2015年9月28日月曜日

新刊『いのちを受けとめるかたち』に寄せて


 
 ※先ごろ「いのちを考える、いのちから考えるセミナー」シリーズとして、第1弾の「いのちを受けとめるかたちー身寄りになること」がでました。今回は、セミナー誕生のいきさつにふれて福岡市の在宅医、二ノ坂保喜さんからのメッセージを掲載させていただきました。


○米沢慧さんと最初に出会ったのはいつだったか。 二ノ坂保喜
たぶん、「バイオエシックスと看護を考える会」の席ではなかっただろうか。定かではない。
米沢さんとの出会いの前に、大きな出会いがあった。それは、米沢さんの生涯の師・岡村昭彦との出会いである。私は大学を卒業して、外科医として働きはじめて10年くらい経っていた。北九州市小倉の駅前にあった書店で、岡村昭彦の『ホスピスへの遠い道〈岡村昭彦集6〉』(筑摩書房 1987年)という分厚い本が目に留まった。当時、急性期病院の外科医として日々現場に立っていたが、「ホスピス」という言葉をどこかで意識しはじめていたのだと思う。手にとってすぐに購入した。

岡村昭彦の名前は、『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書 1965年)などで知っていた。ヴェトナム戦争をはじめ世界の紛争と貧困の地に赴き、第一線で写真を撮り続ける報道カメラマンというくらいの認識であった。
内容はまさに「ホスピスへの遠い遠い道」で、世界を巡った詳細なルポルタージュは岡村が自らの探求をあますところなく伝えようとしたもので、読者にとって読みやすいように、わかりやすいように、などという親切心はまるで感じられない文章だった。この本は、「看護教育」(医学書院)に2年間(1983年の3月から1985年4月まで〈途中半年中断〉)にわたって連載され、未完に終わったが、ケアの最前線にある看護師にこそ「ホスピス」の真の意味を伝えたい、そのためには安易に手を抜かないという真摯な思いが読み進むにつれて伝わってきた。
この本の中で多くの本が紹介されていたが、私は岡村の後を追うように手に入る限り購入し、読んだ。岡村昭彦は、私がこの本を手にした1、2年前に56歳で亡くなっていた。これが最晩年の著書であり、彼の最後の情熱が熾火のように「ホスピス」を照らしていた。『ホスピスへの遠い道』は、私自身がそれから歩むことになる遠い道の出発点にあり、今も道標である。
この本の解説を書いたのが米沢慧さんであった。岡村昭彦との出会いが、米沢さんとの出会いへと必然的につながったように思う。

生前の岡村昭彦はだれにも臆せず、常に豪速球を投げ、周囲の状況にあまり斟酌しない人だったような印象である。生前の彼をビデオを通して観ると、インタビュアーへの気遣いを見せながらも、ずばっと言いたいことを言っている。米沢慧さんは、むしろ訥々とものを言う人だ。奥出雲の出身ということもあるのかもしれない。
米沢さんは、思考を丁寧に積み重ね、それを順追って語り、飛躍したり、根拠のない話をしたりはしない。すぐれた思想家がそうであるように、常に、借り物でない自らの思考を深めそれを借り物ではない自分の言葉に紡いでいく。その後ろに、妥協を許さない岡村の叱咤が聞こえてくるようである。

米沢慧さんは「AKIHIKO の会」を継続し、また全国各地でセミナーを開いている。私も米沢さんの著書を読み、話を聴く中で、九州、福岡で彼のセミナーを開き、直接、学ぶ機会を持ちたいと思っていた。自分自身が在宅ホスピスの経験の積み重ねの中で学んだことを、自分の思想として蓄積し同時に同じ志を持つ仲間と、米沢さんを囲む会を持ちたいと思った。「超高齢多死社会」とひとくくりにされる中で、一人ひとりのいのちにどう向き合うのか、認知症という医療では如何ともしがたい現状を在宅医として受けとめていきたいと思った。医師として、医療として、というよりも我々一人ひとりがそこにあるいのちとどう向き合うのか、自分自身の存在も含めて「いのちを受けとめる」とは……といったテーマが浮かび上がってきた。

福岡で「米沢慧 いのちを考える・いのちから考えるセミナー」が実現して6年、24回になる。そこは少人数の参加者が真剣に学ぶ場である。思想家としての米沢さんの言葉は一つの羅針盤だと思う。そして、気づきだと思う。「往きのいのち 還りのいのち」「いのちの深さ」「身寄りになる」「老揺(たゆたい)期」等など深い意味合いを感じる。私は在宅ケア、在宅ホスピスの現場での自分の体験を、米沢さんの言葉に重ね合わせて、自分のものにしていきたい。
年に4回のゼミを重ねてきてようやく、米沢さんの言葉を、ライブで聴ける本が出版される。第一冊目の「身寄り」。この言葉の意味を、ともに深く学び、実践の場に活かしていきたいと思う。(福岡市 にのさかクリニック院長)

※「いのちの受けとめ手」表現について
近著の『いのちを受けとめるかたち―身寄りになること』(木星舎)、及び別掲の共著『市民ホスピスへの道―いのちの受けとめ手になること』(春秋社)の主題は表題にあるように「いのちを受けとめる…」「いのちの受けとめ手」にあります。この概念は芹沢俊介著『家族という意志 ―よるべなき時代を生きる』(岩波新書 2012.4)から、ことに「いのちの存続を支え、保証する直接の担い手をいのちの『受けとめ手』と呼ぼう」(第2章「いのち」から考える)という一節に負っています。謝してここに明示させていただきます。
ちなみに、芹沢氏はその後編著者として上梓された『養育事典』(明石書店 2014.8)で「受けとめと受けとめ手」について次のように定義されています。
〈受けとめは養育の基本である。養育は受けとめから始まる。母子関係(対象関係)における母親(産みの母親)の子どもに対しとるべき基本的な姿勢及び対応を指している。とりわけ最早期においては、子どもの受けとめられ欲求(受けとめられたいという欲求)は待ったなしである。子どものこの待ったなしの受けとめられ欲求に、無条件に受けとめようとする姿勢でもって子どもに自己を差しだす人が受けとめ手である。その目的はいうまでもなく、子どもの安心と安定の環境と、そこに形成される子どもの自足的な存在感覚、すなわち「ある」の形成である。…〉

2015年9月4日金曜日

ナラティブホーム



「さようなら」「さらば」
私たちが親しんで使っている「別れことば」に「さようなら」があります。
ところが、国語辞典でしらべると、サヨウナラ(サラバ)は①元来、接続詞で「それならば」の意(広辞苑)、②語源「左様ならば(それでは)これにてごめん」(明鏡国語辞典)とあります。元来は、先行のことを受けて、後続のことが起こることを示す「左様ならば」「然らば」という意味の接続詞だった。それが別れことばとしていつの間にか独り歩きしていったというわけです。ですから「さようなら」を簡単に「グッドバイ」におきかえることはできないことになります。
ちなみに世界の「別れことば」には、①神のご加護を願うものとして「グッドバイ(Good-bye)」「アデューAdieu」など、②再会を願うものとして「シー・ユー・アゲインSee you again、再見サイチェン」など、そして③「お元気で」と願う「フェアウェルFarewel」「安寧(アンニョン)」などの三タイプに分けられる(竹内整一『やまと言葉で哲学する』春秋社)とありますが、「さようなら(さらば)」はどのタイプにも該当しません。はみ出しています。「さようなら」は、いのちことばかもしれません。

この「さようなら(さようであるならば)」が人生さいごのときに素直に言えたら、そして、その「さようなら」のことば受けて「さようであるならば」と同じように応えられるような力になれれば……。そんな絵図を描きながら高齢者介護や、終末期医療に足を踏みこんでいる医師がいました。チューリップの球根で知られる人口5万人ほどの富山県砺波市の佐藤伸彦さん。「ものがたりの郷」と名付けて、病院でも在宅でもない終末期の居場所を立ちあげています。
「ものがたりの郷」について佐藤医師はこう言い切ります。
――ここでは「ものがたられるいのち」が主役になります。
老いるとは、いままでできていたことが少しずつできなくなることです。病いや障害は重度になってくるとからだが思うようにならなくなってきます。その事態をどれだけきちんと「さようなら(さようであるか、さようであるならば)」といえるのかということが、老いを生きていくうえで大切なことです。「命」には終わりがやってきます。けれど、一人の人間の人生として、ものがたられる「いのち」があることを、いまは是非知ってほしい。ものがたられる「いのち」「さようなら」に私たち医療者も「さようなら(そうであるならば)」と受けとめ支えたい。高齢者医療は敗者処理の医療ではありません。人が、人として人間の最期の生を援助する専門医療です(『ナラティブホームの物語』医学書院)。

※「ものがたりの郷(さと)」は家族も自由に寝泊まりできる病室でもなく施設でもない。ものがたり診療所に隣接した平屋建ての賃貸アパートの15室。洋室9畳にキッチン・バスつきの約25平方メートル(家賃5万円の他介護・医療保険の自己負担と食事代等の目安で月額1318万円相当)。その大きな役割を担うのが佐藤さんが理事長の医療法人社団「ナラティブホーム」(ものがたり診療所・ものがたり訪問看護ステーション・ものがたりホームヘルパーステーション・ものがたり居宅介護支援ステーションの4事業)。スタッフは常勤医2名、非常勤医1名。看護師9名、介護福祉士8名等全26名に診療補助犬一匹。事業室は共同であり情報交換も密に行われ24時間365日対応である。

「カルテ」から「ナラティブシート」へ
「ものがたりの郷」の入居者は重度の認知症の人やがん末期の人にかぎりません。病院で治療の手だてがなく退院をうながされた人、高度医療が必要で介護施設にいられない人、脳梗塞などで寝たきりだが在宅では難しいといった人たちです。そんな人たちには、カルテにかわってナラティブシートが用意されています。患者のナラティブ(ものがたり)が日録として採用されています。
カルテはドイツ語、日本語では診療録。医師法では患者の診察をした際にその経過をのこすことが義務づけられています。簡略化した例をあげてみると、{・喉が痛い、咳が出る。体温380度、咽頭の発赤、扁桃腺の腫大あり。白血球数高値。―扁桃腺炎。―抗生剤投与、安静}です。看護記録でいえば、食事に排泄。食べて出すという人間の基本的な行動の記録がならぶことになります。それではものがたられる「いのち」の記録にならない。そこで患者Aさんの姿はナラティブ(物語り)やスタッフとの会話を日記のように、語り継ぐように忠実に記録されるのです。たとえば、認知症の人とのある日の会話から。
―誕生日。いくつになりましたか。
「わからん」
86歳ですよ。
「ほんまけ。いい年やね。満で88やろ。数えで百や。百まで生きなん!」
佐藤さんは「認知症の人は、その関係性が切れないように必死に自分のアイデンティティにしがみついているようにみえる」といいます。いのちは質だけを問うてはいけないのです。不可避としての「さようなら(そうならなければならないならば)」を前にしても、なお、いのちには深さがあるということです。

取材に伺った日(5月3日)、日当たりの良い部屋で、2年ちかく眠り続けているという80代の女性に会いました。「この部屋はサンクチュアリ(聖域)」と佐藤さんはつぶやき、わたしはその温かいからだに手を添えさせていただきました。


2015年8月19日水曜日

〈100歳〉のメッセージ



10年ほど前、同年の芹沢俊介さんと『老いの手前にたって』という対話本(2002・春秋社)を出した際、老いることへの怯えや要介護者になる不安を率直に語り合ったことを覚えています。そして、老いの潮騒に足をとられるようになったら、もうろくを濾過器として、細かいものは通して重みのあるものだけが残るはずだ―。そんな自然態をぼんやり描いたのでした。
そのなかでもうひとつ話題にしたのが〈一〇〇歳〉でした。当時、一〇〇歳を超えた人は一万五千人ほど(そのうち食事も入浴も一人ででき、自分は健康だとおもっている人は約七割)。
〈一〇〇歳〉とは、老いという過程をクリアした人、長寿というより〈超寿〉という名称がふさわしい、そんな存在にちがいないということでした。そして今日、一〇〇歳を超える人は五万九千人(そのうち、女性が七八%・2014年9月現在)。さらに増えていくでしょう。

いま話題の美術家篠田桃紅女史(1913年生まれ)のメッセージが埋まっている『一〇三歳になってわかったこと』を採りあげてみます。
歳相応という言葉があります。「年甲斐もなく」とか「いい歳をして」とか、何歳でなにをするかが人の生き方の指標になっている。けれど、生涯独り身で家庭をもたなかった著者は答えています。
90歳代まではこまったときどうしたらいいのか、参考にする先人がいた。けれど、一〇〇歳を超えると前例はなくお手本もない。自らに由って生きている時間で、すべて自分で創造していきていくほかない。一〇〇歳はこの世の治外法権」だとあります。その日常世界を訪ねてみました。

1 達観して見ることができるようになった。
 「あれができたのにもうできなくなった、自分というものの限界を知ります。歳をとったから失っていくもの、もう得られないもの、それらを達観してみることができるようになりました」
2 過去を見る目の高さが年々上がってきた。
 「同じ過去が、一〇年前の九〇歳代といまとではずいぶん違ってみえます。自分の見る目の高さが年々上がってきます。いままでこうだと思っていたものが、少し違って見えます。同じことが違うのです。自分の足跡、過去に対してだけではなく、同じ地平を歩いた友人のこと、社会一般、すべてにおいて違うのです」
3 目の高さがかわると昔話が多くなる。
 「若いときはたくさんの未来と夢を見ていました。あそこに行きたい、あれを食べたい、こんな人にあいたい。しかし、長く生きると、自分の目は未来より過去を見ていることに気付きます。年寄りは昔話ばかりするといわれますが、他に話題がないからではなく、自分の見る目の高さが変わるから、自然と昔話が多くなるのだとおもいます」
4 片足はあの世にある感覚。
「自分というものを、自分から離れて別の立場から見ている自分がいます。高いところから自分を俯瞰している感覚です。生きながらにして、片足はあの世にあるように感じます」

一〇〇歳を過ぎて生きるとはどういうことか。自らの意思を超えて、「おのずからなる世界」に入っていく感覚だとあります。「片足はあの世にある」というようだともあります。すると、親鸞の自然のままにという「自然法爾(じねんほうに)」の教えに近いことに気づかされます。
 〈自然といふは、自は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず。……自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。(『末燈鈔』
この世にはおのずからという「自然」の働きがはたらいていて、それはわれわれの計らいではどうにもならないことであり、この世のことは善いことをしたから善い結果が得られるとか、悪いことをしたから悪い結果になるといったようなものではないといいます。親鸞はここで、「はからひ」を超えてはたらく「おのずから」という「自然」のはたらきに、われわれを救いとってくれる阿弥陀仏の働きを見ようとしています。

篠田女史(映画監督篠田正治氏は従弟)は、初めて身内の死に接した五歳のときから次々と姉弟、友人を失った(その経緯には触れられていない)。人は運命というものの前に、いかに弱いものか。若い頃から「身の程をわきまえ、自然に対して謙虚でなくてはならない」「人は傲慢になれる所以はない」と戒めてきたといいます。「いつ死んでもいいと自分に言い聞かせている」けれど、「生きているかぎり人生は未完」と受けとめているといいます。
「いまは、私より先に亡くなった人たちのことを、後世に語っておくことが私の義務かもしれない。また、もし彼らが生きていたらどうであろうと考えるのは、その人への供養なのかもしれない」
このさきに「息を引きとる」ということばを重ねてみると、親鸞にしたがえば仏に救いとられていく正定聚のすがたがみえます。ところで、『臨死のまなざし』や『日本人の死生観』などで知られる立川昭二さんは、息を「引きとる」には、息を「手もとに引き受ける」という意味と、息を「もとに戻す」という意味があること。さらにその先に息を「引き継ぐ」という意味があるといいます(『年をとって初めてわかること』)。
「息を引きとる」とは生と死は断絶ではなく、ものがたられる〈いのちの継承〉という日本人のメンタリティ(心性)の映しことばとして聴くことができます。

『一〇三歳になってわかったこと』もまた、いのち継ぐメッセージのひとつでした。

2015年7月31日金曜日

悼詞(とうし)



《人は死ぬから えらい どの人も 死ぬからえらい。
 わたしは 生きているので
 これまでに 死んだ人たちを たたえる。……。》

7月20日、哲学者鶴見俊輔さんが93歳で亡くなった。1960年代、いわゆる安保世代のわたしにとっては、3年前の吉本隆明さんの死(1924-2012)とあわせて“戦後”という指標の旗と幕が消えたことを確認することになったといえます。そして、その訃報を耳にして、すぐに本棚から探し出したのは、「私は不良少年だった」に始まる鶴見さんの自伝『期待と回想』ではなく、追悼文や弔辞を収めた『悼詞』(SORE 2008年)。上記の詩篇はその冒頭に掲げられていました。
《人は死ぬから えらい どの人も 死ぬからえらい》 このことばを口にして、大事なことを忘れていたという思いでした。人は誰もが死ぬことは知っている。いつか死ぬと思っている。けれど、目の前で死んでいくのはいつも私以外のだれかだということ。このおどろきから「わたしは (まだ)生きているので これまでに 死んだ人たちをたたえる」とつぶやいてみます。
すると、死者を悼むことばのうちに、生(いのち)のすがたかたちが凛として立ち上がってくるのです。

悼詞とは人の死をいたみとむらう詞。『悼詞』に収録された弔辞・追悼文は鶴見さんの交流の広さ深さを示す125人。作家、学者にとどまりません。銀行家の池田成彬(1950年没)からマンガ家の赤塚不二夫(2008年没)まで、ざっと410頁。どのページを開けてもいいのですが、たとえば、
「姉について 鶴見和子」(社会学者 1918-2006)の書き出しです。
死ぬ前に姉は私に言った。
「あなたは一生私を馬鹿にしていたんでしょう」
私は答えなかった。これから死んでゆく人に、いやそんなことはありません、尊敬していましたとおざなりのことを言うことはできない。
私は14歳のころ、東中野のカフェの女性としたしくなり、当時、津田塾の学生だった私の姉に手紙を託してもっていってもらった。私の姉は、私の委託にこたえて、学校帰りに、その手紙をとどけてくれた。
私の姉の介在によって、よい首尾だった。
こういう自分の利益のために、姉を使うことは、私の生涯、とくに、始めの五分の一において、しばしばだった。
その大恩ある人に対して死を前にして、何が言えよう。…(2006年)

ここには、場面の痛切(切実)さがそのまま悼詞になっています。そして、もう一人、岡部伊都子(随筆家 1922-2008)心に残るひとすじの生涯。わたしにとっても忘れがたい人なので、全文を引きます。

自分には病歴だけあって、学歴はない――。この言葉を遺して岡部伊都子さんは85歳の生涯を生きた。
心に残るひとすじの生涯だった。
1960年秋、神戸の「声なき声の会」で会った時から半世紀に近く、長いおつきあいだった。
もっと早く『おむすびの味』という著書を読んでいた。料理について書く人だとおもっていた。その人が、安保条約の強行採決に抗議する市民集会に出て、手を挙げて発言した。意外に思ったのだったが、後に彼女の生きた筋道を知ると、意外ではなくなった。
女学校2年で中退を余儀なくされ、後は1日の大半を寝て、本を読んで暮らした。小康を得て、婚約。その人は沖縄で戦死した。戦後、婚家を出て破産した実家に戻り、母との二人暮らしにはいる。ラジオへの投稿が放送され、それからは定期的に書くようになった。
岡部さんの文章はこのように特別の誕生をもった。敗戦から間もないころは、夏は戸を開け放ち、道行く人の耳にラジオの声が入ってくる時代だった。
「恋はやさし、と申しますが、そうでしょうか。」
道を歩く人の耳に、この書き出しが響くとき、その人は、一日の終わりまで忘れない。
そういう文体を、岡部さんは身につけた。病弱の生涯を、文章一筋に85年生きたのは、このたぐいまれなスタイルに負っている。
料理について、着物について書くこともあった。寺のたたずまいについて、山々の景色についても。
それらにも増して、彼女のこころには、戦争を受け入れることの出来ない婚約者を、そのとき理解することのなかった自分があった。沖縄は彼女の心に帰ってきて、去ることはなかった。戦争が終わって六十余年、彼女の中で燃え続けた炎は、消えることがなかった。
美しい人だった。その文章と面影は心に残っている。(2008年)

ここには、亡くなった人と生きている人の区別がありません。死者生者混ざり合って心がゆききしています。「悼死」の文章に共通項があるとしたら、人の死を契機にして書かれた掌編のにんげん論になっていることでしょう。

そして、もうひとつ。今回鶴見さんが亡くなった直後の『悼詞』では、以前ならほとんど気にもとめなかっただろう「あとがき」のことばが目に飛びこんできました。
「この本を読みなおしてみると、私がつきあいの中で傷つけた人のことを書いていない。こどものころのことだけでなく、86年にわたって傷つけた人のこと。そう自覚するときの自分の傷をのこしたまま、この本を閉じる。 2008年8月18日 鶴見俊輔」

「悼詞」には、ひとを傷つけることなく生きていくことはできないという自戒もまた含まれているということです。合掌。

2015年7月15日水曜日

患者になること


病い(illness)は患者が医師のもとを訪ねるまでのものである。
疾患(disease)は受診のあと、患者が帰途についたときのものである。(作者不詳)

このフレーズは、病院で生まれ、病院(医療施設等)で死ぬ時代、つまり「病院化社会」を患者として生きる、その第一歩が書き込まれています。
患者は自分の病illnessについて物語る(ナラティブ)ために医師のもとに駆け込んでいます。最初にいつごろ心や身体の不調に気づくようになったか、どのような症状がはじまり、どのように進展して、結果として医師の相談しようとおもうにいたったかを説明したいわけです。ところが、医師は患者の病い(illness)の物語りをしっかり聴きとることはめったにありません。医師は平均すると患者の語り(ナラティブ)をたった18秒でさえぎる(平均しても28.6秒しか続かないとも、あるデータ)。
それだけ聴けば十分というのではありません。今日の医療社会はEBM(エビデンス・ベイスト・メディスン)を通して、つまり多岐にわたる検査や医療統計学等「科学的根拠」にしたがって、医師は患者の語る病いillness)を疾患(disease)の物語に移し替えて患者に語りかけることになります。つまり、病名をもらって医師のもとから帰途に向かったときから、血糖値や血圧等を気にする患者の生活に入ることになるわけです。
参考までに、EBM「科学的根拠に基づいた医学」(Evidence-Based Medicine)宣言は1992年アメリカ医師会雑誌に掲載されています。冒頭箇所は、「に基づいた医学は、直観、系統的でない臨床経験、病態生理学的合理付けを、臨床判断の十分な基本的根拠としては重要視しない。そして、臨床研究からの根拠の検証を重要視する。(津田敏秀『医学的根拠とは何か』岩波新書)

21世紀の医療社会。病気になる(患者になる)とは、診断を受けても「医学のことはよくわからないので、先生におまかせします」「先生の一番いいとおもわれる治療法でやってください」といった「おまかせ医療」ではすまなくなってきました。
1980年代半ば、もう30年前ですが長野県の総合病院で「患者が主役」「患者本位の医療」などを掲げて看護師たちといっしょに「入院案内(病院案内ではない)」を作成したことがありますが、その際、参考資料として病院から手渡されたのは「入院心得」でした。当時はこうした表記を異様なことだとおもう患者も医療者もいませんでした。
「患者との人間関係までを含めた医療学」の必要性を説く声(河合隼雄)がでてくるなかで登場したのが「患者学」でした。

『患者革命』の著者中島みちは次のように規定してみせました。
「患者の身体についての情報は基本的に患者自身のものであること。そして医療者は患者に対し、患者が自分の身体で引き受ける医療について理解し納得できるように支える務めがあること」
ここで患者革命! とは患者が医療を革命的に変えることなのか、それとも患者が変わることなのか。著者は「両方です」と言いきっています。患者の意識が変われば医療の現場の患者への対応も変わらずにはいられなくなる。また患者の立場に立って考える人が増えれば医療のシステムを患者中心に変えていくことができるのだというように。
患者学という表現について考えるとすぐ思い出される用語に、インフォームド・コンセント(informed consent)があります。医師会によって「説明と同意」と訳され、ながいあいだ医師が患者に同意を取り付ける手続きになっていました。

重大な病気に直面したとき私たちは医療者の前でどのような患者になればいいのか。
このような「病院化社会」の到来によって引き出されたのが患者学でした。『元気が出る患者学』(2003年)の著者(柳田邦男)は、病気と治療法について正しい知識と情報をもつこと。そのうえで、医師の前でどんな患者であるべきかを「診療の受け方10カ条」として提示しています。そのなかでは、「不安なときはセカンドオピニオンへの協力を求める」「自分の家族事情、仕事、生き方、死生観を伝える」そして「医療にも限界があることを知る」などが目を引きます。ことに「医療にも限界があること」。病気に勝てない時がくる。そのときに問われるのが死生観であり患者としての「生き方」だ。考える患者になってほしい、この一点が医学・医療学にない「患者学」の核心だったということになります。

医療社会はいまや三人に1人ががん患者になるといわれています。さいごに採り上げたい一冊は『がん患者学』(柳原和子・晶文社 2000年)。
柳原さんこそ「患者学」の命名者といえます。著者は、自身の五年生存率20パーセントと告げられた卵巣がんでの闘病体験からがん患者としての人生を考えた人でした。自らの治療のために5年、10年と長期生存をとげている患者を直接訪ね、抗がん剤治療の体験を聴き、栄養学から食生活までの記録を集め、がん専門医には質問を繰り返した600ページの大冊です。死と向き合いつつ「医療社会」を生きる患者の姿が浮き彫りにされています。さらに柳原和子さんは自らのがん再発日記のかたちで、がん患者として生ききった記録を『百万回の永訣』(中央公論社 2005年)として遺しました。過酷な記録を通してもなお、いかにいのちを自己受けとめできるのか、その問いが読後に突きささってきます。
(注)作者不詳。『ナラティブ・ベイスト・メディスン』(金剛出版)より


2015年6月28日日曜日

回生

リハビリ
数年前、ある雑誌から「リハビリ中の人に勇気を与える3冊」というアンケートに応えて挙げた本があります。一つは大島渚(2013年没)の『癒されゆく日々』(NHK出版)。大島さんは1996年2月に脳卒中を発症以来、入院、要療養、通院を通してのリハビリがそのまま日常化したかたちで生活が取り込まれていました。
本人にとってリハビリとはどんなものだったのか。たとえば右手が動かない。「麻痺している」と断定したいほどぴくりもとうごきません。しかし療法士に「これは麻痺ではありません」「それは失調した右手です」と言いきかされて療法を続けました。
つまり、療法士によるリハビリは、失われた機能を回復するというよりは「放置すれば退化してしまう身体機能をそのまま維持していくこと」に重点が置かれていることでした。大島さんは日々のリハビリ表現がそのまま社会復帰へとつながり、その後映画『御法度』を完成させたのでした。

二つ目は同じく脳卒中で死線をさまよった後帰還してきた免疫学者(能作者でもある)多田富雄(19342009)の『寡黙なる巨人』(集英社)。多田さんは2001年に仕事先で倒れ(脳梗塞)、重度の右半身不随、構語障害さらに嚥下障害に陥る。闘病生活については逐次エッセイ(「鈍重なる巨人」「死の中からの生」他)等で発表されました。
意識が戻ったとき、真っ先に死を願った。体は麻痺して寝返りもうてない。声も出ないから苦しさを訴えることもできない。舌が落ち込んで息ができないから、体を45度に傾けて寝ていなければならない。口からはなにも食べられず、体は何本もの管につながれていた。それでも大小便は出る。それをとってもらうのは地獄の苦しみだ。「強制的に生きさせられる者の受苦だ」とあります。
しかし、なんとか死地を脱したとき、「自分の置かれた状態」の受けとめの試練に多田さんはたちむかったのです。リハビリです。
―麻痺した右半身はもう元に戻るはずがない。医師の端くれだからそんなことはわかる。けれど、幸いかけ算も物の名前も覚えている。認識能力に異常はなかった。そうなら少しでも言葉が口にできるように、チューブからではなく口からものを食べることができるようにするべきだ。

はじめはベッドに座ることも、車椅子に乗り移ることもできない。人に抱えられながらリハビリ室に通う。口が利けないから、黙々と従うほかなかった。そんなある日、麻痺していた右足の親指がぴくりと動いた。予期しなかったことで半信半疑で、何度か試しているうちにまた動かなくなった。しかし、この事実は勇気を与えたのです。
「かすかな頼りない動きであったが、はじめての自発運動だったので私は妻と何度も確かめ合って喜びの涙を流しました。自分の中で何かが生まれている感じでした。…希望のあいまいな形が現れてきたような気がしました」(「鈍重なる巨人」)
ぴくりと動いた右足の親指から後遺症の現実を超えるいのちの源を感じ取ったのです。「体は回復しないが、生命は回復している。その生命は新しい人のものです」
「リハビリとは、単なる機能回復訓練ではない。生命力の回復、生きる実感の回復だ」
その後左手だけでパソコンを打ち文筆生活を送ることを可能にしたのでした。

関連して3冊目として多田富雄×鶴見和子の往復書簡『邂逅』(藤原書店・2003)を挙げました。社会学者(歌人でもある)の鶴見和子(1918-2006)さんは脳出血で倒れ運動神経は壊滅状態で左片麻痺の身体とともに11年現役として全うされましたが、その間多田さんと鶴見さんは病前には一度も相まみえることはありませんでした。
書簡の中で鶴見さんは、脳出血で倒れた後の自分の変化を「回生」という言葉にしてみせました。倒れた当初、まだ歩けないときには自分は死んだと思っていた。だが言語能力と認識能力は完全に残っていたので、自分は「半分死んで半分生きている、死者と生者がわたしのなかにともに生きている」そういう思いが続いた。そこに「歩いて回生の一歩をはじめる」リハビリへの展開があったのです。

鶴見さんはリハビリ訓練を当初は「回生の道場」と見て、「回生の花道とせむ冬枯れし田んぼにたてる小さき病院」と詠んでいます。しかし、病院を車椅子で出るわけにはいかない。歩いて出なければ。そんな熱い思いから「回生の花道」としたといいます。鶴見さんは書簡で多田さんに力説している。
1997年は、わたしにとって回生――本当の意味の『回生』元年になりました。そこで、それ以前と以後との違いを考えてみると、人間は倒れてのちにはじまりがある、決してそのままで熄むのではない。それは何かというと、人間にとって『歩く』ということは生きることの基本的な力になる。だから、もしその潜在能力が少しでも残っているならば、どうしても『歩く』ことが生きるために必要になります。わたしは、1995年に倒れたけれど、1997年に歩きはじめて、本当の意味での『回生』が始まったのです」

このように比較してみると、二人はリハビリテーションから独自なかたちで生命の源泉にふれていたことがわかります。
半身の自由と声とを失いながら脳梗塞から生還した多田富雄さんは「体は回復しないが、生命は回復している。その生命は新しい人のものです」というように。
そして脳出血から帰還した鶴見和子さんは、身体障害者として新しい人生を切り開く覚悟を「回生」ということばにして、こんな歌を遺しました。
感受性の貧しかりしを嘆くなり倒れし前の我が身我がこころ

この二人の巨人の肉声を通して、わたしは〈超寿〉ということばを受け取ったようにおもったのです。これは赤ん坊が直立歩行に向かい言葉を手にする(つまり、人間になる)満一歳までのバイタルパワーに匹敵する、生命意思のようなものにちがいありません。リハビリ訓練の何よりの力は、生への限りない意欲を高める〈超寿〉への刺激、揺さぶりにあるのです。さいごに多田さんのメッセージです。

「リハビリは単なる機能回復訓練ではない。心身に障害を負ったものの社会復帰を含めた、人間の尊厳の回復、全人的復権である。ことばをしゃべる能力も直立二足歩行を回復することも基本的人権に属する」

2015年6月21日日曜日

アルツハイマー


アルツハイマー病の告知
この春、67歳の知人女性から「やっと第2の人生が始まるとおもったのに、認知症になった。アルツハイマー病です」とメールが届きました。認知症患者に同行したついでに検査の受けたというのです。まさかと、本人にも自覚症状はなく、簡易知能評価スケールでも27点(満点30点)。ライターとしての仕事になんの支障もでていない。ごく最近まで「告知」といえば、早期発見早期治療という立場からの「がん告知」をさしていました。

認知症といえばアルツハイマー病。高齢者の知的退行のもっとも多い疾患とされるもので、脳の萎縮と大脳皮質の老人班が特徴で症状が進行するといわれてきました。
この名称がひろく知られるようになったのは先進諸国が高齢社会を迎えた20年ほどのことで、そのエポックメーキングになったのは1994年、アメリカ合衆国元大統領ロナルド・レーガンの国民への次のようなメッセージからでした。
「先日、ある人からわたしはアルツハイマー病にかかっている数百万のアメリカ人の一人である、と告げられた。ナンシー(妻)と私は、私人としてこの事実を受け止めるか、あるいは世間に公表すべきか、決心しなければならなかった。そして私たちは、世間に公表することが重要だと感じた」(2004年6月5日死去)。
『ベン・ハー』でアカデミー賞に輝いた映画スターのチャールトン・ヘストンも「いまアルツハイマー病を患っている。もしあなた方の名前を思いだせなくなったり、同じはなしを繰り返したら、この病気のせいだ。ゆるしてほしい。役者としてこれまで恵まれた人生だった。わたしはまだ、あきらめないし屈伏もしない」と公表したのは2002年でした。

アルツハイマー病「第1症例」
アルツハイマー病とは、その特異症例を公表(1906年)した精神科医アロイス・アルツハイマーの名前がそのままつけられています。けれど、その信憑性はながいあいだ疑われていました。肝心の「第一症例」の記録が見当たらなかったからです。発掘(正確には再発見)されたのはレーガン元大統領の“告知”の翌年(1995年)、フランクフルト大学の病院地下の精神科書庫の奥からでした。
そのカルテは衝撃的な記載から始まっていた。
「あなたのお名前は?」
「アウグステ」。
「姓は?」
「アウグステ」
「あなたのご主人のお名前は?」「アウグステだと思います」
「ご主人ですよ?」「あっそう、主人の…」
19011126日にアルツハイマー自身が記載した第一患者アウグステ・Dの初日のカルテです(1901年といえば、第1回ノーベル物理学賞受賞者にレントゲンがいた)。   さらに3日後の記述もこうだ。
「ご機嫌はいかがですか」
「いつもと一緒です。いったい誰がわたしをここへ連れてきたんですか?」
「ここはどこですか?」
「さしあたって今いったようにお金がないんです。自分でもわからないわ、まったくわからないの、何ていうことなんでしょう、どうすりゃいいの?」
「お名前は?」
「D・アウグステ夫人!」
このような会話のやりとりに出くわすと、介護保険利用の際の要介護度アセスメント(記憶障害、見当織障害等の)と重なってくるほどそっくりです。
カルテの主はアウグステ・D。1850年5月16日生まれの鉄道書記官の妻、51歳。夫への不信から奇妙な行動をとるようになった。知人に対して恐怖心を抱く。家中のありとあらゆるものをどこかに隠し、あとで見つけることができなかった。アルツハイマーはそんな健忘症と病的な嫉妬の裏に特異な病気が潜むと考え、彼女が亡くなるまでの5年間毎日のように診察し詳細に記録し、そして死後に脳を解剖した。
その成果はその年の精神科医学会で「大脳皮質における特異で重篤な疾患の経過について」と題してアルツハイマー自身がスライド等をつかって発表した。会場には若き日のユングらもいたというが、質問もないまま見事に無視された。
この歴史的発表がなぜ注目されなかったのかは20世紀初頭の精神医学界の潮流と深く関係していたのはいうまでもありません。「第一症例」の発見者コンラート・マウラーはアルツハイマーの伝記(『アルツハイマー その生涯とアルツハイマー病発見の軌跡』(保健同人社)のなかでそのあたりも興味深く伝えています。

21世紀の病い
アルツハイマー(18641915)は、ベルリンの大学で精神病に脳病理学をとりいれた講義を聴いて「顕微鏡の精神医学」に関心をもったといいます。当時の精神医学には二つの潮流があり、もっとも力があったのは精神病の原因を心にもとめる精神派でその雄といえばいうまでもなくジクムント・フロイトでした。アルツハイマーはフロイトと並び“現代精神医学の父”と称された身体派の雄クレペリンのもとで精神病の解剖学的基盤の解明に取り組んでいたのです。けれど、脳を顕微鏡で覗いてなにがわかるのか、と学会ではまったく相手にされませんでした。関心がフロイトの精神分析のほうに集中していたのは当然でした。
しかし、フロイトに批判的だった師のクレペリンが、アルツハイマーの論文「大脳皮質の特異な疾患について」をもとに自身の教科書のなかで「臨床的解釈は現時点では不明である」としながらも、アルツハイマー病の名前をつけて分類し歴史上に刻印(1910年)したことです。

1915年、アルツハイマーが51歳で死去した際の弔辞・弔文でもアルツハイマー病にふれられることはなく、わずかに娘婿が「1906年、それまでに知られていない特異な疾患をアルツハイマーは詳細に記載した。大脳皮質に特異物質が沈着し、細繊維が太い束と叢に変化することがもっとも顕著な解剖的特徴である。今日われわれはこの病気をクレペリンにしたがい“アルツハイマー病”と呼んでいる」とふれただけだったのです。
病名として一人歩きしてきたアルツハイマー病の第一例「アウグステ・D」の詳細なカルテがコンラート・マウラーによって病院地下から発見されたのは80年後。そして「フランクフルトで精神科医として勤務していたアロイス・アルツハイマーの当初の診断は誤りがなかった。彼が診断した患者アウグステ・Dは実際にアルツハイマー型痴呆に罹患していた」(1998年、フランクフルター・アルゲマイネ紙)と認知されたのです。

ざっと100年、精神科医アロイス・アルツハイマーは長寿の深淵をひらく病いを21世紀に届けたのです。

2015年5月25日月曜日

逝く力、看取る力



3年前、二人の在宅医のホスピス活動にふれた語らいと講演を一冊にした『病院で死ぬのはもったいない―〈いのち〉を受けとめる新しい町へ』(春秋社 2012)があります。
一人は山崎章郎さん(ケアタウン小平クリニック院長 東京)。「病院は死にゆく人の支えにはならない」と外科医の声を伝えた『病院で死ぬということ』(1990年)は、ひろく読まれ、わが国ホスピス運動の先駆けにもなりました。近年は東京郊外の半径3~5キロにしぼったエリアで医療・看護・介護等から子育てまで、ケアの循環と地域ネットワークが一つになる町づくりがすすめられています。
もう一人は福岡市で外科医から在宅医に転進してキャリア20年、『在宅ホスピス物語』(青海社 2011)の二ノ坂保喜さん(にのさかクリニック院長)。活動は多彩で、バングラディッシュでの医療ボランティア活動をはじめ、重度の障害児の一時預かりの場所として民家を改修した「地域生活センター・小さなたね」の開設など、「人権としてのホスピス」という立場にたって行動している医師でもあります。
本書は多くの読者のこころをとらえましたが、わたしが二人のホスピス医から学んだことは、「人はだれもが逝く力を備えており、また人はだれもが看取る力をもっている」ということでした。

逝く力について
山崎章郎さんはこんな語り口で話してくれました。
70歳の女性患者に、「Aさんはいまのご自分の状態をどんなふうに考えていますか」と聞いたんですね。そのわたしの問いかけに患者さんは言葉が詰まってしまったんです。しばらく沈黙があってそのうちに閉じた瞼から涙がにじみ出てきました。そしてか細い声で「余命いくばくもないと思っています」と応えてくださった。それで「余命いくばくもないと考えているんですね。そう感じているんですね」というと、患者さんは閉眼したままうなずきました。そこで「では、もし余命いくばくもないんだったら、これからどうしたいですか」と聞いた。その方は目を開けて「毎日孫に会いたい」と言ったんですよ。「え、どのようなお孫さんですか」ってわたしが聞いたら急にニコッとして孫の自慢話をはじめて「そういうお孫さんだったら毎日会いたいですね」って。それで、われわれの話を固唾を呑むように聴いていたご家族に「Aさんに、毎日お孫さんに会わせてあげてください」とわたしが言ったら、ご家族はほっとした表情で大きく頷いたんです。〉
山崎さんは、Aさんが死を受けとめようとしている場面に「逝く力」をみたのです。そして、この患者の逝く力を支えるために、お孫さんを引き合いにして、家族の「看取る力」が引き出されたのです。

看取る力について
二ノ坂保喜さんは「看取り」の力が立ち上がる場面をある情景から引き出しています。
〈肝臓がん・肝硬変の女性の方でしたが、吐血したんですね。余命があと1~2週間という方。そうすると家族がわっと集まって(動揺して)、もうこれ以上は無理だ、お母さんが倒れてしまう。だから、入院させましょう、入院させると安心だって(救急車を呼ぼうと)いうんです。入院させると安心って誰が安心ですか。自分たちが安心なんです。もう少し突っ込んで「じゃあ本人にとってはどうですか」と問います。「病院に行っても、病気そのものは治らないので症状は変わらない。でも病院にいったらどうなるかっていうと、患者さんにとっては家族から離されるという孤独を背負わされることになります」〉
二ノ坂さんはそこで、家族にこんな訴えをしてみます。「入院するのは治って帰るために入院するんですね。でもいま入院すると家族から見放されて孤独のなかで死んでいくために入院することになります。吐血などには私たちがちゃんとします。最期まで必ず対処します、いまはお母さんの一大事なのだから、少し無理をしてでも、皆さんおかあさんのそばにいてあげてくれませんか」と〉
ここで家族みんなの看取る力が一つになり、「逝く力」の支えになっていったのです。
この二人の語り口からは、これまで千人を超える人を看取り見送ってきた市井医ならではの、深い洞察とその立ち位置からの配慮が伝わってきます。
あらためて「人は〈いのち〉を受けとめる力をもっている」ということを教えられたのでした。

[お知らせ]3人の会が発足しました。
数年来「ホスピスは定着したのか、これでいいのか?」という問題意識を共有するようになっていた3人(山崎章郎・二ノ坂保喜・米沢慧)が3年前(20121229日)、大阪に集まって語り合った4時間の内容を主にまとめたのが『病院で死ぬのはもったいない』でした。出版後には、日本ホスピス在宅研究会長崎大会、日本死の臨床研究会年次大会(別府)等でも3人で語り合う機会がありました。各地で運動体のような集いができたらと考えて、今年の1月11日、二ノ坂保喜さんの日本医師会赤ひげ大賞受賞記念祝賀会の席上、「3人の会」発足を宣言しました。
3人それぞれの経験や考えを各地で披露し、地域の在宅医・ホスピス運動家と共に語り合い、地域の人たちといのちを受けとめる運動を定着させることができればと考えています。現在、福岡県宗像市(9月)、佐賀県(8月)などから声をかけて頂いています。先ずは直近の6月14日(日)、「大和生と死を考える会」22周年記念講演会のポスターを添付しました。午後の4時間を割いて3人の講演とシンポジウムを予定しています。


2015年5月12日火曜日

せわぁない(世話ぁない)


大河ドラマ「花燃ゆ」を観ながら、ほぼ毎回出くわしたセリフに「せわぁない」があります。とくに吉田松陰の母親である滝が口にします。松陰が脱藩や建白書、密航そして投獄といった破天荒な行動を続けるなかで、韻を押すかのように「せわぁない」ということばが笑みとともに飛び出す。その絶妙の間にはしばしば感服します。
「いいセリフだなあ」とおもいます。人のふるまいと場面がこの一言で和むのです。
「せわぁない」は、「気にかけなくていい、心配はいらない」あるいは「大丈夫、大したことはない」というニュアンスで使われる長州ことば(山口県)になっていますが、実は私が生まれ育った奥出雲(島根県)でも、よく耳にした馴染みのあるものでした。
「せわぁない?」「せわぁないがねー」
弱虫だった子どもの頃、母もまた、わたしの前で何度か口にしたことばだったのです。

「世話」「世話をする」といえば、介護、介護する。面倒をみる。Take care of …。
「世話を焼く」もあり、「世話になる」や「世話が焼ける」に「世話がない」など、私たちは「世話」ことばのなかで暮らしています。
「せわぁない」とは「世話ぁない」。世話をしたり、世話になったりがないこと。けれど、「世話」が閉め出された、かといって、見放さない。手放さないで配慮がなされている様子であり、関わりとして見えてきます。
もし「せわぁない(世話ぁない)」という環境が整えられたら、世話にまつわる規範や約束事を打ち消した新鮮なコミュニティが誕生し、福祉社会が成就したといえるかもしれません。

「ぼけてもいいよ」
「せわぁない(世話ぁない)」に匹敵する環境を介護現場でみつけることは出来ないでしょうか。そのヒントになることばに「ぼけてもいいよ」があります。
福岡市内で早い時期(1991年)に「ぼけても住みなれた町で、普通に暮らしたい」という人たちのケアに取り組んで誕生した「宅老所・よりあい」(代表・下村恵美子)。実はその第2宅老所所長村瀬孝生さんの『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社 2006年)という“名著”に由来します。毎朝10数人の人がやってきて身を寄せ合って一日をすごす一軒の民家ですが、ここには不思議なことに「世話をする」という介護の構えがまったくみえません。訪ねて気付いたのはまさに(ぼけても)せわぁない(世話ぁない)」という解放区にみえたことでした。
そんな環境をつくりだしたエピソードのひとつ、〈湯飲みをキャッチする営み〉という見出しのついた一文をあげてみます。

次郎さんはよく物を投げた。言葉を失いかけていた次郎さんは、「アアアア~ッ」と奇声を上げながら、目についたものを手当たりしだいに投げるのだ。
それぞれが自宅から集い、「おはようございます」とあいさつを交わしながら席につく。のどが渇いていようがいまいがとりあえずお茶をだす。そのお茶の入った湯飲みを次郎さんは投げる。

チョロと湯飲みに口をつけ、すすったか否か、その瞬間に「アアアア~ッ」と声をあげる。そして湯飲みが放たれる。湯飲みから飛び出すお茶は周囲を水浸しにしながら大きな音を立てて座卓の上に落下し、転がる。
のけぞる人。逃げる人。「なんなっ! そげなことをしたらいかん!」と烈火のごとく怒る人。「あ~あ」と消極的な非難の声をあげる人。あたりは騒然と化す。

僕たちは葛藤した。お茶を差しだせば必ずそれを投げることは目に見えている。だからといって次郎さんにはお茶を出さないと結論づけるのはあまりに差別的。第一、このままだと次郎さんが孤立する。
湯飲みを投げないように職員が阻止すると、次郎さんの興奮はさらに加速する。どうしたらよいものか。

ある日のこと。次郎さんはいつものように湯飲みを投げた。職員はその湯飲みを落としてなるものかと、決死のダイビングで上手に受けとめたのだ。すると周囲は「よくやった」と歓喜に包まれた。投げることへの非難から受け取ったことへのよろこびへと、場の雰囲気がとってかわる。
この日を境に、僕たちは阻止するのではなく、うまく受け取ることに専念することにした。投げる人と受け取る人がいることで場は大いに盛り上がった。
その次郎さんも、最近は湯飲みをなげない。すっかり落ち着いてしまった。投げる人がいないので場がちっとも盛り上がらないのだ。

村瀬さんは、このエピソードを通して『呆け』の多くは孤独であること、あるいは孤立していることが原因のひとつではないか、というのです。「よく分からないものを分からぬままに、あえて立ち入ることなく添い続ける。意味のある無しにかかわらず、それを受け入れる余白が社会にあることだ」と。この「余白」こそが、「ぼけてもいいよ」と「せわぁない」という環境を一つにしているようにおもいます。

この4月、新設の特別養護老人ホーム「よりあいの森」(3ユニット・28人)のボスになった村瀬さんは、それぞれのユニットの名前が「ばんざい」「わっしょい」「あっぱれ」に決まったことをうれしそうに話してくれました。命名は最初に入居してきたひとの第一声が「ばんざい」だった、そして「わっしょい」「あっぱれ」と続いたからだといいます。

「せわぁない」という声の主はだれなのかをよく熟知している人の笑顔がそこにありました。

2015年4月22日水曜日

ホームホスピス 共暮らし


日本の風土から生まれたホスピス運動
「ホームホスピスかあさんの家」は10周年を迎え、各地に広がる運動の中で「ホームホスピス」「かあさんの家」という呼称だけが一人歩きをはじめて、高齢者向けのアパートの冠に使用されたり、貧困ビジネスすれすれのものまで登場するようになったのです。そこで全国ホームホスピス推進委員会をつくり、『ホームホスピス「かあさんの家」のつくりかた』の理念を公開し、その活動を「ホームホスピスかあさんの家」と商標登録することでホスピス運動としての性格が鮮明になりました。その理念は、大きく分けると次の5つになっています。

第1 住まい 既存住宅、空き家を活用する。地域住民に馴染みの環境であること。
・以前は診療所があった家を改装したもの(神戸なごみの里・雲雀丘)
・田園地帯で敷地内に納屋がある典型的な農家の家屋(熊本市・われもこう)
・広い敷地に70坪の畑のある古民家(福岡県久留米市・たんがくの家)
第2 暮らし 一軒あたり5,6人の小規模であること。
・ともに暮らす住人同士のつながりができること。
・本人の希望を支え、本人のもてる力に働きかけること。
・家族の意思を尊重すること。
第3 看取り 生活の延長戦上にある自然死の尊重。家族の看取りを支える。
・家族の出入りが自由で、泊まることもできる。
・エンゼルケアを一緒に行う
第4 連携 地域の社会資源を利用し、様々な職種と連携していること。
・ケアプランには、フォーマル、インフォーマルが混在する。
・かかりつけ医と訪問看護サービスが導入されていること。
・家族もチームの一員であり、家族の力を奪わないようにすること。
第5 地域づくり 地域住民との連携、日頃からコミュニケーションをはかる
・地域の「看取り文化」の継承とコミュニティ医の再生をめざす
・実習生や研修生をの受け入れとボランティア活動

ホームホスピスはかたくなに定員5人。5人の入居者にヘルパー5人、日中2人、夜間は1人の24時間交替制で入居者の日々を支えている。また、入居者にはそれぞれ個別のケア・マネージャーがついています。
制度の制約にしばられることなくお年寄りや重篤な病いをもつ人が棲み暮らす小さな「家」であることが念頭におかれています。そこを基点にして医療・看護・福祉が地域のなかで有機的につながり展開していくこと。リーダーの市原美穂さんはそれを「ムーブメント」と呼んでいます。これらを整理すると次のことが確認できるとおもいます。
①「かあさんの家」は看取りに焦点をあてるのではなく、暮らしのなかでいのちを全うする運動であること。
②「かあさんの家のスタッフは同じ死の哲学を共有し、利用者のあるがままの生き様を見守ることに徹していること。
③なによりも「ホームホスピス」「かあさんの家」は施設ではない。暮らしの場であること。
これは血縁をこえて支えあう身寄りになる家の創出でもあるということです。

ホスピス運動といえば、西欧で定着した経緯から日本にどう制度として移植し定着させるかであり、ホスピスケアといえば末期がん患者等への医療施設として、疼痛ケアをはじめ緩和医療の定着として受けとめられてきました。
たしかに近代ホスピスはマザー・テレサの活動の源流とされるアイルランドのマザー・エイケンヘッドの修道会活動(1815年)に端を発して200年になります。その理念は死にゆく人のホームをつくり世話をすることでした(ジュナール・S・ブレイク/細野容子監訳『ホスピスの母 マザー・エイケンヘッド』春秋社)。そして、セント・クリストファー・ホスピスに代表されるように医療施設化の流れがありました。
けれど、ホスピス運動は西欧の理念を導入することではありません。日本にふさわしい、あるいは日本人の死生観に照らした運動があってしかるべきでした。

あらためて「ホームホスピス・かあさんの家」運動は、私たちの社会が少子高齢化した日本の風土からうまれたホスピス運動だといえます。民家を活用するホームホスピス。これは施設ではありません。市民のホスピス活動として根付く足場が示されているのです。
さらに、もうひとつ指摘しておきたいとおもいます。ホスピス運動は女性の手による人権運動でもあったことです。マザー・エイケンヘッドからマザー・テレサへという、生きることの困難に直面し、尊厳を失った人たちを無条件で受けとめ癒すという大きな流れがあります。そこに、フローレンス・ナイチンゲールの看護に、シシリー・ソンダース、エリザベス・キュブラー・ロスという近代医療の世界で大きく展開してきました。近代ホスピスの歩みには“5人の母”の役割があったのです。
そしてわたしは、市原美穂さんに宮崎の「ホームホスピスかあさんの家」でお会いしたおり「市原さんは日本のホスピスの母ですよ」と口にしたのでした。


ホームホスピス かあさんの家


民家のもつ力
10年ほど前、宮崎市で市原美穂さんが立ち上げた看取りの家、「ホームホスピス・かあさんの家」の仲間が増えてきました。九州に5,関西7,関東2,東北1の計17箇所。さらに予定候補が10カ所と確実に全国に根付きはじめています。
ホームホスピスを立ちあげるためにまず取り組むのは家さがしです。新しく建てる「家」ではなく、以前からその地域で誰かが住んでいた「家」です。ホームホスピスは「民家」を借りるところからスタートしています。

――なぜ、民家でしょうか。市原美穂さんは新著『暮らしの中で逝く』(木星舎)で、民家のもつ包容力について専門家(園田眞理子)のことばを載せています。
「建物って時間を経たものほど鍛えられているのでパワーがあるんですよ。居心地が悪いものはやはり寿命が短い。だて、みんなが手塩にかけて育てて、生き延びてこられたってことはその建物はすごく生命力があることですから。建物にも競争が働いていて、居心地が悪いものはどこかで壊されたりする。時間が経過して、そこに住んでいた人が慈しんだ場所ほどクオリティが高い」
木造の日本家屋がもつ温もり、襖や障子で区切られたほどよいプライバシーを保つ部屋、家のどこにいても人の気配が感じられる空間。ご飯が炊けるにおい、玄関でおしゃべりしている声が聞こえる…、できるなら食器棚や本棚、タンスにテーブルまでそのまま使わせてもらえる「空き民家」を借りるのです。

先ごろ、訪ねた「ホームホスピス・かあさんの家」の仲間である「ホームホスピス・たんがくの家」(福岡県久留米市)も古民家を改修したもので、広い敷地内には70坪の畑もあります。「たんがく」とは、地元の伝統芸能の田楽(でんがく)の方言ですが、あわせて当地では蛙(カエル)の呼び名だともいいます。名称へのこだわりは、地域ケアに対する独自な指針、それに地元への愛着が反映します。「NPO法人たんがく」の理事長樋口千恵子さんのライフワークとして、また在宅医療に関わってきた看護職の集大成として4年前に誕生したのです。

――「ホームホスピス・たんがくの家」はどういう人の不安に応えようとしているのですか。(案内ちらしから)
「家で看たかばってん、腰の曲がったばあちゃんしかおらん。若いもんは働きよるけん看られん」
「がんの末期たい。できるだけ看たかばってん、病状がひどなったら看きらんごとなる。畳の上で逝かせたか」
「認知症のじいちゃんば看よるたい。心臓も悪かけん不安たい」
「どうにか一人で暮らしよる母ばってん、いつ具合が悪くなるか心配たい」
「車いすで退院するたい。息子が『東京においで』と言うてくれるばってん行こごとなか。ばってん、一人じゃ不安たい」
「家内が一生懸命、寝たきりのばあちゃんば看てくれよる。ばってん、もう無理のごたる」
「たんがくの家」はこのような思いをすくい取って、その現実を受けとめる場所になっているのです。
「たんがくの家」は古い障子やふすまをそのまま残して、縁側からは陽が差し込み、窓越しに見える近所の人の暮らし(畑仕事や田のあぜ道に腰を降ろして話し込んでいる様子など)が見え、家の中ではご飯の準備をする音、みそ汁の匂い、こどもの笑い声が聞こえたりして、病棟・病室や施設からは無縁な“自分の家”の日常になっていました。そこでスタッフとともに地元の在宅医や訪問看護師、ヘルパー、ボランティアなど様々な職種の人たちが365日かかわり、24時間支えているのです。
(この項は次回に続きます

2015年4月4日土曜日

みとりびと―いのち継ぐかたち


おくりびと

評判になった映画に『おくりびと』がありました。
「おくりびと」とは葬儀社に勤め、遺体を棺に納める湯灌・納棺の仕事を専従にしている納棺師。湯灌といっても死者を湯浴みさせるわけではなく、アルコールで拭き、白衣を着せ、髪を整え、手を組んで数珠を持たせ、納棺するまでの作業に、遺族が固唾をのんで見守っているシーンでは、「身内でだれか亡くなっても、こんなプロの納棺師にお願いできるなら安心だわ」という声も聞こえていました。
在宅死から病院死へ、そして自宅葬から斎場葬へ。今日の死(いのち)の受容のあり方を象徴させる「おくりびと」の存在が妙に気になりました。胸の内では「死者を送る前に、看取りがあるのでは」とか、「看取り・見送りはひとつだろう」という郷愁のような思いでした。古典の像を描くとすれば、斎藤茂吉の次の歌でしょうか。

 いのちある人あつまりて
 我が母のいのち死行くを見たり死にゆくを

母の危篤を聞いていそぎ夜汽車にゆられ郷里の母の臨終に間に合ったときの情景(処女歌集『赤光』から)です。ここで「看とり」とは「いのちある人」が集って「いのち死にゆく人」の姿をしっかり見届け見送ること、死(いのち)の受けとめ手になることとして活写されています。

みとりびと

作家・野坂昭如は「自らの死を子らに見せることが一番大事な教育である」と語っていました。見送るより看とること、「おくりびと」ではなく「みとりびと」になることが大事なのだと。そこで採りあげたいのが『いのちつぐ「みとりびと」』(農文協 全4巻)。『家族を看取る』という著書もある写真家國森康宏の子ども向けの読む写真集(というよりも絵本写真)。場所は滋賀県琵琶湖周辺の農村集落。じいちゃん、ばあちゃんが「いのち死にゆく人」としてしっかり映し撮られ、「いのちある人」の看取り見送る表情が四季の彩りのなかで、四つの物語として納められている。

「いのち死にゆく人」の前には「いのちつぐ人」として子どもがいること。
たとえば、小学校五年生の『恋(れん)ちゃんはじめての看取り(1巻)』。
九〇歳を過ぎても毎日のように畑仕事をしていたおばあちゃんが、急にからだが弱くなり、一週間ふとんから出られなくなり、そのまま亡くなった。写真は枕元でそっとおばあちゃんの額にてのひらを添える子どもの表情を写し撮っていました。この掌は何を受けとったのだろうか。著者は「あとがき」で、死と向きあった恋ちゃんの「人は死んでしまうと、つめたくなり、二度と生き返りません」と確認しながら「でも、おおばあちゃんは私のなかで生きつづけています」というたしかなことばを引き出していました。

『月になったナミばあちゃん―「旅立ち」はふるさとで わが家で(第2巻)』では、「いのち死にゆく人」が親しい人たちのこころをひとつにあつめる力をもっていることを教えてくれました。寄りそう人だれもがはじめはうろたえ、とまどい、悲しみ、そして「さよなら」「ありがとう」のことばを口のしていき、よろこび泣き笑いしながら、死にゆく人を見守り見送るシーンに子どもの眼差しが加わっていました。

また、『白衣をぬいだドクター花戸―暮らしの場でみんなと輪になって(第3巻)』の主役は看とりの背後に立つ在宅医でした。
写真家ユージン・スミスには、初期を代表するフォト・エッセイ「カントリー・ドクター」とか、ベッドに横たわっている死者の姿を撮った「スペインの村」(1951年)があり、その重厚な写真を感銘深くみた記憶があります。
けれど、ここでは、哀しい情景にかわって医師は「いのち死にゆく人」と「みとりびと」を引き合わせる、いいかえればいのちのバトンを引き継ぐための「たちあいびと」として引き出されていたことでした。そして生―殖―死という〈いのち〉のリズムを継承する証として「生誕」すなわち、いのちの受けとめ手として赤ん坊の貌で写真絵本が結ばれていました。
人の死(いのち)は終わりではなく、はじまりでもあるというわけです。ここから引き継ぐいのちを、河野愛子歌集(「黒羅」)から引いておきます。

子は抱かれみな子は抱かれ子は抱かれ人の子は抱かれていくるもの




2015年3月22日日曜日

メメント・モリ 東日本大震災のいのち


3,11東日本大震災のいのちことば
先に紹介した俳優杉良太郎の「このカワイソウを分けてもらわないと、生きていけない」ということばを聞いた直後から、わたしは揺れる余震の大きさに合わせるようにテレビ映像や新聞・週刊誌等から耳目にふれたかぎりの「このカワイソウ」を探したようにおもいます。そのおり、拾い書きした「ことばメモ」が残っていました。
今回、あらためて「このカワイソウ」を拾い出してみると、「メメント・モリ(死を想え、死を忘れるな)」ということばに変換できることに気付きました。

①「すり抜けていっちゃったんです。抱きしめようとおもったのに…。あのとき、しっかり抱きしめていたら…この胸にちゃんと抱かなかったから」(3歳の女の子を失った母親30歳・女川)

②「津浪に追われて必死に逃げたのさ。ずいぶんたって電柱にしがみついていた。あのとき死んでいりゃ、いまみたいなかなしい目にあわなくてすんだのに」(40歳 知的障害者 お風呂場で 石巻)
 
③「ランドセルはみつかった。ほら、名前がかいてある、××って。でも、まだ帽子がね…。入学式に履いていく靴がね、まだなんです。箱にはいったままだから。きれいなままだとおもう」(不明になった子どもの遺体をさがしている父親)

④「親父の『助けてくれ』という声がきこえた。でも、波にのまれていく瞬間だった。目があった。そのとき、助けられなかった。あの親父の目が一生忘れられない」(老人ホームに父を迎えにきていたという50代の男性・南相馬市)

⑤「おれたち、これから逃げるから。おばあちゃんはこれを喰って生き延びろ」と息子夫婦がおにぎり三つもってきた。「おめえたちは逃げろ。おれはじいちゃんの位牌をまもる。ここで死んでいく。こんなとき、おれは生きていちゃいけねえ」(原発20キロ圏、小学校の避難所で。おばあちゃん、86歳)

⑥「よかったー。父と母がみつかって。いっしょに見つかってよかったー。家の中で死んでいてよかったんだよ。家で死にたい、いっしょに死にたいと仲がよかったから。それに…いつになるかわからないといわれていたのに、25日に火葬がきまって、ほんとうによかった」(3週間後に自宅の瓦礫の下から両親を発見した男性34歳)

⑦「噂を追って息子のゆくえをさがしたよ。ヘリで運ばれたって聞いて病院にも歩いていった。噂があるうちはよかった。さがす道がなくなっても安置所には行けなかった。息子から〈無事か?〉(3月111517分)と携帯メールがあったのに、おれは気がつかなかった。ぶじだと返事してないから。ずっと」(3月30日海近くの遺体安置所で「息子だとわかるくらい、まだキレイだった」と父親)

⑧「中にはいると三百個くらいの棺がずらっとならんで、その一つ一つが顔の部分だけ、透明の板になっていて、その下に生前の顔写真と名前が書かれた紙がはってあるんです。探したら、顔が叔母さんの棺には『女』『不明』とだけ書いてあった。(遺体安置所に親戚のおばさんにお線香をあげるためにいた女子高校生。16歳)
 
⑨「人はひとりもいない。動いているのは犬や鳥。人の気配を感じるとすごい勢いでせまってきた。人間の手らしきものに群がっている鳥を追い払おうとしたが、ふっと放射能汚染のことが頭をよぎり足がすくんでなにもできなかった」(原発・半径20キロ圏内に入った40代の避難民男性)

⑩「親父が亡くなったのは3月14日午前5時12分。死因は『肺がん』とだけ。ほんとうに肺がんだったのかねとおもうけど、でも死亡診断書から推し量ると担当医が看取ってくれたんでしょうね」(遺体のまま3週間放置されていた父親の死亡診断書を受けとった男性)

ここに集めた“ことば”からは、祈りにちかい言葉を見つけながら、あらためて「メメント・モリ(死を想え)」をめぐらすほかありません。東北地方はしばしば大津浪に襲われ、記録されていますが、陸中遠野の伝説119篇を聞き書きした柳田国男の『遠野物語』(1910・明治42年)にも「先年の大海嘯(おおつなみ)に遭いて妻子を失い、生き残りたる二人の子とともに生き残った男」の伝承譚(99)として記載されています。「先年」とは2万人をこえる死傷者を出した三陸地震の大津波(明治29年)を指しているかもしれません。そうなら、そこから100年、いのちのリレーにふれたことばもありました。

⑪「かあちゃんと息子と両親を津浪でなくしました。学校へ通っていた娘だけ助かった。明治の三陸地震のとき先祖は海の近くで家が流され、同じ場所に家を建てましたが昭和三陸地震でまた流されました。それから、今度は海岸から2・5キロ離れたところに家を構えたのに今回も津浪に流されました。明治のとき僕のばあちゃんは8歳でひとり助かって家系をつないでくれました。今度は20歳になったばかりの娘だけが助かったんです。生き残ったものはしっかり生きないとね」(父親58歳 陸前高田)
(註 採りあげた①~⑪は3.11以降1ヶ月ほどのあいだに、テレビニュースやドキュメント番組、他に朝日・読売・日刊スポーツ新聞等からメモしたもの)


2015年3月12日木曜日

カワイソウ 東日本大震災のいのち


カワイソウを分けてもらう
東日本の大震災、4年目の3.11。それぞれの人にとっての3.11
目の当たりにした巨大津浪。安全神話を木っ端みじんに打ち壊した福島原発による被曝…。3.11からひと月たった4月13日、ある仕事で出掛けた京都でのこと。知恩院山門前でタクシー運転手に「お客さん、どちらから」と声をかけられ「東京から」と返すと、「逃げてきたのですか」と問い返され、ドキリと心が揺れたことを覚えています。時間は駆け足で過ぎていますが、私には未だに現地へ足をはこぶ機運(勇気)がやってきません。

3.11以降しばらくはテレビ画像に釘付けになりました。けれど、事態がみえない不安に苛立っていたと思います。「がんばろう、日本」とか「お見舞い申し上げます」とか、「きづな」とかいうことばが画像にもあふれるようになる前にテレビ画像からおもいもよらないことばが聞こえました。
「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけないんだよ
咄嗟のことで声の主がわかりませんでした。すると「杉良太郎」と縫い込まれた緑色のよれよれジャンパーの背中が映りました。杉良太郎さんはイスに座って炊き出しの最中で、貌の表情はみえません。たんたんと豚汁をお椀に移す作業をしており、その手を止めることもなくカメラ目線もなく、どうやら視聴者にむけて用意されたメッセージでもない、ひたすら自らに言い聞かせるような呟きことばだったのです。けれど、このことばがわたしの脳天を撃ったのでした。
ここで、「カワイソウ」とは無傷の対岸から被災地の悲劇にむかって「(あの人たちは)かわいそう」とつぶやいていることばではない。また、被災を受けた人たちの不幸をその身になって「かわいそう」と口にしてみせた同情や憐れみのことばでもない、不思議な呟きでした。この杉さんのことばを聞いて「あれは役者ゆえの台詞だよ」と一蹴した人もいましたが、もしそうなら、「杉良太郎は一級の役者だ」といいかえてもいいのです。

「カワイソウをわけてもらう」とは、4年たったいまでもその評価はかわりません。気付いたのですが、ここで「カワイソウをわけてもらう」とは同情から慈悲へ飛翔していく宮沢賢治が包摂してみせた世界と通じ合っているようにおもいます。
慈悲について。玄侑宗久氏は「助けようとは思わなくても自然に月光のように放散しだれもが浴する力そのもの」といっています。あるいは「慈悲とはからだから自然に放散する振る舞い、協調性のような気配」とも(『慈悲をめぐる心象スケッチ』)。
そうだとすると、「このカワイソウをみんなから分けてもらわないと、これから(ぼくは)生きていけない」ということば(と杉良太郎さんの姿)は、被災者の困難を受けとめようとする慈悲と、その被災の哀しみを抱きしめ救済しようとする慈悲がない交ぜになって聞こえていたともいえます。
わたしの記憶ではこの「カワイソウ」を耳にして間もなく、わき出したかのように宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を口ずさむ声が周辺から聞こえてきました。それは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という賢治の慈悲の深さと重なっていたのです。

知られているように東北三陸地方は明治以降100年の間に2度3度の大地震と津波に襲われました。賢治は1896年(明治29)6月三陸海岸に大津波で2万1千人の死傷者が出た2か月後に岩手県花巻町に生まれています。その年の7月と9月には大風雨が続き北上川が増水し、夏になっても寒冷が続き稲は実らず赤痢や伝染病が流行しています(宮沢清六『兄のトランク』)。しかもこの天災はまるで賢治の生涯に合わせるかのように生まれた年から37年後の1933年(昭和8)、再び三陸海岸に大津波が押し寄せ死傷者3千人を出した震災の半年後の9月に賢治は亡くなっています。
「雨ニモマケズ」が黒い手帖に書き留められたのは、亡くなる2年前(11月3日の日付だけが横書き)。遺言をしたためるほど体が衰弱していたころでした。信仰が深かった賢治の慈悲のことばの集積地。誰もが諳んじてきたものです。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシヅカニワラッテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌トスコシノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨク ミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萓ブキノ 小屋ニイテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ 北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ ミンナニ デクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ

この最終節「ウイウモノニ ワタシハナリタイ」という賢治の願望に「カワイソウ」が回収され救済されているのがわかります。それは「ほんとうのさいわいを探しに行こう。どこまでもどこまでも僕たちいっしょに進んでいこうね」というジョバンニの声(『銀河鉄道の夜』)と重なってもいます。(この稿は次回に続きます)


2015年2月26日木曜日

アイ・コンタクト 後藤健二さんの死(続き)


フリーランスという死に方
後藤健二さんの人質事件が判明した直後に朝日新聞の「天声人語」はこんな語り口で始めていました。
『戦争や紛争のさなかで取材するジャーナリストは、様々な危険に出くわす。敵意を持った相手もいる。1960年代、「泥と炎」のベトナム戦争でまず名をあげた日本人カメラマン岡村昭彦は、笑顔が大事という持論を持っていた。「世界のどこへ行っても、相手が拒否できない笑顔を自分がもっているかどうかで、生き延びられるかどうかまで決まる」と。しかし、その笑顔も、相手が狂気じみていては、いかんともしがたい』(121日)

岡村はたしかに「相手に拒否されない笑顔(とアイ・コンタクト)」は、文化圏の異なる地域に足を踏み入れる際のフリーランサーのたしなみだといっていました。また、アフリカの戦争取材でアジア人として最初に取材した1968年のビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)では「笑顔も猛獣には効かなかった」と笑い話にしたことがあります。
その岡村が亡くなって30年、もし生きていたらフリーランスの戦争写真家の先輩として後藤健二さんの死について、どう語るでしょうか。すると即座にわたしの耳に「(後藤さんの死は)不注意な死」という声が聞こえてくるのです。

「不注意な死」とはどういうことでしょうか。
岡村は戦場取材の当初、一本のたばこは兵士を和ませ、うち解けあうのに欠かせない「笑顔」に次ぐアイテムとして重宝していました。ところが、たばこの煙と臭いが一瞬のうちに戦闘の標的にされた例をあげました。
「弾丸の飛びかう戦場の姿を、そのまま世界中の人に送りとどけ、戦争の無意味さを訴えようというのだから、いつかは死に見舞われるであろう。だが、その危険なしに戦争の報道はできない。私はこの戦場の取材が、どのような条件でも可能なように、からだを鍛え、経験を重ねてきたつもりだ。だが、従軍記者として、未熟のまま死ぬのはいやだった。そして、未熟のほうが死の危険率はたかい。ちょっとした(・・・・・・)不注意(・・・)が死に直結したのを私は何回も見てきている」(「ラッキー・ショット」から)
彼にとっては予測を超えた思いがけない死もまた、不注意な死なのです。

岡村はその後も、行方不明・死亡説が流れたほどの危険な地域に足を踏み入れました。南ベトナム民族解放戦線の捕虜収容所に53日間も収容されましたが、当時の副議長との貴重な会見にも成功しました(1965)。入国取材禁止明けの5年後にはベトナム戦争中最大の侵攻作戦(1971)に単独ルートで従軍し“証拠力の強い”写真によってアメリカ軍撤退を「LIFE」誌にスクープしました。この間の取材ではライフ誌カメラマンのラリー・バローズを始め沢田教一、嶋元啓三郎ら多くのフリーランスカメラマンの死が伝えられましたが、このとき、岡村は彼らの死を「不注意な死」だと言いきり、「私も(戦場で)死ぬときは不注意で死ぬだろう」(「フリーランス・ウオー・フォトグラファーの死」1972年)と記しています。
ここで「不注意な死」は、戦場カメラマンとしてのスキルに留まらないフリーランサーとしての生き方を律する自らへのきびしいいのちことばになっていました。

戦争写真家といえば、著名なロバート・キャパ(1913-1954)がいます。スペイン戦争から第二次大戦へ。「敵弾に倒れる義勇兵」は戦争写真の決定的なイメージをつくりました。近代戦争の戦場を「画家のカンバスのように記録した」(ジョン・スタインベック)というキャパもインドシナ戦争の渦中の1957年、ホー・チ・ミンがディエンビエンフーの要塞を陥落させた直後、ベトナムのメコン・デルタで地雷原にふれてあっけなく死亡しましたが、ここでも岡村はキャパの死は第2次大戦後の戦争を見誤った「不注意な死」と断定していました。
地雷原が出現するのは第2次大戦後、核戦争が危惧される時代の高度なゲリラ戦争に呼応した兵器の一つでした。ヘリコプターが戦場に出現するのはその後間もなくのことです。つまり、地雷原を踏んだキャパの死は広島・長崎への原爆投下後の高度化した戦闘戦略を見誤ったか見逃したがゆえの「不注意な死」という見解だったのです。

では後藤健二さんの死はどうだったでしょうか。岡村がいう「不注意な死」を振りかざして断定しては21世紀の歴史認識を欠くことになりそうです。なぜなら私たちが立ち会ったのは、情報ネット社会を戦闘ステージに見立てた戦慄と恐怖を戦略にしたかつてないものでした。しかも、戦場とはいえ私たちの日常生活の事件として反映させたことです。とはいえ、世界地勢図のなかの中東アラブ諸国の現実を垣間見ることもできないのです。
けれど、後藤さんの死を文字通りの「人質としての死」とみるとどうなるでしょうか。すると、長い間世界史に登場しなかった宗教国家が台頭し突出してきた構図はみえます。つまり、イスラム原理主義という宗教的な迷妄と欧米の文明史的な略奪が正面から向きあった姿です。そのクレバス・裂け目に無辜(むこ)の人が宙づりにされ、取引の対象にされたのではないか、それが後藤さんの姿だったのです。この死を蛮勇の死とは、誰もいえないはずです。

後藤さんの本『ルワンダの祈り』や『ダイヤモンドより平和が欲しい』、前回引用した『もしも学校に行けたら』からは、死線をこえて手にした光景が示され、そして後藤さんの語り口や眼差しは未来を信じる少年や少女に向けられていることでした。後藤さんのつぶやきをひろっておきます。
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領。―そう教えてくれたのはアラブの兄弟だった。」(2010年9月7日のツイッター『週刊朝日』2/22より)
「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人のおろかさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸を締め付けられる。声を出して、自分に言い聞かせないとやってられない。」(201012月1日のツイッター『週刊朝日』2/22より)


2015年2月14日土曜日

フリーランサー 後藤健二さんの死


フリーランスという生き方
フリーランス・ジャーナリスト後藤健二さんがイスラム国によって殺害されて間もなくの2月4日、政府自民党の高村正彦副総裁は、後藤健二さんのシリア入国は「どんなに使命感が高くても、真の勇気ではなく蛮勇(向こう見ずの勇気)といわざるを得ない」とコメントしました。さらに「亡くなった方にむちを打つためにいっているのではない」「後藤さんの遺志を継ぐ人たちには、細心の注意を払って蛮勇にならない行動をしてほしいからだ」というダメだしをしていました。

この発言にわたしは同感も同意もできませんでした。なぜなら、こういう物言いができる(あるいは、同意できる)人は、危害が及ばない、安全な場に身を置いている人に限られるだろう、そう思うからです。もうひとつ、後藤さんの行動はフリーランス・ジャーナリストとして逸脱していたのでしょうか。なによりも後藤健二さんの死は蛮勇死ではなかったとおもうからです。

新聞・テレビ等の会社組織のジャーナリズムに所属しているスタッフ記者なら、イスラム国の中枢のゾーンに派遣されることはありえません。危険だからです。元NHKのジャーナリスト池上彰氏は面識のあった後藤さんの行動に関連して語っています。
「…NHKだけがバグダッド支局を維持しましたが、民放はみな撤退しました。それでも、現地の映像やリポートが欲しい民放が頼ったのが、後藤さんのようなフリーランスという微妙な立場のジャーナリストでした。フリージャーナリストなら、会社の責任ではなく『勝手に』紛争地に行って、『勝手に』取材してくれる。すべてのリスクを彼らに背負わせて、何かあったら自己責任というわけです。そういう世界で生きている後藤さんだからこその判断ですね」(『文藝春秋』3月号 佐藤優氏対談「イスラム国との『新・戦争論』から」)

ランスlanceとは槍のことで、ランサーとはその槍をもって闘う中世の槍騎兵。フリーランサーあるいはフリーランスとは自由騎士。槍一本とそれを扱う技術と戦場体験に勇気を元手に自分を必要としている領主と契約するプロの騎士ということになります。
フリーランス・ジャーナリストで、戦争報道写真家の先駆者といえば、1960年代のベトナム戦争取材で知られる岡村昭彦(1929-1985)がいます。岡村は「二度と武器を持たぬと誓った日本人の一人として、私が戦場にもってゆく武器は、ちいさなカメラだけだった。カメラが、私の武器だった」と述べていました。殺し合う戦場でのジャーナリストの武器をカメラに見立てました。彼はたぶんに倫理的な動機からフリーランサーとして戦争を記録(「南ヴェトナム戦争従軍記」)したのでした。

では後藤健二さんはどうだったでしょうか。わたしが見た数少ない後藤健二さんの取材映像で明快だったのは主語が常に「わたし」であり、「わたしの視線」としてメッセージが届けられていたことです。また、著書等からも、後藤さんの資質からくるフリーランサーとしての生き方が十分に見て取れるものでした。
中東を取材した、比較的早い時期の『もしも学校に行けたら アフガニスタンの少女・マリアムの物語』(汐文社)から拾ってみます。
『「対テロ戦争」「テロとの戦い」とわたしたちがまるで記号のように使う言葉の裏側で、こんなにたくさんの人たちの生活がズタズタに破壊されていることを、知らないでいたのです。あるいは知らせずにいたのです。自分は、いかに盲目的だったかと激しく自分を責めました。アフガニスタンの戦争は、まったく終わっていません。それどころか、世界を巻き込んで広がっています。その中でわたしたちにできることは、さまざまな方法で、彼らに手をさしのべ続けることなのではないか、そう思います』

あらためて、後藤さんもまた、ひたすらにフリーランスの道程を歩むほかなかった人であることがわかります。(この稿は次回に続きます)

2015年1月31日土曜日

99歳 老ジャーナリストの杖


昨年、「岡村昭彦の会」※で、久しぶりにむのたけじさんの講演を聴く機会を得ました。「岡村昭彦の写真―生きること死ぬことのすべて」と題した岡村昭彦没後30年目の大回顧展(東京都写真美術館)を前にした集いで演題は「昭彦君が生きていたら」というものでした。
むのたけじ(1915年秋田県生まれ)さんといえば戦争期に朝日新聞記者としてジャワ戦線の従軍記者等に携わった人ですが、1945年8月15日戦争責任をとるかたちで30歳で退社、1948年には秋田県横手市で週刊新聞『たいまつ』を創刊し主幹として健筆をふるい、休刊(1978年)後は一般民衆の立場から国家権力の横暴に対しての発言を期待され、その都度的確に応えてきた戦後を代表するフリーランスジャーナリストです。岡村昭彦はベトナム戦争の渦中で捕虜収容所で解放民族戦線ファット副議長との会見に成功したフリーランスの報道写真家。この二人には明治百年を足場に緊迫した対談『1968年歩み出すための素材』(1968)があります。

むのさんは80歳代になって胃がんや肺がんなどの大病がつづき、目も不自由で、その日は車いす姿でしたが、90人ほどの会場いっぱいの聴衆を前にして「マイクは使いません。マイクなしでわたしの声が届かないようでは話す意味がありません」と響く声は一瞬のうちに人の心をとらえるものでした。そして冒頭から「アキヒコの馬鹿野郎! なんで早く死んだ。俺より14年も遅く生まれてきて、この爺さまが99歳と3ヶ月も生きているのに、60歳にもならずにくたばるなんて。…彼は死んではいけなかった。生きていたら、アルカイダのミスター・ビン=ラディン(2001.9.11 NY貿易センタービル爆破事件)に会見しただろう。それができたのは岡村昭彦だけだ」とインパクトのある展開になりました。
(※この講演に関心ある人は「岡村昭彦の会」(http//:akihiko.kazekusa.jp/)「会報24」で閲覧できます。米沢慧は当会の世話人)

そんな反骨のジャーナリストむのたけじさんの『99歳一日一言』(岩波新書)には、年輪の詰まった365日分の語録が収まっています。たとえば、
・1月5日:一人では歴史は作れない。と同時に、その一人がいたから歴史が始まって進んだこともある。ひとり、一人、ヒトリの力
・1月6日:歴史の長い道のりに変化をおこす出来事は、しばしばたった一人の一瞬の決意から発生する。それが人間、それが歴史だ。「太陽が地球を回っているのではなく、地球が太陽を回っている」という人がたった一人いた。その人を人類は殺すところだった。このことを決して忘れず、人類よ、たった一人をいつも大切にしよう

99歳一日一言』にはもうひとつ齢を重ねた人だからこその老いをいきるいのちことば(生命、生活、人生)が4章(冬―春―夏―秋)に分けられ、主題は季語のように重ねられていました。
冬期(1月――3月)の主題は「夜が朝を産む」。少年期の人生指針にもなっていたでしょうか、ピュアな語録が選ばれています。

《子どもの頃から朝より夕刻が好きだった。なぜか? 今わかった。開けない夜はない、と思い知るのは朝ではなく夕刻だから。》
《日の出は拝めば終わる。人の世の夜明けはなにをも拝まないところからはじまる。朝日に願いを、夕日に感謝をいうのを反対にしてみよう。》
 
春期は「いざ、三歩前進」(4月――6月)、夏期は「自分を鮮明に生きる。それが美しい」(7月――9月)。
そして4章の秋期は「死ぬ時そこが生涯のてっぺん」10月―12月)。
《ステッキ1本は他人からもらって、1本は自分で買った。それを外出時に用いだしたのは94歳から。2年経ってからだにすっかり馴染んだ。道を歩くとき、左右の足音にステッキの音が入って足の運びを元気づける。一番の変化はステッキを用いると前身が直立することだ。ステッキなしだとつい前屈みになる。1メートル半の小柄な肉体がステッキを大地に立てると、ピーンと直立して、呼吸まで立派になる。》

ここでは、上寿に向かって自身のからだを支える2本のステッキが比喩的なかたちで引き出されています。そして《強風でも散らぬ葉がある。無風でも散る葉がある。世の葉たちよ、身の行く末を風のせいにするな》

老ジャーナリストは生涯現役をつらぬく覚悟なのです。

2015年1月17日土曜日

ホスピス猫の話

老人ホームの医師が書いた本に患者に寄りそう猫の話があります。アメリカのロードアイランド州の重度の認知症を患う高齢者が多数入居しているナーシングホーム(介護付き有料老人ホーム)。そこには患者たちの人気者になっている猫が6匹ほどいますが、そのうちの1匹の雄猫オスカーは天国に旅立とうとしている患者をいち早く見抜く力をもっているというのです(『オスカー』デイヴィッド・ドーサ 栗木さつき訳 早川書房)
ふだんオスカーは餌と水のあるフロントデスクの脇に現れる以外はどこかに隠れています。ある日、特定の部屋に現れ、患者のベッドに寄りそうようになり、やがて寝ずの番をすると間もなくしてその人は亡くなっていった…。それが5人6人と続くと、オスカーがそばで過ごすのは死期が迫った患者に限られていることがわかった。しかも、その事実がわかるとみんなに気味悪がられるどころか、歓迎されるようになっていたのです。

[証言1] 最初の1週間オスカーは居室の戸口の前を行き来したり、ドアのところでのぞき込んだりしてました。けれど、ある日ドアをあけると母のベッドに飛び乗らず、不安がったわたしの傍にすわったんです。信じられます? あたしが頭を撫でるとごろごろ喉を鳴らしました。それから廊下で会うとわたしを護衛するみたいに母の部屋まで一緒にあるいてくれて。母が亡くなるまでずっと一緒にいてくれました。

[証言2] オスカーは部屋では長居はしませんでしたが、母が亡くなる数時間前にはオスカーは閉じた部屋のドアの前をいったりきたりしはじめたの。そのときオスカーはひどく元気がなかった。ドアを開けてやったら一直線にベッドに走っていき、母の横に飛び乗ってそのまま丸くなり、どうしても動こうとしなかった。数時間後に母は亡くなりましたが、葬儀屋さんがきてもオスカーはそばを離れませんでしたわ。

[証言3] オスカーは天使だとおもう。さっき、母が亡くなるまでここにいてくれました。そして、いまは私のためにいてくれます。オスカーが傍にいると孤独が癒されるの。いまどうなっているのかわかっているよという感覚でここに居るの。それでオスカーと一緒にいると、これは自然のことなんだっておもえてくるの。

[証言4] 解せないのは、自分が必要とされていることがオスカーにはわかるらしいってこと。とくに見返りを求めているふうでもない。顎の下や耳の後ろを掻いてやるくらいはするわ。でもそれだって、そうしていれば私の気持ちが休まることを承知のうえという感じなの。母が亡くなるときは私が自宅にもどった直後のことだったけれど、母はひとりぼっちじゃなかったわ。そばにオスカーがいたんだもの。

[証言5] オスカーはその仕事を終えると、いつもぐったりするの(ホームのスタッフ)。

ナーシングホームの主治医でもある著者は、オスカーの予知行動について医学誌に発表し反響を呼んだといいます。その一つは第二次世界大戦の退役軍人からのもので、「先の長くない兵士の身体からは甘い芳香が漂っていた」と語ったそうです。細胞が死ぬと炭水化物は様々な酸化化合物に分解され、その際甘い香りを発する。ケトン体という化合物で糖尿病の患者の息の匂いを嗅ぐと血糖値の高さを判断できるのと同じものだ。ひょっとしてオスカーは死の直前に体内から発散される化合物の香りが基準値よりも高いことを嗅ぎわけていたのではないか、というのです。
だからといって、ここで“死期を感知する猫”の特異性にこだわることはないとおもいます。ナーシングホームには重度の認知症を抱え、どうにもできない現実(施設への不満も含めて)に怯えている人や怒っている人。また介護者のなかには思うように介護ができず苛立ったり罪に意識に駆られたりする人もいたといいます。そうした人のこころの葛藤にふっと割り込んでくるオスカーの“シックス・センス”におどろき共感するだけで十分な気がします。

ここで、吉本隆明さんが自らの死の三ヶ月前に、16年余り生きた最愛の猫への愛着を語った『フランシス子へ』(講談社)のなかの一節を引いてみます。
《フランシス子が死んだ。ぼくよりはるかに長生きすると思っていた猫が、僕より先に逝ってしまった。
一匹の猫とひとりの人間が死ぬこと。
どうちがうかっていうと、あんまりちがわないねえって感じがします。
おんなじだなあって。どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまう。
たいていに猫は死ぬときに黙って姿を消すもので、そうすると飼い主はおそらくどこかで死んだんじゃないかって、ずいぶんせつない思いをします。
…フランシス子はそうじゃなくて、亡くなるときも僕のそばで亡くなった。
最後の最後は、猫がよくあまえるときに鳴らす首とか、脇の下とか、動くのはそれくらいで、なんの言葉もないけど、そこまでいっしょにいられたんだったら、もう、言うことはないよなあって。》
《…それは何かといったら、自分が猫に近づいて飼っていると、猫も自分の「うつし」を返すようになってくる。あの合わせ鏡のような同体感…》

人のそばで亡くなっていく猫がいるのだから、人もまた猫に看取られて死ぬのがあってもいいのではないか。
最近のことです。吠えることを忘れてしまった13歳になる愛犬ロッシュが、深夜わたしのベッドに潜り込んでくるようになりました。犬になっても、人になってもいい。どっちも愛着した者の生と死ということに帰着してしまうから。



2015年1月4日日曜日

身寄りになるということ(2)「間柄」について

前回の「身寄りになるということ」は介護の視点からふれました。今回はわたしの体験事例から、血縁とか家族を超えた「間柄」という視点に移して考えてみたいとおもいます。
間もなく三回忌、103歳で亡くなったコマイ・トキさんとの忘れがたいエピソードです。
トキさんは妻の女子大時代の先生で、都庁ビルがみえる西新宿の公営アパートで独り暮らしの女性でした。30年ほど前から妻とは年に一、二度消息を訊ねる電話のやりとりが続き、やがて年に一、二度いっしょに街で食事をするような間柄になっていました。
そんなトキさんの特養ホームへの入居手続きに関与したのは私たちでした。上寿100歳を目前にしてアパートをひきはらい、ベッドの傍に馴染みのちゃぶだいと茶だんすを並べて〈トキさんの部屋〉をつくったのでした。けれど、トキさんの認知症は進みわたしたちが誰だか分かりません。

その3年前、T医科大病院老人科の診断を受けたとき、トキさんは自分の名前と生年月日はすらすら誤りなく答えました。しかし、医師から「ところで、今日は何月何日ですか」と訊ねられてから場面がおかしくなったのです。
「先生。…今日が何月何日か、わたし知りません。でも先生…今日が何月何日だかわからなくても、わたし生きていくのに困ったりしませんから」
「……」
「今日が何日か、たぶん新聞をみればわかります」「……」
「新聞を拝借できればおしえてさしあげますわ」「……」
この一方的なやりとりにわたしたちは付添人ながら息をのみ、なぜか心の中で大拍手。笑いをこらえるのに苦労したほどです。さらにトキさんは続けたのです。
「先生、わたしに家族がいれば、今日が何月何日かも教えてくれるでしょう。でもね、私は一人で暮らしていますでしょう? 教えてくれる者がまわりにいないのですよ」
そう言って私たちに同意をもとめるかのように振りむいたのです。わたしたちは顔を見合わせ、いそいで同感し頷いていたほどです。
その日トキさんは医師の前で精一杯の主張をし、自身を際だたせました。わたしたちはその光景を手に汗をにじませ、なぜか共感し応援していたのです。このとき私たちはトキさんとは深い「身寄り」の間柄になっていたに違いありません。

ともあれ、その日、医師はトキさんの攻撃をクールに受けとめ、アルツハイマー病の兆候のある画像をわたしたちに示しながら、記憶障害、見当識障害をたてに「認知症です」と口にしたのでした。その帰り、わたしは認知症の人とのコミュニケーションにふれたナオミ・フェイル(Naomi Feil )の『バリデーション』(筒井書房)を購入しました。それによれば、トキさんは「認知の混乱」から第2段階(日時、季節の混乱)へと一歩踏みこんだということでした。
私たちはいつから「身寄り」になったでしょうか。30年のつきあいがそうさせたのは間違いありません。けれど「身寄りになる」間柄には何かのきっかけがあるにちがいないのです。
そこでさらに九年前にさかのぼる、ある事由がでてきました。六月のある日、慶応大学病院の救急外来から「コマイ・トキさんをご存じですか」と電話があったことでした。
その日トキさんは新宿の高層ビル内の下りエスカレーターで転び顔面を強打し、出血して慶大病院に運びこまれたのです。さいわい入れ歯が損傷した以外、脚にすり傷と打撲の痛みはあるが日常生活にさしさわりはないということでした。「ただ、ご高齢でもあり、このままお帰りいただくわけにいかなかった」。そこで、トキさんはしぶしぶわたしたちの名前を口にしたというわけです。
病院に駆けつけると、トキさんは迷惑だといわんばかりに、不機嫌そうな表情を私たちにみせました。担当医師はわたしたちに一通りの説明をして「お大事に」といって見送ってくれたのですが、トキさんは不満でした。「センセイは当人のわたしに口にしなかったことを、他人のあなたにもっともらしく説明していた」と。

トキさんは救急車に乗せられ病院に運ばれたのがショックでした。雨の日に傘をもって28階の歯医者に行ったこと、なによりもエスカレーターでつまずくようなみっともない転び方をしたこと、まだまだからだに衰えはなかったはずだ、とくりかえし反省し悔やんだのです。わたしは元気づけるように「ついてない日だったんですよ。でも、大きなケガでなくてよかった」といい、自宅に送り届けようと病院のタクシー乗り場に急いだのです。ところが、トキさんはそれを拒みJR信濃町駅に歩きだしたのです。
「あなた、わたしは一人で暮らしているの。だから、帰り道をきちっと覚えて時間がどれだけかかるか確かめておかなければ、次の治療の日にやってこられないじゃないの」
そして新宿駅までくると「ありがとう。うれしかったわ」といい、デパ地下に連れていくとウナギ弁当を買って私たちに手渡すと、いつものように「じゃあ」といって一人バスに乗りこんだのです。
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この一日の出来事が私たちに「身寄りになる」関係をうながしたようにおもいます。
それから暫くしてトキさんは、母親が心配しているとか、おじいさんに会いに行ってきたなどといい、生家があったという六本木界隈にバスやタクシーででかけるようになり、、そのうちの何度かは私たちが交番に迎えにいくことにもなったのでした。あらためて「身寄りになる」とは、血縁的なつながりからは遠く家族を超えた間柄のように思えてきます。

30年前、私たちが訪ねたトキさんの住む公営アパートは階段をあがった二階の1DKでした。その和室には白いシーツが載った寝具一式が丁寧に折りたたまれてあるだけ、「いつどこで逝っても恥ずかしくないように」という佇まいでした。家系400年という旗本の末裔の矜持だったのでしょう。葬儀は青山にある菩提寺で特養ホームの馴染みだったスタッフ数人と私たち。自身の葬儀・永大供養料等一切は元気なころに収められていたのでした。

●お知らせ

慌ただしく年を越しました。まだスタートしたばかりですが、アクセス数が800を超えてたしかな感触をいただいています。10日に一度はなんとか更新したいとおもっています。なお、昨年(2014年)、共同通信社から全国各紙に配信された米沢慧の連載コラム『和みあういのち』(10回)が挿絵カットを描いてくれた大伴好海さんのブログに掲載されています(http://konominote.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html)。本ブログと関連する箇所もあります。こちらも覗いていただければ幸いです。