2015年1月31日土曜日

99歳 老ジャーナリストの杖


昨年、「岡村昭彦の会」※で、久しぶりにむのたけじさんの講演を聴く機会を得ました。「岡村昭彦の写真―生きること死ぬことのすべて」と題した岡村昭彦没後30年目の大回顧展(東京都写真美術館)を前にした集いで演題は「昭彦君が生きていたら」というものでした。
むのたけじ(1915年秋田県生まれ)さんといえば戦争期に朝日新聞記者としてジャワ戦線の従軍記者等に携わった人ですが、1945年8月15日戦争責任をとるかたちで30歳で退社、1948年には秋田県横手市で週刊新聞『たいまつ』を創刊し主幹として健筆をふるい、休刊(1978年)後は一般民衆の立場から国家権力の横暴に対しての発言を期待され、その都度的確に応えてきた戦後を代表するフリーランスジャーナリストです。岡村昭彦はベトナム戦争の渦中で捕虜収容所で解放民族戦線ファット副議長との会見に成功したフリーランスの報道写真家。この二人には明治百年を足場に緊迫した対談『1968年歩み出すための素材』(1968)があります。

むのさんは80歳代になって胃がんや肺がんなどの大病がつづき、目も不自由で、その日は車いす姿でしたが、90人ほどの会場いっぱいの聴衆を前にして「マイクは使いません。マイクなしでわたしの声が届かないようでは話す意味がありません」と響く声は一瞬のうちに人の心をとらえるものでした。そして冒頭から「アキヒコの馬鹿野郎! なんで早く死んだ。俺より14年も遅く生まれてきて、この爺さまが99歳と3ヶ月も生きているのに、60歳にもならずにくたばるなんて。…彼は死んではいけなかった。生きていたら、アルカイダのミスター・ビン=ラディン(2001.9.11 NY貿易センタービル爆破事件)に会見しただろう。それができたのは岡村昭彦だけだ」とインパクトのある展開になりました。
(※この講演に関心ある人は「岡村昭彦の会」(http//:akihiko.kazekusa.jp/)「会報24」で閲覧できます。米沢慧は当会の世話人)

そんな反骨のジャーナリストむのたけじさんの『99歳一日一言』(岩波新書)には、年輪の詰まった365日分の語録が収まっています。たとえば、
・1月5日:一人では歴史は作れない。と同時に、その一人がいたから歴史が始まって進んだこともある。ひとり、一人、ヒトリの力
・1月6日:歴史の長い道のりに変化をおこす出来事は、しばしばたった一人の一瞬の決意から発生する。それが人間、それが歴史だ。「太陽が地球を回っているのではなく、地球が太陽を回っている」という人がたった一人いた。その人を人類は殺すところだった。このことを決して忘れず、人類よ、たった一人をいつも大切にしよう

99歳一日一言』にはもうひとつ齢を重ねた人だからこその老いをいきるいのちことば(生命、生活、人生)が4章(冬―春―夏―秋)に分けられ、主題は季語のように重ねられていました。
冬期(1月――3月)の主題は「夜が朝を産む」。少年期の人生指針にもなっていたでしょうか、ピュアな語録が選ばれています。

《子どもの頃から朝より夕刻が好きだった。なぜか? 今わかった。開けない夜はない、と思い知るのは朝ではなく夕刻だから。》
《日の出は拝めば終わる。人の世の夜明けはなにをも拝まないところからはじまる。朝日に願いを、夕日に感謝をいうのを反対にしてみよう。》
 
春期は「いざ、三歩前進」(4月――6月)、夏期は「自分を鮮明に生きる。それが美しい」(7月――9月)。
そして4章の秋期は「死ぬ時そこが生涯のてっぺん」10月―12月)。
《ステッキ1本は他人からもらって、1本は自分で買った。それを外出時に用いだしたのは94歳から。2年経ってからだにすっかり馴染んだ。道を歩くとき、左右の足音にステッキの音が入って足の運びを元気づける。一番の変化はステッキを用いると前身が直立することだ。ステッキなしだとつい前屈みになる。1メートル半の小柄な肉体がステッキを大地に立てると、ピーンと直立して、呼吸まで立派になる。》

ここでは、上寿に向かって自身のからだを支える2本のステッキが比喩的なかたちで引き出されています。そして《強風でも散らぬ葉がある。無風でも散る葉がある。世の葉たちよ、身の行く末を風のせいにするな》

老ジャーナリストは生涯現役をつらぬく覚悟なのです。

2015年1月17日土曜日

ホスピス猫の話

老人ホームの医師が書いた本に患者に寄りそう猫の話があります。アメリカのロードアイランド州の重度の認知症を患う高齢者が多数入居しているナーシングホーム(介護付き有料老人ホーム)。そこには患者たちの人気者になっている猫が6匹ほどいますが、そのうちの1匹の雄猫オスカーは天国に旅立とうとしている患者をいち早く見抜く力をもっているというのです(『オスカー』デイヴィッド・ドーサ 栗木さつき訳 早川書房)
ふだんオスカーは餌と水のあるフロントデスクの脇に現れる以外はどこかに隠れています。ある日、特定の部屋に現れ、患者のベッドに寄りそうようになり、やがて寝ずの番をすると間もなくしてその人は亡くなっていった…。それが5人6人と続くと、オスカーがそばで過ごすのは死期が迫った患者に限られていることがわかった。しかも、その事実がわかるとみんなに気味悪がられるどころか、歓迎されるようになっていたのです。

[証言1] 最初の1週間オスカーは居室の戸口の前を行き来したり、ドアのところでのぞき込んだりしてました。けれど、ある日ドアをあけると母のベッドに飛び乗らず、不安がったわたしの傍にすわったんです。信じられます? あたしが頭を撫でるとごろごろ喉を鳴らしました。それから廊下で会うとわたしを護衛するみたいに母の部屋まで一緒にあるいてくれて。母が亡くなるまでずっと一緒にいてくれました。

[証言2] オスカーは部屋では長居はしませんでしたが、母が亡くなる数時間前にはオスカーは閉じた部屋のドアの前をいったりきたりしはじめたの。そのときオスカーはひどく元気がなかった。ドアを開けてやったら一直線にベッドに走っていき、母の横に飛び乗ってそのまま丸くなり、どうしても動こうとしなかった。数時間後に母は亡くなりましたが、葬儀屋さんがきてもオスカーはそばを離れませんでしたわ。

[証言3] オスカーは天使だとおもう。さっき、母が亡くなるまでここにいてくれました。そして、いまは私のためにいてくれます。オスカーが傍にいると孤独が癒されるの。いまどうなっているのかわかっているよという感覚でここに居るの。それでオスカーと一緒にいると、これは自然のことなんだっておもえてくるの。

[証言4] 解せないのは、自分が必要とされていることがオスカーにはわかるらしいってこと。とくに見返りを求めているふうでもない。顎の下や耳の後ろを掻いてやるくらいはするわ。でもそれだって、そうしていれば私の気持ちが休まることを承知のうえという感じなの。母が亡くなるときは私が自宅にもどった直後のことだったけれど、母はひとりぼっちじゃなかったわ。そばにオスカーがいたんだもの。

[証言5] オスカーはその仕事を終えると、いつもぐったりするの(ホームのスタッフ)。

ナーシングホームの主治医でもある著者は、オスカーの予知行動について医学誌に発表し反響を呼んだといいます。その一つは第二次世界大戦の退役軍人からのもので、「先の長くない兵士の身体からは甘い芳香が漂っていた」と語ったそうです。細胞が死ぬと炭水化物は様々な酸化化合物に分解され、その際甘い香りを発する。ケトン体という化合物で糖尿病の患者の息の匂いを嗅ぐと血糖値の高さを判断できるのと同じものだ。ひょっとしてオスカーは死の直前に体内から発散される化合物の香りが基準値よりも高いことを嗅ぎわけていたのではないか、というのです。
だからといって、ここで“死期を感知する猫”の特異性にこだわることはないとおもいます。ナーシングホームには重度の認知症を抱え、どうにもできない現実(施設への不満も含めて)に怯えている人や怒っている人。また介護者のなかには思うように介護ができず苛立ったり罪に意識に駆られたりする人もいたといいます。そうした人のこころの葛藤にふっと割り込んでくるオスカーの“シックス・センス”におどろき共感するだけで十分な気がします。

ここで、吉本隆明さんが自らの死の三ヶ月前に、16年余り生きた最愛の猫への愛着を語った『フランシス子へ』(講談社)のなかの一節を引いてみます。
《フランシス子が死んだ。ぼくよりはるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった。
一匹の猫とひとりの人間が死ぬこと。
どうちがうかっていうと、あんまりちがわないねえって感じがします。
おんなじだなあって。どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまう。
たいていに猫は死ぬときに黙って姿を消すもので、そうすると飼い主はおそらくどこかで死んだんじゃないかって、ずいぶんせつない思いをします。
…フランシス子はそうじゃなくて、亡くなるときも僕のそばで亡くなった。
最後の最後は、猫がよくあまえるときに鳴らす首とか、脇の下とか、動くのはそれくらいで、なんの言葉もないけど、そこまでいっしょにいられたんだったら、もう、言うことはないよなあって。》
《…それは何かといったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。あの合わせ鏡のような同体感…》

人のそばで亡くなっていく猫がいるのだから、人もまた猫に看取られて死ぬのがあってもいいのではないか。
最近のことです。吠えることを忘れてしまった13歳になる愛犬ロッシュが、深夜わたしのベッドに潜り込んでくるようになりました。犬になっても、人になってもいい。どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまうから。



2015年1月4日日曜日

身寄りになるということ(2)「間柄」について

前回の「身寄りになるということ」は介護の視点からふれました。今回はわたしの体験事例から、血縁とか家族を超えた「間柄」という視点に移して考えてみたいとおもいます。
間もなく三回忌、103歳で亡くなったコマイ・トキさんとの忘れがたいエピソードです。
トキさんは妻の女子大時代の先生で、都庁ビルがみえる西新宿の公営アパートで独り暮らしの女性でした。30年ほど前から妻とは年に一、二度消息を訊ねる電話のやりとりが続き、やがて年に一、二度いっしょに街で食事をするような間柄になっていました。
そんなトキさんの特養ホームへの入居手続きに関与したのは私たちでした。上寿100歳を目前にしてアパートをひきはらい、ベッドの傍に馴染みのちゃぶだいと茶だんすを並べて〈トキさんの部屋〉をつくったのでした。けれど、トキさんの認知症は進みわたしたちが誰だか分かりません。

その3年前、T医科大病院老人科の診断を受けたとき、トキさんは自分の名前と生年月日はすらすら誤りなく答えました。しかし、医師から「ところで、今日は何月何日ですか」と訊ねられてから場面がおかしくなったのです。
「先生。…今日が何月何日か、わたし知りません。でも先生…今日が何月何日だかわからなくても、わたし生きていくのに困ったりしませんから」
「……」
「今日が何日か、たぶん新聞をみればわかります」「……」
「新聞を拝借できればおしえてさしあげますわ」「……」
この一方的なやりとりにわたしたちは付添人ながら息をのみ、なぜか心の中で大拍手。笑いをこらえるのに苦労したほどです。さらにトキさんは続けたのです。
「先生、わたしに家族がいれば、今日が何月何日かも教えてくれるでしょう。でもね、私は一人で暮らしていますでしょう? 教えてくれる者がまわりにいないのですよ」
そう言って私たちに同意をもとめるかのように振りむいたのです。わたしたちは顔を見合わせ、いそいで同感し頷いていたほどです。
その日トキさんは医師の前で精一杯の主張をし、自身を際だたせました。わたしたちはその光景を手に汗をにじませ、なぜか共感し応援していたのです。このとき私たちはトキさんとは深い「身寄り」の間柄になっていたに違いありません。

ともあれ、その日、医師はトキさんの攻撃をクールに受けとめ、アルツハイマー病の兆候のある画像をわたしたちに示しながら、記憶障害、見当識障害をたてに「認知症です」と口にしたのでした。その帰り、わたしは認知症の人とのコミュニケーションにふれたナオミ・フェイル(Naomi Feil )の『バリデーション』(筒井書房)を購入しました。それによれば、トキさんは「認知の混乱」から第2段階(日時、季節の混乱)へと一歩踏みこんだということでした。
私たちはいつから「身寄り」になったでしょうか。30年のつきあいがそうさせたのは間違いありません。けれど「身寄りになる」間柄には何かのきっかけがあるにちがいないのです。
そこでさらに九年前にさかのぼる、ある事由がでてきました。六月のある日、慶応大学病院の救急外来から「コマイ・トキさんをご存じですか」と電話があったことでした。
その日トキさんは新宿の高層ビル内の下りエスカレーターで転び顔面を強打し、出血して慶大病院に運びこまれたのです。さいわい入れ歯が損傷した以外、脚にすり傷と打撲の痛みはあるが日常生活にさしさわりはないということでした。「ただ、ご高齢でもあり、このままお帰りいただくわけにいかなかった」。そこで、トキさんはしぶしぶわたしたちの名前を口にしたというわけです。
病院に駆けつけると、トキさんは迷惑だといわんばかりに、不機嫌そうな表情を私たちにみせました。担当医師はわたしたちに一通りの説明をして「お大事に」といって見送ってくれたのですが、トキさんは不満でした。「センセイは当人のわたしに口にしなかったことを、他人のあなたにもっともらしく説明していた」と。

トキさんは救急車に乗せられ病院に運ばれたのがショックでした。雨の日に傘をもって28階の歯医者に行ったこと、なによりもエスカレーターでつまずくようなみっともない転び方をしたこと、まだまだからだに衰えはなかったはずだ、とくりかえし反省し悔やんだのです。わたしは元気づけるように「ついてない日だったんですよ。でも、大きなケガでなくてよかった」といい、自宅に送り届けようと病院のタクシー乗り場に急いだのです。ところが、トキさんはそれを拒みJR信濃町駅に歩きだしたのです。
「あなた、わたしは一人で暮らしているの。だから、帰り道をきちっと覚えて時間がどれだけかかるか確かめておかなければ、次の治療の日にやってこられないじゃないの」
そして新宿駅までくると「ありがとう。うれしかったわ」といい、デパ地下に連れていくとウナギ弁当を買って私たちに手渡すと、いつものように「じゃあ」といって一人バスに乗りこんだのです。
 ★
この一日の出来事が私たちに「身寄りになる」関係をうながしたようにおもいます。
それから暫くしてトキさんは、母親が心配しているとか、おじいさんに会いに行ってきたなどといい、生家があったという六本木界隈にバスやタクシーででかけるようになり、、そのうちの何度かは私たちが交番に迎えにいくことにもなったのでした。あらためて「身寄りになる」とは、血縁的なつながりからは遠く家族を超えた間柄のように思えてきます。

30年前、私たちが訪ねたトキさんの住む公営アパートは階段をあがった二階の1DKでした。その和室には白いシーツが載った寝具一式が丁寧に折りたたまれてあるだけ、「いつどこで逝っても恥ずかしくないように」という佇まいでした。家系400年という旗本の末裔の矜持だったのでしょう。葬儀は青山にある菩提寺で特養ホームの馴染みだったスタッフ数人と私たち。自身の葬儀・永大供養料等一切は元気なころに収められていたのでした。

●お知らせ

慌ただしく年を越しました。まだスタートしたばかりですが、アクセス数が800を超えてたしかな感触をいただいています。10日に一度はなんとか更新したいとおもっています。なお、昨年(2014年)、共同通信社から全国各紙に配信された米沢慧の連載コラム『和みあういのち』(10回)が挿絵カットを描いてくれた大伴好海さんのブログに掲載されています(http://konominote.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html)。本ブログと関連する箇所もあります。こちらも覗いていただければ幸いです。

2014年12月24日水曜日

身寄りになるということ(1)身寄り人

長寿社会の〈いのち〉について触れようとすると、思い浮かぶのがグリム童話「寿命」や「死に神のおつかいたち」です。
「寿命」のエピソードはよく知られるように身に凍みます。神さまは、人間、ロバ、イヌ、サルに平等に30歳という寿命を与えようとしますが、ロバやイヌ、サルはそれなりの理由をつけて短くしてほしいとたのみ、神さまはロバの寿命を18年減らし、イヌは12年、サルは10年減らすことを約束します。ところが後からやってきた人間は30歳ではあまりに短いと嘆いたので、神さまはロバ、イヌ、サルが辞退した18年、12年、10年の合計40年を加えて人間の寿命を70歳にしたのです。
その結果は、人生70年のうち30年は人間らしい生活を楽しみますが、プラスしてもらった40年は、荷役労働に苦しむロバのように過ごし、歯が抜け鼻もきかない老いたイヌのくらしに加え、サルからもらった晩年の10年は涎をたらし痴呆になり生涯を終えることになった――というものです。

もうひとつ、「寿命」については江戸時代貝原益軒が83歳のときに著した『養生訓』にあります。人のすがた・かたちを「身」と規定して「人の身は100年を期限とする」として、100歳を上寿、80歳を中寿、60歳を下寿と名付けています。現在、日本人は上寿・100歳に向かって長寿世界一です。それはロバやイヌ、サルが辞退した困苦を受けとめる「老揺(たゆたい)期」であり、「認知症」という名称にかえて身のゆくえが定かではないすがたもあります。

では「認知症」という身のゆくえを受け入れ支えるにはどうしたらいいでしょうか。
こたえは簡単です。『ぼけてもいいよ』(2006年)という本に出合いました。
惚けても住みなれた町で暮らしたいという地域の人の願いを手探りして下村恵美子さんの手で立ち上がった福岡市内の「宅老所・よりあい」はすでに20年以上の実績があります。この本は「第2宅老所・よりあい」のリーダー村瀬孝生さんのコラムエッセイで介護の記録ではありません。村瀬さんはそこで、こんな呟きをしています。

①〈ときどき思う。お年寄りたちは僕をだれだと思っているのか?
トメさんは僕を息子のように扱ったり、同僚の教師と思っていたりする。スミエさんは自分の夫とおもっているときがある。スズコさんは奥様の世間話のように話しかけてくる。「あなたのご主人が怖い人だったらどうする?」。ひょっとして僕は男としてみられていないのか?
フサさんにいたっては「あんたは最近、海から上がってきたばかりだからね~」と僕を指さしたことがあった。いったい僕は何者なのか。〉

毎朝10数人の人がやってきて身を寄せ合って一日をすごす場所ですが、ここには認知症というカテゴリーがありません。わたしも「宅老所・よりあい」を訪ねたことがあります。けれど、ここには介護する人・される人の線引きがみえないのです。ひとの姿が「(いのち)という存在として受けとめられているからだとおもいます
ここで「身」ということばを貝原益軒の『養生訓』からとらえなおしてみます。
身とは松田道雄の現代語訳では「からだ」と読んでいます。「ここにいる」というひとの姿のことですが、身は「五官」というはたらきと記されています(巻第5「五官」)。すなわち、耳(聴く)、目(見る)、口(喰う)、鼻(嗅ぐ)と形(頭身手足のはたらき)で「身」はたちあがっています。益軒はさらに五官は「二便」(小便・大便)と「洗浴」を加えることで「身」は維持されると述べています。

――朝起きる。食べる。歩く。おしっこ、うんこする。話す、見る、聞く、(匂いを)嗅ぐ、触る、働く・遊ぶ。入浴する、そして寝る。
五官は日々の暮らしを通して身をささえ助け合うものです(註「広辞苑」等国語事典では五官と五感を同義語のように扱っています。わたしには違うようにおもえます)。
けれど老いは「身」存在を危うくしていきます。そしてここ「宅老所・よりあい」では「身」の拠りどころ置きどころを失っている、寄る辺ない人たちが受けとめられているのです。村瀬さんのつぶやきを聴いてみましょう。

②〈僕たち(スタッフ)はお年寄りから名前で呼ばれることがほとんどない。名前なんてすぐ忘れてしまうから…。けれど時間と場所を共有し続けることで、僕らはお年寄りたちと不思議な絆で結ばれているように思える。家族のようで家族ではなく、他人のようで他人ではない。「他人以上、家族未満」といったところか。〉

ここには福祉の専門家になることや介護者の技術が問われているのでもありません。ただ、「身寄りになる」といういのちへの深い眼差しが引き出されているだけです。
『ぼけてもいいよ』というメッセージは、いのちの受けとめ手としての「身寄り(みより)(びと)宣言になっているようにおもいます
(註 タイトルの隣「身」は白川静『字通』1986 平凡社より、引かせていただきました)



2014年12月15日月曜日

平穏死

 わが国の平均寿命(ゼロ歳児の平均余命)は90歳に近づいています。この長寿を制度的に支えているのが医療・福祉ということになります。この段階で気になるいのちことばは「寿命」や「老衰」です。ところがこの概念は医療の世界では意外に評価が低いのです。

評判になった特別養護老人ホームの常勤配置医師石飛幸三さんの『「平穏死」のすすめ』(講談社文庫)が今回のテキストですが、寿命や老衰についてこんな記述があります。
「病気は何らかの理由でからだが故障した状態であり、その故障を治すのが医療行為だが、老衰は故障ではなく、もう機械に寿命が来たのです。高齢者は老衰で死ぬことも多いのですが、老衰という病態が認識されていないという奇妙な現実があります。特に多くの医者は老衰という病態に戸惑うことが多く、死因として何らかの病名をつける必要を感じてしまうのです。そうしないと治療したことにならないからです」

老衰死にも何とか死因を見つけたいということです。ちなみに医師にしか書けない死亡診断書の死因蘭には「病死及び自然死」の項目がありますが、死亡診断書マニュアルには「老衰」という記述を控えるように注意書きがあります。死亡診断書は医療統計の原本資料ということがあり、エビデンス(科学的根拠)としての死因が強く求めているということでしょうか。上寿(百歳)超が5万人という長寿社会にあって老衰死は自然死の代表格のはずです。医療行為は要るのだろうか、要らないだろうと石飛医師は自問しながら、「自然死」についても次のようにカミングアウトされています。
「多くの医師は自然死の姿がどのようなものか知る機会がありません。こう言う私自身、病院で働いていた(※血管外科医として)40年以上の間、自然死がどんなものか知らなかったのです。いまの医学教育では、病気だ、病態はどうだ、どう対応するか、病気を治すことばかり、頭の中がいっぱいになるほど教え込まれます。しかし、死については教わりません。死は排除されるのです」

いのちを救うこと、外科医にとって、死は敗北だと言われます。石飛医師は、かつて自らの手術でいのちを救った人たちと同年配の人たちを、今度は特養老人ホームの勤務医師として老衰死や自然死を肯定的に受けとめていく眼差しを手にされたのでした。わたしの理解では「死への時間」という概念です。死が予測される時間の長さによって死への対処が三つに区別されています。
一つは突然死です。心筋梗塞や動脈瘤の破裂などで死は突然にやってきます。二つには、いつ死ぬかがあらかじめ判る死です。がんの場合は「いつ頃幕を引くのかおおよそ判る」のです。そして三つ目が「なかなか来ない死」。これが老揺期(たゆたいき)のいのちの深さであり老衰の様態を映し出す自然死への過程ということになります。脳梗塞やアルツハイマー病などによる障害や、認知症の人や寝たきりになって胃ろうに頼って生きる人たちの姿が視野に入ってきます。

この三つ目の「なかなか来ない死」の向こうに医療社会の自然死の姿を思い描いたとき、石飛医師は平穏死ということばを手に入れられたにちがいないのです。私なりにことばをあつめ要約させていただきます。
――平穏死について。
「高齢者の老衰は生物学的に寿命がきて、静かに幕引をしたいとおもっているからだであり、〈死への準備をしている体〉であること。だから、これは病気ではない。天寿を全うしようとしている体です。ここで最期の時を決めるのは医療ではありません。人間が決めてはいけません。まさに時の流れに身をまかせるべきです」
――食べられなくなってからの姿について。
「喉の渇きや空腹を訴える方に出会ったことがありません。何も体に入っていないのにおしっこがでます。自分のからだの中を整理整頓しているかのようです。ある人はこれを氷が溶けて水になっていくのと同じで、からだが死になじんでいく過程だと言います。だから苦痛がないんです」
―平穏死は尊厳死?
「尊厳死というのは本人の意思の主体性を重んじる概念ですが、平穏死は穏やかな、自然な、いうなれば神の意志による死という概念のものです。そもそも老衰は自然であり、神の意志ですから、結局わたしには胃ろうを『しない』ことが不作為の殺人になるとはとうてい思えない。むしろ『する』ことの方が神の意志、平穏死を阻害するとおもうのですが」

平穏死ということばは、長寿・医療社会にあって自然死の道筋がつけられているいのちことばだと納得できます。そして、さらにもうひとつ、触れておきたいことがあります。
石飛幸三さんは亡くなった方の遺族から「胃ろうはやるべきではなかったようにおもいます。どうおもわれますか」という質問にこうこたえています。「もし胃ろうをせずに亡くなっていたら、やっぱりやるべきだったのではと後悔するかもしれませんよ」と。この立ち位置こそが医師の大いさを伝えているようにおもいます。


※今回で4回目の投稿です。ひと月足らずのうち、500ほどのアクセスをいただきました。うれしくおもいます。コメントもどうぞ、お願いします。次回の投稿は23日頃を予定しています。(慧

2014年12月6日土曜日

抱きぐせ・泣きぐせ

安楽死についてではなく、90歳を前にして『安楽に死にたい』(1997)という本を書いて亡くなった医師がいました。『育児の百科』(1967)の小児科医松田道雄です。
あのころ、わが家では『育児の百科』をマツダセンセイと呼んで、育児に不安があると、相談項目をさがしてはページを開き「心配しなくていい、気にしなくていい」という安心記述に何度もほっとした記憶があります。

たとえば当時、赤ん坊が泣くたびに抱くと「抱きぐせ」がついてよくないという俗信がはびこっていました。これに対してマツダセンセイはいうのです。
赤ちゃんが泣くのには、空腹で泣くのがいちばんおおい。排泄物でぬれて気持ちわるくなったため泣くと思われる場合もある。腸のなかにガスがたまって不快を感じて泣くと思われる場合もある。乳をのませてまだそれほど時間がたっていないのに泣いたら、母親はおむつがよごれていないかどうかをしらべる。それもきれいだとわかったとき、泣いている赤ちゃんをどうするかで、母親は迷う。だが迷うことはない。空腹でもなく、おむつがぬれているのでもないのに泣く子は、抱いてほしがっているのだ。泣くのをそのままにしておくと「泣きぐせ」がついてしまう。
「泣くことは赤ちゃんの唯一のコミュニケーションの手段だ。これが無視されるとなると、赤ちゃんは合図としてではなく怒りとして泣くようになる」と。※(『定本育児の百科』岩波文庫2007から)

マツダセンセイは「授乳」についても言っています。
「胸に抱いて乳をのませることで、母親は世界の誰よりも近く子どもの顔をみて肌にふれる。うれしいときにはどんな顔をし、つらいときはどんなにそれが変わり、からだが順調なときはどういう様子かを、母親は乳をのませることでまなぶ。…乳を吸うよろこび、乳をすわれるよろこび、それは生物的なものである。人間の大きなよろこびが生物的なものとつながる運命を拒否すべきではない」※
こうした考え方は当時、もう一つ育児書の手本として人気があった『スポック博士の育児書』(1966)との大きな違いでした。
授乳は赤ん坊に栄養を与えるためだけではなく、なによりも母子を安寧のうちにとりこむことができるということ。乳を含ませ、眠らせ、おむつを替え、そして抱くこと。このいのちへの配慮から愛は育まれるというのです。その関係を「甘え」ということばでのべられたのが土居健郎の『「甘え」の構造』(1971)だったようにおもいます。
「甘え」とは気持ちのうえで相手とつながっていること。動物行動学でいう「刷り込み」というこころの動きですが、満一歳までに手に入れることになる原始的な愛の関係です。「甘え」というのはことば以前の段階で動物的な衝動感情(恐怖)から、人間の感情を手にするために欠かすことのできない関係だと教えられたのです。

さて、『育児の百科』のマツダセンセイが90歳を前にして著したのが『安楽に死にたい』でした。
「高齢者の良識からすれば、もうCure(医者のやる治療)はたくさんだ、Care(親しい人の心のこもった世話)だけにしてほしいということだが、医者には理解しにくい。生物的生命を一分でも一秒でものばすのが医学の使命だと思っているからだ。医者は死に近い人間をTerminally illという。illがあるかぎり医者は治療をするのは当然と思っている。高齢者にとっては、illがあってもTerminal Lifeを生きたい」

ここには、赤ん坊が、はいはいからよちよち歩きを始め、たどたどしくことばを覚えていく、そんな往きのいのちの歩みにかかわる『育児の百科』の眼差しから、脚力が衰えてよちよち歩きになり、ことばもだんだんに不確かになっていく老いへの慰安。すなわち還りのいのちへの配慮をもとめて『安楽に死にたい』となったのです。
時代は長寿(少子高齢化)社会にむかっていました。このことばからわたしは、Cure(キュア)の系譜を「往きの医療」と呼び、Care(ケア)へと展開する高齢者介護や看取りが視野に入っている医療の軸を「還りの医療」と名付けたのでした(拙著『「幸せに死ぬ」ということ』1998)。



2014年11月26日水曜日

身終いということば

この夏『母の身終い』というフランス映画(2012)を観ました。「母の()(じま)い」と読ませていますこの表現につまずきました。辞書に収まっているのは身仕舞い身なりをつくろい整えることです。仕舞うは了うかたをつける、終わりにすることそのニュアンスを身終いという当て字に込めたというのでしょうか。

そのまえに「身終い」の身です。白川静の『文字講話Ⅰ』によれば「身」は人の字形に腹部を大きくそえた形で「(はら)む」と読むのが原義、妊娠の意とあります。身籠もる、身重に身二つ…身はいのち、文字通りいのちことばの源であり、“からだことば”の柱を指しています。そうだとするなら、身仕舞いから「身終い」身(いのち)はただならぬ方角に舵をきったかのようにみえます

さて、映画『母の身終い』の筋ばれは控えたいですが、ひと言でいえば、50年近く連れ添った夫が先立って後、独り息子のトラックの運転手とも同居せずに一人暮らしをしてきた母の人生最期の身支度が主題ということです。がん治療をしながら働いてきた母が、治癒が望めなくなった段階で予後の終末ケア(緩和ケア・ホスピス)を退けて、合法的な自殺幇助による安楽死を選択し自らの意思で最期を迎えるというはなしです。

ここで「安楽死」という日本語は英語のeuthanasiaの翻訳で、語源は「良き死」を意味するギリシャ語に由来しています。今日、致死薬等を処方して自死を助ける医療行為としての安楽死は、オランダ、ベルギーなどでは合法化され一般化しており、オランダでは年間3千件以上の事例があるといわれています。ところが、フランスでは安楽死は認められていません。そこで映画「母の身終い」は隣国スイスの安楽死を支援する福祉団体との契約に委ねられることになります。

けれど、スイスでも安楽死は認められていません。医師が処方した致死薬を患者自ら服用する手助けについては認めるという自殺幇助です。この法律は世界で最も古く(1942年)、自国民だけではなく外国人の自殺幇助まで可能にしています。映画で垣間見た安楽死に対する肯定観は「あなたは心から“自己救済”の選択をする意思がありますか」(字幕)という問い方にあったようにおもいます。また、自殺幇助当日、福祉団体の責任者が「あなたの人生は幸せでしたか」という問いかけに「人生は人生ですから」という母親の応え方にみえました。
はたして安楽死は身終いということばに置きかえられるでしょうか。結論は急がないようにしましょう。