2015年8月19日水曜日

〈100歳〉のメッセージ



10年ほど前、同年の芹沢俊介さんと『老いの手前にたって』という対話本(2002・春秋社)を出した際、老いることへの怯えや要介護者になる不安を率直に語り合ったことを覚えています。そして、老いの潮騒に足をとられるようになったら、もうろくを濾過器として、細かいものは通して重みのあるものだけが残るはずだ―。そんな自然態をぼんやり描いたのでした。
そのなかでもうひとつ話題にしたのが〈一〇〇歳〉でした。当時、一〇〇歳を超えた人は一万五千人ほど(そのうち食事も入浴も一人ででき、自分は健康だとおもっている人は約七割)。
〈一〇〇歳〉とは、老いという過程をクリアした人、長寿というより〈超寿〉という名称がふさわしい、そんな存在にちがいないということでした。そして今日、一〇〇歳を超える人は五万九千人(そのうち、女性が七八%・2014年9月現在)。さらに増えていくでしょう。

いま話題の美術家篠田桃紅女史(1913年生まれ)のメッセージが埋まっている『一〇三歳になってわかったこと』を採りあげてみます。
歳相応という言葉があります。「年甲斐もなく」とか「いい歳をして」とか、何歳でなにをするかが人の生き方の指標になっている。けれど、生涯独り身で家庭をもたなかった著者は答えています。
90歳代まではこまったときどうしたらいいのか、参考にする先人がいた。けれど、一〇〇歳を超えると前例はなくお手本もない。自らに由って生きている時間で、すべて自分で創造していきていくほかない。一〇〇歳はこの世の治外法権」だとあります。その日常世界を訪ねてみました。

1 達観して見ることができるようになった。
 「あれができたのにもうできなくなった、自分というものの限界を知ります。歳をとったから失っていくもの、もう得られないもの、それらを達観してみることができるようになりました」
2 過去を見る目の高さが年々上がってきた。
 「同じ過去が、一〇年前の九〇歳代といまとではずいぶん違ってみえます。自分の見る目の高さが年々上がってきます。いままでこうだと思っていたものが、少し違って見えます。同じことが違うのです。自分の足跡、過去に対してだけではなく、同じ地平を歩いた友人のこと、社会一般、すべてにおいて違うのです」
3 目の高さがかわると昔話が多くなる。
 「若いときはたくさんの未来と夢を見ていました。あそこに行きたい、あれを食べたい、こんな人にあいたい。しかし、長く生きると、自分の目は未来より過去を見ていることに気付きます。年寄りは昔話ばかりするといわれますが、他に話題がないからではなく、自分の見る目の高さが変わるから、自然と昔話が多くなるのだとおもいます」
4 片足はあの世にある感覚。
「自分というものを、自分から離れて別の立場から見ている自分がいます。高いところから自分を俯瞰している感覚です。生きながらにして、片足はあの世にあるように感じます」

一〇〇歳を過ぎて生きるとはどういうことか。自らの意思を超えて、「おのずからなる世界」に入っていく感覚だとあります。「片足はあの世にある」というようだともあります。すると、親鸞の自然のままにという「自然法爾(じねんほうに)」の教えに近いことに気づかされます。
 〈自然といふは、自は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず。……自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。(『末燈鈔』
この世にはおのずからという「自然」の働きがはたらいていて、それはわれわれの計らいではどうにもならないことであり、この世のことは善いことをしたから善い結果が得られるとか、悪いことをしたから悪い結果になるといったようなものではないといいます。親鸞はここで、「はからひ」を超えてはたらく「おのずから」という「自然」のはたらきに、われわれを救いとってくれる阿弥陀仏の働きを見ようとしています。

篠田女史(映画監督篠田正治氏は従弟)は、初めて身内の死に接した五歳のときから次々と姉弟、友人を失った(その経緯には触れられていない)。人は運命というものの前に、いかに弱いものか。若い頃から「身の程をわきまえ、自然に対して謙虚でなくてはならない」「人は傲慢になれる所以はない」と戒めてきたといいます。「いつ死んでもいいと自分に言い聞かせている」けれど、「生きているかぎり人生は未完」と受けとめているといいます。
「いまは、私より先に亡くなった人たちのことを、後世に語っておくことが私の義務かもしれない。また、もし彼らが生きていたらどうであろうと考えるのは、その人への供養なのかもしれない」
このさきに「息を引きとる」ということばを重ねてみると、親鸞にしたがえば仏に救いとられていく正定聚のすがたがみえます。ところで、『臨死のまなざし』や『日本人の死生観』などで知られる立川昭二さんは、息を「引きとる」には、息を「手もとに引き受ける」という意味と、息を「もとに戻す」という意味があること。さらにその先に息を「引き継ぐ」という意味があるといいます(『年をとって初めてわかること』)。
「息を引きとる」とは生と死は断絶ではなく、ものがたられる〈いのちの継承〉という日本人のメンタリティ(心性)の映しことばとして聴くことができます。

『一〇三歳になってわかったこと』もまた、いのち継ぐメッセージのひとつでした。

2015年7月31日金曜日

悼詞(とうし)



《人は死ぬから えらい どの人も 死ぬからえらい。
 わたしは 生きているので
 これまでに 死んだ人たちを たたえる。……。》

7月20日、哲学者鶴見俊輔さんが93歳で亡くなった。1960年代、いわゆる安保世代のわたしにとっては、3年前の吉本隆明さんの死(1924-2012)とあわせて“戦後”という指標の旗と幕が消えたことを確認することになったといえます。そして、その訃報を耳にして、すぐに本棚から探し出したのは、「私は不良少年だった」に始まる鶴見さんの自伝『期待と回想』ではなく、追悼文や弔辞を収めた『悼詞』(SORE 2008年)。上記の詩篇はその冒頭に掲げられていました。
《人は死ぬから えらい どの人も 死ぬからえらい》 このことばを口にして、大事なことを忘れていたという思いでした。人は誰もが死ぬことは知っている。いつか死ぬと思っている。けれど、目の前で死んでいくのはいつも私以外のだれかだということ。このおどろきから「わたしは (まだ)生きているので これまでに 死んだ人たちをたたえる」とつぶやいてみます。
すると、死者を悼むことばのうちに、生(いのち)のすがたかたちが凛として立ち上がってくるのです。

悼詞とは人の死をいたみとむらう詞。『悼詞』に収録された弔辞・追悼文は鶴見さんの交流の広さ深さを示す125人。作家、学者にとどまりません。銀行家の池田成彬(1950年没)からマンガ家の赤塚不二夫(2008年没)まで、ざっと410頁。どのページを開けてもいいのですが、たとえば、
「姉について 鶴見和子」(社会学者 1918-2006)の書き出しです。
死ぬ前に姉は私に言った。
「あなたは一生私を馬鹿にしていたんでしょう」
私は答えなかった。これから死んでゆく人に、いやそんなことはありません、尊敬していましたとおざなりのことを言うことはできない。
私は14歳のころ、東中野のカフェの女性としたしくなり、当時、津田塾の学生だった私の姉に手紙を託してもっていってもらった。私の姉は、私の委託にこたえて、学校帰りに、その手紙をとどけてくれた。
私の姉の介在によって、よい首尾だった。
こういう自分の利益のために、姉を使うことは、私の生涯、とくに、始めの五分の一において、しばしばだった。
その大恩ある人に対して死を前にして、何が言えよう。…(2006年)

ここには、場面の痛切(切実)さがそのまま悼詞になっています。そして、もう一人、岡部伊都子(随筆家 1922-2008)心に残るひとすじの生涯。わたしにとっても忘れがたい人なので、全文を引きます。

自分には病歴だけあって、学歴はない――。この言葉を遺して岡部伊都子さんは85歳の生涯を生きた。
心に残るひとすじの生涯だった。
1960年秋、神戸の「声なき声の会」で会った時から半世紀に近く、長いおつきあいだった。
もっと早く『おむすびの味』という著書を読んでいた。料理について書く人だとおもっていた。その人が、安保条約の強行採決に抗議する市民集会に出て、手を挙げて発言した。意外に思ったのだったが、後に彼女の生きた筋道を知ると、意外ではなくなった。
女学校2年で中退を余儀なくされ、後は1日の大半を寝て、本を読んで暮らした。小康を得て、婚約。その人は沖縄で戦死した。戦後、婚家を出て破産した実家に戻り、母との二人暮らしにはいる。ラジオへの投稿が放送され、それからは定期的に書くようになった。
岡部さんの文章はこのように特別の誕生をもった。敗戦から間もないころは、夏は戸を開け放ち、道行く人の耳にラジオの声が入ってくる時代だった。
「恋はやさし、と申しますが、そうでしょうか。」
道を歩く人の耳に、この書き出しが響くとき、その人は、一日の終わりまで忘れない。
そういう文体を、岡部さんは身につけた。病弱の生涯を、文章一筋に85年生きたのは、このたぐいまれなスタイルに負っている。
料理について、着物について書くこともあった。寺のたたずまいについて、山々の景色についても。
それらにも増して、彼女のこころには、戦争を受け入れることの出来ない婚約者を、そのとき理解することのなかった自分があった。沖縄は彼女の心に帰ってきて、去ることはなかった。戦争が終わって六十余年、彼女の中で燃え続けた炎は、消えることがなかった。
美しい人だった。その文章と面影は心に残っている。(2008年)

ここには、亡くなった人と生きている人の区別がありません。死者生者混ざり合って心がゆききしています。「悼死」の文章に共通項があるとしたら、人の死を契機にして書かれた掌編のにんげん論になっていることでしょう。

そして、もうひとつ。今回鶴見さんが亡くなった直後の『悼詞』では、以前ならほとんど気にもとめなかっただろう「あとがき」のことばが目に飛びこんできました。
「この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、86年にわたって傷つけた人のこと。そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる。 2008年8月18日 鶴見俊輔」

「悼詞」には、ひとを傷つけることなく生きていくことはできないという自戒もまた含まれているということです。合掌。

2015年7月15日水曜日

患者になること


病い(illness)は患者が医師のもとを訪ねるまでのものである。
疾患(disease)は受診のあと、患者が帰途についたときのものである。(作者不詳)

このフレーズは、病院で生まれ、病院(医療施設等)で死ぬ時代、つまり「病院化社会」を患者として生きる、その第一歩が書き込まれています。
患者は自分の病illnessについて物語る(ナラティブ)ために医師のもとに駆け込んでいます。最初にいつごろ心や身体の不調に気づくようになったか、どのような症状がはじまり、どのように進展して、結果として医師の相談しようとおもうにいたったかを説明したいわけです。ところが、医師は患者の病い(illness)の物語りをしっかり聴きとることはめったにありません。医師は平均すると患者の語り(ナラティブ)をたった18秒でさえぎる(平均しても28.6秒しか続かないとも、あるデータ)。
それだけ聴けば十分というのではありません。今日の医療社会はEBM(エビデンス・ベイスト・メディスン)を通して、つまり多岐にわたる検査や医療統計学等「科学的根拠」にしたがって、医師は患者の語る病いillness)を疾患(disease)の物語に移し替えて患者に語りかけることになります。つまり、病名をもらって医師のもとから帰途に向かったときから、血糖値や血圧等を気にする患者の生活に入ることになるわけです。
参考までに、EBM「科学的根拠に基づいた医学」(Evidence-Based Medicine)宣言は1992年アメリカ医師会雑誌に掲載されています。冒頭箇所は、「に基づいた医学は、直観、系統的でない臨床経験、病態生理学的合理付けを、臨床判断の十分な基本的根拠としては重要視しない。そして、臨床研究からの根拠の検証を重要視する。(津田敏秀『医学的根拠とは何か』岩波新書)

21世紀の医療社会。病気になる(患者になる)とは、診断を受けても「医学のことはよくわからないので、先生におまかせします」「先生の一番いいとおもわれる治療法でやってください」といった「おまかせ医療」ではすまなくなってきました。
1980年代半ば、もう30年前ですが長野県の総合病院で「患者が主役」「患者本位の医療」などを掲げて看護師たちといっしょに「入院案内(病院案内ではない)」を作成したことがありますが、その際、参考資料として病院から手渡されたのは「入院心得」でした。当時はこうした表記を異様なことだとおもう患者も医療者もいませんでした。
「患者との人間関係までを含めた医療学」の必要性を説く声(河合隼雄)がでてくるなかで登場したのが「患者学」でした。

『患者革命』の著者中島みちは次のように規定してみせました。
「患者の身体についての情報は基本的に患者自身のものであること。そして医療者は患者に対し、患者が自分の身体で引き受ける医療について理解し納得できるように支える務めがあること」
ここで患者革命! とは患者が医療を革命的に変えることなのか、それとも患者が変わることなのか。著者は「両方です」と言いきっています。患者の意識が変われば医療の現場の患者への対応も変わらずにはいられなくなる。また患者の立場に立って考える人が増えれば医療のシステムを患者中心に変えていくことができるのだというように。
患者学という表現について考えるとすぐ思い出される用語に、インフォームド・コンセント(informed consent)があります。医師会によって「説明と同意」と訳され、ながいあいだ医師が患者に同意を取り付ける手続きになっていました。

重大な病気に直面したとき私たちは医療者の前でどのような患者になればいいのか。
このような「病院化社会」の到来によって引き出されたのが患者学でした。『元気が出る患者学』(2003年)の著者(柳田邦男)は、病気と治療法について正しい知識と情報をもつこと。そのうえで、医師の前でどんな患者であるべきかを「診療の受け方10カ条」として提示しています。そのなかでは、「不安なときはセカンドオピニオンへの協力を求める」「自分の家族事情、仕事、生き方、死生観を伝える」そして「医療にも限界があることを知る」などが目を引きます。ことに「医療にも限界があること」。病気に勝てない時がくる。そのときに問われるのが死生観であり患者としての「生き方」だ。考える患者になってほしい、この一点が医学・医療学にない「患者学」の核心だったということになります。

医療社会はいまや三人に1人ががん患者になるといわれています。さいごに採り上げたい一冊は『がん患者学』(柳原和子・晶文社 2000年)。
柳原さんこそ「患者学」の命名者といえます。著者は、自身の五年生存率20パーセントと告げられた卵巣がんでの闘病体験からがん患者としての人生を考えた人でした。自らの治療のために5年、10年と長期生存をとげている患者を直接訪ね、抗がん剤治療の体験を聴き、栄養学から食生活までの記録を集め、がん専門医には質問を繰り返した600ページの大冊です。死と向き合いつつ「医療社会」を生きる患者の姿が浮き彫りにされています。さらに柳原和子さんは自らのがん再発日記のかたちで、がん患者として生ききった記録を『百万回の永訣』(中央公論社 2005年)として遺しました。過酷な記録を通してもなお、いかにいのちを自己受けとめできるのか、その問いが読後に突きささってきます。
(注)作者不詳。『ナラティブ・ベイスト・メディスン』(金剛出版)より


2015年6月28日日曜日

回生

リハビリ
数年前、ある雑誌から「リハビリ中の人に勇気を与える3冊」というアンケートに応えて挙げた本があります。一つは大島渚(2013年没)の『癒されゆく日々』(NHK出版)。大島さんは1996年2月に脳卒中を発症以来、入院、要療養、通院を通してのリハビリがそのまま日常化したかたちで生活が取り込まれていました。
本人にとってリハビリとはどんなものだったのか。たとえば右手が動かない。「麻痺している」と断定したいほどぴくりもとうごきません。しかし療法士に「これは麻痺ではありません」「それは失調した右手です」と言いきかされて療法を続けました。
つまり、療法士によるリハビリは、失われた機能を回復するというよりは「放置すれば退化してしまう身体機能をそのまま維持していくこと」に重点が置かれていることでした。大島さんは日々のリハビリ表現がそのまま社会復帰へとつながり、その後映画『御法度』を完成させたのでした。

二つ目は同じく脳卒中で死線をさまよった後帰還してきた免疫学者(能作者でもある)多田富雄(19342009)の『寡黙なる巨人』(集英社)。多田さんは2001年に仕事先で倒れ(脳梗塞)、重度の右半身不随、構語障害さらに嚥下障害に陥る。闘病生活については逐次エッセイ(「鈍重なる巨人」「死の中からの生」他)等で発表されました。
意識が戻ったとき、真っ先に死を願った。体は麻痺して寝返りもうてない。声も出ないから苦しさを訴えることもできない。舌が落ち込んで息ができないから、体を45度に傾けて寝ていなければならない。口からはなにも食べられず、体は何本もの管につながれていた。それでも大小便は出る。それをとってもらうのは地獄の苦しみだ。「強制的に生きさせられる者の受苦だ」とあります。
しかし、なんとか死地を脱したとき、「自分の置かれた状態」の受けとめの試練に多田さんはたちむかったのです。リハビリです。
―麻痺した右半身はもう元に戻るはずがない。医師の端くれだからそんなことはわかる。けれど、幸いかけ算も物の名前も覚えている。認識能力に異常はなかった。そうなら少しでも言葉が口にできるように、チューブからではなく口からものを食べることができるようにするべきだ。

はじめはベッドに座ることも、車椅子に乗り移ることもできない。人に抱えられながらリハビリ室に通う。口が利けないから、黙々と従うほかなかった。そんなある日、麻痺していた右足の親指がぴくりと動いた。予期しなかったことで半信半疑で、何度か試しているうちにまた動かなくなった。しかし、この事実は勇気を与えたのです。
「かすかな頼りない動きであったが、はじめての自発運動だったので私は妻と何度も確かめ合って喜びの涙を流しました。自分の中で何かが生まれている感じでした。…希望のあいまいな形が現れてきたような気がしました」(「鈍重なる巨人」)
ぴくりと動いた右足の親指から後遺症の現実を超えるいのちの源を感じ取ったのです。「体は回復しないが、生命は回復している。その生命は新しい人のものです」
「リハビリとは、単なる機能回復訓練ではない。生命力の回復、生きる実感の回復だ」
その後左手だけでパソコンを打ち文筆生活を送ることを可能にしたのでした。

関連して3冊目として多田富雄×鶴見和子の往復書簡『邂逅』(藤原書店・2003)を挙げました。社会学者(歌人でもある)の鶴見和子(1918-2006)さんは脳出血で倒れ運動神経は壊滅状態で左片麻痺の身体とともに11年現役として全うされましたが、その間多田さんと鶴見さんは病前には一度も相まみえることはありませんでした。
書簡の中で鶴見さんは、脳出血で倒れた後の自分の変化を「回生」という言葉にしてみせました。倒れた当初、まだ歩けないときには自分は死んだと思っていた。だが言語能力と認識能力は完全に残っていたので、自分は「半分死んで半分生きている、死者と生者がわたしのなかにともに生きている」そういう思いが続いた。そこに「歩いて回生の一歩をはじめる」リハビリへの展開があったのです。

鶴見さんはリハビリ訓練を当初は「回生の道場」と見て、「回生の花道とせむ冬枯れし田んぼにたてる小さき病院」と詠んでいます。しかし、病院を車椅子で出るわけにはいかない。歩いて出なければ。そんな熱い思いから「回生の花道」としたといいます。鶴見さんは書簡で多田さんに力説している。
1997年は、わたしにとって回生――本当の意味の『回生』元年になりました。そこで、それ以前と以後との違いを考えてみると、人間は倒れてのちにはじまりがある、決してそのままで熄むのではない。それは何かというと、人間にとって『歩く』ということは生きることの基本的な力になる。だから、もしその潜在能力が少しでも残っているならば、どうしても『歩く』ことが生きるために必要になります。わたしは、1995年に倒れたけれど、1997年に歩きはじめて、本当の意味での『回生』が始まったのです」

このように比較してみると、二人はリハビリテーションから独自なかたちで生命の源泉にふれていたことがわかります。
半身の自由と声とを失いながら脳梗塞から生還した多田富雄さんは「体は回復しないが、生命は回復している。その生命は新しい人のものです」というように。
そして脳出血から帰還した鶴見和子さんは、身体障害者として新しい人生を切り開く覚悟を「回生」ということばにして、こんな歌を遺しました。
感受性の貧しかりしを嘆くなり倒れし前の我が身我がこころ

この二人の巨人の肉声を通して、わたしは〈超寿〉ということばを受け取ったようにおもったのです。これは赤ん坊が直立歩行に向かい言葉を手にする(つまり、人間になる)満一歳までのバイタルパワーに匹敵する、生命意思のようなものにちがいありません。リハビリ訓練の何よりの力は、生への限りない意欲を高める〈超寿〉への刺激、揺さぶりにあるのです。さいごに多田さんのメッセージです。

「リハビリは単なる機能回復訓練ではない。心身に障害を負ったものの社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復、全人的復権である。ことばをしゃべる能力も直立二足歩行を回復することも基本的人権に属する」

2015年6月21日日曜日

アルツハイマー


アルツハイマー病の告知
この春、67歳の知人女性から「やっと第2の人生が始まるとおもったのに、認知症になった。アルツハイマー病です」とメールが届きました。認知症患者に同行したついでに検査の受けたというのです。まさかと、本人にも自覚症状はなく、簡易知能評価スケールでも27点(満点30点)。ライターとしての仕事になんの支障もでていない。ごく最近まで「告知」といえば、早期発見早期治療という立場からの「がん告知」をさしていました。

認知症といえばアルツハイマー病。高齢者の知的退行のもっとも多い疾患とされるもので、脳の萎縮と大脳皮質の老人班が特徴で症状が進行するといわれてきました。
この名称がひろく知られるようになったのは先進諸国が高齢社会を迎えた20年ほどのことで、そのエポックメーキングになったのは1994年、アメリカ合衆国元大統領ロナルド・レーガンの国民への次のようなメッセージからでした。
「先日、ある人からわたしはアルツハイマー病にかかっている数百万のアメリカ人の一人である、と告げられた。ナンシー(妻)と私は、私人としてこの事実を受け止めるか、あるいは世間に公表すべきか、決心しなければならなかった。そして私たちは、世間に公表することが重要だと感じた」(2004年6月5日死去)。
『ベン・ハー』でアカデミー賞に輝いた映画スターのチャールトン・ヘストンも「いまアルツハイマー病を患っている。もしあなた方の名前を思いだせなくなったり、同じはなしを繰り返したら、この病気のせいだ。ゆるしてほしい。役者としてこれまで恵まれた人生だった。わたしはまだ、あきらめないし屈伏もしない」と公表したのは2002年でした。

アルツハイマー病「第1症例」
アルツハイマー病とは、その特異症例を公表(1906年)した精神科医アロイス・アルツハイマーの名前がそのままつけられています。けれど、その信憑性はながいあいだ疑われていました。肝心の「第一症例」の記録が見当たらなかったからです。発掘(正確には再発見)されたのはレーガン元大統領の“告知”の翌年(1995年)、フランクフルト大学の病院地下の精神科書庫の奥からでした。
そのカルテは衝撃的な記載から始まっていた。
「あなたのお名前は?」
「アウグステ」。
「姓は?」
「アウグステ」
「あなたのご主人のお名前は?」「アウグステだと思います」
「ご主人ですよ?」「あっそう、主人の…」
19011126日にアルツハイマー自身が記載した第一患者アウグステ・Dの初日のカルテです(1901年といえば、第1回ノーベル物理学賞受賞者にレントゲンがいた)。   さらに3日後の記述もこうだ。
「ご機嫌はいかがですか」
「いつもと一緒です。いったい誰がわたしをここへ連れてきたんですか?」
「ここはどこですか?」
「さしあたって今いったようにお金がないんです。自分でもわからないわ、まったくわからないの、何ていうことなんでしょう、どうすりゃいいの?」
「お名前は?」
「D・アウグステ夫人!」
このような会話のやりとりに出くわすと、介護保険利用の際の要介護度アセスメント(記憶障害、見当織障害等の)と重なってくるほどそっくりです。
カルテの主はアウグステ・D。1850年5月16日生まれの鉄道書記官の妻、51歳。夫への不信から奇妙な行動をとるようになった。知人に対して恐怖心を抱く。家中のありとあらゆるものをどこかに隠し、あとで見つけることができなかった。アルツハイマーはそんな健忘症と病的な嫉妬の裏に特異な病気が潜むと考え、彼女が亡くなるまでの5年間毎日のように診察し詳細に記録し、そして死後に脳を解剖した。
その成果はその年の精神科医学会で「大脳皮質における特異で重篤な疾患の経過について」と題してアルツハイマー自身がスライド等をつかって発表した。会場には若き日のユングらもいたというが、質問もないまま見事に無視された。
この歴史的発表がなぜ注目されなかったのかは20世紀初頭の精神医学界の潮流と深く関係していたのはいうまでもありません。「第一症例」の発見者コンラート・マウラーはアルツハイマーの伝記(『アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡』(保健同人社)のなかでそのあたりも興味深く伝えています。

21世紀の病い
アルツハイマー(18641915)は、ベルリンの大学で精神病に脳病理学をとりいれた講義を聴いて「顕微鏡の精神医学」に関心をもったといいます。当時の精神医学には二つの潮流があり、もっとも力があったのは精神病の原因を心にもとめる精神派でその雄といえばいうまでもなくジクムント・フロイトでした。アルツハイマーはフロイトと並び“現代精神医学の父”と称された身体派の雄クレペリンのもとで精神病の解剖学的基盤の解明に取り組んでいたのです。けれど、脳を顕微鏡で覗いてなにがわかるのか、と学会ではまったく相手にされませんでした。関心がフロイトの精神分析のほうに集中していたのは当然でした。
しかし、フロイトに批判的だった師のクレペリンが、アルツハイマーの論文「大脳皮質の特異な疾患について」をもとに自身の教科書のなかで「臨床的解釈は現時点では不明である」としながらも、アルツハイマー病の名前をつけて分類し歴史上に刻印(1910年)したことです。

1915年、アルツハイマーが51歳で死去した際の弔辞・弔文でもアルツハイマー病にふれられることはなく、わずかに娘婿が「1906年、それまでに知られていない特異な疾患をアルツハイマーは詳細に記載した。大脳皮質に特異物質が沈着し、細繊維が太い束と叢に変化することがもっとも顕著な解剖的特徴である。今日われわれはこの病気をクレペリンにしたがい“アルツハイマー病”と呼んでいる」とふれただけだったのです。
病名として一人歩きしてきたアルツハイマー病の第一例「アウグステ・D」の詳細なカルテがコンラート・マウラーによって病院地下から発見されたのは80年後。そして「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断は誤りがなかった。彼が診断した患者アウグステ・Dは実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた」(1998年、フランクフルター・アルゲマイネ紙)と認知されたのです。

ざっと100年、精神科医アロイス・アルツハイマーは長寿の深淵をひらく病いを21世紀に届けたのです。

2015年5月25日月曜日

逝く力、看取る力



3年前、二人の在宅医のホスピス活動にふれた語らいと講演を一冊にした『病院で死ぬのはもったいない―〈いのち〉を受けとめる新しい町へ』(春秋社 2012)があります。
一人は山崎章郎さん(ケアタウン小平クリニック院長 東京)。「病院は死にゆく人の支えにはならない」と外科医の声を伝えた『病院で死ぬということ』(1990年)は、ひろく読まれ、わが国ホスピス運動の先駆けにもなりました。近年は東京郊外の半径3~5キロにしぼったエリアで医療・看護・介護等から子育てまで、ケアの循環と地域ネットワークが一つになる町づくりがすすめられています。
もう一人は福岡市で外科医から在宅医に転進してキャリア20年、『在宅ホスピス物語』(青海社 2011)の二ノ坂保喜さん(にのさかクリニック院長)。活動は多彩で、バングラディッシュでの医療ボランティア活動をはじめ、重度の障害児の一時預かりの場所として民家を改修した「地域生活センター・小さなたね」の開設など、「人権としてのホスピス」という立場にたって行動している医師でもあります。
本書は多くの読者のこころをとらえましたが、わたしが二人のホスピス医から学んだことは、「人はだれもが逝く力を備えており、また人はだれもが看取る力をもっている」ということでした。

逝く力について
山崎章郎さんはこんな語り口で話してくれました。
70歳の女性患者に、「Aさんはいまのご自分の状態をどんなふうに考えていますか」と聞いたんですね。そのわたしの問いかけに患者さんは言葉が詰まってしまったんです。しばらく沈黙があってそのうちに閉じた瞼から涙がにじみ出てきました。そしてか細い声で「余命いくばくもないと思っています」と応えてくださった。それで「余命いくばくもないと考えているんですね。そう感じているんですね」というと、患者さんは閉眼したままうなずきました。そこで「では、もし余命いくばくもないんだったら、これからどうしたいですか」と聞いた。その方は目を開けて「毎日孫に会いたい」と言ったんですよ。「え、どのようなお孫さんですか」ってわたしが聞いたら急にニコッとして孫の自慢話をはじめて「そういうお孫さんだったら毎日会いたいですね」って。それで、われわれの話を固唾を呑むように聴いていたご家族に「Aさんに、毎日お孫さんに会わせてあげてください」とわたしが言ったら、ご家族はほっとした表情で大きく頷いたんです。〉
山崎さんは、Aさんが死を受けとめようとしている場面に「逝く力」をみたのです。そして、この患者の逝く力を支えるために、お孫さんを引き合いにして、家族の「看取る力」が引き出されたのです。

看取る力について
二ノ坂保喜さんは「看取り」の力が立ち上がる場面をある情景から引き出しています。
〈肝臓がん・肝硬変の女性の方でしたが、吐血したんですね。余命があと1~2週間という方。そうすると家族がわっと集まって(動揺して)、もうこれ以上は無理だ、お母さんが倒れてしまう。だから、入院させましょう、入院させると安心だって(救急車を呼ぼうと)いうんです。入院させると安心って誰が安心ですか。自分たちが安心なんです。もう少し突っ込んで「じゃあ本人にとってはどうですか」と問います。「病院に行っても、病気そのものは治らないので症状は変わらない。でも病院にいったらどうなるかっていうと、患者さんにとっては家族から離されるという孤独を背負わされることになります」〉
二ノ坂さんはそこで、家族にこんな訴えをしてみます。「入院するのは治って帰るために入院するんですね。でもいま入院すると家族から見放されて孤独のなかで死んでいくために入院することになります。吐血などには私たちがちゃんとします。最期まで必ず対処します、いまはお母さんの一大事なのだから、少し無理をしてでも、皆さんおかあさんのそばにいてあげてくれませんか」と〉
ここで家族みんなの看取る力が一つになり、「逝く力」の支えになっていったのです。
この二人の語り口からは、これまで千人を超える人を看取り見送ってきた市井医ならではの、深い洞察とその立ち位置からの配慮が伝わってきます。
あらためて「人は〈いのち〉を受けとめる力をもっている」ということを教えられたのでした。

[お知らせ]3人の会が発足しました。
数年来「ホスピスは定着したのか、これでいいのか?」という問題意識を共有するようになっていた3人(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)が3年前(20121229日)、大阪に集まって語り合った4時間の内容を主にまとめたのが『病院で死ぬのはもったいない』でした。出版後には、日本ホスピス在宅研究会長崎大会、日本死の臨床研究会年次大会(別府)等でも3人で語り合う機会がありました。各地で運動体のような集いができたらと考えて、今年の1月11日、二ノ坂保喜さんの日本医師会赤ひげ大賞受賞記念祝賀会の席上、「3人の会」発足を宣言しました。
3人それぞれの経験や考えを各地で披露し、地域の在宅医・ホスピス運動家と共に語り合い、地域の人たちといのちを受けとめる運動を定着させることができればと考えています。現在、福岡県宗像市(9月)、佐賀県(8月)などから声をかけて頂いています。先ずは直近の6月14日(日)、「大和生と死を考える会」22周年記念講演会のポスターを添付しました。午後の4時間を割いて3人の講演とシンポジウムを予定しています。


2015年5月12日火曜日

せわぁない(世話ぁない)


大河ドラマ「花燃ゆ」を観ながら、ほぼ毎回出くわしたセリフに「せわぁない」があります。とくに吉田松陰の母親である滝が口にします。松陰が脱藩や建白書、密航そして投獄といった破天荒な行動を続けるなかで、韻を押すかのように「せわぁない」ということばが笑みとともに飛び出す。その絶妙の間にはしばしば感服します。
「いいセリフだなあ」とおもいます。人のふるまいと場面がこの一言で和むのです。
「せわぁない」は、「気にかけなくていい、心配はいらない」あるいは「大丈夫、大したことはない」というニュアンスで使われる長州ことば(山口県)になっていますが、実は私が生まれ育った奥出雲(島根県)でも、よく耳にした馴染みのあるものでした。
「せわぁない?」「せわぁないがねー」
弱虫だった子どもの頃、母もまた、わたしの前で何度か口にしたことばだったのです。

「世話」「世話をする」といえば、介護、介護する。面倒をみる。Take care of …。
「世話を焼く」もあり、「世話になる」や「世話が焼ける」に「世話がない」など、私たちは「世話」ことばのなかで暮らしています。
「せわぁない」とは「世話ぁない」。世話をしたり、世話になったりがないこと。けれど、「世話」が閉め出された、かといって、見放さない。手放さないで配慮がなされている様子であり、関わりとして見えてきます。
もし「せわぁない(世話ぁない)」という環境が整えられたら、世話にまつわる規範や約束事を打ち消した新鮮なコミュニティが誕生し、福祉社会が成就したといえるかもしれません。

「ぼけてもいいよ」
「せわぁない(世話ぁない)」に匹敵する環境を介護現場でみつけることは出来ないでしょうか。そのヒントになることばに「ぼけてもいいよ」があります。
福岡市内で早い時期(1991年)に「ぼけても住みなれた町で、普通に暮らしたい」という人たちのケアに取り組んで誕生した「宅老所・よりあい」(代表・下村恵美子)。実はその第2宅老所所長村瀬孝生さんの『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社 2006年)という“名著”に由来します。毎朝10数人の人がやってきて身を寄せ合って一日をすごす一軒の民家ですが、ここには不思議なことに「世話をする」という介護の構えがまったくみえません。訪ねて気付いたのはまさに(ぼけても)せわぁない(世話ぁない)」という解放区にみえたことでした。
そんな環境をつくりだしたエピソードのひとつ、〈湯飲みをキャッチする営み〉という見出しのついた一文をあげてみます。

次郎さんはよく物を投げた。言葉を失いかけていた次郎さんは、「アアアア~ッ」と奇声を上げながら、目についたものを手当たりしだいに投げるのだ。
それぞれが自宅から集い、「おはようございます」とあいさつを交わしながら席につく。のどが渇いていようがいまいがとりあえずお茶をだす。そのお茶の入った湯飲みを次郎さんは投げる。

チョロと湯飲みに口をつけ、すすったか否か、その瞬間に「アアアア~ッ」と声をあげる。そして湯飲みが放たれる。湯飲みから飛び出すお茶は周囲を水浸しにしながら大きな音を立てて座卓の上に落下し、転がる。
のけぞる人。逃げる人。「なんなっ! そげなことをしたらいかん!」と烈火のごとく怒る人。「あ~あ」と消極的な非難の声をあげる人。あたりは騒然と化す。

僕たちは葛藤した。お茶を差しだせば必ずそれを投げることは目に見えている。だからといって次郎さんにはお茶を出さないと結論づけるのはあまりに差別的。第一、このままだと次郎さんが孤立する。
湯飲みを投げないように職員が阻止すると、次郎さんの興奮はさらに加速する。どうしたらよいものか。

ある日のこと。次郎さんはいつものように湯飲みを投げた。職員はその湯飲みを落としてなるものかと、決死のダイビングで上手に受けとめたのだ。すると周囲は「よくやった」と歓喜に包まれた。投げることへの非難から受け取ったことへのよろこびへと、場の雰囲気がとってかわる。
この日を境に、僕たちは阻止するのではなく、うまく受け取ることに専念することにした。投げる人と受け取る人がいることで場は大いに盛り上がった。
その次郎さんも、最近は湯飲みをなげない。すっかり落ち着いてしまった。投げる人がいないので場がちっとも盛り上がらないのだ。

村瀬さんは、このエピソードを通して『呆け』の多くは孤独であること、あるいは孤立していることが原因のひとつではないか、というのです。「よく分からないものを分からぬままに、あえて立ち入ることなく添い続ける。意味のある無しにかかわらず、それを受け入れる余白が社会にあることだ」と。この「余白」こそが、「ぼけてもいいよ」と「せわぁない」という環境を一つにしているようにおもいます。

この4月、新設の特別養護老人ホーム「よりあいの森」(3ユニット・28人)のボスになった村瀬さんは、それぞれのユニットの名前が「ばんざい」「わっしょい」「あっぱれ」に決まったことをうれしそうに話してくれました。命名は最初に入居してきたひとの第一声が「ばんざい」だった、そして「わっしょい」「あっぱれ」と続いたからだといいます。

「せわぁない」という声の主はだれなのかをよく熟知している人の笑顔がそこにありました。