのである。〉

ここにある言葉を押さえてみると、ボランティアの存在は患者とその家族の周辺にいる医療者などのスタッフとは異なるいのちにふれている姿がみえてくる。重兼芳子は「お別れした方々は一度も振り返ってはくださらなかった。…あなたと私を分けた生と死。その命の谺(こだま)が響き合う」という小景を伝え、ボランティアが聖ヨハネホスピスの誕生に関わった意義を「市民の日常感覚を尊重して下さった。医療を密室化せずに、市民の日常と結びつけようとされた」からだと述べている。


(この項は「ホスピス・ボランティア(Ⅱ)」に続く)

2016年5月31日火曜日

いのちの臨界 -最期の医療



治療中止の判断が「終末期」をつくる
「終末期」とか「終末期医療」は、病院で産まれ病院で死ぬという文字通りの医療社会になってうまれたことばである。
日本救急医学会は、治療中止の判断が必要になる時期を「終末期」としている。「医療の継続にもかかわらず、死が間近に迫っている状況」を指しているが、その判断は主治医と主治医以外の複数の医師により、客観的になされる必要があるとして、次の4つの場合を終末期としている。
①脳死と診断された場合
②生命が人工的な装置に依存し、生命維持に必須な臓器の機能不全が不可逆的な場合
③他の治療法がなく数時間ないし数日以内に死亡することが予測される場合
④回復不能な病気の末期であることが、積極的な治療の開始後に判明した場合
要するに、治療中止の判断が必要になったときが「終末期」ということになる。このとき患者は死の過程に導かれ、蘇生の道も断たれた状態になる。「終末期」とは延命・救命医療が極めつくした結果として出現したいのちのステージである。この段階での治療行為についてアメリカでは「医学的無益(medical futility)」ということばで語られている本を読んだことがある。医師の倫理から推し量ってみると、回復の望みがない患者に、医学的に無益な延命治療をずるずると続けることは「非倫理的である」というものであった。
けれど、この立場には医療資本と医療機関から導かれた医師の傲慢な論理が浮き彫りになっていただけである。

 「往きの医療」と「還りの医療」
わたしは、そうした病院化した社会に「いのち」という視点がいるのではないかと考えてきた。平均寿命が80歳を超える長寿社会のライフサイクルには往路と帰路がある、いのちには折り返し点があるというもの。成長期・成人期に相当する往きのいのちには「往きの医療」がふさわしい。脳死・臓器移植法に代表される先端医療をはじめとする救命・延命治療(医療)のあり方である。その一方で、人生を折り返したいのちの維持と還りのいのちを受けとめるにふさわしい「還りの医療」が応えるべきだと区別して考えてきた(『「幸せに死ぬ」ということーターミナルライフの発見』1998年)。
往きの医療がいかに死を遠ざけるかに寄与する医療だとすれば、「還りの医療」は、認知症を生きる老揺(たゆたい)期や、そう遠くない時点で確実に訪れるであろう死を受け入れるステージに寄りそう最期の医療(ケア)をさしている。
還りの医療は、死とその過程をいのちの深さとして肯定的に受けとめる眼差しがいるのはいうまでもない。

ちなみに、わが国で、還りのいのちへの対応が見えたのは2006年。富山県の射水市民病院で末期がん患者の人工呼吸器が取り外されたことが引き金になり、国や関連学会などで議論が加速し、相次いで指針ができた。国は2015年、指針の名称や用語について「終末期医療」を「人生の最終段階における医療」に変更し、「指針」では本人の意思を尊重し、医師らから適切な情報提供や説明に基づいた話し合いを重視することを原則とした。そのうえで「胃ろう」の選択をはじめ、人生最期の居場所をどこにするか(居宅、医療機関、介護施設)、意思表示が試されるなど、平穏死への道を遠いものにしている。私たちは臨死への眼差しをどんどん失っていくのだろうか。

 「臨界点」に向かういのち
在宅医内藤いづみさんが私との往復書簡(『いのちのレッスン』)でもらしたことばがある。
「赤ちゃんを産むときには、これが臨界点、ここを超えたら出産というのがあります。それと同じで、ぎりぎりまで生ききると、これ以上は生きられないという臨界点に死があるようにおもいます」
ここで生誕と死をいのちの流れで起きる出来事としてみている。産まれることと死ぬことは、(いのちの)臨界点ということばで往きと還りが重ねられ、一つになっている。
赤ん坊は、胎内(えら呼吸)で9ヶ月、臨界点からオギャーと一声、肺呼吸の世界に届けられ受けとめられる。いのちは往きの相でたちあがり成長期の姿を彩ることになる。やがて、老年期から死期に向かう。還りのいのちは「これ以上は生ききれない」という臨界点、自然死として送りだされ、温かく受けとめられている。とても示唆的である。それだけではない。内藤いづみさんは、臨界としての「死(寿命)」にはスピリチュアルな痛みをともなうことについても次のように語っている。

―たぶんそれ(痛み・註)は、「誕生」の苦しみとは逆の、「死」に行く道のりでの苦しみ、いわば、次のトンネルに入っていくための苦しみだと思います。ちょうど誕生の苦しみとして陣痛があるようなものです。無痛分娩と同じように無痛死にしてしまっていいの? と、心のなかで問いかけることがあります。産む力も、生まれる力も、死にゆく力も、本来、人に備わっているのではないかと感じるのです。

―そのような魂の痛みは医療が主導的に関われるものではなく、その人のものです。ではどうするのかといえば、それは、家族がしっかりと抱きしめるしかない。もし愛する人や家族がいなかったら、ご縁のある人たち、人生でめぐりあった友人たち、そういう人たちが撫でたり、声をかけたり、抱きしめてあげる。それしかない。赤子を「よしよし」となだめるのと同じです。そういうことしか、最期の痛みは緩和できないのではないかと感じています。(曽野綾子との対話『「いのち」の話がしたい』から)

いのちは、質を問わない。ただ、いのちの深さのなかで受けとめられるということである。



2016年5月4日水曜日

老いる、病いる。


―今年も桜をむかえました。そして、夫は(やま)いる身を全うしました。
お会いしたことはない。旧著『自然死への道』(朝日新書 2011年)を出して間もない、東北大地震の年の夏だったとおもう。読者からいただいた数少ない感想ハガキの一枚に「わたしは病いる身です」とあった。その後二度ほどハガキをいただいたが病状にふれられることはなかった。あれから5年、「病いる身を全うした」という連れ合いの方からの報告だったのだ。「病いる身を全うした」とは、なんとも見事なことば遣いだろうか。「病いる身」とは「病める身」のことではないからだ。以下、このことばにふれてみよう。
―老いる、(やま)いる。そして明け渡す― 
わたしはこの流れのなかで長寿・医療社会の「自然死」の可能性をさがそうとしていた。
「病いる」は「老いる」と同じ響き、同じスタンスをつたえている。「老いる」とは加齢とともに体が衰えていく、老化という意味ではない。「老いをいきる」ということ。老いに抗うとか老いと闘うというのではない。同じように「病いる」とは、もちろん患者としてがんと闘うとか、病気に抗うということでもない。誤解をおそれずに言ってみれば、「老いる」が「老いをいきる」ことであるように「病いる」とは病気を無条件に受けとめていきること、すなわち「病いをいきる」ということ。そして(死因を問うまでもなく)いのちを明け渡す。この流れのなかで、いのちを全うするすがたを「自然死」と呼ぼうとおもったからだ。
そのモデルになったのが、俳優緒形拳の死にふれたエピソードだった。

緒形拳からのメッセージ
緒形拳の遺作となったテレビドラマは『風のガーデン』(倉本聰作 2008年)だった。ドラマは膵臓がん末期の息子(麻酔科医・中井貴一)を自宅で看取る父(在宅医・緒形拳)という医師親子の葛藤と和解の物語だった。とりわけ印象を強くしたのは、亡くなる数日前の完成記者会見での元気そうな姿と、そのとき口にしたことばだった。「(このドラマを通して)病いる姿を見て欲しい」。わたしはここで「病いる?」と聞こえた。そしてメモしたことを覚えている。
緒形拳は亡くなる8年ほど前から肝炎をわずらっており、5年前に肝がんに移行した。けれど、家族以外にはその事実を一切口外せず本人の強い意思でその後もふだん通り、役者緒形拳を貫いたことをニュースは伝えた。緒形さんは病気でありながら闘病の姿をだれにも見せなかった。患者としての暮らし方をさいごまで見せなかったということ。そんな事実が「病いる」ということばと重なった。
「病む」でなく「病い」でも「病める」でもなく「病いる」。「やまい」を辞書で引く、あるいはパソコンで「やまい」と打つと「病」であり、送りのある「病い」は誤りであるかのように排除されている。しかし、病と病いは同じではない。「病」はdisease、文字通りの病気。病名があきらかな疾患・疾病をさすことばだろう。「病い」はillness。痛み等患者自身が実感、受けとめ方にかかわっている気がした。東北地方では「病いる」ということばがあるともきくが、ここでは俳優緒形拳のことばとして受けとめたかった。
彼は、あるテレビ番組で「老いる」ことにふれてこんな語り方をしていた。
〈芝居とか映画は現実の世界とちがい、いいかげんな、どうでもいい虚構の世界だからこそ、本気でやらないと虚構がドラマにならない…。でも、この歳になって老いの演技を考えると、演技することが演技しないことにつながるのではとおもうようになった。緒形拳という役者はヘタだねえ、下手になったねえといわれるようになるのが、わたしの理想(笑い)…〉
緒形拳はここで、老いること、病いることは人生を全うするに欠かせない、といいたかったにちがいない。

(やま)いる」という道
イヴァン・イリイチは老・病・死に向かって自律的に闘える基礎を健康と呼んでいた。つまり、医療の手助けが最低限しか行われない生き方がもっとも健康によいとした(『脱病院化社会』1978)。
けれど、いま医療機関・病院は病人を相手にする機関とはかぎらない。健診から検診へ、早期発見早期治療ということばがあるように、積極的に健康な人を招きいれ、病(disease)探しに余念がない。まさに健康の王国病気の王国に分ける機関になっている。
また、自らの乳がん体験からスーザン・ソンタグは「この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民となる」といい、誰しもがずっと健康な王国の住人でいたいとおもうが、早晩、病める人々の王国の住民として登録せざるを得なくなると述べている(『隠喩としての病い』1978)。
「病める人々の王国に移住する」とは立派な病名(がん)を手にし、患者として医療施設と医学用語の世界の住人になることだ。病の国の住人になったものは一日も早く治癒して、つまり患者の肩書きをすてて健康の王国に復帰したいと願う。けれど、がんのような病気は肉体の病気にもかかわらず、死を隠し持つ言葉のあや(隠喩)に足をとられ悩まされて、真の健康の王国へのパスポートを受け取ることが難しい。ではどうするか。悪しき病気観を一掃して「健康に病気になることだ」と語っている。

もう一つ、アーサー・W・フランクは『からだの知恵に聴く』のなかで「病いとは生き抜く体験のことである」といっている。彼も三〇代の心筋梗塞とがん体験から、人は患者になると「病気」の言葉の世界にのまれて、からだは病気が存在する「場所」のように扱われる。けれど、病いには生きるための希望や失望や喜びや悲しみの体験が力になっていくものだという。

これらのメッセージから、三つ目の国を「寛解の王国」と呼んでみることができる。病気が落ち着きおだやかになる寛解  remission ということばがある。ここでは、病気の国のことば(医療用語)や患者の国(医療施設)から解放されて、「健康に病気になる」あるいは「病いる身を全うする」居場所に赴くことができるかもしれない。長生きする時代、3人に1人はがんになるといわれる。けれど、がんは死に至る病ではなく、むしろがんとともに生きる王国と見定めることかもしれない。緒形拳の「老いる、病いる」という生き方はその範の一つになったのでは、とおもう。