2015年3月22日日曜日

メメント・モリ 東日本大震災のいのち


3,11東日本大震災のいのちことば
先に紹介した俳優杉良太郎の「このカワイソウを分けてもらわないと、生きていけない」ということばを聞いた直後から、わたしは揺れる余震の大きさに合わせるようにテレビ映像や新聞・週刊誌等から耳目にふれたかぎりの「このカワイソウ」を探したようにおもいます。そのおり、拾い書きした「ことばメモ」が残っていました。
今回、あらためて「このカワイソウ」を拾い出してみると、「メメント・モリ(死を想え、死を忘れるな)」ということばに変換できることに気付きました。

①「すり抜けていっちゃったんです。抱きしめようとおもったのに…。あのとき、しっかり抱きしめていたら…この胸にちゃんと抱かなかったから」(3歳の女の子を失った母親30歳・女川)

②「津浪に追われて必死に逃げたのさ。ずいぶんたって電柱にしがみついていた。あのとき死んでいりゃ、いまみたいなかなしい目にあわなくてすんだのに」(40歳 知的障害者 お風呂場で 石巻)
 
③「ランドセルはみつかった。ほら、名前がかいてある、××って。でも、まだ帽子がね…。入学式に履いていく靴がね、まだなんです。箱にはいったままだから。きれいなままだとおもう」(不明になった子どもの遺体をさがしている父親)

④「親父の『助けてくれ』という声がきこえた。でも、波にのまれていく瞬間だった。目があった。そのとき、助けられなかった。あの親父の目が一生忘れられない」(老人ホームに父を迎えにきていたという50代の男性・南相馬市)

⑤「おれたち、これから逃げるから。おばあちゃんはこれを喰って生き延びろ」と息子夫婦がおにぎり三つもってきた。「おめえたちは逃げろ。おれはじいちゃんの位牌をまもる。ここで死んでいく。こんなとき、おれは生きていちゃいけねえ」(原発20キロ圏、小学校の避難所で。おばあちゃん、86歳)

⑥「よかったー。父と母がみつかって。いっしょに見つかってよかったー。家の中で死んでいてよかったんだよ。家で死にたい、いっしょに死にたいと仲がよかったから。それに…いつになるかわからないといわれていたのに、25日に火葬がきまって、ほんとうによかった」(3週間後に自宅の瓦礫の下から両親を発見した男性34歳)

⑦「噂を追って息子のゆくえをさがしたよ。ヘリで運ばれたって聞いて病院にも歩いていった。噂があるうちはよかった。さがす道がなくなっても安置所には行けなかった。息子から〈無事か?〉(3月111517分)と携帯メールがあったのに、おれは気がつかなかった。ぶじだと返事してないから。ずっと」(3月30日海近くの遺体安置所で「息子だとわかるくらい、まだキレイだった」と父親)

⑧「中にはいると三百個くらいの棺がずらっとならんで、その一つ一つが顔の部分だけ、透明の板になっていて、その下に生前の顔写真と名前が書かれた紙がはってあるんです。探したら、顔が叔母さんの棺には『女』『不明』とだけ書いてあった。(遺体安置所に親戚のおばさんにお線香をあげるためにいた女子高校生。16歳)
 
⑨「人はひとりもいない。動いているのは犬や鳥。人の気配を感じるとすごい勢いでせまってきた。人間の手らしきものに群がっている鳥を追い払おうとしたが、ふっと放射能汚染のことが頭をよぎり足がすくんでなにもできなかった」(原発・半径20キロ圏内に入った40代の避難民男性)

⑩「親父が亡くなったのは3月14日午前5時12分。死因は『肺がん』とだけ。ほんとうに肺がんだったのかねとおもうけど、でも死亡診断書から推し量ると担当医が看取ってくれたんでしょうね」(遺体のまま3週間放置されていた父親の死亡診断書を受けとった男性)

ここに集めた“ことば”からは、祈りにちかい言葉を見つけながら、あらためて「メメント・モリ(死を想え)」をめぐらすほかありません。東北地方はしばしば大津浪に襲われ、記録されていますが、陸中遠野の伝説119篇を聞き書きした柳田国男の『遠野物語』(1910・明治42年)にも「先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻子を失い、生き残りたる二人の子とともに生き残った男」の伝承譚(99)として記載されています。「先年」とは2万人をこえる死傷者を出した三陸地震の大津波(明治29年)を指しているかもしれません。そうなら、そこから100年、いのちのリレーにふれたことばもありました。

⑪「かあちゃんと息子と両親を津浪でなくしました。学校へ通っていた娘だけ助かった。明治の三陸地震のとき先祖は海の近くで家が流され、同じ場所に家を建てましたが昭和三陸地震でまた流されました。それから、今度は海岸から2・5キロ離れたところに家を構えたのに今回も津浪に流されました。明治のとき僕のばあちゃんは8歳でひとり助かって家系をつないでくれました。今度は20歳になったばかりの娘だけが助かったんです。生き残ったものはしっかり生きないとね」(父親58歳 陸前高田)
(註 採りあげた①~⑪は3.11以降1ヶ月ほどのあいだに、テレビニュースやドキュメント番組、他に朝日・読売・日刊スポーツ新聞等からメモしたもの)


2015年3月12日木曜日

カワイソウ 東日本大震災のいのち


カワイソウを分けてもらう
東日本の大震災、4年目の3.11。それぞれの人にとっての3.11
目の当たりにした巨大津浪。安全神話を木っ端みじんに打ち壊した福島原発による被曝…。3.11からひと月たった4月13日、ある仕事で出掛けた京都でのこと。知恩院山門前でタクシー運転手に「お客さん、どちらから」と声をかけられ「東京から」と返すと、「逃げてきたのですか」と問い返され、ドキリと心が揺れたことを覚えています。時間は駆け足で過ぎていますが、私には未だに現地へ足をはこぶ機運(勇気)がやってきません。

3.11以降しばらくはテレビ画像に釘付けになりました。けれど、事態がみえない不安に苛立っていたと思います。「がんばろう、日本」とか「お見舞い申し上げます」とか、「きづな」とかいうことばが画像にもあふれるようになる前にテレビ画像からおもいもよらないことばが聞こえました。
「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけないんだよ
咄嗟のことで声の主がわかりませんでした。すると「杉良太郎」と縫い込まれた緑色のよれよれジャンパーの背中が映りました。杉良太郎さんはイスに座って炊き出しの最中で、貌の表情はみえません。たんたんと豚汁をお椀に移す作業をしており、その手を止めることもなくカメラ目線もなく、どうやら視聴者にむけて用意されたメッセージでもない、ひたすら自らに言い聞かせるような呟きことばだったのです。けれど、このことばがわたしの脳天を撃ったのでした。
ここで、「カワイソウ」とは無傷の対岸から被災地の悲劇にむかって「(あの人たちは)かわいそう」とつぶやいていることばではない。また、被災を受けた人たちの不幸をその身になって「かわいそう」と口にしてみせた同情や憐れみのことばでもない、不思議な呟きでした。この杉さんのことばを聞いて「あれは役者ゆえの台詞だよ」と一蹴した人もいましたが、もしそうなら、「杉良太郎は一級の役者だ」といいかえてもいいのです。

「カワイソウをわけてもらう」とは、4年たったいまでもその評価はかわりません。気付いたのですが、ここで「カワイソウをわけてもらう」とは同情から慈悲へ飛翔していく宮沢賢治が包摂してみせた世界と通じ合っているようにおもいます。
慈悲について。玄侑宗久氏は「助けようとは思わなくても自然に月光のように放散しだれもが浴する力そのもの」といっています。あるいは「慈悲とはからだから自然に放散する振る舞い、協調性のような気配」とも(『慈悲をめぐる心象スケッチ』)。
そうだとすると、「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけない」ということば(と杉良太郎さんの姿)は、被災者の困難を受けとめようとする慈悲と、その被災の哀しみを抱きしめ救済しようとする慈悲がない交ぜになって聞こえていたともいえます。
わたしの記憶ではこの「カワイソウ」を耳にして間もなく、わき出したかのように宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を口ずさむ声が周辺から聞こえてきました。それは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という賢治の慈悲の深さと重なっていたのです。

知られているように東北三陸地方は明治以降100年の間に2度3度の大地震と津波に襲われました。賢治は1896年(明治29)6月三陸海岸に大津波で2万1千人の死傷者が出た2か月後に岩手県花巻町に生まれています。その年の7月と9月には大風雨が続き北上川が増水し、夏になっても寒冷が続き稲は実らず赤痢や伝染病が流行しています(宮沢清六『兄のトランク』)。しかもこの天災はまるで賢治の生涯に合わせるかのように生まれた年から37年後の1933年(昭和8)、再び三陸海岸に大津波が押し寄せ死傷者3千人を出した震災の半年後の9月に賢治は亡くなっています。
「雨ニモマケズ」が黒い手帖に書き留められたのは、亡くなる2年前(11月3日の日付だけが横書き)。遺言をしたためるほど体が衰弱していたころでした。信仰が深かった賢治の慈悲のことばの集積地。誰もが諳んじてきたものです。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌トスコシノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨク ミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萓ブキノ 小屋ニイテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ 北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ ミンナニ デクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ

この最終節「ウイウモノニ ワタシハナリタイ」という賢治の願望に「カワイソウ」が回収され救済されているのがわかります。それは「ほんとうのさいわいを探しに行こう。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んでいこうね」というジョバンニの声(『銀河鉄道の夜』)と重なってもいます。(この稿は次回に続きます)


2015年2月26日木曜日

アイ・コンタクト 後藤健二さんの死(続き)


フリーランスという死に方
後藤健二さんの人質事件が判明した直後に朝日新聞の「天声人語」はこんな語り口で始めていました。
『戦争や紛争のさなかで取材するジャーナリストは、様々な危険に出くわす。敵意を持った相手もいる。1960年代、「泥と炎」のベトナム戦争でまず名をあげた日本人カメラマン岡村昭彦は、笑顔が大事という持論を持っていた。「世界のどこへ行っても、相手が拒否できない笑顔を自分がもっているかどうかで、生き延びられるかどうかまで決まる」と。しかし、その笑顔も、相手が狂気じみていては、いかんともしがたい』(121日)

岡村はたしかに「相手に拒否されない笑顔(とアイ・コンタクト)」は、文化圏の異なる地域に足を踏み入れる際のフリーランサーのたしなみだといっていました。また、アフリカの戦争取材でアジア人として最初に取材した1968年のビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)では「笑顔も猛獣には効かなかった」と笑い話にしたことがあります。
その岡村が亡くなって30年、もし生きていたらフリーランスの戦争写真家の先輩として後藤健二さんの死について、どう語るでしょうか。すると即座にわたしの耳に「(後藤さんの死は)不注意な死」という声が聞こえてくるのです。

「不注意な死」とはどういうことでしょうか。
岡村は戦場取材の当初、一本のたばこは兵士を和ませ、うち解けあうのに欠かせない「笑顔」に次ぐアイテムとして重宝していました。ところが、たばこの煙と臭いが一瞬のうちに戦闘の標的にされた例をあげました。
「弾丸の飛びかう戦場の姿を、そのまま世界中の人に送りとどけ、戦争の無意味さを訴えようというのだから、いつかは死に見舞われるであろう。だが、その危険なしに戦争の報道はできない。私はこの戦場の取材が、どのような条件でも可能なように、からだを鍛え、経験を重ねてきたつもりだ。だが、従軍記者として、未熟のまま死ぬのはいやだった。そして、未熟のほうが死の危険率はたかい。ちょっとした(・・・・・・)不注意(・・・)が死に直結したのを私は何回も見てきている」(「ラッキー・ショット」から)
彼にとっては予測を超えた思いがけない死もまた、不注意な死なのです。

岡村はその後も、行方不明・死亡説が流れたほどの危険な地域に足を踏み入れました。南ベトナム民族解放戦線の捕虜収容所に53日間も収容されましたが、当時の副議長との貴重な会見にも成功しました(1965)。入国取材禁止明けの5年後にはベトナム戦争中最大の侵攻作戦(1971)に単独ルートで従軍し“証拠力の強い”写真によってアメリカ軍撤退を「LIFE」誌にスクープしました。この間の取材ではライフ誌カメラマンのラリー・バローズを始め沢田教一、嶋元啓三郎ら多くのフリーランスカメラマンの死が伝えられましたが、このとき、岡村は彼らの死を「不注意な死」だと言いきり、「私も(戦場で)死ぬときは不注意で死ぬだろう」(「フリーランス・ウオー・フォトグラファーの死」1972年)と記しています。
ここで「不注意な死」は、戦場カメラマンとしてのスキルに留まらないフリーランサーとしての生き方を律する自らへのきびしいいのちことばになっていました。

戦争写真家といえば、著名なロバート・キャパ(1913-1954)がいます。スペイン戦争から第二次大戦へ。「敵弾に倒れる義勇兵」は戦争写真の決定的なイメージをつくりました。近代戦争の戦場を「画家のカンバスのように記録した」(ジョン・スタインベック)というキャパもインドシナ戦争の渦中の1957年、ホー・チ・ミンがディエンビエンフーの要塞を陥落させた直後、ベトナムのメコン・デルタで地雷原にふれてあっけなく死亡しましたが、ここでも岡村はキャパの死は第2次大戦後の戦争を見誤った「不注意な死」と断定していました。
地雷原が出現するのは第2次大戦後、核戦争が危惧される時代の高度なゲリラ戦争に呼応した兵器の一つでした。ヘリコプターが戦場に出現するのはその後間もなくのことです。つまり、地雷原を踏んだキャパの死は広島・長崎への原爆投下後の高度化した戦闘戦略を見誤ったか見逃したがゆえの「不注意な死」という見解だったのです。

では後藤健二さんの死はどうだったでしょうか。岡村がいう「不注意な死」を振りかざして断定しては21世紀の歴史認識を欠くことになりそうです。なぜなら私たちが立ち会ったのは、情報ネット社会を戦闘ステージに見立てた戦慄と恐怖を戦略にしたかつてないものでした。しかも、戦場とはいえ私たちの日常生活の事件として反映させたことです。とはいえ、世界地勢図のなかの中東アラブ諸国の現実を垣間見ることもできないのです。
けれど、後藤さんの死を文字通りの「人質としての死」とみるとどうなるでしょうか。すると、長い間世界史に登場しなかった宗教国家が台頭し突出してきた構図はみえます。つまり、イスラム原理主義という宗教的な迷妄と欧米の文明史的な略奪が正面から向きあった姿です。そのクレバス・裂け目に無辜(むこ)の人が宙づりにされ、取引の対象にされたのではないか、それが後藤さんの姿だったのです。この死を蛮勇の死とは、誰もいえないはずです。

後藤さんの本『ルワンダの祈り』や『ダイヤモンドより平和が欲しい』、前回引用した『もしも学校に行けたら』からは、死線をこえて手にした光景が示され、そして後藤さんの語り口や眼差しは未来を信じる少年や少女に向けられていることでした。後藤さんのつぶやきをひろっておきます。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟だった。」(2010年9月7日のツイッター『週刊朝日』2/22より)
「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人のおろかさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸を締め付けられる。声を出して、自分に言い聞かせないとやってられない。」(201012月1日のツイッター『週刊朝日』2/22より)


2015年2月14日土曜日

フリーランサー 後藤健二さんの死


フリーランスという生き方
フリーランス・ジャーナリスト後藤健二さんがイスラム国によって殺害されて間もなくの2月4日、政府自民党の高村正彦副総裁は、後藤健二さんのシリア入国は「どんなに使命感が高くても、真の勇気ではなく蛮勇(向こう見ずの勇気)といわざるを得ない」とコメントしました。さらに「亡くなった方にむちを打つためにいっているのではない」「後藤さんの遺志を継ぐ人たちには、細心の注意を払って蛮勇にならない行動をしてほしいからだ」というダメだしをしていました。

この発言にわたしは同感も同意もできませんでした。なぜなら、こういう物言いができる(あるいは、同意できる)人は、危害が及ばない、安全な場に身を置いている人に限られるだろう、そう思うからです。もうひとつ、後藤さんの行動はフリーランス・ジャーナリストとして逸脱していたのでしょうか。なによりも後藤健二さんの死は蛮勇死ではなかったとおもうからです。

新聞・テレビ等の会社組織のジャーナリズムに所属しているスタッフ記者なら、イスラム国の中枢のゾーンに派遣されることはありえません。危険だからです。元NHKのジャーナリスト池上彰氏は面識のあった後藤さんの行動に関連して語っています。
「…NHKだけがバグダッド支局を維持しましたが、民放はみな撤退しました。それでも、現地の映像やリポートが欲しい民放が頼ったのが、後藤さんのようなフリーランスという微妙な立場のジャーナリストでした。フリージャーナリストなら、会社の責任ではなく『勝手に』紛争地に行って、『勝手に』取材してくれる。すべてのリスクを彼らに背負わせて、何かあったら自己責任というわけです。そういう世界で生きている後藤さんだからこその判断ですね」(『文藝春秋』3月号 佐藤優氏対談「イスラム国との『新・戦争論』から」)

ランスlanceとは槍のことで、ランサーとはその槍をもって闘う中世の槍騎兵。フリーランサーあるいはフリーランスとは自由騎士。槍一本とそれを扱う技術と戦場体験に勇気を元手に自分を必要としている領主と契約するプロの騎士ということになります。
フリーランス・ジャーナリストで、戦争報道写真家の先駆者といえば、1960年代のベトナム戦争取材で知られる岡村昭彦(1929-1985)がいます。岡村は「二度と武器を持たぬと誓った日本人の一人として、私が戦場にもってゆく武器は、ちいさなカメラだけだった。カメラが、私の武器だった」と述べていました。殺し合う戦場でのジャーナリストの武器をカメラに見立てました。彼はたぶんに倫理的な動機からフリーランサーとして戦争を記録(「南ヴェトナム戦争従軍記」)したのでした。

では後藤健二さんはどうだったでしょうか。わたしが見た数少ない後藤健二さんの取材映像で明快だったのは主語が常に「わたし」であり、「わたしの視線」としてメッセージが届けられていたことです。また、著書等からも、後藤さんの資質からくるフリーランサーとしての生き方が十分に見て取れるものでした。
中東を取材した、比較的早い時期の『もしも学校に行けたら アフガニスタンの少女・マリアムの物語』(汐文社)から拾ってみます。
『「対テロ戦争」「テロとの戦い」とわたしたちがまるで記号のように使う言葉の裏側で、こんなにたくさんの人たちの生活がズタズタに破壊されていることを、知らないでいたのです。あるいは知らせずにいたのです。自分は、いかに盲目的だったかと激しく自分を責めました。アフガニスタンの戦争は、まったく終わっていません。それどころか、世界を巻き込んで広がっています。その中でわたしたちにできることは、さまざまな方法で、彼らに手をさしのべ続けることなのではないか、そう思います』

あらためて、後藤さんもまた、ひたすらにフリーランスの道程を歩むほかなかった人であることがわかります。(この稿は次回に続きます)

2015年1月31日土曜日

99歳 老ジャーナリストの杖


昨年、「岡村昭彦の会」※で、久しぶりにむのたけじさんの講演を聴く機会を得ました。「岡村昭彦の写真―生きること死ぬことのすべて」と題した岡村昭彦没後30年目の大回顧展(東京都写真美術館)を前にした集いで演題は「昭彦君が生きていたら」というものでした。
むのたけじ(1915年秋田県生まれ)さんといえば戦争期に朝日新聞記者としてジャワ戦線の従軍記者等に携わった人ですが、1945年8月15日戦争責任をとるかたちで30歳で退社、1948年には秋田県横手市で週刊新聞『たいまつ』を創刊し主幹として健筆をふるい、休刊(1978年)後は一般民衆の立場から国家権力の横暴に対しての発言を期待され、その都度的確に応えてきた戦後を代表するフリーランスジャーナリストです。岡村昭彦はベトナム戦争の渦中で捕虜収容所で解放民族戦線ファット副議長との会見に成功したフリーランスの報道写真家。この二人には明治百年を足場に緊迫した対談『1968年歩み出すための素材』(1968)があります。

むのさんは80歳代になって胃がんや肺がんなどの大病がつづき、目も不自由で、その日は車いす姿でしたが、90人ほどの会場いっぱいの聴衆を前にして「マイクは使いません。マイクなしでわたしの声が届かないようでは話す意味がありません」と響く声は一瞬のうちに人の心をとらえるものでした。そして冒頭から「アキヒコの馬鹿野郎! なんで早く死んだ。俺より14年も遅く生まれてきて、この爺さまが99歳と3ヶ月も生きているのに、60歳にもならずにくたばるなんて。…彼は死んではいけなかった。生きていたら、アルカイダのミスター・ビン=ラディン(2001.9.11 NY貿易センタービル爆破事件)に会見しただろう。それができたのは岡村昭彦だけだ」とインパクトのある展開になりました。
(※この講演に関心ある人は「岡村昭彦の会」(http//:akihiko.kazekusa.jp/)「会報24」で閲覧できます。米沢慧は当会の世話人)

そんな反骨のジャーナリストむのたけじさんの『99歳一日一言』(岩波新書)には、年輪の詰まった365日分の語録が収まっています。たとえば、
・1月5日:一人では歴史は作れない。と同時に、その一人がいたから歴史が始まって進んだこともある。ひとり、一人、ヒトリの力
・1月6日:歴史の長い道のりに変化をおこす出来事は、しばしばたった一人の一瞬の決意から発生する。それが人間、それが歴史だ。「太陽が地球を回っているのではなく、地球が太陽を回っている」という人がたった一人いた。その人を人類は殺すところだった。このことを決して忘れず、人類よ、たった一人をいつも大切にしよう

99歳一日一言』にはもうひとつ齢を重ねた人だからこその老いをいきるいのちことば(生命、生活、人生)が4章(冬―春―夏―秋)に分けられ、主題は季語のように重ねられていました。
冬期(1月――3月)の主題は「夜が朝を産む」。少年期の人生指針にもなっていたでしょうか、ピュアな語録が選ばれています。

《子どもの頃から朝より夕刻が好きだった。なぜか? 今わかった。開けない夜はない、と思い知るのは朝ではなく夕刻だから。》
《日の出は拝めば終わる。人の世の夜明けはなにをも拝まないところからはじまる。朝日に願いを、夕日に感謝をいうのを反対にしてみよう。》
 
春期は「いざ、三歩前進」(4月――6月)、夏期は「自分を鮮明に生きる。それが美しい」(7月――9月)。
そして4章の秋期は「死ぬ時そこが生涯のてっぺん」10月―12月)。
《ステッキ1本は他人からもらって、1本は自分で買った。それを外出時に用いだしたのは94歳から。2年経ってからだにすっかり馴染んだ。道を歩くとき、左右の足音にステッキの音が入って足の運びを元気づける。一番の変化はステッキを用いると前身が直立することだ。ステッキなしだとつい前屈みになる。1メートル半の小柄な肉体がステッキを大地に立てると、ピーンと直立して、呼吸まで立派になる。》

ここでは、上寿に向かって自身のからだを支える2本のステッキが比喩的なかたちで引き出されています。そして《強風でも散らぬ葉がある。無風でも散る葉がある。世の葉たちよ、身の行く末を風のせいにするな》

老ジャーナリストは生涯現役をつらぬく覚悟なのです。

2015年1月17日土曜日

ホスピス猫の話

老人ホームの医師が書いた本に患者に寄りそう猫の話があります。アメリカのロードアイランド州の重度の認知症を患う高齢者が多数入居しているナーシングホーム(介護付き有料老人ホーム)。そこには患者たちの人気者になっている猫が6匹ほどいますが、そのうちの1匹の雄猫オスカーは天国に旅立とうとしている患者をいち早く見抜く力をもっているというのです(『オスカー』デイヴィッド・ドーサ 栗木さつき訳 早川書房)
ふだんオスカーは餌と水のあるフロントデスクの脇に現れる以外はどこかに隠れています。ある日、特定の部屋に現れ、患者のベッドに寄りそうようになり、やがて寝ずの番をすると間もなくしてその人は亡くなっていった…。それが5人6人と続くと、オスカーがそばで過ごすのは死期が迫った患者に限られていることがわかった。しかも、その事実がわかるとみんなに気味悪がられるどころか、歓迎されるようになっていたのです。

[証言1] 最初の1週間オスカーは居室の戸口の前を行き来したり、ドアのところでのぞき込んだりしてました。けれど、ある日ドアをあけると母のベッドに飛び乗らず、不安がったわたしの傍にすわったんです。信じられます? あたしが頭を撫でるとごろごろ喉を鳴らしました。それから廊下で会うとわたしを護衛するみたいに母の部屋まで一緒にあるいてくれて。母が亡くなるまでずっと一緒にいてくれました。

[証言2] オスカーは部屋では長居はしませんでしたが、母が亡くなる数時間前にはオスカーは閉じた部屋のドアの前をいったりきたりしはじめたの。そのときオスカーはひどく元気がなかった。ドアを開けてやったら一直線にベッドに走っていき、母の横に飛び乗ってそのまま丸くなり、どうしても動こうとしなかった。数時間後に母は亡くなりましたが、葬儀屋さんがきてもオスカーはそばを離れませんでしたわ。

[証言3] オスカーは天使だとおもう。さっき、母が亡くなるまでここにいてくれました。そして、いまは私のためにいてくれます。オスカーが傍にいると孤独が癒されるの。いまどうなっているのかわかっているよという感覚でここに居るの。それでオスカーと一緒にいると、これは自然のことなんだっておもえてくるの。

[証言4] 解せないのは、自分が必要とされていることがオスカーにはわかるらしいってこと。とくに見返りを求めているふうでもない。顎の下や耳の後ろを掻いてやるくらいはするわ。でもそれだって、そうしていれば私の気持ちが休まることを承知のうえという感じなの。母が亡くなるときは私が自宅にもどった直後のことだったけれど、母はひとりぼっちじゃなかったわ。そばにオスカーがいたんだもの。

[証言5] オスカーはその仕事を終えると、いつもぐったりするの(ホームのスタッフ)。

ナーシングホームの主治医でもある著者は、オスカーの予知行動について医学誌に発表し反響を呼んだといいます。その一つは第二次世界大戦の退役軍人からのもので、「先の長くない兵士の身体からは甘い芳香が漂っていた」と語ったそうです。細胞が死ぬと炭水化物は様々な酸化化合物に分解され、その際甘い香りを発する。ケトン体という化合物で糖尿病の患者の息の匂いを嗅ぐと血糖値の高さを判断できるのと同じものだ。ひょっとしてオスカーは死の直前に体内から発散される化合物の香りが基準値よりも高いことを嗅ぎわけていたのではないか、というのです。
だからといって、ここで“死期を感知する猫”の特異性にこだわることはないとおもいます。ナーシングホームには重度の認知症を抱え、どうにもできない現実(施設への不満も含めて)に怯えている人や怒っている人。また介護者のなかには思うように介護ができず苛立ったり罪に意識に駆られたりする人もいたといいます。そうした人のこころの葛藤にふっと割り込んでくるオスカーの“シックス・センス”におどろき共感するだけで十分な気がします。

ここで、吉本隆明さんが自らの死の三ヶ月前に、16年余り生きた最愛の猫への愛着を語った『フランシス子へ』(講談社)のなかの一節を引いてみます。
《フランシス子が死んだ。ぼくよりはるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった。
一匹の猫とひとりの人間が死ぬこと。
どうちがうかっていうと、あんまりちがわないねえって感じがします。
おんなじだなあって。どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまう。
たいていに猫は死ぬときに黙って姿を消すもので、そうすると飼い主はおそらくどこかで死んだんじゃないかって、ずいぶんせつない思いをします。
…フランシス子はそうじゃなくて、亡くなるときも僕のそばで亡くなった。
最後の最後は、猫がよくあまえるときに鳴らす首とか、脇の下とか、動くのはそれくらいで、なんの言葉もないけど、そこまでいっしょにいられたんだったら、もう、言うことはないよなあって。》
《…それは何かといったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。あの合わせ鏡のような同体感…》

人のそばで亡くなっていく猫がいるのだから、人もまた猫に看取られて死ぬのがあってもいいのではないか。
最近のことです。吠えることを忘れてしまった13歳になる愛犬ロッシュが、深夜わたしのベッドに潜り込んでくるようになりました。犬になっても、人になってもいい。どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまうから。



2015年1月4日日曜日

身寄りになるということ(2)「間柄」について

前回の「身寄りになるということ」は介護の視点からふれました。今回はわたしの体験事例から、血縁とか家族を超えた「間柄」という視点に移して考えてみたいとおもいます。
間もなく三回忌、103歳で亡くなったコマイ・トキさんとの忘れがたいエピソードです。
トキさんは妻の女子大時代の先生で、都庁ビルがみえる西新宿の公営アパートで独り暮らしの女性でした。30年ほど前から妻とは年に一、二度消息を訊ねる電話のやりとりが続き、やがて年に一、二度いっしょに街で食事をするような間柄になっていました。
そんなトキさんの特養ホームへの入居手続きに関与したのは私たちでした。上寿100歳を目前にしてアパートをひきはらい、ベッドの傍に馴染みのちゃぶだいと茶だんすを並べて〈トキさんの部屋〉をつくったのでした。けれど、トキさんの認知症は進みわたしたちが誰だか分かりません。

その3年前、T医科大病院老人科の診断を受けたとき、トキさんは自分の名前と生年月日はすらすら誤りなく答えました。しかし、医師から「ところで、今日は何月何日ですか」と訊ねられてから場面がおかしくなったのです。
「先生。…今日が何月何日か、わたし知りません。でも先生…今日が何月何日だかわからなくても、わたし生きていくのに困ったりしませんから」
「……」
「今日が何日か、たぶん新聞をみればわかります」「……」
「新聞を拝借できればおしえてさしあげますわ」「……」
この一方的なやりとりにわたしたちは付添人ながら息をのみ、なぜか心の中で大拍手。笑いをこらえるのに苦労したほどです。さらにトキさんは続けたのです。
「先生、わたしに家族がいれば、今日が何月何日かも教えてくれるでしょう。でもね、私は一人で暮らしていますでしょう? 教えてくれる者がまわりにいないのですよ」
そう言って私たちに同意をもとめるかのように振りむいたのです。わたしたちは顔を見合わせ、いそいで同感し頷いていたほどです。
その日トキさんは医師の前で精一杯の主張をし、自身を際だたせました。わたしたちはその光景を手に汗をにじませ、なぜか共感し応援していたのです。このとき私たちはトキさんとは深い「身寄り」の間柄になっていたに違いありません。

ともあれ、その日、医師はトキさんの攻撃をクールに受けとめ、アルツハイマー病の兆候のある画像をわたしたちに示しながら、記憶障害、見当識障害をたてに「認知症です」と口にしたのでした。その帰り、わたしは認知症の人とのコミュニケーションにふれたナオミ・フェイル(Naomi Feil )の『バリデーション』(筒井書房)を購入しました。それによれば、トキさんは「認知の混乱」から第2段階(日時、季節の混乱)へと一歩踏みこんだということでした。
私たちはいつから「身寄り」になったでしょうか。30年のつきあいがそうさせたのは間違いありません。けれど「身寄りになる」間柄には何かのきっかけがあるにちがいないのです。
そこでさらに九年前にさかのぼる、ある事由がでてきました。六月のある日、慶応大学病院の救急外来から「コマイ・トキさんをご存じですか」と電話があったことでした。
その日トキさんは新宿の高層ビル内の下りエスカレーターで転び顔面を強打し、出血して慶大病院に運びこまれたのです。さいわい入れ歯が損傷した以外、脚にすり傷と打撲の痛みはあるが日常生活にさしさわりはないということでした。「ただ、ご高齢でもあり、このままお帰りいただくわけにいかなかった」。そこで、トキさんはしぶしぶわたしたちの名前を口にしたというわけです。
病院に駆けつけると、トキさんは迷惑だといわんばかりに、不機嫌そうな表情を私たちにみせました。担当医師はわたしたちに一通りの説明をして「お大事に」といって見送ってくれたのですが、トキさんは不満でした。「センセイは当人のわたしに口にしなかったことを、他人のあなたにもっともらしく説明していた」と。

トキさんは救急車に乗せられ病院に運ばれたのがショックでした。雨の日に傘をもって28階の歯医者に行ったこと、なによりもエスカレーターでつまずくようなみっともない転び方をしたこと、まだまだからだに衰えはなかったはずだ、とくりかえし反省し悔やんだのです。わたしは元気づけるように「ついてない日だったんですよ。でも、大きなケガでなくてよかった」といい、自宅に送り届けようと病院のタクシー乗り場に急いだのです。ところが、トキさんはそれを拒みJR信濃町駅に歩きだしたのです。
「あなた、わたしは一人で暮らしているの。だから、帰り道をきちっと覚えて時間がどれだけかかるか確かめておかなければ、次の治療の日にやってこられないじゃないの」
そして新宿駅までくると「ありがとう。うれしかったわ」といい、デパ地下に連れていくとウナギ弁当を買って私たちに手渡すと、いつものように「じゃあ」といって一人バスに乗りこんだのです。
 ★
この一日の出来事が私たちに「身寄りになる」関係をうながしたようにおもいます。
それから暫くしてトキさんは、母親が心配しているとか、おじいさんに会いに行ってきたなどといい、生家があったという六本木界隈にバスやタクシーででかけるようになり、、そのうちの何度かは私たちが交番に迎えにいくことにもなったのでした。あらためて「身寄りになる」とは、血縁的なつながりからは遠く家族を超えた間柄のように思えてきます。

30年前、私たちが訪ねたトキさんの住む公営アパートは階段をあがった二階の1DKでした。その和室には白いシーツが載った寝具一式が丁寧に折りたたまれてあるだけ、「いつどこで逝っても恥ずかしくないように」という佇まいでした。家系400年という旗本の末裔の矜持だったのでしょう。葬儀は青山にある菩提寺で特養ホームの馴染みだったスタッフ数人と私たち。自身の葬儀・永大供養料等一切は元気なころに収められていたのでした。

●お知らせ

慌ただしく年を越しました。まだスタートしたばかりですが、アクセス数が800を超えてたしかな感触をいただいています。10日に一度はなんとか更新したいとおもっています。なお、昨年(2014年)、共同通信社から全国各紙に配信された米沢慧の連載コラム『和みあういのち』(10回)が挿絵カットを描いてくれた大伴好海さんのブログに掲載されています(http://konominote.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html)。本ブログと関連する箇所もあります。こちらも覗いていただければ幸いです。